諏訪大社は、諏訪湖周辺にある二社四宮で構成される。
・ 上社(かみしゃ)
・ 本宮 諏訪市中洲宮山
・ 前宮 茅野市宮川
・ 下社(しもしゃ)
・ 秋宮 下諏訪町武居
・ 春宮 下諏訪町下ノ原
諏訪大社は、式内社(名神大社)・信濃国一宮・旧官幣大社。
全国に約25000ある諏訪神社の総本社である。
諏訪大社 4社の位置関係を調べると、
上社の2社はJR茅野駅からで、上社前宮は駅の南西の方向へあり、2.5kmの距離である。
また、上諏訪駅からは本宮までは6.4kmである。
バスは、上諏訪駅から市内循環が本宮までは来ているが、茅野市にある前宮まではきていない
。
下社はJR下諏訪駅から秋社まで800m、春社まで1.2kmで、春社と秋社館は1.3km
である。
下社はJR下諏訪駅から歩くかタクシーで簡単に行けることが分かった。
小生はこの後、高遠へ行く予定だったので、レンタカーで行くことにした。
◎ 諏訪大社上社前宮
茅野駅から
国道152号の高部東交叉点を経由、
子安神社の前を通り、南に行くと、左側に 「官幣大社諏訪上社前宮」 の石柱が建っている。
その先には鳥居があり、中に入ると 「諏訪大社上社前宮神殿跡」 の説明板がある。
説明板「諏訪大社上社前宮神殿跡」
「 ここは諏訪大社大祝の始祖と伝えられる有賀が、
はじめて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であったところで、
神殿は神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。
この神殿があった地域を神原といい、代々の大祝職位式および旧三月酉日の
大御立座神事(酉の祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどが、
この神原で行われた。
境内には内御玉殿・十間廊・御宝社・若御子社・
鶏冠社・政所社・柏手社・溝上社・子安社等がある。
文明十四年(1483)正月、大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いで、
一時聖地が穢れたことがあったが、清地にかえし、大祝の居館として、
後世まで続いた。
後、この居館は他に移ったが、祭儀は引続いて神原に於いて行われてきた。
諏訪大社上社の祭政一致時代の古体の跡を示している最も由緒ある史跡である。
昭和三十九年八月二十日 長野県教育委員会 」
石段を上ると、十間廊がある。
説明板「十間廊」
「 古くは神原廊と呼ばれ、中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、
すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。
毎年四月十五日の酉の祭には鹿の頭七十五がそなえられたが、
これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿がいることから、
諏訪の七不思議にかぞえられた。
上段に大祝の座、次に家老、奉行、五官の座があり、
下座に御頭郷役人の座なども定められ、左手の「高神子屋」で演ぜられる舞い
を見ながら宴をはった。
安国寺史友会 」
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石段の下右側に内御玉殿がある。
説明板「内御玉殿」
「 諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である。
「諏訪明神に神体はなく、大祝をもって神体となす」 といわれたように、
諸神事にあたって、この内御玉殿の扉をひらかせ、弥栄の鈴をもち、
真澄の鏡をかけ、馬具をたづさえて現れる大祝、はまさに神格をそなえた
現身の諏訪明神そのものであった。 」
現在の社殿は、昭和七年に改築されたものである。
以前の社殿は天正十三年に造営された上社関係では最古の建造物であった。
石段の右手には御柱があった。
説明板「御柱(おんばしら)」
「 前宮一ノ御柱である。
長さ五丈五尺(約17m)目通り直径約一・二米の樅の木である。
御神徳の更新を祈る氏子の魂を結集した御柱である。
上社綱置場(御柱置場)より、二十数キロの行程を数千人の氏子の奉仕により
曳行されるので、裏側は擦り減っている。
茅葺きの御宝殿と共に、寅歳と申歳の七年目毎に建て替えられる御神木で、
神域の四隅に建立される。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり、
次回の御柱祭は平成二十二寅歳に行われる。
諏訪大社々務所 」
石段を上ると前宮本殿がある。
説明板「前宮本殿」
「 スワ神は遠く上古の古事記、日本書記の中にみえるが、
諏訪明神の住まう所として、生き神となる諏訪大祝(おおはふり)の居館を存し、
神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして、諏訪明神の重要な祭祀・神事を
取り行った聖地である。
四方に千古の歴史をきざむ御柱を配し、
精進潔斎に浴した水眼の清流をひかえて鎮座する前宮本殿は、
その古姿を伝えながら、昭和七年に改築された。
安国寺史友会 」
諏訪大社は古代から大祝が諏訪明神の現世神として神格され、
諏訪の領主であり、祭主の政教を一元化していた。
その為、大祝が居住するところが神殿になっていた。
その残滓が前宮にある。
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◎ 諏訪大社上社本宮
諏訪大社上社本宮へは、国道152号の高部東交叉点から西に県道16号を行き、 西沢川橋を渡り、三叉路で県道と別れ、左の道を進むと神社前バス停に着く。
「 中世になると、大祝の居館が宮田渡に移り、 江戸時代に入ると、藩主の諏訪家と大祝諏方家に分かれた。 」
東参道から入ると入口御門があり、その左側には出早社がある。
説明板「入口御門」
「 文政十二年(1830)建立、上社宮大工棟梁原五左衛門親貞、
弟子藤森廣八が構築をし、巧微な彫刻が施されている。
諏訪大社 」
その先の右側に二の柱、その奥に勅使殿と五間廊があり、
左側には摂末社遙拝所と絵馬堂、その奥に東御宝殿と大国主社がある。
御手洗川を渡り、二の鳥居をくぐると、布橋という廊下を通る。
かって大祝が通った折に、布が敷かれていたことから、
その名が付いたという。
その先に、四脚門と西御宝殿があり、奥は斎庭になっている。
説明板「四脚門」
「 寛永十三年(1636) 徳川家康が寄進したもので、江戸初期の特徴をよく
表現しており、国に重要文化財である。
かっては、大祝(おおほうり)が硯石と呼ばれる磐座へ登るために使った門だが、
現在は神社の祭日に、御輿、神官行列などの通過を許すだけで、
平素誰も通さないことになっている。 」
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斎庭に入ると、国の重要文化財に指定されている幣拝殿がある。
「 拝所との間に広い庭がある。
斎庭(ゆにわ)と呼ばれる
禁足地になっている新鮮な場所である。
正面の拝殿は、後ろの扉の前に幣帛を置くので、幣拝殿という。
この奥に、普通の神社は本殿があるが、上社にはない。
幣拝殿の左右に片拝殿、その奥は神居である。
私事の祈祷をおこなう場所は「 勅願殿」 で、幣拝殿は恒例祭典や重要神事を
行う場所である。
この建物は天保六年(1834)に上棟式をしており、工匠は上諏訪の人、
幕府から内匠の称号を許された名匠二代・立川和四郎富昌の作である。
拝殿と幣殿をつづけ本殿を設けない諏訪社様式で、
安定よく彫刻も美しく富昌の代表作であり、また左片拝殿にみる蟇股から
脱化した粟穂に鶉の彫刻は写生に徹した富昌の至芸である 」
勅願殿はその右側の小高いところにある。
勅願とは 「勅命による祈願」 「天皇の祈願」 という意である。
諏訪大社上社本宮は、 古く 「祈祷所」 と記された祈祷を行う場所である。
天流水舎(てんりゅうすいしゃ)は、 「宝殿の天滴」 で知られ、
「諏訪大神」が、水の守護神として、崇敬される所以となっている。
「 俗にお天水と称されるどんな晴天の日でも、 雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ、諏訪の七不思議の一つである。 」
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神楽殿は、四方吹き流し、桁行四間、梁間三間の入母屋造りの建造物で、
文化十年(1827)の建立である。
大太鼓は同時に奉納され、胴は樽と同様に合わせ木つくり、神龍が描かれている。
この大太鼓は、元日の朝にのみ、打たれる。
諏訪大社の参拝を終え、神社前バス停に戻ると、法華寺があり、「吉良義周の墓」の看板があった。
石段を上り、本殿の裏に行くと、説明板があり、小さな墓があった。
説明板「吉良義周墓」
「 吉良義周(1686〜1706)は、米沢藩主上杉網憲の次男であったが、
父にあたる吉良義央(上野介)の養子となり、元禄十四年(1701)吉良家を継いだ。
元禄十五年十二月十四日、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討入りに遭遇し、
自身も手傷を負う。
翌年、評定所に呼び出され、大目付より 「仕方不届」 として領地召上を申し渡され、
諏訪安芸守忠虎(四代高島藩主)へ、預けの身となった。
高島城南之丸へ囲まれた義周への処遇は、
丁重かつ儀礼を尽くしたものであったことが伝えられている。
しかし、配流から三年後の宝永三年(1706)一月二十日、
二十一歳の若さで病死してしまう。
幕府による検死の後、同年二月四日、法華寺裏手に埋葬された。
墓石には 「室燈院殿岱嶽徹大居士 神儀宝永三水之丙戌天正月廾日」 と
刻まれている。
諏訪市指定史跡 指定昭和54年2月15日 諏訪市教育委員会 」
隣に 「追慕 吉良左兵衛義周公 吉良町」の石柱が建ち、 「吉良義周公に捧ぐ」 の説明板があった。
説明板「吉良義周公に捧ぐ」
「 義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。
公は上杉網憲(吉良上野介長男)の第二子として生をうけ、
五歳にして上野介あとつぎとして吉良家の人となった。
名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、
将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。 元禄事件である。
世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、
配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。
公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。
しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、
また当法華寺十一世春巌和尚の温かなご配慮に、
われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。
公よ、安らかに眠り給え。
平成六年吉日 吉良町 」
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◎ 諏訪大社下社秋宮
神宮寺交叉点から県道183号で四賀桑原交叉点に出て、国道20号を北上すると、下諏訪町に入る。
大社通り交叉点に出るので、右折して国道142号を進むと、諏訪大社下社秋宮に到着である。
「 諏訪大社は我が国最古の神社の一つであり、
古来、諏訪大明神、諏訪南宮大明神などと称したが、
延喜式の神名帳に、「南方刀美神社(みなみかたとみのかみのみやしろ)二座 」
と記されているのがそれとされる。
信濃国一之宮として 広く天下の崇敬を集め、御神徳を奉じ、分社・分霊を祀ること、
全国津々浦々に五千社以上に及ぶとある神社であるが、創建時期ははっきりしない。
諏訪大社は上社の本宮・前宮、下社の春宮・秋宮の四つの神社を合わせて、
一社としている。
主祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)と、八坂刀売命(やさかと めのみこと)である。
上社は建御名方命、下社は八坂刀売命を主祭神としている。
真冬、諏訪湖が全面結氷し更に寒気が襲ってくると、 湖面に亀裂が入り轟音とともに、
氷がせり上がる現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、
男神の諏訪大明神(建御名方富命)が女神(八坂刀売命)のもとへ渡った跡と信じられ、
諏訪七不思議の一つと言い伝えられてきた。
諏訪大社下社秋宮は諏訪大社四宮の一つで、
祭神は大国主神の子・建御名方命の妃・八坂刀売神で、
社殿に神様がいるのは八月から翌年の一月までで、
二月から七月までは春宮にいることになっている。」
駐車場右手の鳥居をくぐると、天保六年(1835)建立の三方切妻造りの神楽殿がある。
左右の青銅製の狛犬は青銅製では一番大きいといわれる。
説明板「諏訪大社下社秋宮神楽殿」(国重要文化財指定)
「 この神楽殿は二代立川和四郎富昌の作である。
彼は技をすべて父にうけ、天稟の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、
幕府から内匠(たくみ)の称号を許されたほどの名匠である。
この神楽殿は、天保六年(1835)富昌五十四歳の作で、父の建てた華麗な幣拝殿の前に
荘重なものをつくってよく調和させ、幣拝殿をみき立たせているところが賞賛される。 」
神楽殿の奥の建物は幣拝殿で、信濃一といわれた棟梁・ 初代立川和四郎富棟の手によるものである。
説明板「諏訪大社下社秋宮幣拝殿」(国重要文化財指定)
「 この幣拝殿は、安永十六年(1776)に起工、同十月に落成した。
工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、
彫刻は中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。
軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、
それがすべて素木の生地を生かして清楚である。
彫刻には独特のおおらかさがあり、拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。 」
六年に一度(数えで七年)御柱祭りが行われる。
中でも一番太い御柱がこの宮の一之御柱である。
なお、御柱は社殿の左右及び社殿奥の左右に各一本づつ、
合計四本が据えられている。
鳥居横の千尋池畔には、一茶の句碑がある。
「 国中は 残らず諏訪の 尾花かな 一茶 」
御射山祭りには、全国の諏訪神社が尾花を捧げて祭りを行うそうである。
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◎ 諏訪大社春宮
諏訪大社春宮には、中山道の下諏訪宿跡を見ながら、訪れる。
大鳥居前は甲州街道である。
甲州街道は国道142号を進まず、大鳥居と手水場の間に入ると、突き当たりに「番屋跡碑」があり、
下諏訪宿へ入る。
「 下諏訪宿は、諏訪大社下社の門前町として古から栄え、
中山道との追分を控え、中山道唯一の温泉場として、大いに賑わった。
宿場の軒数は三百十五軒、人口は千三百四十五人を数え、本陣一、脇本陣一、
旅籠四十軒と多かった。 」
「番屋跡碑」 を左へ曲がると、明治六年(1873)創業の和菓子屋・新鶴本店ある。
新鶴本店は幕末尊王派で南画家の天龍道人の住居跡である。
ここの塩羊羹は絶品で、ほんのり甘しょっぱい味が緑茶によく合う。
その先で、甲州街道は国道142号と合流する。
綿の湯前広場が中山道との合流点で、そこが甲州街道の終点であると共に、
中山道の江戸あるいは京都への追分でもある。
「 、甲州街道は、
江戸から小仏関所を通り、小仏峠と笹子峠を越え、富士山・甲斐駒ヶ岳を仰ぐように進み、
諏訪湖に至ると、中山道・下諏訪宿の追分で、五十三里余(220km弱)の旅は終わる。
甲州街道は江戸に異変が起きた時、利用するために設けられたため、大名の通過はできないなど、
公用・軍用を目的とした街道であった。
五街道細見には、名所図会として 「 下諏訪・和田へ山路五里八町。
諏方の駅一千軒ばかりもあり。 商人多し。 旅舎に出女あり。 夏蚊なし。
少しあれどもささず。 雪深うして寒はげし。
諏訪春宮 ・ 北の坂の下り口に鎮座す。
毎年正月朔日に遷し奉る。 祭神、上諏訪と同く、建御名方命なり。 諏訪秋宮・
駅中にあり。 毎年七月朔日、ここにうつし奉る。 毎度、神輿に乗せ参らせず。
七月朔日には祭礼あり。 春宮にまします時、秋宮空社なり。
秋宮にまします時は、春宮空社なり。
名をしおふ下の諏訪は、此の街道の駅にして、旅舎多く、紅おしろいに粧うたる
うかれ女たちつどひ、とまらんせとまらんせと袖ひき袂をとりて、
旅行の人の足をとどむ。 町の中に温泉ありて、此の宿の女あないして、
浴屋の口をひらき、浴させける。 その外よろづの商人多く、駅中の都会なり。 」 とあり、
下諏訪宿は、甲州街道の宿場とは異次元の世界のように描かれている。 」
ここには「神話と伝説 綿の湯」の説明板があり、
その隣に、 「 甲州道中終点
右江戸へ五十三里十一丁 中山道 下諏訪宿問屋場址<
左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁 」
と書かれた石碑があり、
甲州街道の終点に、問屋場があったことがわかる。
説明板「神話と伝説 綿の湯」
「 諏訪大社は、上社の本宮・前宮と、下社の春宮・秋宮の総称です。
その昔、上社に地にお住まいの諏訪明神建御名方命のお妃八坂刀売神が、
日頃御使いになっておられたお化粧用の湯を綿に浸し「湯玉」にして下社の地に
お持ちになりました。
その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。
神の湯ですから新聖で、やましい者が入ると神の怒りに
触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。
下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、
湯の沸く宿場として親しまれ街道一賑わいました。 下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。
(以下省略) 」
前に訪問した時は、広場に、永六助が書いた「綿の湯」の石碑と、 往時の下諏訪宿を描いた絵と 「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」と刻まれた石碑が建っていた。
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広場の脇の右の道を入ると、突き当たりにある、旅館、「聴泉閣かめや」は旅籠跡である。
「 本陣制度廃止後、本家岩波太左衛門の弟、芝吉氏が分家して、
本陣の一角で亀屋旅館を始めたが、現在は聴泉閣かめやとして営業している。
かめやの建物は建て変えられたので昔の建物ではないが、
分家に譲られた本陣の上段の間と中庭は当時のままのものという。
上段の間入口に、元禄時代狩野派の御用絵師が描いたといわれる
「杉戸絵」が残されているという。
皇女和宮の御降嫁や明治天皇の御巡幸にも使われた。
また、多くの作家が宿泊した旅館としても有名である。 」
その隣に、中山道で随一と称される庭園を持った本陣の岩波家がある。
「 下諏訪宿の本陣を任されていたのは岩波家で、
元禄元年(1688)から明治維新で廃止されるまでの三百年余り続いた。
下諏訪宿は、塩尻峠と和田峠の間にある宿場で、しかも温泉付きとあったので、
徳川将軍代々の正室や諸大名が宿泊したのは頷ける。
本家岩波家は元のままの門構えの家で中を見せてくれる。
宿の古い文書、道具などを展示していて、有料で公開している。 」
綿の湯広場まで戻り、右折すると 「ききょう屋」 という旅館がある。
木曽路名所図絵に、桔梗屋として描かれている旅籠で、元禄元年(1689)の創業である。
ききょう屋の前を行くと、歴史民族資料館がある。
「 下諏訪町歴史民俗資料館は、 江戸時代の宿場民家の特色を残しているといわれ、 道に面した側に「縦繁格子」をはめ、「みせ」と呼ばれる大戸の横にある広い板の間、 そして「通り庭」という、建物の内部にあって裏庭に通じる土間などがある。 」
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本陣の左手に遊泉ハウス児湯があり、その先の交叉点を直進すると、
下り坂で右側に鉄鉱泉本館がある。 鉄分の多い源泉で古い。
しばらく歩くと、右側に御作田神社があり、その先の左側に伏見屋邸があろ。
その先に変則的交叉点があるが、この辺りが中山道の江戸方入口で、番所があった。
左に入ると諏訪大社下社春宮の鳥居がある。
如木に囲まれた荘厳な雰囲気である。
中にはいると、筒粥殿(つつがゆでん)がある。
説明板
「 下社特殊神事の一つであります。
筒粥神事の神粥炊上げが行われる建物で、毎年一月十四日夜から十五日早朝に
かけて神職がいろりを囲み、一晩中葦筒を糸と小豆の粥に入れて炊き込み、
葦筒四十四本の内四十三本は作物の豊凶を、残りの一本は世の中を占います。
土間中央のいろりは江戸時代初期のものである。」
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中に入ると御柱や狛犬があり、神楽殿があるのは秋宮と一緒だが、規模が小さい。
軒下注連縄を付ける様式は一緒だが、秋宮より小さかった。
「 諏訪大社下社春宮の主祭神は八坂刀売命(女神)で、 祭神がいるのは二月一日から七月まで、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、 翌二月一日に春宮に帰座される。 」
秋宮の中心となる建築は、正面中央にある幣拝殿と、 左右にある廻廊形式の片拝殿、それらの背後にある、東西の宝殿である。
「 幣拝殿は拝殿と門を兼ねたような形式の建物で、
間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設けている。
ニ階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は檜皮葺)で、
正面は軒唐破風をつけている。
左右の片拝殿は廻廊形式で、梁行の柱間が一間、桁行が五間で、
屋根は片流れの銅板葺である。
幣拝殿と片拝殿は、安永八年(1779)に完成したと考えられ、
大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁・伊藤儀左衛門の弟・柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重である。
幣拝殿の建築様式の特徴は建築彫刻の数の多さと、その躍動感にあふれた表現である。
正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子。 唐破風内部の飛竜、
一階内部の小壁の牡丹、唐獅子、扉脇の竹、鶏で、
名作が多く建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。
その奥にある、東西の宝殿は、葺・切妻造・平入の簡素で、
古風な形式を持ち、甲寅の七年ごとに新築する式年造替制度がとられている。
社殿形式は諏訪大社特有のものであり、
また、その幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、
長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。 」
ここから桔梗屋まで戻り、立町を二、三十メートル歩くと、御柱グランドパークの一角に、
高札場が復元され、法度や掟書きの木札が下げられていた。
ここが中山道の京都側の宿場の入口である。
4社詣での記念に、日帰り温泉「旦過の湯」で、ひと風呂浴びて帰ることにした。
「 鎌倉時代、慈雲寺を訪れる大勢の修行僧のために建てられた旦過寮 の湯は、湯口は58度もあり、切り傷によく効くということで、 昔、合戦で傷ついた武士が入浴して治した、と伝えられる。 」
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