松本城の前身は、島立貞永(しまだちさだなが)が築いた深志城である。
天正十年(1582) 、小笠原貞慶(さだよし)が深志城を整備して、松本城に改名した。
徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代って、石川数正が入城し、
近世城郭の普請と城下町づくりを始め、子の康長の時、完成した。
信濃第一の大城郭で、天守・乾天守・渡櫓は国宝に指定されている。
日本100名城の第29番に選定された。
松本城はJR松本駅の北東にあり、直線で約一キロ余の距離にある。
松本駅お城口から、東に、深志二丁目交叉点へ行き、左折する。
北に向って進むと、中央二丁目交叉点の角に、 「左ぜん光寺道 左野麦街道」 と、書かれた道が建っている。
ぜん光寺道は、北国街道の別名でああり、信濃の善光寺への参拝道である。
交叉点を渡ると、「戦国城跡 塩市 牛つなぎ石」 と書かれた石柱の隣にあるのが、 牛つなぎ石である。
説明板「牛つなぎ石」
「 永禄十一年(1568)1 一月十二日、 本町と伊勢町との辻角に建つ 「牛つなぎ石」 に、
越後の上杉謙信公の義侠心に依る塩を積んだ牛車が、塩の道を通り、
たどりついたと、伝承されて居ります。
当時、松本地方は、甲州の雄・武田信玄の支配下にあり、
この武田方の敵方に当たる、今川・北条方は、太平洋岸の南塩の道筋を封じ、
甲州・信州の民人を困窮させた。
これを知った謙信公は、武田方とは敵対関係にありましたが、
日本海岸の北塩を糸魚川経由で、松本方面に送りました。
この日を記念して、上杉謙信公の義侠心を讃え、
塩に対する感謝の日として初市の日になった、と伝えられて居ります。
塩は明治三十八年(1905)国の専売となった為、
また、当時、松本地方は、飴の生産日本一を誇って居り、
市内の飴屋さんが、塩俵に因んだ飴を作り、爾来、飴市の方が通用するに到りました。
昔日は一月十日・十一日の初市に行ってありましたが、
近頃はこの日に近い一月の第二の土・日に催されます。
子供は、専らダルマを売り、将来の商人の原点を学びます。 」
その先に、 「同心小路」 と書かれた石柱が建っていて、 その奥には時計博物館がある。
その先に千歳橋がある。
ここには、 「江戸時代末の旧町名 六九町」 の石碑が建っている。
橋を渡ると、千歳橋交叉点で、右側に四柱神社がある。
「 四柱神社の創建は、明治五年(1872)、
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の4神を祭神とすることから、その名称がある。
現在の社殿は、明治二十一年(1888)の松本の大火後、
大正十三年(1924)に再建されたものである。 」
その先には 「大名町」 のバス停があり、 三叉路には 「大名町大手門井戸」 の木標があり、井戸がある。
「 井戸から水が流れ出ていた。
水の受け石には、「環境庁平成百名水認定 まつもと湧水群」 と刻まれている。 」
金網には、 「発掘調査中 松本城の武家屋敷跡」 の表示があった。
「
江戸時代には、ここに松本城の大手門があった。
大名町は、二の丸の南に位置する区域で、三の丸跡である。
三の丸は、家老をはじめとする上級武士 (藩主に謁見が許されている武士) の屋敷地、
松本藩の役所 (郡所や作事所など) のほか、
松本城の軍事防御施設である総掘や、土塁・門・馬出などがあったところである。 」
「発掘調査中」 とあったが、今回の調査地では、 土塁(土居尻)の調査で、 大手門の先が三の丸と二の丸、本丸で、その周囲を総堀が囲っていたようである。
そこを過ぎると、大名町通交叉点で、道祖神の可愛い姿を見付けた。
松本城交叉点に出て、北に進む。
右側に、「国宝 松本城」 の行灯があり、水堀が現れる。
左側は駐車場などの土地になっている。
「
江戸時代は、ここから西にかけも、外堀の水堀があったが、明治以降に埋められてしまった。
現在、残るのは右側の部分だけで、「松本城南・西外堀復元事業を行っています。 」
という看板があった。 」
その先には、 「国宝 松本城天守」 の大きな石柱があり、
奥には黒門が見え、右側には市立博物館がある。
外堀と黒門のある内掘の間の部分は二の丸跡である。
北に進むと、右側に太鼓門がある。
「 太鼓門は、三の丸から二の丸に入る虎口で、
一の門(櫓門)と二の門(高麗門)からなる枡形門である。
文禄四年(1595)頃に、石川康長によって築かれた。
門台の北石垣上に、太鼓楼が置かれ、
時の合図・登城の合図・火急の合図などの発信源として、重要な役割を果たしていた。
楼門の脇には、築造者の名に因む、重量225トンの巨石・「玄蕃石」 を据え、
威風堂々とした枡形門を形造っていた。
石川康長の頃には、天守を中心にして、本丸・二の丸(内曲輪)を御本城として整備拡充し、
三の丸(外曲輪)には武士を集住させるための武家屋敷を建設し、
五ヶ所の城門 (柵門) はいずれも櫓門に変えられた。
現在の建物は、平成十一年に復元されたものである。 」
太鼓門の一の門・楼門をくぐると、枡形になっていて、鉄砲狭間や矢狭間があった。
その先の門が二の門で、高麗門である。
江戸時代の正門はこの門で、大手門からここに来て、登城していた。
道を戻り、更に北に行くと、「史跡松本城二の丸御殿跡」 の標板と、門が建っている。
そこには、 「明治天皇駐蹕遺址碑」 が建っている。
「 この碑は、 明治十三年(1880)六月に、
明治天皇が松本方面へ御巡幸され、
当時、この二の丸御殿跡地に新築されていた、松本区裁判所に立ち寄られたことを記念し、
大正十年(1921)六月に、松本市民により建てられたものである。
二の丸御殿は初め、藩の副政庁として造営されたが、
享保十二年(1727) 、本丸御殿焼失後は政庁となった。
廃藩後、一時、筑摩県庁舎として用いられたが、明治九年(1876)六月 焼失した。
敷地は約千九百坪(6270u) 建坪 約六百坪(1980u) 部屋数 約五十であった。 」
昭和五十四年から六年間かけて発掘調査が行われ、史跡公園として整備され、 空地にその当時の坪数が平面復元されている。
「書院」 のプレートのある位置からは、天守がよく見えた。
藩主もその光景を眺めていたのだろうと思った。
本丸の正門、黒門に向う。
本丸は、水掘で囲まれていて、本丸に入る土橋の先に、黒門がある。
黒門の前に、係員が立っていた。 少し写真の邪魔である。
黒門は本丸に入る正門で、目の前にあるのは高麗門である。
左右の石垣の上の塀には矢狭間と鉄砲狭間がある袖壁があり、
黒塗りの壁が水堀に写る姿は美しい。
高麗門に入ると、「ここから有料区域」 の看板があり、料金所で入城料を支払う。
日本100名城のスタンプがあるので、捺印した。
ここは、黒門の枡形虎口である。
正面に櫓門があり、矢狭間と鉄砲狭間がある袖壁と共に、本丸を防衛している。
黒門の一の門(櫓門)は、昭和三十五年(1960)に、 ニの門(高麗門)と袖壁は、
平成二年(1990)に復元された。
黒門をくぐると、左手奥に複合連結式天守が、手前には広々とした芝生空間がある。
芝生空間には、江戸時代、本丸御殿が建っていた。
「 本丸御殿は、石川数正・康長父子により、造営された。
享保十二年(1727)に焼失し、その機能は二の丸御殿に移され、その後、再建されなかった。 」
松本城保存の功労者を顕彰した石碑があった。
「 一人は市川量造で、明治五年(1872)に松本城天守が競売に付され、
二百三十五両余りで落札された時、
取り壊されるのを憂い、天守買い戻しに尽力し、その保存に貢献した。
もう一人は小林有也で、初代松本中学校長として來任し、荒廃した天守を憂い、
明治三十四年(1901)、 松本天守閣保存会を設立し、
十一年に渡る天守の修理の中心となり、天守の倒壊の危機から守った。 」
松本藩戊辰出兵記念碑がある。
「
この石碑は、明治三十七年に戊辰戦争に参加した様子を記したものである。
表面に出兵の経過(下記)が、
裏面には従軍藩士261名の役職と氏名が記されている。
松本藩戊辰出兵記念碑表面
「 慶応三年(1867)、政権が徳川幕府から朝廷に移った。
京都から江戸に向う新政府軍が松本に近づくと、松本藩では二の丸御殿に藩士を集め、
どちらにつくか議論した。
藩主の最後の判断で新政府側につくことを決めた。
その後、戊辰戦争の戦場h新政府軍の一員として出兵し、宇都宮、長岡、会津の戦闘に加わった。 」
その先には、虎口(出入口)であった門の石垣がある。
右側の石垣には修理するためなのか、石の一つ一つに番号が振られていた。
道に従い、左折して進むと、正面に天守が大きく目に入ってきた。
「 天守は、真中に五重六階の大天守、
左側(東面)に一層二階の赤い月見櫓と二層の辰巳附櫓、
右側(北面)に三層の乾小天守を渡櫓で連結した、複合天守である。
乾小天守と大天守の建造時期は、天正十九年(1591)説、文禄三年(1594)説、慶長二年説(1597)、慶長二十年説(1615)などがあるが、
石川数正とその子康長によることは間違いないのだろう。 」
天守の右側に虎口(出入口)があり、外に出られないようになっている。
ここを出るとそ、赤い橋の埋橋があるところに出る。
「清正公駒つなぎの桜」 の標柱と、説明板がある。
説明板「清正公駒つなぎの桜」
「 熊本城主・加藤清正が、江戸からの帰りに、松本城に立ち寄った際、
城主・石川康長は、土産として駿馬二頭のうち、一頭を差し上げる旨、清正に申し出た。
加藤清正は、志のほどを感謝して、「 貴殿の目利きで取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。
二頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。 」 といって二頭を頂戴して帰った。
これを伝え聞いた人々は、さすが清正公と感じいったという。
この時、駒をつないだ桜の木だと伝えられる。 」
前回訪れた時の天守の写真を見ると、多くの人が並んで天守に入るのを待っていた光景が写っている。
小生もその一人であった。 その時のことを思い出したが、平日の早朝なので、人は少ない。
天守内部は、矢狭間や鉄砲狭間・石落し・武者走りなど、実戦的な造りになっていている。
天井の小屋組も太く、柱は釿(ちょうな)削りで荒々しい。
最上階の六階の他、四階が白壁造りになっているのは、御座所があったからで、
有事の際に城主の居所として設けられたものという。
大天守最上階から西方向には内堀越しに北アルプス連山、
東方向には本丸御殿跡のバックに、美ヶ原等のすばらしい山並みが眺望できる。
大天守を下り、巽附櫓を通り抜けると、月見櫓である。
大天守や小天守の造りに比べて、防御性がなく、戦乱の収まった安定した時代の建築様式である。
開放的な造りで、三方が吹き抜けとなっていて、眺望が良い。
「 月見櫓は、辰巳附櫓と赤い欄干を配し、風雅な雰囲気を持つ建物に仕上げられている。
第三代将軍・徳川家光が、長野善光寺に参拝する途中、松本に立ち寄るという内意を受けたため、
当時の藩主・松平直政が、建てたものである。
家光の善光寺参拝は中止になったため、家光の見参されなかったが、
天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。 」
本丸の黒門を出て、本丸を囲む水堀に沿って、左に歩く。
ここから、大天守を撮影した。
「 大天守の外壁は、各層とも上部は白漆喰で、
下部は黒漆塗りの下見板で覆われている。
このことから、「烏城」 とも称され、国宝に指定されている。
初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は二重目南北面と三重目東西面に千鳥破風、
三重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。
二重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、
寄棟を形成している結果、各重の屋根の隅が様々な方向を向いていて、松本城天守の特徴のひとつとなっている。
最上階は後世の天守閣のように廻り縁がなく、窓も小さくなっているのは、
冬期は寒く強風が吹くからだろう。 」
以上で松本城の見学は終了した。
松本城へはJR篠の井線松本駅から、バス(タウンスニーカー北コース)で約6分「松本城黒門」下車、徒歩約3分
訪問日 令和元年(2019)十一月二十一日
◎ (ご参考) 松本城の歴史
「 戦国時代の永正年間(1504〜1520)、
信濃守護の小笠原氏一族の島立貞永(しまだちさだなが)が、
小笠原氏の館がある松本平東の山麓の林城の前面を固めるために築いた、
深志城が松本城の前身とされる。
甲斐の武田信玄は、天文十九年(1550)、小笠原氏の本城の林城や深志城などを攻め落とし、
小笠原長時を追放し、筑摩・安曇郡の両郡代として、馬場信春を配置した。
武田氏滅亡と本能寺の変後の勢力の変化により、追放された小笠原長時の三男・
小笠原貞慶(さだよし)が天正十年(1582) 深志城を奪回し、深志城を整備して、松本城に改名した。
天正十八年(1590) 徳川家康の関東移封により、小笠原秀政に代り、石川数正が松本城に入り、
近世城郭の普請と城下町づくりを始めた。
数正の代には完成せず、子の康長に改築工事は受け継がれ、
今日に残る天守・乾小天守・渡櫓などが完成した。
石川康長は、大久保長安事件に連鎖して改易となり、小笠原秀政が再び入城。
大坂の陣以後は、松本藩の居城となり、松平康長や水野家などを経て、戸田松平家が居城し、
明治を迎えた。 」