名所訪問

「 日本100名城 小諸城 」

かうんたぁ。


小諸城は、武田信玄が、山本勘助らに命じ、大井氏が築いた鍋蓋城を拡張整備した城である。
豊臣政権成立後、仙石秀久とその子・中政により、近世城郭に改修された。
小諸市街地から斜面を下るように城が作られており、 上部(北側)の丘陵部は町人の城下町、下部が小諸城という縄張で、
小諸市街地から斜面を下るように城が作られているので、「穴城」 とも呼ばれるが、 正確には千曲川の段丘上に築かれた平山城である。 
日本100名城の第28番に選定されている。 


小諸城は、現在、しなの鉄道及びJR小海線の小諸駅と線路により、分断されている。 
城の大手門は、駅の北西の緩やかな坂(浄斎坂)上にあり、一帯は大手門公園になっている。 

説明板「日本城郭建築初期の代表格 小諸城大手門」(国指定重要文化財)
「 大手門は小諸城の正門(四之門)で、慶長十七年(1612)、藩主仙石秀久が 小諸城を築いた時代の建築。 
二層入母屋造の楼門で、石垣と門が一体化していないことや 一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっていることなど、 多くの特徴があります。 
この門を建てる際に、大工を江戸から呼び、瓦は三河(現在の愛知)から運んだとされ、 当時はまだ瓦葺きの屋根が珍しかったため、瓦門とも呼ばれました。 
明治維新後は民有になり、小諸義塾の仮教室として、また、料亭として利用されてきましたが、 平成二十年、江戸時代の姿に復元されました。 
この実戦的で華美をはぶいた質素剛建な建築は、青森県の弘前城とともに、 大手門の双璧といわれています。 」 

小諸は城下町であると同時に、北国街道(善光寺道)の宿場であった。 
しなの鉄道及びJR小海線の小諸駅の北西に、小諸宿本陣主屋がある。 

説明板「小諸宿本陣主屋」
「 重要文化財旧小諸本陣は、小諸の本陣兼問屋上田家の建物で、 明治の中葉、田村家の所有となった。 
建築年代は十八世紀末から十九世紀初頭と推定される。 
この二階建ては問屋場で、街道に面し、間口八間正面に切妻屋根を見せ、 二階は腕木で持ち出し格子窓を広くとる。 
当初、一階正面は全面開放の縁側で、内部は八室が二列にならび、 その前面に畳廊下を通した間取りであった。 
二階は九室で部屋割はあまり変っていない。  別棟正座敷(御殿)を失っているのは惜しいが、 西隣にあるほぼ同時代の薬医門とともに、 北国街道に残る数少ない構造が立派な本陣建物の一つである。 」

線路前に降り、地下道をくぐり、懐古館が見えるところにに出ると、 「第二次上田合戦徳川本陣の小諸城 徳川秀忠公 憩石」 の表示がある。 

「 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦出陣途中、 徳川本陣は真田氏(上田城主)攻略の為、小諸城を本陣としました。 
その在陣中、 秀忠公ご床几(腰をおろした)石 と、伝えられています。 」 

近くには、「牧野公遺徳碑」 も建っている。 

大手門
     小諸宿本陣      秀忠公ご床几石
小諸城大手門
小諸宿本陣
秀忠公ご床几石

懐古園の入口にある三の門は、仙石忠政によって、 慶長期〜元和期(関ヶ原役前後)に建てられた。 

説明板「三の門」
「 寄棟造、桟瓦葺の二層の櫓門で、一階は桁行三間、北脇に潜戸を付け、 隅金具、八双金具等が施されている。 
二階は、両側に袖塀を設け、両塀には矢狭間や鉄砲狭間が付けられた戦闘式の建物である。 
しかし、寛保二年小諸御城下を襲った大洪水で流失し、約二十年後の明和年間に再建されて、現在に至っている。 」

門の正面に、徳川家達公の筆 「懐古園」 を写筆した、大きな額が掲げられている。 
門に入ると 「小諸城址 三の門 明和二年(1765)再建のもの  両塀に矢狭間や鉄砲狭間の戦闘式の建物 」 と、書かれた標石が建っている。 
左側に懐古園事務所と懐古館があり、そこで日本100名城のスタンプを押した。 

三の門
     三の門標石      100名城スタンプ
三の門
三の門の標石
日本100名城スタンプ

右側に石垣の下の建物に、 「野面積の石垣が物語る 仙石秀久が築いた穴城」 の看板がある。
小諸城は、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、 西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されている。
この石垣には圧倒されるが、これは二の丸の石垣である。 

この先に入場券売場があり、購入して中に入ると、道は二手に分れ、左は動物園方面で、 右の道を上って行くと、正面に石垣に見え、右側には二の丸の石垣が続く。 
その先は枡形になっていて、枡形を右に曲がると、南の丸の石垣の下に、  「二の門跡」 跡の標柱が立っている。 
江戸時代には、両側の、石垣の上に、二の門は建っていた。

二の丸石垣
     枡形      二の門跡
二の丸石垣
枡形
二の門跡

その先の右側に、二の丸に上がる石段がある。
石段の左側の石垣に、若山牧水の歌碑が嵌めこまれている。
歌碑には、 「 かたはらに秋くさの 花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな 牧水 」   と書かれている。 

石段を上っていくと、「二の丸跡」 の標石が建ち、 「 二の丸跡 旧白鶴城という  徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際 逗留したところ 」 とあった。 
二の丸跡は一部は残されているが、大部分は削り取られ整地され、大型社駐車場と第1駐車場になっていた。 

二の丸石段
     若山牧水歌碑      二の丸跡
二の丸石段
若山牧水歌碑
二の丸跡

二の丸から下を見ると、左側に、南丸 の姿が残っていて、右側は紅葉で美しい。 
石段を下りると、右側の紅葉の下に、石碑が二つあり、 左側の 「東宮臨駕之處」 の石碑の前には、 「番所跡」 の標石があり、  「 いかめしい鎧や槍などが立てられていた検問所 」 と書かれていた。 

右側の石碑は、貞明皇后行啓記念碑である。
右下に 「 夏の日の ながき日くれし 桑畑に桑きる音の まだたえぬかな 貞明皇后 」 の歌が記された標木があった。 
当時、信濃は絹産業の主産地であり、こうした風景が日常茶飯事であったのだろう。 

(左)南丸跡(右)番所跡
     東宮臨駕之處碑      貞明皇后行啓記念碑
(左)南丸跡 (右)番所跡
東宮臨駕之處碑等 (番所跡)
貞明皇后行啓記念碑

 右側の石垣残るところに、「中仕切門跡」 の標木が建っている。 
その先右側に入って行くと、奥まったところの建物前に、「北丸跡」 の標木が建っている。 
北丸跡は、一部石垣が残っているだけだが、反対側の南丸の石垣はほぼ残っていて、 石垣の中に、 レリーフ(浮彫)を見付けた。 
その下にある標木には 「 小諸義塾長 木村熊二   弘化二年但馬国(兵庫県)生まれ   明治三年〜明治十五年アメリカ留学、明治女学校創立、 明治二十六年〜明治三十九年 小諸義塾塾長、洋桃、梅、苺の栽培、かん詰事業奨励  
昭和二年 没亨年八十三 」 とあった。 

中仕切門跡
     北丸跡      木村熊二レリーフ
中仕切門跡
北丸跡
木村熊二レリーフ


その先の右側に、 懐古園稲荷神社がある。

説明板「懐古園稲荷神社」
「 牧野氏が、元禄十五年(1702)に、与板より入封した際、稲荷神社を遷座し、 城下の赤坂の地に祀った。 
城内の富士見にはそれ以前から城の守護神として、稲荷社が祀られていて、 武田氏との由緒と伝えられていて、明治の城の廃止まで続いた。 
その後、城の稲荷社と赤坂稲荷神社を合祀し、 現在の場所に移して祭ったのが、懐古園稲荷神社である。 」 

その先の橋には、右側には 「紅葉谷」、左側に 「黒門橋」 とある。 
橋の下は紅葉谷の名にふさわしい紅葉でした。 
黒門橋は紅葉谷の空堀に架かる橋で、橋を渡ると本丸である。 
橋を渡った右側の石垣の下に、「黒門跡」 の標木があったので、ここに黒門が建っていたのだろう。 

懐古園稲荷神社
     黒門橋      紅葉谷
懐古園稲荷神社
黒門橋
紅葉の紅葉谷

橋を渡った正面にあるのは本丸石垣で、懐古神社の由来を記した板と、  「←本丸跡、馬場、天守台等  水の手展望台、藤村詩碑等→」 の道標が建っている。 

「懐古神社の由来」

「 懐古神社は、 明治十三年四月、廃藩後荒れ果てた小諸城跡を整備し懐古園となすにあたり、 本丸東北に城の鎮守神として祀られていた天満宮と火魂(荒神)社の二社と、 藩主牧野公歴代の霊を合祀した懐古神社を創建しました。 
    (以下略)                」 

三叉路を左にいくと、左側の石垣前には、「お駕籠台跡」 の表示がある。 
お駕籠台跡の先には、正面と右側に本丸石垣があり、枡形をなしているように思えた。 

懐古神社の案内板と道標
     お駕籠台跡      お駕籠台跡
懐古神社の案内板と道標
お駕籠台跡
本丸石垣


石垣の間をくぐると、懐古神社の鳥居が現れた。 
鳥居の両脇には、「小諸城址」 の石柱と、「懐古園」 の大きな標柱と、「本丸跡」 の標木 がある。 
その奥、右側の 「従是西小諸領」 と刻まれた標石は、領界石 と呼ばれるものである。 

「  文化三年(1806)、当小諸藩の東境である軽井沢の追分の原に建てられたものを、 ここに移築したものである。 
なお、「従是東小諸領」 は西の境の笠取峠に建てられた。 」

鳥居の先にあるのは、懐古神社の社殿である。 

「 懐古神社は、天満宮、火魂(荒神)社が合祀された神社である。
天満宮は、天正十二、十三年の頃、城主松平康国が城内空堀改修中、 紅葉谷の土中から光を放っていた天神様の木像を発見したので、 紅葉ヶ丘の荒神社と並べて安置したと、小諸温古雑記に記されている。 
荒神社の祭神は、火之加具土命で竈の神で、 小諸城を最初に築き始めた大井氏が城の鎮守として祀ったものである。
両社とも、その後の城主が城の鎮守の社として奉祀してきたものである。 」

懐古神社の鳥居
     領界石      懐古神社社殿
懐古神社の鳥居
領界石
懐古神社社殿

社殿手前の左側に、山本勘助が常に愛用していたと伝えられる、 鏡石がある。 
前回訪れた平成十八年は、NHKの大河ドラマが「天と地」で、山本勘助が登場するドラマであった。 
鏡石の標木に「 山本勘助晴幸が常に愛用した伝えられる。 隕石ともいわれる。 」という表示板があった。 
また、山本勘助の 「 遠近(おちこち)の深山の隠れの秘事(ひじ)の縄 幾千代を経む城の松風 」 の句は、
小諸城竣工を祝い詠んだといわれる、とあった。 
今回訪れると、隕石の表示は削除され、山本勘助の歌を記した標木は無くなっていた。 

社殿の右手に行くと石段があり、上った先にあるのが天守台である。 
天守は、仙石秀久により築かれた桐紋の金箔押瓦で葺いた三層の天守閣であったが、 寛永三年(1626)に落雷により焼失した。 
天守台の上には、「天守閣跡」 の石柱が立っていて、  「 三層天守閣がありましたが、落雷により焼失、その後再建はされなかった。 」 とあり、 天守台は当時のままの姿で残っていた。

山本勘助の鏡石
     天守石段      天守閣跡
山本勘助の鏡石
天守石段
天守閣跡

その下に見える紅葉は小諸八重紅枝垂桜である。
この一帯は、明馬場だったところである。 
反対側に降りると、「紅葉ヶ丘」 の石柱があり、 「 天神社荒神社が祭られたところで、 明治時代は矢場として使用した。 」  とある。 
落ちた紅葉が美しい。 
天守台の北東に水の手展望台があり、その手前の右側に、  「千曲川旅情の歌」 の詩碑が建っている。 

馬場跡
     紅葉ヶ丘      千曲川旅情の歌碑
馬場跡
紅葉ヶ丘
千曲川旅情の歌碑

天守台石垣に沿って、右に廻っていくと、左の上に蕎麦屋があるが、 道の縁に、寛保の大洪水後掘られた城内唯一の 「荒神井戸」 が残っている。 

左側に谷口吉郎の設計で、昭和三十三年に開館した藤村記念館がある。
その前に、藤村の銅像があり、「藤村と小諸」 と書かれた説明板があった。 

説明板「藤村と小諸」
「 藤村は、明治三十三年(1899)四月初旬、旧師木村熊二の経営する小諸義塾に、 英語国語の教師として赴任し、 下旬、巖本喜治の媒酌により、函館の秦冬子と結婚、小諸町馬場裏に新家庭をもった。 
明治三十三年四月、 「旅情」(小諸なる古城のほとり) を、 雑誌「明星」創刊号 を発表。 
五月長女緑が生まれ父となる。
        (中略)     
明治三十八年四月二十九日、小諸義塾を退職し、 七年間にわたる小諸生活に別れを告げ、家族と上京、 翌年三月「破戒」を自費出版した。 」 

右手には、椰子の実の詩碑が建っている。 
「椰子の実」は、藤村が赴いた頃の漂泊の想いと人生旅情の詩魂をうたった、  藤村最後の詩集 「落梅集」(明治34年8月、小諸在住時に刊行) に収められている。 
以上で小諸城の探索は終了である。 

荒神井戸
     藤村記念館      椰子の実の詩碑
荒神井戸跡
藤村記念館
椰子の実の詩碑

小諸城へはJR小海線・しなの鉄道「小諸駅」から徒歩約5分  
日本100名城の小諸城のスタンプは、懐古園事務所に設置されている

訪問日    令和元年(2019)十一月二十一日


(ご参考)  小諸城の歴史

「 小諸城の歴史は古く、源平の時代、 小室太郎光兼が城址東側に館(鍋蓋城)を築いたことに始まる。 
室町時代の長享元年(1487)に、信濃守護小笠原氏の流れを汲む大井光忠が、 現在の大手門北側に城を築いたが、その後、村上氏に替わった。 
武田信玄は、天文十二年(1543)、東信州経営のため、村上氏から城を奪い、 山本勘助らに命じて築城させた。
この城が酔月城とも呼ばれる現在の城の原型といわれる。
天正十九年(1591)、豊臣秀吉から小諸五万石を与えられ、入封した仙石秀久により、 織豊系城郭構えに大改造され、現在の姿の小諸城が出来上がった。 
小諸城の縄張図を見ると、連結式に曲輪が配置され、城の東西に三重四重に空堀が連なって掘られ、 本丸、二の丸などの城の中核部は全て総石垣造りで、 天守台が少し張り出したような配置になっている。 
小諸城を近世城郭にした仙石氏だったが、秀久の子、仙石忠政は元和八年(1622)、 信州上田藩に転封になる。 
その後は徳川氏、松平(久松)氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏と藩主が次々に替わり、 その度毎に石高を減らした。
牧野康重が越後与板より入封した時は 、一万五千石になっていた。 
以後、牧野氏が、明治維新まで小諸城の城主を勤めた。 」



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