◎ 沓掛宿
軽井沢宿の西のはずれ(京方入口)は、軽井沢銀座のロータリーである。
そこを直進すれば落葉松の並木道。
その背後は深い木立で、中に別荘が点在している。
やがて右手に小高い急な山がそびえているのが見えてくる。
離山(はなれやま)である。
広々とした敷地のある別荘が多く見られた。
ただ、数十年前に比べると、別荘というものが大衆化したことは間違いない。
勿論、建築方法が変ったというのもあろうが、
重みや風格を持っておるのはそう多くはない。
最近、会員制ホテルなどが増えてきた。
テニスコートもレストランもあり、ちょっとした別荘族の気分が味わえるのが人気の
理由である。
この道は、離山ロードというようである。 この辺り、民家も多い。
両脇にある家は、敷地も建物も普通で別荘としてではなく、日々の生活を営んでいるよう
思えた。
離山交叉点で国道と合流する。
南原交叉点を過ぎると右手に歴史民俗資料館がある。
その先にある立派な屋敷門は、雨宮敬次郎氏の屋敷門で、その中に洋館が建っている。
「 雨宮敬次郎氏は、山梨県出身で行商から身を起こし、浅間山麓 開発などの土地事業や鉄道事業、鉄鋼や貿易など幅広い事業に投資した明治時代の実業 家で、東長倉村開墾事業で明治政府から初の藍綬褒章を受けている。 」
門をくぐり、左折すると右側に見えるのは、近衛文麿氏が別荘として使っていた建物 で、「市村記念館」 と名付けられている洋館である。
「 この建物は、近衛内閣を組閣した近衛文麿公が第一別荘として
建築したアメリカ式洋館である。
創設に参加した軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレーに訪れる際などで利用された。
政治学者の市村今朝蔵は、雨宮氏の孫で、学者村(南原文化会)を拓く拠点として、
この建物を近衛公より購入し、移築改修したものである。
市村家は六十余年使用していたが、軽井沢町に寄贈され、雨宮池のほとりに移築された。 」
軽井沢中学校前交叉点で左折し、踏切を渡り、交叉点を左折する。
木立の中に、離山交叉点で別れた中山道に再会できる。
木立の中をすすむが住宅がある。
坂が下りになると、静かに湯川が流れていて、鳥の鳴き声も聞こえてくる。
この道は、これまで中山道を歩いてきた中で、一番豊かな歩きができたのではないかと
思えた。
湯川に架かる橋を渡り、左側のル・モンヴェール先(中軽井沢駅の手前)
の三叉路を右に曲がる。
しなの鉄道の線路の下をくぐり、 湯川に沿って進み国道に出る。
国道に出ると、右手の奥、木立の中に長倉神社が鎮座している。
「 長倉神社があるこの長倉の地は、東山道の時代には長倉駅があり、
官馬の生産地の長倉の牧があったところである。
長倉神社は、延喜式神明帳に記載のある古社である。
長倉郷一帯の鎮守産土神として、古来より崇拝され、一千七百有余年
の歴史がある。
中世には、 長倉八幡宮 とも呼ばれたようだが、祭神は譽田別尊・
息長足姫尊・玉依姫尊である。 」
広い境内を持った大きな神社で、境内に聖徳太子碑と、
一世を風靡した長谷川伸の沓掛時次郎の碑がある。
沓掛時次郎は、昭和初年、長谷川伸が発表した戯曲の主人公である。 」
国道に戻ると、「中山道沓掛宿」の標柱がある。
「
沓掛宿は、軽井沢へ一里五町、追分宿に一里三町と短く、
全長五町二十八間(約600m弱)のこじんまりした宿場町である。
天保十四年の宿村大概帳によると、 宿内人口は502人、
家数166軒、本陣一、脇本陣三、問屋一、旅籠17軒と、
浅間三宿(追分宿・沓掛宿・軽井沢宿) の中では小さかっが、
草津道の追分であったので、湯治客で賑わった。 」
軽井沢ロータリーからここまで四・六キロ程で、約一時間の歩きである。
すぐ三叉路を左に入ると、中軽井沢郵便局があり、左側に旅館 桝屋がある。
三軒あった脇本陣のうちの一つで、「満寿屋幸兵衛」 の看板を出して、営業している。
国道に出ると、左手に中軽井沢駅(旧沓掛駅)がある。
沓掛宿には、当時の面影を探るものはほとんどといってもよいぐらいなにもない。
「 沓掛宿は、最初は中軽井沢駅の南西にあった。
安永二年(1773)の大火で、壊滅的な被害を受け、現在地に移転してきた。
昭和二十六年(1951)の大火で、灰塵と帰してしまい、古いものは残っていない。 」
沓掛という駅の名も、昭和三十一年に、中軽井沢に名を変えてしまった。
駅へ入る交叉点にある 「沓掛時次郎まんじゅう」 にしか沓掛の名は残っていない。
駅の裏側の道に面した金網の中に、墓地がある。
その前に 「宮の前一里塚」 の石碑が建っている。
この一里塚は、中山道が開設当時のものである。
中山道のルートは、その後、手前の国道側に通る道に変えられている。
駅前の国道に戻り、先に進むと、
右側にある家に、「本陣土屋」 と表札を出している家がある。
江戸時代、本陣であった土屋家で、裏に古い土蔵と井戸が残っているらしい。
「 土屋本陣は、建坪二百五十八坪、門構え玄関付で、
問屋を兼ねていた。
皇女和宮は追分宿の名を嫌い、十七日目の宿泊を土屋本陣にされた。 」
道の反対側(左側)にある、八十二銀行が、三軒あった脇本陣のうち、蔦屋である。
駐車場の奥に、「中山道沓掛宿 脇本陣蔦屋跡」 の石碑が建っている。
もう一軒の脇本陣 ・ 土屋家は、銀行の裏側にある。
中軽井沢交叉点を越すと、 右側に 「草津道」 の道標が建っている。
「 草津道分去れ(分岐点)の道標は、 正面に不動明王像、
左側面に 「くさつ」 と刻まれている。
ここを右折すると、国道146号で、右に折れれば、上州国の草津に十里である。 」
草津道の向かいの上田信金の先を斜め左の道に入る。
この道が中山道で、このあたりが沓掛宿の京方(西)の入口である。
◎ 追分宿
国道と平行していて、左側には民家がある。
道端にポツンと置き忘れたような馬頭観音像碑がある。
少し行くと道はカーブし、両脇に木が茂り、民家も畑もなくなった。
右側の畑に、馬頭観音像が一基、同文字塔と供養塔、が並んでいて、その先の斜面には
大きな二十三夜塔もある。
その先の右手奥に木の鳥居があり、その奥に、秋葉神社の小さな石祠がある。
境内には、阿夫梨大神碑がある。
古宿集落に入ると、長く伸びた樹木が鬱蒼としていたり、民家も農家風か鄙び
れている。
「 江戸時代、古宿村はこの先の借宿同様、
信州と上州を結ぶ物資の中継基地であった。
中馬や中牛の馬子たちの 「中馬、中牛宿」 が多くあった。
道のなだらかな信州路は馬で、険しい上州路は牛で運んでいたのである。
なお、奈良から平安にかけて、朝廷は、軍馬生産のため、信濃に多くの牧場を設けた。
軽井沢にも長倉の牧が置かれていたが、所在地は長倉神社のある長倉という説が
有力だが、ここであるという説もあるようである。 」
隣接するニ階の家の左側に、 奉納百八十八番供養塔 があり、道の反対にもある。
このあたりから道は緩い下り坂。
右側に馬頭観音字塔が、三基並んでいる。
国道18号の手前に、庚申塔・奉納第百八十八番順礼供養塔・馬頭観音二基がある。
古宿公民館の先の左手に、 ゆうすげ温泉がある。
中山道は、左に 「川魚料理信州手打ちそば」 の大きな看板をあげている、
ゆうすげのところで、右から国道18号に合流する。
京側からの重要分岐ポイントである。
この後、国道18号とバイパスが三叉路に分かれる地点にさしかかると、
国道沿いの歩道を進む。
左は軽井沢バイパス。 軽井沢バイパスの高架をくぐり、斜め左の道を行く。
ここに 「借宿」 の表示があるので、中山道はその通りに、太い道を行く。
上り坂を上ると左側の民家の角に、馬頭観音石塔がある。
その反対側に、「女街道」 の説明板がある。
説明板 「女街道入口」
「 江戸時代、 「入り鉄砲」 「出女」 といって、
当時恐れられていた武器鉄砲の動きや、
江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義を持っていたので、
女人の出入は厳重に取り締まった。
従って、 女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。
これを女街道、または姫街道ともいう。
この街道は、これより本街道と分れ、油井釜ヶ淵橋を渡り、風越山、
広漠たる地蔵ヶ原を横切り、和美峠または入山峠を往来したのである。
「 関所さけて女人多く往来せし 女街道と いうは寂しも 」
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会 」
女街道は、中山道の脇往還の下仁田街道、別名姫街道である。
借宿を起点にして、左に直角に女街道が伸びていて、
上州の下仁田・富岡へ抜ける道であるが、
今は途中で切れていて、通る抜けることはできない。
この角にある馬頭観音碑は、中央に 「 馬頭観世音 」 、右側に 「 享和二年
右下仁田道 」 と、刻まれていて、道標にもなっていた。
右側に金網で囲われている場所があり、近づくと、遠近宮(おちこちみや)がある。
低い石段を登ると、赤い鳥居と狛犬が鎮座し、その先に立派とはいえぬ小さな社が
ある。
公園になっているようで、子供の遊具があった。
遠近宮には公衆トイレもあった。
在原業平が書いた伊勢物語八段にこのような記述がある。
「 むかし、おとこ有けり。 京や住み憂かりけん、
あづまの方に行きて住み所求むとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。
信濃の国、浅間の嶽に、けぶりの立つを見て、
「 信濃なる 浅間の嶽に たつ煙 をちこち人の 見やはとがめぬ 」 と詠んだ。
その意訳は ( むかし、男の業平は浅間の嶽に立つ煙をみて、おお、なんと異様な光景!!、とショックを受ける。
都の山々は三方みな秀麗、あるいは気高く、あるいは温和に
そびえているのにこの山は荒々しく怒っているようだ。
このあたりの住人はこの煙をみてびっくりしないのかねえ。)
浅間山は、古来より大噴火を繰り返しているが、
ここを旅する人々は、浅間山の偉容におどろきを感じ、
おびえながら通り過ぎることもあったようだが、
地元の人達はしごく当然という顔をしているのを紀之貫之は表現している。 」
境内の左側に朽ちそうな木の鳥居があり、石垣で作られた台の上に、
御嶽山神社・三笠山大神・八海山大神の石碑が祀られている。
右側には小さな石祠、そして。左側に、双体道祖神が祀られている。
借宿集落は、連子格子の家なども点在し、かっての面影を思い起こさせる静かな集落
である。
江戸時代には、沓掛宿と追分宿の中間の宿、間の宿(あいのしゅく)になっていた。
「 古宿、借宿はともに、信州と北上州、南上州とを結ぶ物資輸送
の中継基地で、中馬中牛稼ぎで、なかなか栄えていた。
中馬とは、物資を運ぶとき、馬一頭を借り切る方式で、宿で馬を乗り継ぐ伝馬と異なり、
運賃が安く、スピードが早かったため、荷物の取り合いで、宿場の問屋と
しばしば喧嘩になった。 」
右側に杉玉(酒林)を吊した旧家がある。
店先に酒徳利などがあり、煙草の看板も
掛けられていたが、元酒屋なのだろう。
その先、右側の段上には、石灯篭と大小の馬頭観音が祀られている。
大きな馬頭観音字塔には、 「借宿村中」 と、石燈籠には、 二頭の馬がじゃれあう姿が刻まれている。
道は右に左にカーブする。
右側に民宿あさぎり荘がある。
その先右側の赤松の先の右側の民家内に、馬頭観音が祀られている。
借宿集落には、随所に馬頭観音の石碑が残り、
馬とともに生きてきた長い歴史がしのばれる。
中山道は国道18号に合流。
角に追分そば茶屋があり、京側からはここが中山道に入るポイントになる。
借宿西口分岐の国道を挟んだ反対側には、「従是上州路」 の道標がある。
軽井沢追分歩道橋の手前に、「←信濃追分駅」 の道標があり、
ここを左折すると、駅まで千二百メートルである。
歩道橋を過ぎるとすぐ、 「標高1003m」 の標識があり、
ここから御代田までは下り坂になる。
昭和シェルのGSを過ぎると国道の両側に追分一里塚がある。
「
江戸から三十九里、京都からは九十一里目の一里塚で、京都まではまだ三百六十キロ以上の距離がある。
北側は一里塚という感じは弱いが、南側は立派な、一目で分かる一里塚である。
これは国道拡張の折、再築されたものである。 」
中山道はこの先の三叉路で、国道と分かれて、右斜めに入る。
東の枡形の形はないが、ここから追分宿である。
「
追分宿は、五町四十二間(約600m)の長さに、
天保十四年(1859)の宿村大概帳には、宿内人口
712人、家数が103軒、本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠が35軒とある。
善光寺詣りや伊勢参りが盛んになった貞亨年間には、旅籠が71軒と、倍増し、
茶屋が18軒を数えた。
追分宿の人口構成は男子二百六十三人、女子四百四十九人で、
女の方が圧倒的に多かった。
これはいわゆる飯盛り女(宿場女郎)を多く置いていたためで、幕末には更に激しくなり、
幕府はしばしば禁令を出し、一軒につき飯盛り女二人という制約を課したが、
守られた様子はないようである。 」
その先の流れに面して、玉石で整備されたところが追分公園である。
傍らの説明板には 「 この川は御影用水といい、
下流の佐久平の用水路として作られたもの 」 とある。
森の中に浅間神社があるので入って行く。
参道を入ったところに、 「月夜見之命」 と刻まれた石碑がある。
「 月夜見(ツクヨミ)之命は、天照大御神と建速須佐之男命と 共に、重大な三神(三柱の貴子)を成し、 古事記では、 「 伊邪那伎命が黄泉国から逃げ帰って 禊ぎをした時に、右目から生まれた。 」 とされる月の神である。 」
うっそうとした森の中に、浅間神社本殿がある。
説明板「浅間神社」
「 浅間神社は、浅間大明神遥拝の里宮で、
大山祇神と磐長姫神の二神を祀る。
明治二年の浅間山鳴動の際、明治天皇の勅祭が行われたことで有名。
流造で、海老虹梁、宝珠の彫り、木鼻(象鼻)の出張りも、
応永様式(1394〜1427)の室町時代初期の様相を残す。
軽井沢町教育委員会 」
その傍らに、「御嶽山座王大権現」 の石碑が建っている。
また、油屋寄進の石灯籠や、 「追分節発祥の地」 の碑がある。
説明文 「追分節発祥の地碑」
「 江戸時代、主要街道の一つ中山道を利用した旅人は、難所である碓井峠を通過し、
江戸と京都を往復した。
この碓井峠を中心に、駄賃付けの馬子達が仕事歌として馬子唄を歌いつづけた。
この元歌は、軽井沢宿、沓掛宿、追分宿の飯盛り女たちの三味線により洗練され、
追分節として成立した。
馬子唄に三味線が入り、座敷歌になったことにより、
諸国に広く伝播され、有名になったものである。
追分浅間神社に、平成7年、石碑建立実行委員会により建てられる。 」
境内の一角に、芭蕉が更科紀行で詠んだ句碑がある。
「 ふき飛ばす 石も浅間の 野分かな 」
「 芭蕉が、貞享五年(1688)の四十五歳の時、
更科の月を見んとして、美濃を出発し、姥捨で月見後、善光寺参拝をすませ、
軽井沢を経由して、江戸に戻った時、追分で詠んだ句である。
芭蕉の百年忌にあたる寛政五年(1793)に、佐久の春秋庵の俳人たちによって、
この句碑が建立された。
字は万葉仮名である。 」
神社の隣に、追分宿郷土館がある。
ゆったりした追分節を聞きながら見て回ると、
浅間三宿のかっての様子が想像できる。
小さな川に架かった昇進橋を渡ると、左側に堀辰男文学記念館がある。
「 記念館の建物は、結核療養を続けた堀辰男が住んだ家である。
アメリカで発明されたペニシリンが進駐軍によって日本に持ち込まれるまでは、
結核は不治の病であった。
結核患者は栄養をとるとともに空気のきれいな土地で
療養をするのがいいといわれたので、
堀辰男は辰野や軽井沢の高地で暮らしたのである。 」
入口の門は追分本陣の裏門である。
「 明治十一年九月、明治天皇の北陸御巡幸の際、
追分宿本陣が御在所として使用された。
明治二十六年に信越本線が開通すると、追分宿を利用した宿継ぎの荷駄、旅人は、
他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。
本陣の門は、明治末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内藤家表門として移築
された。
平成十七年、内藤家より軽井沢町に寄贈され、現在地に移築された。
本陣門は全て檜材で、一間冠木付門、切妻造(桟瓦葺)妻蛙股、二軒繁垂木背面控柱。
天保二辛卯仲秋二十四日、大工越後国片桐伴の棟札がある。 」
右手の奥にある大きな旅館、油屋は、江戸時代には脇本陣だったところで、 当時は向かいの道路右側にあったようである。
「 旅館油屋は、大正から昭和の初期にかけて、
川端康成や堀辰雄などの文士が定宿としていた老舗の旅館である。
建物は建替えられているので、当時のものではない。 」
そのすぐ先に復元された高札場がある。
「 本来は問屋場前の街道の真ん中に 高札場が設置されていたのであるが、道路整備により撤去されてしまったので、 当時掲げられた高札を復元して懸けてある。 」
高札場の隣の緑に囲まれた奥まった家は本陣だった土屋家で、
門の表札に 「中山道追分宿 旧本陣」 と標示されている。
少し入った右側に、 「明治天皇御小休所」 の石碑が建っている。
「 追分宿本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。
追分が宿場の機能をもつのは、慶長七年(1602)
中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以降である。
本陣文書に、 「定路次駄賃之覚(慶長7年6月10日」 )の記録があり、
本陣は問屋を兼ね、伝馬人足の継立も生業とした。
本陣の建坪は二百三十八坪あり、中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ、
大きな宿泊施設を備えていた本陣である。 」
その先の右側の茂ったところに、諏訪神社がある。
参道の常夜燈は天保六年(1835)の建立で、宿内の永楽屋が奉納したものである。
薄暗い境内に、 小林一茶の 「 有明や 浅間の霧が 膳をはふ 」 の句碑がある。
街道に戻ると、右側に 「つた屋清三」 という看板を下げた家がある。
その先の右側に泉洞禅寺がある。 本尊は聖観世音菩薩である。
石碑 「浅間山香華院泉洞禅寺」
「 宗派は道元禅師開山の福井永平寺と横浜鶴見総持寺を両大本山とする曹洞宗に属し、
本尊は聖観世音菩薩。
慶長三年(1598)三月、 上州(群馬県長野原町) 常林寺五世 心庵祥禅師 により開創。
禅師は三州の人で元は武士、俗名は林主水といい、
天正三年(1575)長篠の戦いに遭遇、数多くの戦死者を目のあたりにして、
無常心をいだき、長篠の医王寺において出家をされたという。
境内には、当地出身の女流書家句碑、筆塚があり、
他に慈母観音、牡丹地蔵等がある。
詩人の立原道造、作家の堀辰雄、後藤明生等も散策し、
当寺に関わる作品も数多く残している。 」
山門の脇に、 稲垣黄鶴 の 「 浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花 」
の句碑がある。
墓地の入口に、堀辰雄が愛した半伽思惟像がある。
頬を押さえていることから歯痛地蔵と呼ばれた。 」
追分宿のはずれ(宿場の西入口)に、 枡形茶屋つがるやがある。
二階の白壁に、 つがるや の文字が浮く出ている。
往時はここに枡形があり、茶屋はその内にあった。
「 枡形の近くで、江戸時代に茶屋を営んでいたのがつがるやである。
枡形茶屋とも呼ばれ、今でも建物の漆喰壁には枡(□に斜線)形とつがるやが浮彫された
のが残っている。
追分宿には、寛永十二年に始まった参勤交代の制により、
諸大名が宿泊するようになったので、
宿内の警備取締りのため、宿場の入口に、
枡形の道(直角に曲がった道)と、土手(約2.5m)を築いたが、今は残っていない。 」
◎ 小田井宿
追分宿交叉点から国道を少し歩くと、追分のバス停がある。
そこに三角形の地形がある。 ここは、北国街道と中山道の分去れ(分岐点)である。
分去れは、少し小高くなっているが、これは国道工事などで変ったのであろう。
江戸側から見ると、まず道祖神碑があり、次いで道標、その先の左側に森羅亭万象の
歌碑。 その右側の石は道しるべ石。 そして、奥に常夜燈がある。
「 北国街道は、正式には北国脇往還といい、
ここから北陸道高田までの三十五里(140km)である。
信州を横断する道であるが、善光寺までを善光寺街道と呼んでいる。
西に領地を持つ大名の加賀百万石前田家を筆頭に、高田藩・松代藩などが、
参勤交代で通った道である。 」
道標が建立されたのは、延宝七年(1789)のことで、石柱の中央に、 「 東二世安楽 追分町 」、左横には 「 従是中山道 」 、 右横には 「 従是北国街道 」 、裏には 「千時延宝七巳未三月 」 と刻まれている。
説明板「分去れの道標」
「 (右、従是北国海道 左、従是中仙道 )
中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は今も賑わったありし日の面影を
とどめている。
右は、北国街道姥捨山の 「田毎の月」 で知られる更科へ、 左は中山道
で京都へ。 そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会 」
道標の前の変形の石は、 「道しるべ石」 と呼ばれるものである。
「 道しるべ石の正面に 、「 さらしなは右、 みよしのハ左にて、 月と花とを追分の宿 」 という有名な歌があり、 西面には 「 めうぎに七里、山道九里、はるなに十六里、一ノ宮十里、三河屋、高崎に十三里、 江戸に三十八里、日光に四十四里 」、 南面には 「 小田井に一里、御嶽山に三十三里半、津島に六十七里半、伊勢に九十二里十一町、 京都に九十三里半、大坂に百七里半、金比羅に百五十里半 」、 北面には 「 金沢に八十五里、新潟に六十六里、高田に三十四里、戸隠山に 二十三里、善光寺十八里、小諸三里半 」 と刻まれている。 」
道標の裏にある森羅亭万象の歌碑は、 寛政元年(1789)に建立されたもので、
平賀源内の 「 世の中は ありのままにぞ 霰ふる かしましとだに 心とめねば 」 という歌が刻まれている。
その隣の常夜燈は、寛政元年(1789)の建立で、台座に 「 是より左伊勢 」 と
刻まれている。
常夜燈の右後ろに立つのは古い石地蔵坐像で、マリア地蔵とも呼ばれる。
台座を見ると、道しるべ石と同じ内容が彫られている。
更に、奥に目をやると、馬頭観音像があり、正面に 「 牛馬千匹飼 」 とあり、
安永六年(1777)の建立である。
これ等をみても分かるように、分去れは、江戸時代、交通の要所だったのである。
追分バス停前から国道の南側を歩く。
二百メートル程のところで、中山道は左の道に入り、国道を横断して東南に進むと、
小田井宿は約五キロ先である。
左側に中山道六十七次資料館がある。
このあたりは、ここ二十年で開発が進み、
エクシブ軽井沢など大型施設が増えているが、
小生が歩いた時は別荘と林と畑が点在する静かな道であった。
ゆうすげ茶屋を過ぎた先の三叉路を左折すると軽井沢追分教会がある。
街道は追分から下り坂である。
深く切り込まれた谷の左側に、千ケ滝湯川温水路用水(軽井沢御影用水)がある。
「 慶安三年(1650)、柏木小右衛門が開削した農業用水で、 湧水が低温のため、戦後用水の幅を拡げて、水温が上がるように改善をした。 」
橋を渡ると御代田町になる。
道の右手に浅間山がよく見える。
「
英泉の 「木曽海道六十九次追分宿浅間山眺望」 は、
分去れから南に行った追分原の風景を描いている。
追分原見た浅間山と不毛の地でもよく育つ唐松並木を描いている。 」
貝原益軒が、貞享二年(1685)に、「岐蘇路之記」で、このあたりのことを
「 寒甚だしく 五穀生ぜず。 又菓(このみ)の樹なし。 不毛の地といふつべし。 」と述べている。
江戸時代には寒冷地の上、土地が痩せていて、なにも獲れないところだった。
今では果物も野菜も米麦も獲れる。
久保沢川を大久保橋で渡ると、右側の段上に、大山神社がある。
参道にしめ縄が捲かれた馬頭観音、道祖神、聖徳太子碑等が並んでいる。
下り坂を行くと、右側の民家の前に、 「御代田の一里塚入口」 の標柱がある。
民家の間を入ると、畑の中に、 一里塚が両方残っている。
説明板 「御代田一里塚」
「 中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、
これを経て、中山道は小田井宿へと至り、さらに、佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿へと向かう。
中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長七年(1601)に整備され、
寛永十二年(1635)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
本一里塚は、西塚で、 径十三m、周囲四十m、高さ五mを測る。
隣接するのは東塚で
径十三m、周囲四十m、高さ四・五mを測る。
これらは、現中山道より七m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
ちなみに、国道十八号の北には、北国街道に沿う一里塚(馬瀬口の一里塚)が、
二基保存されており、町指定の史跡になっている。 」
御代田一里塚は、江戸時代初期、慶長七年(1602)に、
中山道が開通したとき作られた一里塚である。
寛永十二年(1635)の改修時、七メートル程右側に道を移動(現在のルート)したが、
一里塚はそのまま残され今日に至ったのである。
東塚は木もなく雑草が生えたこんもりして塚で、西塚には枝垂れ桜が植えられて
いた。
一里塚は榎(えのき)や松が植えられるのが普通なので、枝垂れ桜は大変珍しい。
しかも大きくなっていて根元からはファインダーに収まらなかった。
春の満開時にはさぞ見事であろう! と思った。
そこから十分歩くと、中山道はしなの鉄道に遮られてしまう。
ここには歩行者専用の地下道がある。
地下道をくぐらず、右に行くと、左側に御代田交通記念館がある。
昭和二十九年から四十六年まで名古屋〜塩尻間で運行されたC51蒸気機関車が
展示されている。
地下道をくぐり、反対側に出ると、栄町交叉点である。
ここが中山道の復活点である。
交叉点を左折すると、右手にしなの鉄道御代田駅がある。
中山道は栄町交叉点を南に進む。
左手に、栄町公民館と龍神の杜公園がある。
御代田集落は、家並が続く御代田駅近くの栄町と、古い農家が混在している荒町
からなる。
栄町の緩い下り坂を淡々と歩く。
右側電柱の足元に、 馬頭観世音碑と、二体の馬頭観音像、その他に、
土に埋まるものがある。
荒町バス停の先の荒町三叉路は左の道に行く。
この分岐点には、 「←塩名田宿10.3q 追分宿5.0q→」 の道標がある。
中山道は県道137号の交叉点を横断進む。
その手前右側に、 「御嶽山蔵王大権現」「八海山・・」 などの石碑と、
常夜燈に、 小さな石祠が祀られている。
ここは夢覚堂跡である。
県道を横断して、小田井宿入口交叉点を渡る。
交叉点の右側に、 「中山道小田井宿」 の標柱と、道標がある。
ここは小田井宿の江戸方(東)の入口である。
「
小田井宿は、日本橋より第二十二番目の宿場で、江戸より四十里十四町、
京へ九十五里八町、隣の追分宿まで一里十町、岩村田まで一里七町である。
八町四十間(約900m)の長さに、荒宿・本宿、そして下宿と続き、
かっては一つの町であったが、現在は、荒宿と本宿は御代田町、下宿は佐久市と別の町
に属している。 」
小田井上宿バス停の先の左側に、安川はるを供養する、 おはる地蔵 がある。
その先は道が急に広くなる。
ここが宿場の入口にあった枡形跡である。
右カーブの途中に、「東枡形跡」 の説明板があったが、
形はくずれて枡形とは思えなかった。
その先の右手奥に長倉諏訪神社があるが、そのまま、道を進むと交叉点で、
道を左に行くと左側に宝珠院がある。
入口の馬鹿でっかい馬頭観世音碑が印象的である。
「 真言宗智山派飯王山宝珠院は、法印幸尊が、永正年間(1504〜1520)
に開山したといわれる寺で、本尊は聖観世音菩薩である。
山門は明和七年(1770)に再建されたもので、寄棟、鉄板葺で、六地蔵を安置している。
鐘楼は安永八年(1779)の再建で、入母屋造茅葺、
同年に鋳造された梵鐘が吊り下げされている。
境内のシダレ桜は、推定樹齢三百年、樹高七〜八メートル、南北枝張り十一メートル、
アカマツは御代田町の指定天然記念物である。 」
本陣・上の問屋・脇本陣・下の問屋と続く。
本陣・上の問屋・下の問屋・かっての旅籠の外観は、今もそれらしく残っている。
交叉点を越えた右側に、安川本陣跡がある。
あいにく、工事中で、車が停まり、撮影は出来なかったが、白壁に屋敷門。
道路に突き出た松の木があり、植木が多く植わっていた。
説明板 「中山道小田井宿本陣跡(安川家住宅)」
「 安川家は、江戸時代を通じて、中山道小田井宿の本陣をつとめた。
現在、その本陣の
客室部を良好に残している。
客室部は切妻造で、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは、
原形をよく留めており、安川家文書で、宝暦六年(江戸時代1756年)
に大規模改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる(長野県
史編纂時の調査による)
また、湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に
修築されたものであろう。
厠は、大用所、小用所ともに二畳の畳敷となっています。
昭和五十三年六月一日 御代田町教育委員会 」
文久元年(1861)、皇女和宮の御降嫁の際は、ここで昼食をお取りになられたし、
江戸に御嫁入りした姫君や大名の奥方が、この先の追分宿の喧騒さを避け、
ここで休泊された。
その際、和宮から拝領したと伝えられる人形が残っていて、毎年八月十六日に
開催される小田井宿まつりでは、授かった拝領人形を籠に乗せ行列する、という。
少し先の右側の建物は、上の問屋であった安川家で、 「中山道小田井宿問屋跡」 の標柱が建っている。
「 立派な建物は、江戸後期の建築で、天保二年(1831) 道中奉行に 差し出された図面と、ほぼ代わりなく、荷置場・帳場・客室部・土間等が保存されて います。 」
その手前に 「中山道小田井宿跡」 の説明板がある。
この場所は高札場跡である。
説明板 「中山道小田井宿跡」
「 小田井宿は、中山道六九次の宿場の一つで、板橋宿から数えて二十一番目、
追分宿と岩村田宿の間に位置し、日本橋からは四十里三十一町(約160km)の位置にあった。
皇女和宮をはじめとして、宮家や公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことから、 「姫の宿」 とも呼ばれた。
天正十六年(1588)三月、 「小田井町割諸事之控」 によれば、
このとき、町割りがおこなわれ、その家数は二十六だったというから、
このころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。
慶長七年(1601)には、各宿間の 「駄賃」 などが定められているので、
このころまでには宿場としての形態を整えたものとおもわれる。
「中山道宿村大概帳」によれば、天保十四年(1843)には一〇九軒の家があり、
三一九人が住んでおり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五軒、問屋場二か所などがあった。
小田井宿が宿場としての役割を終えたのは明治三年(1870)だが、
その遺構は現在も随所に残されている。
現在地は高札場跡である。
昭和五十三年六月一日 御代田町教育委員会指定 」
下を見ると御代田村道路元標があった。
それからすると、このあたりが小田井宿の中心だったのであろう。
「 木曽名所図会には、 「 駅内二町ばかり。 多く農家にして旅舎
少なし。 」 という記述がある。
旅籠は五軒と少なく活気がなかったので、
「 宿場を盛りたてるため、飯盛り女を置くこと 」 の許可を代官や幕府に願い出たが、追分宿など周辺の反対があり、幕府の方針を変えることができなかった。
大名一行が宿をとる際、旅籠五軒だけの小宿だったため、
隣の追分宿へ泊まったため、姫君たちだけが泊まったことから、姫の宿とも呼ばれて
いる。 」
次って、左側の民家の前に、 「中山道小田井宿 脇本陣跡」 の標柱が建っている。
柱の脇に、 「 小田井宿脇本陣は、すはま屋又左衛門宅で承わっていたが、
その建物自体は現存していない。
ただし、文久元年(江戸時代1861年) 当時の屋敷図は現存しており、
その間取り等を窺い知ることができる。 」 と書かれている。
小田井宿は時の流れから取り残されたような町である。
出桁造り縦格子の家が多く残され、そのいずれもが古ぼけていて、
寂しいが、風情のある町並である。
「 大田南畝の壬戌紀行には 、「 小田井の駅にいれば一重の桃花
さかりなり。 駅中に用水あり 」 と記されており、 江戸時代には道の中央に水が
流れていたが、昭和に入り数度の道路工事で、用水路は南側に寄せられた。
今でもきれいな水が流れており、木曽名所図会に、
「 此駅の中に溝ありて、流清し。 」 とある通りである。 」
郵便局の隣の旧旅籠の前には、「中山道小田井宿」 の標柱が建っている。
次いで、左側に「下問屋跡」 の屋台家(おだいけ)がある。
「 明和九年(1772)の大火以降の建築で、屋根は元板葺き石置き、
三間続きの客間を備えた建物です。
荷置場と問屋場は門の左右の建物を使用しました。
問屋業務は上の問屋と半月交代で勤めました。 」
下の問屋だった屋台家(おだいけ)の長屋門から中を覗けば、堂々している 切妻造りの母屋が見えた。
小松屋商店の道の反対に、 「中山道小田井宿跡」 の標柱が建っている。
ここが京方(西)の入口である。
小田井宿は小さな宿場ではあったが、幹線から離れているため、古い町並も残り、
宿場の雰囲気を今に留めていたので、訪れた甲斐があった。
軽井沢を縦断する中山道の歩きはここで終わりである。
沓掛宿 長野県軽井沢町中軽井沢 しなの鉄道信濃中軽井沢駅下車。
追分宿 長野県軽井沢町追分 しなの鉄道信濃追分駅からタクシー5分。
小田井宿 長野県御代田町小田井 しなの鉄道御代田駅下車。
(所要時間)
軽井沢宿→(1時間50分)→沓掛宿→(1時間50分)→追分宿→(1時間30分)→御代田一里塚跡
→(40分)→小田井宿