川中島は、千曲川が流れる中州で、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との間で、
北信濃の支配を巡る戦いを交わした合戦場である。
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦は、天文二十二年から永禄四年の十三年にわたる戦いである。
その中でも永禄四年九月に行われた八幡原の合戦は死傷者七千人を数える史上最大の激戦だった。
晩秋に、八幡原にある 「川中島古戦場八幡神社」 を訪れた。
案内には 「 この神社は八幡社といい、これより先は武田信玄が陣構え、
御加護を仰いた八幡大神を奉斎する神社の神域で、
正面手前が旧社殿(鞘堂)、奥が現在の神殿である。
また、昔よりこの辺り一帯をこの神に因んで八幡原と称している。 」 とあった。
このあたり一帯は、八幡原史跡公園となっていて、
訪れた時は、NHKの大河ドラマ 「風林火山」 の放送されていた時で、
NHKのドラマ館が開設されていて、訪れるひとが多かった。
案内板の 「永禄四年川中島大合戦図」 には、その時の布陣が記されている。
「 永禄四年(1561)八月二十四日、武田本陣は原の北西にある茶臼山に布陣、
八月二十九日に、南西四キロの海津城に入城。 上杉本陣は南西の妻女山に布陣した。
この時期、朝霧が出ることが多く、山本勘助はこれを利用して別働隊と挟み打ちする案を提案し、
九月十日実行されることが決まり、
武田信玄は前日夜、武田軍二万の半分以上の一万二千人の兵を山間を通り、妻女山の背後に出るべく、出発させた。
一方、上杉謙信は武田軍の夕食の釜炊きの火が多いことから、戦闘が行われるのを察し、夜明け前まで千曲川を渡って、
本陣を妻女山から八幡原の東側に移動してしまった。
別働隊が到着するところを見計らい、攻撃する予定であった武田軍の本陣八千人は、霧が晴れると同時に攻め込んできた上杉軍にびっくり。
大混乱に陥り、遅れた別動隊の到着で、壊滅は防げたが、武田信繁や山本勘助などの重臣を失った。
この戦いで有名なのが、信玄と謙信の一騎打ちである。
謙信は、只一騎、愛刀「小豆長光」を振りかざし、武田の本陣に切り込み、
不意を突かれた信玄は、軍配で謙信の太刀を受けたという、 「三太刀、七太刀」 もこの処である。 」
ここ八幡原に現存する土盛り跡は、武田本陣枡形陣地である。
頼山陽 の 「鞭声粛粛夜渡河」 で有名な雨宮渡は、
東側を流れる千曲川の上流約六キロの地点である。
川中島古戦場(八幡原史跡公園)へは、JR長野新幹線長野駅からバスで約20分
訪問日 平成十九年(2007)十一月六日