高島城は、日根野高吉が文禄元年(1592)から慶長三年(1598)にかけて、
諏訪湖の湖畔に湖水を利用して築いた水城である。
現在の高島城跡は、湖畔から離れた諏訪市役所の西側の高島公園になっている。
高島城は、平成29年4月6日、続日本100名城の第130番に選定された。
下図は高島城城郭図である。
「
諏訪湖の水が、城の際まで迫り、 湖上に浮いて見えることから、 諏訪の浮城 とも呼ばれ、
また、「 諏訪の殿様よい城持ちゃる うしろ松山 前は海 」 とも歌われた。
築城当時の高島城は、 本丸@、 二の丸M、 三の丸Q、 衣之渡郭(24番)が、
南北にほぼ一直線上に配置した連郭式の城郭であった。
三の丸と衣之渡郭の間に、 衣之渡川(23番)、 二の丸と三の丸の間に三之丸川(P中門川)、
本丸や二の丸などは川を堀とし、 西側は諏訪湖、東側は阿原(沼沢地)に囲まれ、
大手門(26番)から27番の縄手(欅並木)だけが城下に通じていた。 」
縄手(欅並木)は、 現在の並木通りで、神州一味噌のあたりが三の丸跡に思えた。
二の丸は明治時代に壊され、遺跡は残っていない。
二の丸には、家老の二之丸屋敷N、 職人が詰めて働く御作事屋、 貯米蔵、 貯銭蔵、 馬場Oなどがあった。
六代忠厚の時に起こった「二之丸一件」で、 家老の二之丸屋敷は取り壊され、
藩校「長善館」が建てられた。
三之丸には、三之丸御殿、 家老の三之丸屋敷(21番)、 藩の会計を預かる御勘定所などがあった。
また、八代忠恕の天保3年、 凶年の窮民救済のための防米倉庫 「常盈倉R」 が建てられた。
「冠木門跡」の説明板があった。
本丸に入る門は冠木門で、冠木橋と共に復元されたものである。
「 冠木橋を渡ったところに冠木門があった。
冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、
高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。
おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、
名称のみ残されたものだろう。 」
冠木門の石垣前に、「高島城本丸の堀と石垣」 の説明板があり、 築城時の困難さを感じることができた。
「 天守閣の石垣と本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、
西側と南側の石積みは簡単なものであった。
衣之渡郭、三の丸、二の丸などの石垣も比較的小規模である。
石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。
地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。 」
本丸を囲む内壕Mは紅葉が美しかった。
冠木門 | 冠木門の石垣 | 紅葉の内濠 |
高島公園に入ると、天守閣の近くに 「高島城 浮城ともいう」 と刻まれた石碑がある。
石碑の碑文
「 この地は高島城本丸跡である。
この城はおよそ三百八十年前、文禄、慶長年間、
日根野織部正高吉が七年を要し、彼独特の築城の技術を生かし、
諏訪湖畔の波打ちぎわにきずいた難攻不落の水城で、別名を浮城ともいわれている。
関ヶ原役の後に諏訪氏の居城となりそのまま転封もなく維新までつづいた。
この間、城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあった。
本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋、郡方また賄方などがあり、
能舞台、氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた。
明治維新の改革で高島藩は消え、明治八年には天守閣も破却されたが、諏訪氏の在城二百六十年間、
一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことがない名城であった。
明治九年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、
諏訪の人々の心のよりどころとして親しまれてきた。
今も城内と言われた大手門以南の地形は、おおよそ昔のままの姿をのこして、
近世の城郭を考えるいい資料である。
今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、
破却当時の姿を忠実に再現したものである。
庭園は天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩本諏訪市長が自らの設計により、
諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、
人字形の池を島で表し、瀧や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。
昭和四十五年五月 」
その先に復興天守があり、天守の下に 「小天守跡」 の石柱が建っている。
「 高島城の天守は、独立式望楼型三重五階で、初重を入母屋の大屋根とし、
二重の望楼がのせられた形状で、二重目の東西面に入母屋破風出窓、
三重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられた。
各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく、
屋根に檜の薄い板を葺いた柿葺きという珍しいもので、
これは諏訪の寒冷に堪えられる瓦が調達できなかったためといわれている。
本丸の西北隅に天守があり、その手前に小天守が建っていたが、明治八年(1875)に撤去された。
現在の天守は、前述の石碑が建てられた昭和四十五年(1970)に再建されたもので、
窓の大きさや位置などの細部が異なり、
屋根は銅板が葺かれているが、城郭当時の姿を忠実に再現したもので、内部は資料館になっている。 」
高島城碑 | 庭園 (本丸跡) | 復興天守 |
天守の南、本丸西側にある門は川渡門で、「三之丸御殿裏門(御川渡門跡)」 の説明板が建っている。
説明板「三之丸御殿裏門(御川渡門跡)」
「 ここは、かって御川渡御門(御川戸門)があった場所である。
城が湖に面していたころは、ここで湖の船にのることができた。
この門は、三之丸御殿(現在の高島一丁目八番地付近)の裏門を移築したものである。
三之丸御殿は藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。
また、藩主がくつろぐところでもあった。
門は昭和六十三年に所有者から市に寄贈され、この地に移築された。 」
本丸跡は庭園になっていて、紅葉が美しい。
この反対側に 「多聞跡」 の標柱があり、塀が続いている。
当時の絵図を見ると、本丸書院の東には能舞台があり、
その先に東照宮が祀られていたことがわかる。
また、冠木門の左側に角櫓と多聞櫓が続いていた。
冠木橋から外に出て、水堀越しに隅櫓と左右に多聞櫓がある。
これらは多聞門などと共に昭和四十五年(1970)に再建したものである。
本丸石垣などは、築城当時は自然石を加工せずに積み上げた野面積であったが、
天明六年の大規模補修によって、大部分は改修されてしまったが、一部だけ今も残っている。
三之丸御殿裏門(御川渡門跡) | 多聞跡 | 水堀側から見た角櫓と多聞櫓 |
高島城へはJR中央本線上諏訪駅諏訪湖口から徒歩約10分
高島城のスタンプは天守閣受付にあるため、入城しないと押すことができない
訪問日 令和元年(2019)十一月二十日