北国街道は北国脇往還ともいい、
中山道の追分(軽井沢町)と 北陸道の高田(新潟県上越市)を結ぶ、
三十五里(140km)の道のりである。
佐渡の金山から江戸の金座に金を運ぶ馬が通る幕府にとって重要な街道であり、
また、加賀の前田藩をはじめ北陸の諸大名が参勤交代で通る道でもあった。
途中に、善光寺があるため、寺への参拝客が多くあり、
ここまでの道を善光寺街道とか善光寺道と呼ばれていた。
善光寺道は、追分宿から浅間ヶ原を通り、小諸宿、上田宿を経て、
屋代(当時は矢代)から川舟に乗って千曲川を渡り、篠ノ井宿に向い、善光寺を詣でる、
という道であった。
◎ 追分宿(おいわけしゅく)
北国街道の起点は追分宿である。
「 追分宿は、五町四十二間というから、六百メートルほどの長さに、
天保十四年(1859)には、家数百三軒、本陣一軒、脇本陣二軒、問屋一軒、
旅籠が三十五軒が軒を並べていた。
善光寺詣りや伊勢参りが盛んになった貞亨年間には、旅籠が七十一軒と倍増し、
茶屋も十八軒数えた、という。 」
宿場の中央付近に復元された高札場が建っている。
隣の緑に囲まれた奥まった家は、本陣だった土屋家で、
門の表札に「旧本陣」と標示されていたが、当時の建物は残っていない。
旅館の油屋は、江戸時代には脇本陣だったところで、江戸時代には向かいの道路右側にあった。
大正から昭和の初期にかけては、川端康成や堀辰雄などの文士が定宿としていたという、
老舗の旅館であるが、建物は建替えられている。
宿場の京方の入口・枡形の前で、
江戸時代に茶屋を営んでいたのが、つがるや である。
追分宿は大変な賑わいを見せた宿場町であったが、明治の鉄道開通で寂れ、
当時の建物はなくなってしまった。
「枡形茶屋」 とも呼ばれた、つがるやの漆喰壁に今でも残る浮彫された、
「枡(□に斜線)形とつがるや」 だけが、江戸時代の繁栄を伝えているように思えた。
宿場の江戸方入口に近い鬱蒼とした森の中に、浅間神社本殿がある。
その一角に、芭蕉が更科紀行で詠んだ句碑が建っている。
「 ふき飛ばす 石も浅間の 野分かな 」
「 この句は、貞享五年(1688)、芭蕉が四十五歳の時、
更科の月を見んとして、美濃を出発し、姥捨で月見をした後、善光寺参拝をすませ、
軽井沢を経由して江戸に戻る時、ここ追分で、詠んた句である。
句碑は、芭蕉百年忌にあたる寛政五年(1793)に、佐久の春秋庵の俳人たちによって、
建立された。 」
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追分宿を出て、中山道を少し行くと、追分宿分去れ(ぶんされ)に出る。
三角形の盛り上がったこの場所には、大きな常夜燈が建っていて、
傍らに、軽井沢町教育委員会の説明板がある。
説明板
「 中山道と北国街道の分岐点である分去れは、「 さらしなは右 みよしのは左にて
月と萩とを追分の宿 」 とうたわれている。
ここを右すれば、北国街道の名所の更科や越後路に、左すれば、
桜の名所の吉野や関西方面に分かれたところである。 」
国道に面した所に、「分去れの道標」 の説明板があり、
その右に、「分去れの碑」 の木柱と、下に三角形の石があり、
その右に黒い道標が建っている。
これらの奥に、「森羅亭万象歌碑」 の木柱と、
平賀源内の 「森羅亭万象」 の歌碑がある。
ここは、中山道と北国街道の追分である。
説明板「分去れの道標(ぶんざれのみちしるべ)」
「 (右、従是北国海道 左従是中山道)
中山道と北国街道分岐点に位置する 「分去れ」 は、
今も賑わったありし日の面影をとどめている。
右は 北国街道姥捨山の 「田毎の月」 で知られる更科へ、
左は、中山道を経て京都へ、 そこから桜の名所・奈良吉野山へ向かうという意味である。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会 」
黒い道標には、左横に 「従是中山道」、右横に 「従是北国街道」 、
中央に、建立者の 「東二世安楽 追分町」、裏に建設日の「千時延宝七巳未三月」と、
刻まれている。
延宝七巳未というのは延宝七年(1789)のことである。
北国街道は、ここで中山道と分かれ、御代田に入り、
右手に噴煙たなびく浅間山を見ながら、小諸宿に向かう。
私は訪れた平成18年5月31日の浅間山は、穏やかな表情を見せていたが、
天明三年(1783)八月初旬、有史以来2番目という大噴火を起した。
「 この時の大噴火は、「天明の浅間焼け」 として、
世界的に知られている。
噴火により、浅間ヶ原一帯は焼石や焼土で埋まり、
群馬県鎌原村は、村がすっぽり土石なだれにのみこまれた。
また、利根川流域では千人以上の人が流死する大惨事を起こしている。 」
大噴火により、中山道は閉鎖になり、中山道を利用していた大名は、 東海道或いは、臨時に通行が許された甲州街道を利用した。
田辺聖子さんの著作「姥ざかり花の旅笠」に、 浅間山を見ながら、小諸から追分宿まで、旅した記録を見付たので、掲載する。
田辺聖子さんの著作「姥ざかり花の旅笠」は、
九州の商家の御内儀・小田宅子さんの東路日記をベースにしている。
その中に、小諸宿から浅間ヶ原を通り、追分宿に入った時の記載がある。
<「 小諸をあとに道をすすむに従い、から松林はとぎれ、
畠も立場(宿場ではないが、旅人や人夫が休息するところ)もなくなった。
ゆく道の左には巨石が転がっていた。
堤を築いたようにのしかかっているものもある。
また行くと一面の広野が原に出た。 浅間が原というらしい。
満目すべて焼け土(やけつち)、焼石(やけいし)であった。 」
この様子を宅子さんは、
「 浅間山 かねてききつる けむりにも 見れば中々 まさりがほなる 」
と、詠んでいる。
彼女等が旅したのは、大噴火から六十年を経ていたが、 それでもまだ恐ろしい噴煙を上げていた様子が、彼女の歌から読み取れた。
追分から小諸までの間は、途中、馬瀬口一里塚や、 明治天皇が小休止した高山家の長屋門が残るが、 国道18号がほぼこれに沿って通じているため、古いものは少なく、 昔の面影を追うことはままならない。
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訪問日 平成十八年(2006)六月
(ご参考) 司馬遼太郎の街道を行く 「 信州佐久平みち (七) 延喜式の御牧 」
司馬遼太郎は昭和五十一年の夏頃、「 街道を行く 信州佐久平みち 」 を、
週刊朝日に連載している。
その中で、軽井沢については、「延喜式の御牧」 という題で、書いている。
遼太郎は、明治二十年頃、吉田東伍が 「 富豪の徒が停館を設けた。 」 と、記した別荘地としての軽井沢には興味を持たず、
古代の御牧に思いを寄せている。
最初に、軽井沢の地名について、沢の定義を関東では渓谷、関西は沼沢を指すと、
時代別国語大辞典から引用し、
関東以北の地名に多い○○沢は近畿以西にはほとんどないと書いている。
彼が泊ったのは軽井沢町大字長倉だったようだが、
それについて、 「 長倉といえば、延喜式以来の御牧の地名で、
左の道をとれば、古い軽井沢へゆく。 右の道は、土地ではバイパスとよんでいる。 」 とあり、その一角のホテルに泊っている。
平屋建ての電車の客車のような建物に最初はとまどいを感じた様子だが、
「 人を泊めるということへの心くばりが、
すみずみまでゆきとどいている。 」 と好意的に描き、
また、「 このあたりから北方2.5kmに、離山という死火山が、
高原の中に孤り隆起している。
その東麓、西麓、そしてこの南のほうが、長倉という上代の御牧であったらしい。
要するに今はうまがいなくなった延喜式の御牧に私どもは泊ることになる。 」 と書いている。
御牧については、 「 延喜式の御牧は朝廷の直轄牧場で、
甲斐、武蔵、信濃と上野の四ヶ国にしかなかった。
佐久地方にあっては、御牧が四ヶ所あった。 そのうち、三ヶ所はいまの軽井沢付近である。 塩野、長倉がそうで、とくに長倉はいまも軽井沢町に地名として残っている。 」 と書いている。