和田宿から下諏訪宿は街道最大の難所、和田峠越えである。
五里十八丁、約22キロの距離で、約9時間かかる。
この区間は公共交通手段が一切ないので、自力で終着地にたどりつくしか方法はない。
和田宿の上町から鍛冶足集落に入ると右側に道祖神がある。
一本足の火の見櫓を過ぎると、左側に菅沼曲水の句碑がある。
曲水は膳所藩の中老を勤め、近江蕉門の重鎮であった。
右側に鍛冶足バス停があるが、その手前に男女双体道祖神がある。
公民館前バス停を過ぎると、和田鍛冶足交叉点に突き当たる。
この交叉点には 「中山道」 の青い道標、「中山道」 の白い石碑、「歴史道中山道」 の
黒い石碑、「左松澤街道 右諏訪街道」の標柱があり、
左端に 「中山道一里塚跡 江戸より五十里」の石碑が建っている。
この交叉点は五差路であるが、中山道は国道の左の旧街道に入る。
左側に大出バス停留所があり、その先の三叉路を左に下る。
ここには 「←中山道→」 の道標がある。
依田川に沿って進み、静かな大出集落を過ぎ、急な坂道を上ると国道142号に合流する。
分岐点には 「←中山道→」 の道標がある。
歩道はないので、車に注意しながら歩く。 六百メートル歩くと左側にそば処里羅がある。
この店では、霧の高原で栽培された、だったん蕎麦が名物である。
三百メートル歩くと左側にドライブイン杉の屋があるが、
その対面が牛宿があったところといわれる。
江戸時代、二軒の茶屋があり、そのうちの一軒が塩つけ宿と呼ばれ、中牛馬の仮宿であった。
信州の特産を上州に運び、帰りに貴重な塩を持ち帰っていた。
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国道の上り坂を一キロ進むと、右手に扉峠へのビーナスラインの分岐点がある。
ビーナスラインは県道67号松本和田線で、この先何度か出会うことになる。
三百メートル程歩くと、斜め右の一之橋旧道に入る。
依田川を一之橋で渡ると唐沢になる。
一之橋旧道は二百メートル程で終わり、国道に合流する。
左側に 「従五位勲四等羽田貞義翁」顕彰碑と、馬頭観世音塔がある。
左側の草道が古中仙道である。 この道には石畳や貴重な唐沢の一里塚を残している。
分岐点には 「中山道唐沢一里塚→」 の道標と、
青い 「←中山道→」 の道標がある。
古中仙道は天保期に道が付け替えられて、国道がその後、中山道になった。
この道は行かずに国道を歩く。
唐沢下バス停で国道と分かれて右の道に入る。
右側に茅葺屋根の旧家があり、唐沢バス停の並びの門柱に 「本陣」 の表札がある。
ここは羽田茶屋本陣跡である。 唐沢には五軒の茶屋があった。
すぐ先の三叉路を左に入り突き当たりを右に進む。 ここは枡形跡である。
唐沢集落を通り過ぎると国道に合流する。
合流する手前に道祖神が建っている。
国道を出ると、「唐沢口」 の標識があり、国道の左側が旧道入口で、
国道から分かれて和田峠に伸びる山道である。
入口には 「歴史の道」 の標識が建っている。
ここからは土を踏みしめて歩くが、雑草が多く歩きにくいところもある。
国道に出るがすぐに旧道に入る。
左側の木立の中に左右二つの一里塚があり、国の史跡に指定されている。
説明文「唐沢一里塚」
「 この塚は江戸より五十一番目の一里塚である。
(中略)
和田宿と下諏訪宿間に一里塚は六ヶ所あったが、これはその一つである。
この塚は中山道の一部路線変更により、山中に取り残されたもので、
天保二年(1831)の絵図面ではすでに路線から外されている。
現在樹木は残っていないが、塚は二基ともほぼ原形をとどめている。
文化庁 長野県 和田村 」
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一里塚の石碑の先には、左側に小さな祠があり、周りに石碑群がある。
「山之神」「御嶽山座主大権現」「不動明王」等と刻まれた石碑である。
一里塚を下ると国道に合流する。
分岐点には 「←笠取峠16.3km 東餅屋(和田峠)4.3q→」
の中北道標がある。
道は左右にカーブしながら進み、和田川を二之橋で渡る。
和田川は和田峠を源にして依田川に合流する。
右側に水準点があり、奥に観音澤文教所跡がある。 かって観音澤村があった。
上り坂を進むと左側に 「信州長和町 男女倉口 標高1100m」 の標識と、
「←笠取峠17.1km 東餅屋(和田峠)3.5q→」 の中北道標がある。
男女倉沢入口の三叉路で、左側は新和田トンネルを抜ける新道、右は和田トンネルを抜ける
旧道で、中山道は右の美ヶ原高原、霧ヶ峰高原方面に進む。
男女倉沢では古代より黒曜石が採掘され、全国に流布されて、石器時代の鏃や斧などに使用
されたという。
国道の正面が和田峠の男女倉口(おめぐらくち)である。
ここが和田峠の東入口で、上り口には 「国史跡歴史の道中山道」 の碑と、
中山道の解説板がある。
休憩小屋があるが、 休み茶屋跡跡である。
中山道の最大の難所は和田峠で、特に厳冬期は難渋を極め、人馬の遭難が絶えなかった。
江戸方面からはここから土道になる。
この道は「 歴史の道」 と標示されている道で、
雑草が多く、台風がくるとは道が荒れて閉鎖されることが多い。
小屋の脇に三十三観音がある。
「
かってこの山の中腹に熊野神社があり、その前に祀られていたものだが、
昭和四十八年(1973)の調査発掘で二十九体が確認され、ここに
安置された。
千手観音、如意輪観音、馬頭観音像等d、4体は未発見である。
これらの観音群は和田峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀られたものである。 」
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比較的明るい峠道を上る。
左側は和田川で、足元からせせらぎが聞こえてくる。
途中に 「←男女倉800m 接待800m→」 の道標が立っている。
男女倉から接待までの急坂を観音坂といい、途中に二か所の丸太橋がある。
坂を上り切ると国道に出るが目の前には一軒の茅葺の家が見えてきた。
復元された永代人馬施行所である。
説明板 「歴史の道 中山道 永代人馬施行所(えいだいじんばせぎょうしょ)」
「 文政十一年(1828)、江戸呉服商の豪商・かせや与兵衛は中山道の旅人の難儀を救おう
と金千両を幕府に献上した。
その金を貸付に回してもらい、年に一割の百両を利子として
自分の指定するところに下付してもらうのである。
幕府はその金を二分して、碓井峠の坂本宿と和田宿に下付した。
両宿はその金で施行所を設け、毎年十一月から翌年三月まで峠を越える旅人に
粥と焚火を振舞い、牛馬には年中桶一杯の煮麦をを与えた。
その後、山抜け(山崩れ)で流失したが、嘉永五年(1852)に現在地に再建され、
明治三年(1870)まで続けられた。 」
今と違い、暖房がなかった時代に、冬の信濃路を歩くのはそれなり事情が
あったのだろうが、至難のことであったと思う。
その時の一杯の粥はなにものにも代えが
たいものだったに違いない。
敷地内に馬頭観音文字塔が三基ある。
また、湧水があったが、今は道の反対側に移されている。
施行所を出ると、すぐ国道が右にカーブするところで、分かれて左側の林の中の道に入る。
ここには 「←中山道→」 の青い道標がある。
入ったところの右側に昭和五十五年(1980)建立の常夜燈がある。
ここには嘉永四年(1851)建立の常夜燈があったが、山抜けにより消失した。
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接待から広原一里塚までの峠道は長坂で、途中石畳の道が二度残っている。
五つの丸太を組み合わせた橋を渡ると広原の一里塚。 東塚だけが残っている。
広原は笹と葦が茂る原であったが、積雪期には五尺四方の一里塚が旅人の目安になったという。
ここまで四十分程かかった。
一里塚から青少年村キャンプ場までは十分程で到着。
一里塚からキャンプ村までは黒曜石の遺跡群という。
ここから舗装路に変り、五分程で少し広い野原に出ると東の餅屋の立場跡に到着である。
説明板 「歴史の道 中山道 東餅屋」
「 標高1531メートルの和田峠は旅人は難渋した。
この峠の唐沢、東、西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり、人馬の休息所となっていた。
この東餅屋では五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。
寛永年間(1624〜1643)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難渋する
旅人の救助にもあっていた。
幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。
鉄道が開通するとともに往来が途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、(今はドライブイン以外
家はなく)石垣を残すのみである。
文化庁 長野県 和田村 」
石垣の下には駐車場があり、一軒のドライブイン、峠の茶屋がある。
ドライブインの看板に力餅と黒耀石の表示が見えたので、中に入っていった。
中には親父が一人いてこちらを見ていた。
入口の看板にあった力餅が気になっていたので、
それを頼むとコーヒーとセットになって五百円という。
出てきたのを見ると、力餅二個と野沢菜、そして、コーヒーである。
コーヒーを飲みながら力餅を食べる。 変な組み合わせ
だったが、餅がやわらかくって野沢菜の塩で塩味が少し効いてうまかった。
「地名の餅屋は力餅に由来するとあり、江戸時代には立場茶屋として東餅屋に五軒、西餅屋
に四軒あった、という。
救難という意味もあったようで、援助を幕府から受けていたようである。
店は十月一杯くらいで閉店にするが、今年は暖かいのと中山道が
ブームになって日に二百人もくることもあり、十一月に入っても営業を続けていると
いった。 」
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石畳が残る道は国道と霧ガ峰に通じるビーナスラインの分岐点に至る。
国道を横断して、向かいの林の中を進む。
昔の道は直進するが、今の自動車道はくねくね
曲がっているので、ビーナスラインとは4回出会う。
中山道はトンネルをくぐり抜けるが、トンネルの上が現在の和田峠で、
茅野からくるビーナスラインが通っている。
山は紅葉の盛りであった。
中山道の和田峠は古峰といい、そこには御嶽遙拝所が復元されている。
晴れた日には遥かに駒ガ岳、御嶽、浅間山などが見渡せる。
また、下諏訪方面の展望がよい。
木曾名所図会に 「 和田峠にいたる。 ここを鳩の峰ともいう。 空快明なる時は富士山能く
見ゆる。西坂嶮し。 東坂やすらかなり ・・・・・ 」 とあり、 眺望がよいようだが、
あいにく曇っていて何も見えなかった。
峠を諏訪方面に下りにかかる。
道が狭く足場が不安定な急斜面で、「賽の河原七曲り」 と呼ばれたところである。
左に水飲み場がある。 急坂を下ると左側に石小屋跡がある。
安政二年(1855)に下原村の名主勝五郎が郡奉行所の許可をえて建てたもので、
今は石垣の一部のみが残っている。
沢に沿ると国道を横断する。
ここには 「↑和田峠0.9km 諏訪大社下社(秋宮)11.1km↓」 の中北道標がある。
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国道を横断すると倒木が何ヶ所かあり、下をくぐってすり抜ける。
右側の高台に鳥居と山之神を祀った石祠がある。
すぐ先で国道を横断する。 ここには 「↓諏訪大社下社(秋宮)
10.8km 和田峠1.2km ↑」 の中北道標がある。
土道を下ると右側に、牛頭牛王碑と道祖神碑がある。
静かな林の中を歩いていくと突然空がポッカリと開いた草地に出る。
ここは西餅屋村跡である。 和田峠と下諏訪宿の中間に設けられた立場跡である。
江戸時代には茶屋本陣の小口家、そして茶屋の武居・犬飼・小松家があった。
そこを出ると国道を横断してガードレールから中山道に入る。
ここには 「↓諏訪大社下社(秋宮)10.5km 和田峠1.5km ↑」 の中北道標がある。
中山道は藪の中の道で、道があるといえばあるというような道である。
その先の右側に、 「中山道 一里塚 江戸より五十三里」 の石碑がある。
西餅屋一里塚である。
斜面にあるので、原形が残っているのか分からなかった。
その先は崖の道で、その先で国道に合流する。
香炉岩を過ぎると右側に、 「水戸浪士の墓」 の標識がある。
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「水戸浪士の塚0.3km先の左」 の標識があるので、これに従い左の坂道を下り、
国道のガードをくぐると、正面に 「浪士塚」の説明板がある。
浪人塚は幕末この地で戦死した水戸浪士の墓である。
説明板「浪士塚」
「 元治元年(1864)十一月二十日、高島藩兵五百八十名と西餅屋から
合流した松本藩兵三百五十名計九百三十名が樋橋に布陣し、
大木の橋頭塁堡を築き、大砲四門を据えて、臨戦態勢を整えた。
武田耕雲斎率いる水戸天狗党は、騎馬二百、小荷駄五十疋、大砲十五門、歩兵数百を合わせ、
千余名。
未の刻(午後3時)に、戦いの火端が開かれたが、狭い峠道に陣取る天狗党は圧倒的に不利だった。
この状態を打破すべく、天狗党の軍師・山国兵部は、
香炉岩あたりから二百の軍勢を砥川の谷伝いに迂回され、後方をつかせました。
これを機に、全軍が一気に押しだすと、連合軍は総崩れになった。
この戦いにより、高島藩兵に四名、松本藩兵に四名、水戸天狗党は十余人の戦死者を
出しました。 」
この戦いを砥石口合戦とか和田嶺合戦と呼ぶ。
浪士塚は、水戸浪士たちはこの地に討死にした浪士を葬ったが、
諏訪の高島藩は塚を造って祀ったというものである。
「 ここには、 「浪士塚」 「和田嶺合戦百年祭之碑跡」 「元治甲子水戸浪士殉難之碑」 の他、徳本上人名号碑や、大きな馬頭観世音碑が建っている。 」
浪士塚を出ると左にカーブし、国道のガードをくぐり、砥川を渡り、信州ペット霊園を
過ぎると三叉路で、国道に合流する。
合流地点には、「蚕玉神社」 の石碑があり、右手に 「←諏訪大社下社(秋宮)6.5km
和田峠5.5km→」 の中北道標がある。
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「水戸浪士の塚0.3km先の左」 の標識があるので、これに従い左の坂道を下り、
国道のガードをくぐると、正面に「浪士塚」の説明板がある。
浪人塚は、幕末この地で戦死した水戸浪士の墓である。
中山道は火の見櫓の手前で左に入る。
ここが樋橋の立場跡で、国道側に 「樋橋茶屋本陣跡」 の石碑がある。
「 樋橋(とよはし)村は寛永十一年(1634)に立場として開村した。
茶屋本陣は代々小松家が勤め、本陣には御殿と呼ばれる小建築があり、
文久元年(1861)十一月六日、皇女和宮はここで休息された。
また、立場には牛宿もあった。 信州は山間部が
多いため荷の運搬には馬でなく、牛が使われた。 」
水戸天狗党は、高島松本藩連合軍を撃破すると、亥の刻(午後10時頃)、
ここで隊列を整え、下諏訪に向いました。
ここより先は逆S字の形をしていて、江戸時代には枡形であった。
国道を横断して、向いに入り、左に回り込んで国道に合流する。
国道は歩道がないので、車には注意する。
「標高1000m」 の標識を過ぎ、しばらく歩くと
右側に 「中山道」 の道標があるが、これは深沢旧道の土道で、
途中には板を渡した橋が数ヶ所あり、スロープを上り、右にUターンすると国道に合流する。
出口には 「←中山道→」 の道標がある。
深沢橋を渡ると右側の土手下に焼却場が見える。
そこに下る道の所に 「一里塚石碑」 があるが、石碑があるだけなのでパスする。
この一里塚は江戸より五十四番目で、荻倉一里塚とか樋橋の一里塚と呼ばれたようである。
六峰温泉バス停を過ぎ、町屋敷バス停の先を斜め左に入り、一本目を右折すると左側に
理髪店がある。
先に進むと左側に柱で囲まれた道祖神が祀られている。
その先の三叉路を右に下るとT字路に出るので左折する。
この分岐点には 「中山道」 の道標がある。
道は上り坂になり、右側に木落とし坂広場がある。
「 国道に 「木落とし坂」 の標識がある。
諏訪大社の御柱祭の木落とし坂で、道の脇には御柱祭の御柱を引き落とす広場があり、
眺望が急に開ける。
落した場所には御幣をくくりつけた棒を立てた一本の柱が置かれていた。
御柱祭は六年毎に行われる行事であるが、
木の選定から始まり御柱を立てるまでに四年間かける。
諏訪大社の祭りのクライマックスである御柱を坂から一気に落とすシーンが見られる場所である。
上から見るとそれほどではないと思ったが、下に下りてみて
みるとかなりの傾斜であったので、危険を覚悟とはいえ大変と思った。 」
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小生が訪れたのは御柱祭が終わった直後なので、迫力があった。
広場には説明板と 「諏訪大社御柱街道 天下の木落し坂」 の大きな石碑がある。
広場のはずれに、 中北道標「←和田峠8.5km 諏訪大社下社(秋宮)3.5km→」
がある。
中山道は右側に流れる川に沿って設けられていて、水力発電所の導水管のところは階段に
なっている。
下り切ると正面に国道が現れる。 右側の斜面に道祖神や馬頭観音等が多数祀られている。
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左側には、芭蕉の句碑がある。
「 雪ちるや 穂屋のすすき 苅り殘し 芭蕉 」
元禄三年(1690) 芭蕉 四十七才の時の句で、句碑は明治二十六年に建立されたものである。
国道に出ると左折するが、ここには 「←諏訪大社下社(秋宮)3.2km 和田峠8.8q→」
の中北道標と、「中山道」 の道標がある。
左側に落合発電所の標札がある。
「 諏訪地方電気発祥の地 明治三十三年(1900)運転開始 」 と書かれていた。
その先に落合橋があり、橋を渡る、なお、落合橋からこちらの坂は江戸時代、
観音坂と呼ばれた坂で、荻倉集落の入口にあたる。
橋を渡り、落合橋バス停の先を左に入る。
落合旧道で、ここには 「中山道」 の道標と
中北道標の 「←諏訪大社下社(秋宮)3.1km 和田峠8.9q→」 がある。
砥川沿いの旧道は一キロ足らずで国道に合流する。
ここには、中北道標の 「←諏訪大社下社(秋宮)2.4km 和田峠9.6q→」 がある。
左にカーブすると左側に小さな丘があるが、ここが注連掛(しめかけ)である。
「 注連掛は、木落としの後の御柱を一旦ここに安置し、 注連縄を掛けて清め休ませる場所である。 」
注連掛バス停裏の斜面には御柱で囲まれた二つの石祠がある。
国道を下ると左側の要璧に、馬頭観音があり、その先には山之神社がある。
「 山之神の背後の山は、宝暦の頃(1750年頃) 白鷺が巣をかける瑞兆が あったことから、白鷺山と呼ばれている。 」
左側の砥川発電所導水管の向かいを右に入る。
砥川旧道で入口に 「中山道」 の道標がある。
坂を下ると左側に柱で囲まれた道祖神がある。
坂を上ると国道に合流する。 ここにも 「中山道」 の道標がある。
更に下ると右側に 「中山道」 の道標があり、ここを斜め右に坂を下ると、
右手に諏訪大社下社春宮への分岐点ある。
「左諏訪宮右中山道」 の石碑と、 中北道標 「↓諏訪大社下社秋宮
0.9km 和田峠11.1km↑」 と、ポールに 「↑諏訪大社下社春宮 万治の石仏 中山道↓」
とある。
春宮に寄るため、右折してUターンすると、春の宮の鳥居に到着した。
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諏訪大社へ入ると御柱や狛犬があり、神楽殿がある。
その奥に幣拝殿を中心として、左右に片拝殿と宝殿があり、
この配置は諏訪神社独特のものである。
説明板「諏訪大社下社春宮 幣拝殿・片拝殿 重要文化財昭和
五十八年十二月二十六日指定 」
「 諏訪大社は建御名方富命と八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祀り、上社は
建御名方富命(彦神)、下社は八坂刀売命(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、
翌二月一日に春宮に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にあり、拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右
にある廻廊形式の片拝殿、それらの背後にある、東西の宝殿からなる。
東西の宝殿は葺・切妻造・平入の簡素で古風な形式を持ち、
甲寅の七年ごとに新築する式年造替制度がとられている。
右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、また、その幣拝殿と
左右片拝殿に似た形式は長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は安永八年(1779)に完成したと考えられる。
大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(1747〜1800)であった。
幣拝殿は間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設ける。ニ階は四方が
ふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は檜皮葺)で、正面は軒唐破風をつける。
左右の片拝殿は梁行の柱間が一間、桁行が五間で、屋根は片流れの銅板葺である。
幣拝殿の建築様式の特徴は各所につけられた建築彫刻の数の多さとその躍動感にあふれた表現
である。
正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子。唐破風内部の飛竜、一階内部の小壁の
牡丹、唐獅子、扉脇の竹、鶏で、名作が多く建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前が
よくうかがえる。
諏訪大社 下諏訪町教育委員会 」
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鳥居を左へ進むと砥川が流れ、中洲に浮島神社がある。
橋のたもとには小林一茶の句碑がある。
当日は橋のペンキを塗り直ししていたため、浮島には入れなかった。
道を回って対岸の道をたどる。 この先に岡本太郎が1974年に下諏訪町を訪れ、石仏を見て絶賛した
という 「万治の石仏」 がある。
また、岡本太郎の筆である石碑が入口にある。
万治の石仏は畑の中にあった。
胴体の部分に刻まれている年号から万冶三年(1660)に建てられたとされ、石仏にその名が付けられた。
説明板「万治の石仏と伝説」
「 伝説によると、諏訪大社下社(春宮)に、石の大鳥居を造る時、
この石を材料にしようとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出したので、
石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)
その夜、石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに
良材を見付ける事ができ鳥居は完成したという。
石工達は、この石に「 南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主明誉浄光心誉廣春」 と刻み、
阿弥陀如来を祀って記念とした。
この地籍は、この石仏にちなんで、古くから下諏訪町字石仏となっている。 」
街道に戻り、少し下ると左側に慈雲寺への参道石段がある。
石段の右側に、庚申塔と三界万霊塔等がある。
右側には龍の口がある。 この竜頭水口は江戸中期、旧横川村
(現岡谷市)の山田屋金右衛門の作で、中山道の旅人の喉を潤してきた。
この辺りは竜の口と呼ばれるが、地名はこれによる。
「 白華山慈雲寺(じうんじ)は、道の少し上にあり、臨済宗妙心寺派
の名刹である。
正安弐年(1300)の創建で、鎌倉五山の建長寺や円覚寺の住職を勤めた、
一寧一山国師が寺の開基で、開祖は金刺満貞である。
この寺は信州における禅宗の代表的な寺院で、鎌倉十刹に並ぶ寺格と言われた。
裏山には高島城を築いた豊臣秀吉の家臣・日根野織部正高吉の墓がある。 」
参道は美しい杉並木で、前庭には樹齢四百年以上の 「天桂の松」 といわれる赤松があり、
白砂の上に岩が配置してある石庭も背景の本堂とよくマッチしていた。
其処からは下諏訪町が眼下にそして諏訪湖も見えた。
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春宮を出て、左折し右折して狭い道に入ると、右側の黒板張りの土蔵の前に、
「一里塚跡」 の碑が建っている。
下之原の一里塚とか、下諏訪の一里塚と呼ばれ、江戸より五十五里目である。
すぐ先の右側に伏見屋邸があるが、武田氏の流れをくむ中村家は代々名主と庄屋を勤めた。
その先の左側に御作田神社がある。
諏訪神社の末社で、下社の御作田祭が境内で行われる。
右側の小路脇に 「番所跡」 の石碑が建っていて、ここが下諏訪宿の京方(西)入口である。
「
下諏訪宿は、古来、東山道、鎌倉街道の宿駅として交通の要衝にあり、
江戸時代には五街道の中山道二十九番目の宿で、甲州道中の38番目(終点)の宿場であった。
下諏訪宿は七町四十三間(約800m)の長さに、天保十四年(1835)の中山道宿村大概帳によると
家数315軒、宿内人口1300人余、本陣が一、脇本陣も一、問屋一、旅籠が40軒あった。
諏訪大社の門前町であるのに加え、中山道唯一の温泉場として大いに賑わった。 」
宿場に入ると左側に鉄鉱泉本館があり、その近くに日帰り温泉の旦過(たんが)の湯がある。
「 鎌倉時代、慈雲寺を訪れる大勢の修行僧のために建てられた旦過寮
の湯とのことで、湯口は58度もあり、切り傷によく効くということで、昔、合戦で傷ついた
武士が入浴して治した、と伝えられる。
下諏訪には鉄鉱泉旅館などの冷泉の湯もあり、この温泉の泉質の多いことに驚く。 」
その向かい(右側)に昭和の女流歌人・今井邦子文学館がある。
今井邦子文学館の建物は、宿場時代に茶屋だった松屋(邦子の実家)の建物を復元したものである。
この辺りには古い家が残っている。
その先には急な坂・湯田坂があり、上り切ると国道142号に合流する。
左側の角に、宿場燈籠と中北道標 「←和田峠 諏訪大社下社秋宮→」 がが建っている。
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ここを左折すると湯田坂上バス停がある。
左側には、天文十年(1541)創建の来迎寺がある。
「 来迎寺(らいこうじ)は、浄土宗知恩院派の寺で、天文十年(1541)、 栄海上人の開山、諏訪大社大祝金刺氏の一族の諏訪右衛門尉の開基という古刹である。 」
ここには和泉式部にまつわる話が残っている。
説明板「和泉式部の守り本尊 銕焼地蔵尊と”かね”」
「 今から千年あまり語りつがれて来た伝説です。
諏訪の湯屋別当方に、 かね という幼い娘が奉公していました。
畑に行く時はいつも道端の御地蔵様に自分の弁当の一部をお供える心の優しい娘でした。
ある時、かねをそねんでいた仲間がつげ口したことから
別当の妻はおこり、焼き火箸でかねの額をうちすえました。
いたみにたえかねたかねは日頃信心のお地蔵様のもとに走り、
ひざまづいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から
血が流れでており、自分の痛みは消え、傷はなくなり、 美しい顔にかわっていました。
お地蔵様はかねの身代わりになってくださったのです。
この話は瞬く間に拡がって誰言うことなく、「かねやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」
と遠近に聞こえ、御参りする人で賑わうのでした。
たまたま都からこの地に訪れた大江雅致がこの話を聞き、かねをぜひにと、都に伴い養女にしました。
雅致夫婦のもとで書道、歌道などを学んだ。
かねは宮中に仕えるようになりましたが、歌人とし群をぬき、やがて和泉守橘道真と結婚、和泉式部となりました。
百人一首のなかに
「 あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの おうこともかな
」
がある。 」
銕焼地蔵尊を祀ったお堂があったが、秘仏ということで拝むことができなかった。
なお、毎年4月にご開帳供養があるという。
この後、下諏訪宿を歩く。 坂の頂上から問屋場までが横町である。
しかし、ここは国道なので、車の流れがかなり激しい。
左側に児湯がある。 児湯は綿の湯、旦過の湯とともに、江戸時代に三名湯といわれたもので、
和泉式部伝説銕焼地蔵のご利益で湧き出したといわれる。
地蔵を背負ってきたといわれる最明寺入道時頼や諏訪藩主などが延寿の湯として入浴したとあった。
この湯も、綿の湯と同様、源泉が枯れ、旦過の湯とその他の混合泉で、名も 「 遊泉ハウス児湯 」 として営業している。
その隣にある駐車場は、かっては名湯綿湯のあったところである。
「 綿の湯は中山道や甲州道中で一番賑わった温泉である。
綿の湯が児湯と合併して、「遊泉ハウス児湯」となったとき、
名湯「綿の湯」の名残を伝える観光のスポットにと、元湯舎を江戸時代の面影を残す全容に
改修した。
壁面には、文化弐年(1805)に発行された、木曽名所図会に描かれた下諏訪宿
の情景(共同浴場を中心に宿場の情景が描かれている)を有田焼の陶板レリーフしたものが
飾られている。
また、綿湯の伝説・湯玉のモニュメントや、永六輔氏揮毫の綿の湯跡の碑もある。 」
松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士・菅沼曲水の連歌がある。
「 入れ込みに 諏訪の湧き湯の 夕まぐれ 曲水 」
「 中にも せいの高き 山伏 芭蕉 」
入れ込みとは、共同浴場のことで、夕暮れの宿場の風景が浮かび上がるようである。
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その隣に、中山道で随一と称される庭園を持った本陣の岩波家がある。
「 下諏訪宿の本陣を任されていたのは岩波家で、元禄元年(1688)から
明治維新で廃止されるまでの三百年余り続いた。
塩尻峠と和田峠の間にある宿場で、しかも温泉付きとあったので、
徳川将軍代々の正室や諸大名が宿泊したのは頷ける。
本家岩波家は元のままの門構えの家で中を見せてくれる。
宿の古い文書、道具などを展示していて、有料で公開している。 」
その先の左奥にある旅館、聴泉閣かめやは旅籠跡である。
「 本陣制度廃止後、本家岩波太左衛門の弟、芝吉氏が分家して、
本陣の一角で亀屋旅館を始めたが、現在は聴泉閣かめやとして営業している。
かめやの建物は建て変えられたので昔の建物ではないが、分家に譲られた上段の間と中庭は
当時のままのものという。
皇女和宮の御降嫁や明治天皇の御巡幸にも使われた。
上段の間入口に、元禄時代狩野派の御用絵師が描いたといわれる 「杉戸絵」 が残されていて、
庭も当時のものという。
また、多くの作家が宿泊した旅館としても有名である。 」
道は問屋場前で直角に右に折れる。
問屋場前は江戸に向う甲州街道の起点でもあった。
T字路にぶつかる所にある石碑には、「甲州道中終点 右江戸へ五十三里十一丁
中山道下諏訪宿問屋場趾
左江戸へ五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁 」 と記されている。
また、「綿の湯」のモニュメントもあった。
下諏訪は温泉街でありながら、宿場町の特徴を濃く残す町である。
「 江戸時代安政五年刊の道中案内記である 「五街道細見」 に、
「 下諏訪は和田へ山路五里八町。 諏訪の駅千軒ばかりあり。 商人多し。
旅舎に出女あり。 夏蚊なし。 少しあれどもささず。 雪深うして寒さはげし。 」
と書かれ、更に
「 名をしおふ下の諏訪は此の街道の駅にして、旅舎多く、
紅おしろいに粧うたるうかれ女たちつどひ、とまさんせとまらんせと袖ひき袂をとりて、
旅行の人の足をとどむ。 」
とある。 また、温泉については
「 町の中に温泉ありて、此の宿の女あないして、浴屋の口をひらき、浴させける。
その外よろずの商人多く、駅中の都会なり。 」
とあり、宿場が繁盛していた様子が書かれている。
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右に折れると立町となるが、立町には出桁造りの低い二階建て、竪繁格子の家が多く残って
いて、昔の俤をわずかに残している。
左側の下諏訪町歴史民俗資料館は、江戸時代の宿場民家の特色を残しているといわれ、
道に面した側に「縦繁格子」をはめ、「みせ」と呼ばれる大戸の横にある広い板の間、
そして「通り庭」という、建物の内部にあって裏庭に通じる土間などがある。
その先のみなとや旅館の前に道標があった。
道標には 「左中仙道 右甲州道中」 と刻まれていたが、
この道標は文化勲章を受賞した里見淳が作成した文学碑のようなもので、
道標とは関係ないと書かれていた。
道の反対には時の科学館儀象堂がある。
諏訪地方はセイコーなどの時計を始め、精密機械の
産地であるので、ゆかりの深い「時」をテーマに、平成九年三月にオープンした施設である。
九百年前の天文時計・水運儀象台が復元展示されていた。
その先には御柱神湯(足湯)がある。
交叉点を越えて百メートル程歩くと道は左にカーブし、
国道142号に合流した。
ここは下諏訪宿の京方(西)の入口で高札場跡である。
ここには御柱モニュメントの小公園になっていて、 「下社秋社まで200m下諏訪駅
まで500m」 の道しるべが建っている。
(注) 現在はモニュメントは廃され、問屋場跡の角にあった高札場がここに移されているという。
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これで和田宿から下諏訪宿まで歩き終えた。
最後に諏訪大社下社秋宮に行った。
和田峠から中北道標では先程の問屋場前を直進する百メートル程で鳥居に到着するが、
その手前の左側に江戸時代から続く名物塩羊羹で有名な新鶴本店がある。
また、このあたりの道路に一角に、甲州道中と中山道を示すブロックが埋められていて、
そこが甲州街道の追分であったことを示していた。
諏訪大社下宮秋宮の鳥居前に立つ。
「 諏訪大社は我が国最古の神社の一つであり、古来、諏訪大明神、
諏訪南宮大明神などと称したが、延喜式の神名帳に「南方刀美神社(みなみかたとみのかみ
のみやしろ)二座 」と記されているのがそれとされる。
信濃国一之宮として 広く天下の崇敬を集め、御神徳を奉じ分社・分霊を祀ること全国津々浦々に五千社以上に及ぶとある神社であるが、創建時期ははっきりしない。
諏訪大社は上社と下社本宮、下社春宮、下社秋宮の四つの神社を合わせて、一社となっている。
主祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかと めのみこと)であるが、
上社は建御名方命、下社は八坂刀売命を主祭神としている。
真冬、諏訪湖が全面結氷し更に寒気が襲ってくると、湖面に亀裂が入り轟音とともに氷がせり
上がる現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、男神の諏訪大明神(建御名方富命)が女神
(八坂刀売命)のもとへ渡った跡と信じられ、諏訪七不思議の一つと言い伝えられてきた。 」
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境内に入ると神楽殿があり、左右の青銅製の狛犬は青銅製では一番大きいといわれる。
神楽殿の奥の建物は幣拝殿で、信濃一といわれた棟梁、
初代立川和四郎富棟の手によるものである。
説明板 「諏訪大社下社秋宮幣拝殿」(国重要文化財指定)
「 この幣拝殿は安永十六年(1776)に起工同十月に落成した。
工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、
彫刻は中沢五兵衛につき、
いくつかの名建築を残した。
軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、
それがすべて素木の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらかさがあり、拝殿
内部の竹に鶴などは代表作である。 」
説明板 「諏訪大社下社秋宮神楽殿」(国重要文化財指定)
「 この神楽殿は二代立川和四郎富昌の作である。
彼は技をすべて父にうけ、天稟の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、
幕府から内匠(たくみ)の称号を許されたほどの名匠である。
この神楽殿は天保六年(1835)富昌五十四歳の作で、父の建てた華麗な幣拝殿の前に
荘重なものをつくってよく調和させ、幣拝殿をみき立たせているところが賞賛される。
昭和六十年三月 長野県教育委員会 下諏訪町教育委員会 」
諏訪大社は不思議な神社で、本殿はないという。
神社の生い立ちが古く、自然信仰から始まっていることと関係があるのだろう。
「 雨や風を司る竜神の信仰や水や風に直接関係のある農業の守護神、
そして、狩猟の神としての土着の信仰の神であったのが、その後、 「 大国主命の第二子である
建御方命がこの地に逃れきて永住し、妃・神八坂刀売神並びに御子神と共にこの地の農耕・機織
をすすめられた。 」 という伝承になり、その末裔は神氏(諏訪氏)ということになって
いったようで、この地を統治した諏訪氏の護り神であった。 また、水の信仰が海の守り神
となって、遠くは北海道(蝦夷9の港にもお祀りされていた。
坂上田村麿が東征したときに御詣りし神助があったと伝えられたことから、東関第一の軍神
(武家の守護神)と尊ばれたので、鎌倉幕府は社領を寄進、武田信玄は社殿を造営・祭祀を
復興し、江戸幕府は社領千五百石を奉献した。 江戸時代になると、歌舞伎や浄瑠璃に
取り上げられ、多くの参拝客が詰め掛けた。 」
秋宮には樹齢六百年とも七百年ともいう杉の木が残っている。
幣拝殿を囲む一角に、白木の御柱(おんばしら)が立てられていた。
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下諏訪宿 長野県下諏訪町横町・立町 JR中央本線下諏訪駅下車。
(所要時間)
和田宿→(1時間30分)→唐沢の一里塚跡→(1時間)→永代人馬施行所跡→(1時間20分)→東餅屋跡→
(40分)→古峠
→(1時間30分)→西餅屋跡→(1時間)→浪人塚→(1時間30分)→諏訪大社春宮→(20分)
→下諏訪宿