碓井峠は古代からの難所で、日本武尊は東征の折り、碓氷峠で、弟橘姫を偲び、三たび嘆いて、 「 あつまはや 」 とつぶやいた、という。
坂本宿の長さは六町十九間(約713m)で、道幅八間一尺(約14.8m)と広く、
中央に 川幅四尺(約1.3m)の用水が流れていた。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口732人、家数162軒、本陣二軒、 脇本陣二軒、問屋が一軒、旅籠が四十軒である。
軽井沢宿は、坂本宿から二里十六町(約10km)、追分宿まで一里五町(4.6km)
と、比較的短い距離にある宿場である。
碓井峠と碓井関所を控えて宿場であるため、
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
六町二十七間(約700m)の長さに、家数119軒、宿内人口451人、
本陣が一軒、脇本陣は四軒、旅籠が二十一軒あった。
◎ 坂本宿
JR横川駅から、横川関所跡の下を通過すると三叉路で、左の道を行く。
左側に鎮魂碑と招魂碑がある。
難所の碓氷峠に信越本線を設置する際、犠牲になった人達の霊を弔うものである。
右側に旧信越本線のアブト式を使用した鉄道村からアブトの道があり、その下をくぐる。
その先、車道は左にカーブするが、中山道は直進し、霧積川を渡る。
右にある細い道は旧道である。
「 江戸時代には、現在の橋よりやや上流に、川久保橋が架けられていました。
正しくは、碓氷御関所橋 と呼ばれ、中山道と関所を結んでいた。
橋桁の低い土橋だったため、増水により度々流されたが、流失すると復旧するまでは川止めが行われた。
このため、碓井関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備され、宿継ぎ御用綱として使われ、
御用書状を対岸に渡すことに使われた。
土橋だったのは、江戸への侵入を阻止するという幕府の政策だったというが、庶民にとって
は迷惑だったことだろう。 」
川久保橋を渡ると、バイパスには行かないようにして、真直ぐの細い道に入る。
入るとすぐの左側の民家の一角に、「川久保薬師如来」 の奉納燈籠が
建っていて、その上に薬師堂がある。
「 この坂は、薬師坂といい、元和九年(1623)、碓氷関所が開設されると、
通行の取り締まりが厳しくなり、 更に、碓氷峠越えを間近にひかえているため、
無事通過の願いを込めて、薬師堂が建設されたといわれる。
薬師如来は、近くの湧水で洗顔すると、眼病に霊験あらたかといわれ、近郊の客が多く
参拝していました。 」
近くに、「薬師湧水」 の石碑があり、脇に祠があった。
今は水は出ていないようである。
「 川久保薬師は、近くに清澄な清水があることから、 心太(ところてん)を出す茶屋があり、旅人でにぎわい、心太坂 といわれ、親しまれたという。 」
坂を上り切ると国道18号に合流する。
ここに、 「←坂本宿0.9q 松井田宿7.4km→」
の中山道の道標があり、京方面からは重要な分岐ポイントである。
このあたりの地名表示を見ると、
「原」 とあるが、原村は、坂本宿が整備される前からあったようで、
松井田町が誕生した時、現在の名前になったようである。
左側は碓井上水道貯水池で、振り返ると妙義山が大きく見える。
国道に合流すると、左側の道の奥に、白髭神社がある。
「 白髭神社は、景行天皇四十年(110) 創建と伝わる古社で、 日本武尊が碓井峠の白鹿に化けた山の神の危難から救った白髭の老人を祀っている。
上信越自動車道の高架の手前左側に赤い鳥居と小さな祠があり、「水神宮」とある。
「 水神宮は、旧原村内に流れる用水路の起点に、清浄で豊富な水を 願って、水神を祀ったものである。 」
高架橋をくぐると、左側に 「中山道坂本宿」 の標柱と、柵のようなものがある。
これは、坂本宿の 「下の木戸」 の一部を復元したものである。
「 ここは坂本宿の江戸側の入口、下の木戸といわれたところである。
木戸は明け六つと暮れ六つの間だけ開かれた。
明け六つは午前六時、暮れ六つは午後の六時であるが、時計を持つ時代ではないので、
太陽の運行により、長くなったり、短くなったりした。 」
坂本宿は、寛政二年(1625)に開宿した新宿である。
「 碓井峠を控え、また、碓井峠を
越えてきた旅人は、横川関所に向う準備をする宿場として作られた新宿で、
家並みは整然としていました。
家屋は間口七間(約12.6m)と、間口三・五間(約6.3m)のニ種類
あり、間口七間の家屋を一軒屋、間口三・五間の家屋は半軒屋と呼ばれました。
街道に沿った家は、隣との間にスペースを設け、桁違いになっていました。 」
英泉が描いた木曽街道の浮世絵には、 こんもり丸い刎石山(はねいしやま)を背に、 道の中央を用水が流れ、その両側を人が歩き、家並みが続く構図が描かれている。
「
坂本宿の長さは六町十九間(約713m)で、道幅八間一尺(約14.8m)と広く、中央に
川幅四尺(約1.3m)の用水が流れていた。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口732人、家数162軒、本陣二軒、
脇本陣二軒、問屋が一軒、旅籠が四十軒である。
旅籠40軒と宿泊施設が多いが、
飯盛り女もいて、前後に関所や峠越えを控え、旅装を解く人達が多かった。
本陣・脇本陣・旅籠・商家百四十軒が、それぞれ、屋号看板を掲げ、
その賑わいは、 「 雨が降られこそ松井田泊まり、降らさ越します坂本へ 」 とある
の馬子唄にうかがえる。 」
「中村碓嶺(たいめい)生誕の地」 の案内板がある。
民家の軒下に、それぞれ屋号のようなものが、書かれていることに気付いた。
江戸時代の雰囲気を今日まで残すという地元民の総意であろう。
宿場の中心には、本陣や脇本陣が設置されていた。
金井本陣は芝生と民家に姿を変え、当時のものは残っていない。
「 金井本陣は、下の本陣と称し、間口十間半(約17m)建坪百八十坪
(約594u)、玄関、門構付きの建物であった。
参勤交代で中山道を行き来した北陸、
信越の大名の定宿になった。
憲政二年八月、加賀前田家の松平加賀守は江戸へ、
信州松代藩真田右京太夫は帰城の途で、ここですれ違い宿泊している。 また、
文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁された際、十一月九日に宿泊、翌十日朝出立して
いる。 」
その先の左側に、 「坂本小学校発祥の地」 の碑がある家がある。
この家は佐藤本陣跡である。
「 佐藤本陣は上の本陣とも呼ばれました。
坂本宿は、東に碓井関所、西に碓井峠が控えていたため、坂本泊まりが必然となり、
本陣が二軒が必要であった。
明治八年(1875)、佐藤本陣を仮校舎とした坂本小学校が開校しました。 」
その向かいにあるのが、「みょうがや脇本陣」 で、門だけが残っている。
坂本交叉点手前の右側の 「永井脇本陣」 は、すっかり建て替えられているが、
門は当時のままらしく、面積も広いので、当時の面影を残している。
隣の永楽屋脇本陣は、すっかり建て替えられている。
佐藤本陣と金井本陣の間に、「八郎兵衛脇本陣」 の表示のみがあった。
坂本交叉点を越えた先の右側にある坂本公民館は、 酒屋脇本陣 の跡である。
合計すると五つの脇本陣である。
「 天保十四年の中山道宿村大概帳では、脇本陣は
二軒となっているので、帳尻が合わない。
坂本宿は、加賀藩や尾張藩など大藩の参勤交代が重なることはままあったようで、
さばききれない場合は、旅籠を貸しきってしのいだとある。
また、幕末の文久三年(1863)、参勤交代の制が緩和され、大名の妻子の自由帰国を許可された。
その結果、中山道の通行が増え、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなったので、
利用された旅籠の中から、脇本陣になったことは考えられる。 」
その先右側に、旅籠「かぎや」の跡がある。
屋根看板には、家紋の 「 丸に結び雁金 」 の下に、
かたかなで、 「 かきや 」 と書かれている。
この時代の看板は、片方は漢字が普通なので、両方ともかたかなというのはめずらし
く、見やすいと旅人に好評だった。
「 三百七十年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が、
坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけた。
屋根は社寺風の切妻、懸魚があり、
出梁の下には透し 彫刻が施されている。
間口六間の玄関を入ると裏まで通じる土間が
ある。 奥行八畳二間に廊下、中庭を挟んで八畳二間、往還に面してニ階建て、階下、
階上とも格子である。 」
宿場は街道文化の溜り場で、坂本宿でも俳諧、短歌、狂歌など、天明・寛政のころは
最盛期であった。
当時の「かぎや」の当主・鍵屋幸右衛門は、 紅枝(べにし)と号し、
「 末枝や 露八木草の 根に戻る 」 の作品を残している。
その先の右側に、 旅籠 「つたや」 跡がある。
漂泊の詩人・若山牧水が宿泊した宿である。
「 碓井峠にアブト式鉄道が開通して十五年後の明治四十一年
(1908) 頃になると、 繁栄を極めた坂本宿はすっかり見る影を失い、寂びれてしまった。
この年の八月六日、 牧水は軽井沢で遊び、峠を越えて坂本に宿をとろうとした。
ただ一軒残っていた宿屋「つたや」に無理に頼んで泊めてもらうことにした。
寝についても暑さで寝つかれず、焼酎を求めて出て、月下の石ころ道を歩きながら、
ふと耳にした糸繰唄は一層の寂寒感を覚え、詠んだ句は
「 秋風や 碓井のふもと 荒れ侘し 坂本の宿の 糸繰りの唄 」
である。
その先、右側の民家の前に、「小林一茶定宿のたかさごや」 の説明板が建っている。
説明板
「 信州柏原が生んだ俳人小林一茶は、郷里と江戸を往来するとき、
中山道を利用すると、「たかさごや」 を定宿にしていた。
寛政・文政年間、坂本宿では
俳諧・短歌が降盛し、旅籠商人の旦那衆はもとより、馬子、飯盛り女に至るまで指を
折って、俳句に熱中したという。
そこで、ひとたび、一茶がたかさごやに草鞋を脱いだと聞くや、 近隣近郊の同好者まで
かけつけて、自作に批評を仰いたり、俳諧談義に花を咲かせた。
近くから聞こえてくる音曲の音とともに、夜が更けることを忘れた、にぎわいを彷彿させる。
小林一茶は、碓井峠の刎石の頂の 覗き と呼ばれるところで、
「 坂元や 袂の下は 夕ひばり 」 という句を詠んでいる。
ここは、坂本宿が一望できるところである。 」
その先の右側に、「上州中山道坂本宿 旅籠丸仁屋」 の標柱が建っていて、
右面に 「東江戸へ三十四里I 左面に「 西京へ百二里」 とある。
宿はずれの旅籠「いげたや」跡を過ぎると、上の木戸跡(京側入口)である。
先程、江戸側の入口にあったものと同じ木柱と柵が復元されている。
木戸柵内に、常夜燈の石碑と、文政五年(1822)建立の橋供養塔がある。
これは用水に架かっている橋を供養したものである。
その先の角に、芭蕉の句碑がある。
、「 ひとつ脱て うしろにおひぬ 衣かへ 芭蕉翁 」
「 寛政二年(1790)秋に、坂本宿の俳人連が春秋庵白雄に依頼し建立したもので、
碑の文字は春秋庵白雄の手による。
書体はちくら様で、当初は碓氷峠の刎石坂にあったが、明治に入り、
中山道が廃道になったため、ここに移された。
なお、この句は元禄年間の 「曠野」 にあり、内容は木曽路下りのものである。 」
◎ 碓氷峠
坂本宿の京方の木戸を出ると森中の右側に八幡宮がある。 坂本宿八十二戸の 氏子の神として祀られていた。
説明板「八幡宮」
「 創立年代不詳なれども、当地開発の当初より、碓井郡の鎮守産土神として、
古来崇敬される。
伝承によれば、景行天皇四十年十月、日本武尊の勧請によるという。
延喜年間に、現在地より東北の小高い丘に社殿を建立。
江戸時代、宿駅制度の確立により、宿場の上なる小高い地、現在の地に祭祀せる。
明治時代に、辻郷に祭祀される諏訪神社、白山神社、
八坂神社、水神、菅原神社、大山祇神社等を合併合祀する。
大正三年、村社に指定される。 」
赤い鳥居をくぐると、石段の左側に、「御嶽山座主大権現」 の石碑が建ち、
その奥に愛くるしい狛犬一対がある。
五十段の石段を上ると、社殿があり、境内には明治に遷座された神社の小さな祠が並んでいた。
また、双体道祖神が二体祀られていた。
この先、坂本浄水場前で、国道は右側に大きく曲がるが、中山道は直進する小さな道
に入る。
入る手前に、 「これより碓井峠曲折多し運転注意」 の看板があり、
ガードレールの切れ目から、中に入る。
坂を上ると、右下にはアプト道(アプト式鉄道線路を
撤去した道)が見える。
中山道はすぐに国道18号に出る。
国道を渡ると、「旧中山道」 の標柱が建っていてここから中山道の碓井峠越えが始まる。
「 古事記・日本書紀や万葉集の頃には、峠 という字はなく、
坂や嶺を使った。
日本書紀の日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国遠征の章には、
「碓日嶺」とあり、万葉集には 「 ひなぐもり碓日の坂を越えしだに ・・・ 」
の歌がある。
碓日は、この地の天候の表現で、午後には霧が出て、あまり日がささない
「薄日」 のこと。
ちなみに、「ひなぐもり」 は碓井にかかる枕詞で、日の曇りの意。 」
ごろごろした急坂を上ると、右側に、 堂峰番所跡 がある。
今でも、石垣の一部が残っている。
説明板 「堂峰番所」
「 堂峰番所は、碓氷関所の出先として、
山を越えて関所を破ろうとする者を見張っていたところである。
堂峰の見晴らしのよい場所の石垣の上に、番所を構え、
中山道をはさんだ西側に、定附同心の住宅が二軒あった。
関門は両方の谷が迫っている場所をさらに掘り切り、道幅だけにしていた。 」
「大日尊」 の大きな石碑の手前には、「刎石坂」の説明板がある。
ここから覗きまでは、崩れてきた石がごろごろしていて、
歩くのが困難な刎石(はねいし)坂である。
説明板 「刎石坂」
「 刎石坂には多くの石造物があって、碓井峠で一番の難所である。
むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。
南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観世音がある。
ここを下った曲がり角に、刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。 」
説明板を下った曲がり角に、「刎石節理」 の説明板がある。
その奥にあるのが刎石節理で、柱岩が幾重にもなって連なっている。
説明板 「刎石節理」
「 このあたりは、刎石の名前の由来となった柱状節理の石が多く見られる。
柱状節理は、溶岩が冷えた時、亀裂が生じ、柱状になったものである。 」
その先には、「上り地蔵下り地蔵」 の説明板がある。
説明板 「上り地蔵下り地蔵」
「 十返舎一九が、 「 たび人の 身のこをはたく なんじょみち 石のうすいの
とうげなりとて 」
・・・ と書いた、その険阻な道は、刎石坂である。
刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって、
旅人の安全をみつめるとともに、幼児の成長を見守ている。 」
萩原朔太郎の 「芥川龍之介の死より」 の文学碑がある。
「 見よ この崇高な山頂に一つの新しい石碑
が書き
いくつかの坂を越えて遠い「時代の旅人」 そこを登るであろう。
そして、
秋の落ちかかる日の光で人々は石碑の文字をゆぶであろう。
そこには何が書いてあるか。
見るものは黙しうなずきそして皆行き去るだろう。 時は移り風雪は空を飛んでいる。
ああ! だれが文字の腐蝕を防ぎ得るか。 山頂の空気は希薄であり、鳥は樹木に
かなしく鳴いている。
だが新しい季節は来たり 氷は解けそめ 再び人々はその麓を通るだろう。
その時、ああだれが山頂の墓碑を見るか、多数の認識の眼を越えて、
白く雪の如く 日に輝いている
一つの義しき存在を (芥川龍之介の死より )
萩原朔太郎 」
その先が覗きである。
「覗き」 という名の通り、すばらしい景観が木の間から見渡せる。
大田南畝は壬戌紀行で、この風景を
「 妙義の山也といふ。
これまで岩山をみしかど、かかる険しき岩の色黒きが雲をしのぎてたてるをみず。
唐画にかける山のごとし。 」 と、書いている。
眼下に、道が一直線に延びているが、その先の両側に並んだ家が坂本宿である。
その前を高速道路が横断し、右前方には妙義山の威容が迫っていた。
人に威圧感を与える妙義山や眼下に見える坂本の風景にしばらく見入った。
小林一茶も、坂本宿を見下ろしながら、
「 坂本や 袂の下の 夕ひばり 」
という句を詠んでいる。
覗きのすぐ先に「風穴」の説明板がある。
説明板「風穴」
「 刎石溶岩のさけめから、水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数カ所ある。 」
とあり、穴に手をやるともやっとした空気が感じられた。
ここから再び急坂を上る。
右側に井戸が見えてきた。 弘法の井戸である。
刎石茶屋には水が無いので、弘法大師がここに井戸を掘ればよいと教えたと伝えられる霊水で、
今もきれいな水が涌いている。
その前に、新旧二つの説明板がある。
説明板 「弘法の井戸」
@ 「 弘法大師から、ここを掘れば、水が湧き出すと教えられ、水不足に悩む村人は
大いに喜び、弘法井戸と名付けたという。 」
A 「 諸国をまわっていた弘法大師が刎石茶屋に水がないので、ここに井戸を
掘ればよいと教えられたと伝えられる霊水である。 」
やっと平地になったところに、石垣に囲まれた敷地がある。
江戸時代には、小池小左衛門茶屋本陣、大和屋等の四軒の茶屋(刎石茶屋)があったところで、
右側の空き地の奥に石垣があり、墓も残っていた。
ここにも二つの説明板がある。
説明板 「刎石茶屋跡」
「 ここに石垣に囲まれた四軒の茶屋があった。 現在でも石垣や墓が残っている。
説明板 「四軒茶屋跡」
「 刎石山(標高810m)の頂上で、昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。
今でも石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった) 」
段上にハイカーや中山道を歩く人のための休憩所(峠の小屋)が建っている。
その手前に、「碓井坂の関所跡」 の説明板がある。
説明板 「碓井坂の関所跡」
「 (平安時代前期の)昌泰二年(899) 碓井坂に、関所が設置を設けたといわれる場所
と思われる。 」
中部北陸自然歩道 の道標には、 「左坂本宿2.5q 右熊野神社6.4km」 とある。
ここからまた森の中の登りが始まる。
道は、台風などで倒された樹木が横たわり、すり鉢状の道を行く。
その先の左右が下に傾斜しているところに、 「堀切」の説明板が建っている。
ここは天正十八年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻めの際、
北陸・信州連合軍(前田利家・上杉景勝が率いる)三万余を、
松井田城主・大道寺政繁が防戦するため、堀切を造ったものである。
説明板 「堀切」
「 両側が深い谷で道巾が狭く、小田原勢の武将・大道寺政繁(松井田城主)が、
この道を掘り割いて、北国勢を防いだ古戦場跡である。 」
この堀切を南に出た途端、南側(左側)は絶壁で、昔、この付近に山賊が出たといわれる。
大岩の下に、寛政三年(1791) 建立の南向馬頭観音が祀られている。
この険しい場所を過ぎると、左側が岩場となり、高い岩の上に馬頭観音が祀られている。
文化十五年(1818)の建立で、北向馬頭観世音を呼ばれている。
この先の左側に、一里塚の説明板が建っている。
説明板 「一里塚」
「 座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の 旧道 「東山道」 がある。
ここから登っていった。 その途中に、小山を切り開き、「一里塚」 をつくられている。 」
登ってみるとそれらしい盛り上がりはあったが、一里塚の跡は確認できなかった。
整備はされているが、谷の中のような急な坂道を登っていく。
岩や小石のごろごろとしているところを過ぎると、赤土になった。
湿っているため、滑りやすいことから、 「座頭ころがし(釜場)」 と呼ばれる難所である。
ここを通り過ぎると、栗ヶ原の説明板が立っている。
説明板 「栗ヶ原」
「 明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、
明治八年群馬県最初の 「見回り方屯所」 があった。 これが、交番のはじまりである。 」
尾根道や切り通し道を進むと、右側の段上に、 線刻の入道くぼ馬頭観音 がある。
ここから山中茶屋まではまごめ坂で、赤土のだらだらした下り道となる。
「 まごめ坂の入口は、入道くぼと呼ばれているところで、 右側(北側)の小高いところにある大きな石には、 「馬頭観音像」 が線刻されている。 」
まごめ坂の左には、石積みがある。
整備された林が美しく続き、鳥のさえずりも聞えた。
まごめ坂を下ると、峠の中間点の辺りに、、明治天皇に握り飯を振る舞った、といわれる
山中茶屋跡がある。
道の右側に、「山中茶屋」 の説明板が建っている。
説明板 「山中茶屋」
「 山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安二年(1662)には十三軒の立場茶屋
ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あった。
明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。
松井田町観光協会 」
道の右側に、「山中部落跡」 と 「山中学校跡」 の説明板が建っている。
この一帯に、江戸時代には山中村(山中部落)があったが、今はその跡かたもない。
説明板「山中学校跡」
「 慶応年中(1648〜)に、碓氷峠の峠町の人が、川水をくみ上げるところに、
茶屋を開いたのが始まり、寛政二年(1662)には十三軒の立場茶屋があり、
丸屋六右衛門茶屋本陣がありました。 力餅、わらび餅が名物でした。
明治の世になると小学校が出来、山中に町があるといわれました。
明治十一年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際、教育の振興のために、金二十五両が下賜され
ました。
当時の児童は二十五名であったといわれます。
しかし、鉄道の開通により街道が廃止になると、山中村は廃村になりました。 」
まごめ坂から十分下ったところに、山中坂の説明板がある。
説明板 「山中坂」
「 山中茶屋から石持山の山麓を陣場が原に向って上がる急坂が山中坂である。
この坂は 「飯喰い坂」 とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、
空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。
松井田町観光協会 」
右手は石持山である。
山中坂の急勾配を登ると、左側に 「一つ家跡」 の説明板がある。
「 ここには老婆がいて、旅人を苦しめた言われている。
このあたりに、一つ家の一里塚があったが、浅間山の天明の大噴火で消滅したといわれる。 」
上りが緩やかになると、陣馬ヶ原の三叉路で出た。
右側の道は、文久元年(1861) 和宮降嫁の際に開削された和宮道である。
毎年五月の第二日曜日に開催される安政の遠足のコースで、
「安政遠足」 の標木が建っている。
中山道は左に進むが、左側に 「陣馬ヶ原」 の説明板がある。
説明板 「陣馬ヶ原」
「 太平記に、新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、
戦国時代、武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
笹沢から子持山の間は萱野原で、ここが古戦場といわれている。 」
正面の小高いところに、 「子持山」 の説明板がある。
説明板 「子持山」
「 万葉集第十四巻 の 東歌 (あずまうた) の中に、読人不知だが、
子持ち山の題で 、
「 児持山 若かへるでの もみづまで 寝もと 吾(あ)は思う
汝(な)はあどか思う 」
の歌が詠まれている。 」
ここからの道は狭く、倒木をくぐりながら進むと、右側に 「化粧水跡」 の説明板があru.
「 峠町へ登る旅人がこの水で姿、形を直した水場である。 」 とある。
右側に 「人馬施行所跡」 の説明板がある。
説明板 「人馬施行所跡」
「 笹沢のほとりに、文政十一年江戸呉服の与兵衛が安中藩より間口十七間、奥行二十
間を借りて人馬が休む家を作った。 」
その先の笹沢は、徒歩渡りである。
沢を渡ると、熊笹が繁った狭い峠道になり、
碓井峠の最後の登り坂の長沢道になる。
ここには 「長沢道」 の説明板があり、
「 中仙道をしのぶ古い道である。 」 と書かれている。
長沢道を上がると、T字路に突き当たるので、
右折する。
ここには、 「松井田、坂本宿→」 の道標がある。
右折すると、再び、T字路に出る。
ここに、 「←石持山 旧中山道→」 の道標がある。 ここは松井田峠である。
右の石持山の道は、先程、陣馬ヶ原で分かれた和宮道である。
「旧中山道→ 」 は、小生が歩いてきた道を指し、
この道標は、京方から歩く人の目印である。
江戸からの人は、T字路を左折する。
この分岐点に、「仁王門跡」 の説明板と、 しめ縄が捲かれた石碑が建っている。
説明板 「仁王門跡」
「 もとの神宮寺の入り口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。
仁王様は、熊野神社の神楽殿に保存されている。 」
「思婦石」の説明板の右側に、 「日本武尊をしのぶ歌碑」 の標柱があり、 その奥に石碑が建っている。
説明板 「思婦石」
「 群馬郡室田の国学者・関橋守の作で、安政四年(1857)の建立である。
「 ありし代に かへりみしてふ 碓井山 今も恋しき 吾妻路のそら 」
の歌が書かれている。
土道を進むと、左側に碓井川水源地がある。
明治天皇巡幸の際、御膳水となった名水であるが、
付近は山ヒルがいるので、近寄らないほうが無難である。
土道が舗装路になると碓井峠の頂上である。
雨が降ると、とても難儀しただろうと思われた坂道を無事上り終えた。
江戸時代の旅人も同じ感想を持ったのではないか?
ここが、上州と信州の国境、現在は群馬県と長野県の県境である。
頂上に、日本武尊を祀った熊野神社がある。
神社に上る、入口の左側にある柱の正面には、「熊野皇太神社」とあるが
、右側には「熊野神社」と書かれている。
「 神社は、古から上州と信濃から信仰を集め、
群馬県では熊野神社、長野県では熊野皇太神社と呼ばれてきた。
同じ神社なのに、呼び名が違うため、標柱に二つの名が書かれている。
上州は高崎藩、信濃は小諸藩が守護神として庇護した。
中山道が通行容易な入山峠でなく、難路の碓氷峠になったのも、
熊野神社を守り神にする両藩が推したという説がある。 」
両側に常夜燈が立ち、その先に狛犬、そして、石の鳥居、
その奥は、けっこう急な石段である。
右側の常夜燈の前に、「安政遠足決勝点」 の標識がある。
常夜燈は、国の重要文化財指定で、古いものである。
鳥居の手前に、昭和五十年に建立された高浜虚子の句碑がある。
「 剛直の 冬の妙義を 引き寄せる 」
と刻まれている。
新しい狛犬もあったが、古い狛犬は室町時代中期の作である。
狛犬は本来、威嚇を目的としているはずだが、この狛犬は素朴でほのぼのとしていた。
神社の階段はかなり急である。
登りきったところに、「熊野皇太神」 の額のある神門がある。
手前の常夜燈の前に、丸い石臼のようなものが左右にあるが、
これは、「石の風車」 と言われるものである。
説明板 「石の風車一対」
「 軽井沢宿の問屋・佐藤市右衛門と、代官・佐藤平八郎の両人が、
二世安楽祈願のため、当社正面の石だたみを明暦三年(1657)築造した。
その記念に、その子・市右衛門が、
元禄六年(1688)、佐藤家の紋章・源氏車を刻んで、奉納したものである。
秋から冬にかけて吹く風の強いところから、中山道往来の旅人が、石の風車として親しみ、
「 碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると 」
と追分節にうたわれて有名になった。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会 」
神門をくぐると、正面に三つの社殿がある。
中央にあるのが上信国境上にある本宮で、祭神は日本武尊、伊邪那美神である。
右側は新宮で上州側にあり、祭神は速玉男命である。
左側は那智宮で、祭神は事解男(ことさかのお)命で、信州側に鎮座して
いる。
「熊野神社の由来」
「 日本武尊が東国平定の帰路、
碓氷峠に差し掛かると、濃霧に閉ざされて行く手が分からなくなったが、
八(や)た烏(からす)の道案内により、無事峠を越えることができたので、
帰京後、熊野の大神を祀ったと伝えられる。 」
熊野神社は、二つの県にまたがる珍しい神社で、
社務所が信州側と上州側と二つあり、賽銭箱も二つある。
社殿は江戸中期以降の建築である。
右側の熊野神社(新宮)には、群馬県の指定文化財になって いる古鐘が納められている。
「 鎌倉時代の正応五年(1292)、松井田一結衆十二人によって奉納されたもので、 上信の国境にあった鐘楼から、時を告げたといわれる。 」
その前にある 「太々御神楽」 の額がある神楽殿の中に、 仁王門にあった仁王像が保管されている。
多重塔は、 沙弥法性 という人が、文和三年(1354)に建立したものである。
境内の右側に、「 日本武尊の吾嬬者邪(あずまはや)咏嘆の処」 の標木が建っている。
標木の文面
「 碓井嶺に立った尊は、雲海より海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて、
吾嬬者邪と嘆かれたという。 」
その左側に、 「 明治天皇峠御小休所 」 の石柱が建っている。
現在は閉鎖されているが、群馬県側から登ってきたところに、 「伊達政宗発句」 という標板がある。
「 伊達政宗は、慶長十九年(1641)四月末に登ってきた。
その時詠んだのが、 「 夏木立 花は薄井の 峠かな 」 である。
慶長十九年には大坂の役があり、
その途上での出来事と思うが、この戦いで伊達軍は功を焦って、
味方の神保相茂隊を同志討ちにして、全滅させる失態を演じた。 」
下に降りると、鳥居の前には、名物の力餅屋が並んでいる。
「元祖力餅」 の看板を掲げた、 しげのや の右側に、
「信濃国」 と 「上野国」 の国境を書いた、立て札が建っている。
店内に入ると、柱の一つに、「国境」 の表示があったのは面白かった。
早速力餅を注文する。
力餅は、頼光四天王の一人、強力で知られた碓氷貞光にちなんだ餅である。
あんこだけかと思ったら、大根おろしなど、何種類かあった。
注文してから作るというので、しばし休憩となった。
しげのや駐車場の奥に 「み国書石碑」 がある。
「 四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四
二三四万六一十 」 と、数字で彫られた数字歌碑である。
「 よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 」 と読むようである。
これは、峠の社家に伝えられていたものを昭和三十年に現地に移したものである。 」
隣接するうすい山荘第一駐車場に、朱塗りの石祠が祀られている。 赤門屋敷跡である。
熊野神社と関係の深い曽根家の屋敷だったといい、茶屋本陣の役割を
果たしていた。
説明板 「赤門屋敷跡」
「 ここには、加賀藩前田家の御守殿門に倣って造られた朱塗りの赤門屋敷があった。
熊野神社代々の社家、峠開発の祖・曽根氏の屋敷でした。
参勤交代の諸大名は、碓氷峠の熊野神社で、道中安全祈願をした後、
この赤門屋敷で、しばしの休憩をとられました。
皇女和宮も休憩されている。
明治
になり、碓氷峠の道が廃道になり、屋敷もなくなった。」
熊野神社の下に、 「宗良親王仰歌碑」 が建っている。
「 宗良親王は、後醍醐天皇の皇子で、
父の後醍醐天皇とともに、吉野の南朝方であった。
正平六年(1351)、新田義興とともに鎌倉を占領するが、足利尊氏により、駆逐された。
征夷大将軍に任じられ、信濃国(長野県)など関東を流転するが、
その後の消息は不明という人物である。 」
舗装された道は県道133号である。
明治天皇が御巡幸に訪れた明治十一年(1878)に改修されたという由緒ある道である。
「
熊野神社の周囲は、江戸時代には峠町といわれたところで、数軒の茶屋が軒を並べていた。
碓井峠越えは中山道の最大の難所だが、ここを登りきった旅人はほっとしたことだろう。 」
熊祖神社を少し下がった三叉路(上信国境の石碑の先)を左折すると、石畳の道がある。
五十メートル程上ると、碓井見晴台がある。
入口の右側に碓氷峠万葉集歌碑が建っている。
「 万葉集歌碑 」
「 日の暮に うすひの山を こえる日は せなのが袖も さやにふらしつ 」(よみ人知らず)
「 ひなくもり うすひの坂をこえしだに いもが恋しく わすらえぬかも 」(他田部子磐前)
この碑は、昭和四十二年に建立されたものである。
左側には、詩聖タゴールの記念像(胸像)がある。
「 タゴールはアジア最初のノーベル文学賞を受けた人です。
この胸像は、タゴール生誕百二十年記念で建立されたもので、 背景の壁に彼の言葉
「 人類不戦 」 の文字が刻まれています。 」
見晴台は広い空き地というか公園だった。
あいにく靄がかかっていて、見晴しが悪く景色は見えない。
ここにもしげの屋にあったような信州と上州との国境を示すオブジェがあるようだが、
気が付かずあとにした。
◎ 軽井沢宿
軽井沢へは、先程の県道か、旧中山道うすい峠道の選択であるが、
旧道は激しく危険ということで、ほぼ旧道に近い形で作られらた遊歩道を下る。
道標には、 「 碓井峠遊覧歩道入口 (至る旧軽井沢 約4km) 」 と、書かれている。
林の中に入ると、多いのはズミの木である。
ズミの花は、林檎の花のように白く、咲いてる様はなかなかきれいである。
ズミは湿気を好む木なので、これが多いのはこのあたりは霧や雨が多い証拠だろう。
下に車道が見えるところを通ると、中部北陸自然歩道 の道標が建っている。
「 ← 14.7km 峠の茶屋 碓井峠(県境) 1.3q → 」
車道に平行して、歩道橋が架かっている。
渡ったところには、「碓井峠遊覧歩道」 ・ 「←至碓井峠
・見晴台 細道上る 至旧軽井沢方面 細道下る→」 の道標がある。
その先、吊り橋を渡ると別荘地である。
これまでは山道であったが、広い道になる。
別荘地をぬけると、右側に県道133号が現れ、合流する。
ここには、京側の遊歩道入口で、 「遊歩道→」 の大きな看板や、 「歩行者道路」 の杭・
「野生動物生息地域」 の看板がある。
京側来た時はこれを目印にするとよい。 見晴台からここまで三十分程である。
県道を下ると、矢ヶ崎川に架かる二手橋(ふたてはし)に出る。
江戸時代、宿場女郎が前夜の客を送り、別れを惜しんだという二手橋であるが、
現在の橋はいつのものかわからない。
「 碓井峠から、十と八丁下れば軽井沢の宿。
宿の手前で、渓流が道を断ちきり、橋が架かっている。
朝、旅人を送ってきた宿の女たちがここで別れを告げ、
二手に分かれたところから、この橋を二手橋と呼ぶ。 」
橋の手前は碓氷峠や見晴台などの大きな案内板が立っている。
公衆トイレもあり、見晴台へ行くバス停にもなっている。
近くに、室生犀星の詩碑があるので、立ち寄る。
川に沿った右側の道を少し行くと、川へ少し下った側壁に、室生犀星の詩碑がある。
「 我は張りつめたる氷を愛す 斯(かか)る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり 斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す 我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張りつめたる氷を愛す 斯る切なき思ひを愛す 」
室生犀星自らが手がけた詩碑 とあり、 軽井沢という地が、氷の詩を選んだということもあるが、 「 この詩の氷は、作者の審美的な感覚の表象であり、同時に、 ひとりの生活者の人生的覚悟を表明したもの 」 と説明文にあった。
二手橋に戻り、橋を渡る。
この辺り、楢や白樺の深い木立の中に、瀟洒な別荘が点在して、
いかにも高級別荘地といったたたずまいである。
軽井沢の別荘の第一号は、英国聖人宣教師・アレクサンダー・クロフト・ショーで、
この建物は昭和六十一年に、その別荘を復元したものである。
その先には、宣教師・ アレキサンダー・ショー の胸像があり、
その奥に、質素な木造の教会 ・ アレクサンダー・クロフト・ショー記念礼拝堂がある。
礼拝堂の中は、木のぬくもりがいっぱい、という感じがした。
説明板 「アレクサンダー・クロフト・ショー氏の記念の碑」
「 軽井沢開発の恩人・アレクサンダー・クロフト・ショー氏(英人)は、碑文にあるように、
明治十九年、布教の途上、この地を通り、
軽井沢の美しい自然と気候が、故国スコットランドに似ているのに感動し、
その夏、家族・友人とともに、避暑に訪れた。
翌年も夏をすごして、ますます気に入り、保健と勉学の適地として推奨し、
翌明治二十一年、旧軽井沢の大塚山に簡素な別荘を建てる。
これが、軽井沢の別荘の最初のもので、今日の観光・保健地
軽井沢を造る一粒の種になったのである。
氏の項徳をたたえ、明治三十八年五月三十一日、 地元の人々によって建立された。 」
その反対側に 台座は、苔で覆われている、芭蕉句碑がある。
「 馬をさへ ながむる雪の あした哉 」
( 雪のふりしきる朝方、往来をながめていると、多くは旅人がさまざまな風をして通って
行く。
人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い格好で通っていくよ !! という意。 )
説明板 「芭蕉句碑」
「 松尾芭蕉(1644〜1694) が、 「野ざらし紀行」 (甲子吟行) 中の一句。
前書に、 「旅人をみる」 とある。
句碑は、天保十四年(1843)、当地の俳人・小林玉蓬によって、
芭蕉百五十回忌に建てられたものである。
軽井沢町 」
この辺りが、江戸時代の軽井沢宿の東(江戸方)の入口である。
宿場時代には、枡形があったのだが、その形跡はない。
「
軽井沢宿は、坂本宿から二里十六町(約10km)、追分宿まで一里五町(4.6km)
と、比較的短い距離にある宿場であるが、碓井峠と碓井関所を控えての宿場であるため、
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、ここから、軽井沢銀座と呼ばれる
ロータリー入口(宿場の京方の入口)までの
六町二十七間(約700m)の間に、 家数119軒、宿内人口451人、
本陣が一、脇本陣は四、旅籠は二十一軒あった。
碓氷峠と横川関所を控えていたので、
休息と歓楽の場になって、江戸時代は宿場に262人の女性がいて、男性より多かった。 」
大田南畝は 壬戌紀行の中で、 「 ここはあやしのうかれ女の ふしどときけば、さしのぞきてみるに、いかにもひなびたれど、 さすがに前の宿より 賑わしくみゆ 」 と書いているので、 飯盛り女が大勢いたことが、裏付けられる。
さらに行くと、つる屋旅館がある。
「 旅館つるやは、昔は茶屋だったが、明治以降旅館となり、
芥川龍之介などの文士が好んで泊まった。
昭和四十六年に焼失した後、今の建物になった。 」
右側に、真言宗智山派の表白山神宮寺がある。
元は碓井峠の熊野神社あたりにあったが、
寛文二年(1652)に現在地に移ってきた。
この先は、 軽井沢銀座 と呼ばれる商店街になっている。
「 江戸時代、ここと沓掛宿は、遊女で賑わっていたが、明治に入り
街道制度が廃止になり、
鉄道の時代に入ると、中山道を歩く人はなくなり、軽井沢宿は存亡の危機に遭遇した。
それを救ったのがクロフト・ショーを始めとする外国人の別荘と、
カラマツ林の中での結核療養所の出現である。
第二次大戦以前に、この付近に多くの別荘が建てられ、室生犀星などの文人や、
実業家が避暑に訪れた。
軽井沢宿は、別荘族の御用達として活用され、軽井沢銀座となった。
その結果、軽井沢宿はかっての宿場の面影を残してはいない。 」
ほぼ中央にある観光会館は、四つあった脇本陣の一つであるが、脇本陣跡であること を示す案内はない。
宿場の中央付近にある土屋写真館は、江戸時代の旅籠・白木屋の跡である。
小林一茶も、江戸と越後の行き来の際、宿泊している。
教会通りの入口付近に、 佐藤本陣があったようであるが、跡方もなくなっていた。
脇道に入ると、中山道とその先の聖パウロカトリック教会の間に、
「軽井沢宿明治天皇行在所跡」 という石碑が建っている。
この石碑が、軽井沢宿があったことを示す、 歴史に残る数少ない証拠である。
説明板「軽井沢宿明治天皇行在所跡」
「 明治時代(1868〜1912)の前期、明治五年から明治十八年にかけて、明治天皇は
地方視察の為、国内を巡幸された。
この中でも特に大規模な地方巡幸の一つであった、
明治十一年(1878) 北陸東海御巡幸は、 中山道を利用され、長野県を巡幸される。
長野県の東の入口・軽井沢には碓井峠を越え、
九月六日、 中山道・峠町 (熊野権現) に入れる。
峠町にて御小休をとられた御巡幸の列は、峠より下り、川場川に架かる二手橋を渡り、
中山道・軽井沢宿に昼過ぎに到着される。
軽井沢本陣 (佐藤○衛) 敷地内に新設された 「御昼行在所」 、
昼すぎに 軽井沢宿に到着し、食事をとられる。(午後一時頃)
御昼 (小休止) を、御昼御在所にて過ごされた後は、 車にて軽井沢宿を発たれた。
軽井沢町教育委員会 」
道を突き当たりところには、聖パウロカトリック教会が建っている。
この教会は結婚式で人気が高いところである。
軽井沢宿の西方(京側)入口は桝形になっていた。
枡形の跡は、今はロータリーになっている。
昭和五十年代までは、バスターミナルだったが、
今はバスが一時間に数本、ここを通り過ぎるだけである。
軽井沢宿はここで終わる。
坂本宿 群馬県安中市松井田町坂本 JR信越本線横川駅から徒歩20分。
軽井沢宿 長野県軽井沢町軽井沢 長野新幹線軽井沢駅下車。
(所要時間)
碓井の関所跡→(20分)→坂本宿→(30分)→旧道入口→(2時間20分)→山中茶屋跡→(1時間)→熊野神社
→(1時間15分)→軽井沢宿