"松代城は、武田信玄が北信濃を支配するために、千曲川に臨む地に築城した平城である。
築城当時は海津城と呼ばれ、川中島の戦いの舞台になった。
江戸時代に、真田氏が入城し、松代城に改名された。
日本100名城の第26番に選定されている。
平成十五年(2003)五月十二日に松代を訪れた時あったのは、城外御殿新御殿(真田邸)のみで、
松代城跡には「史跡松代城跡附新御殿跡」の碑があるだけだった。
当時は長野電鉄屋代線が運航していて、松代駅から徒歩5分で行けた。
その後m日本100名城のスタンプ制度も発足したので、
令和元年(2019)十一月二十一日、再び訪問した。
公共交通手段の長野電鉄屋代線は、平成二十四年(2012)に、廃線になったので、今はバスだけである。
そのため、今回はレンタカーで訪問した。
「 松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との間で、
北信濃の支配を巡る川中島合戦の際、
武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりである。
永禄三年(1560)頃に普請が完了したものと、伝えられている。
武田氏の滅亡後、森長可・須田満親・森忠政が城主となったが、
慶長八年まで城主であった森忠政の時代に、二の丸と三の丸が整備され、土塁を石垣に築き直すなどが行われている。
その後、家康の六男・松平忠輝、甥の松平忠昌、譜代重臣の酒井忠勝が城主になったが、
元和八年(1622)に、上田城主の真田信之が城主となり、真田家三代幸道の時に、
松代城に名を変えた。
松代城は、信之以後明治の廃城までの約二百五十年間、松代藩真田家十万石の居城となった。 」
松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、
最奥部に本丸、南側の城下に向けて、二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えていた。
現在、城の南は駐車場、東には市営殿町観光駐車場になっている。
再現された土塁の前には「二の丸南門」の表示があり、右側の入口には一部石垣が組まれ、
その付近には松代城の歴史の案内板や100名城のスタンプ設置所の案内図などがあった。
北に進むと、広場になっているのは二の丸跡である。
目の前にあるの水堀は、本丸を囲む水堀である。
太鼓門前橋の先には、橋詰門(高麗門)が建っている。
左右の続塀には、鉄砲狭間や矢狭間がずらりと並ぶ。
「 橋詰門は本丸の大手を固めていた門で、 門の中は次の太鼓門まで右に曲がる枡形虎口(石垣が囲った狭い空間)になっていて、 逃げ場を失った敵兵が一斉射撃を受ける場所になる。 」
その先にあるのが楼門の太鼓門である。
「
本丸を守る三つの城門の中で、高さ約十二メートルの太鼓門は一番大きかったという。
二階に時を知らせる太鼓が置かれていたこのからその名が付いた。 」
太鼓門の先は本丸跡だが、かなり広い空地になっている。
右下は本丸中心とした地図だが、表題は「よみがえる松代城」で、 古文書の内容と実際の発掘結果を突き合わせて復元した、とある。
「
この地図dで確認できるが、本丸は、本丸御殿が全体の半分を占めていた。
本丸御殿は、1717年の火災で焼失し、その後、水害がたびたび起きたため、
本丸南西の花の丸に移転したという。 」
本丸は、周囲を石垣で囲まれていたが、石垣は、大小さまざまな石で積み上げている。
本丸の戌亥隅(北西部)に、 現存する石垣の中で、最も高い櫓台の石垣がある。
「 この櫓は二層櫓だったようだが、城内では一番古い石垣ということで、 さまざまな形の石材が穏やかな角度で、積み上げられている。 石段を上れるようになっていたが、当日は工事中で、侵入不可だった。 」
本丸北側に、北不明門がある。
隣に、「海津城址」 の石碑が建っていて、「北不明門」 の説明板がある。
説明板「北不明門」
「 本丸の裏口(搦手)に位置する門で、
太鼓門と同様に、櫓門と表門(高麗門)の二棟による構成である。
十八世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、
水之手門 とよばれたことがある。
絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して、忠実に復元しました。
楼門は、石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。 」
北不明門は、本丸側の櫓門と、入口側の高麗門で、構成され、その間は枡形になっている。
北不明門の櫓門をくぐり、枡形を曲がると、北不明門の表門 (高麗門)がある。
表門をくぐり、二の丸の北側に出る。
振りかって、表門 (高麗門)の写真を撮る。
前述の水堀、太鼓門前橋、橋詰門(高麗門)と太鼓門(楼門)、
そして、北不明門は、前回訪れた翌年、平成十六年(2004)に復元が完了し、公開されたものである。
北不明門は枡形虎口で、本丸の東北部には、隅櫓があったように思える。
それを裏付けるように、本丸東北隅櫓台と水堀と土塁があった。
その東には、細い水堀が続き、左右に復元された土塁が続いている。
北側の土塁の先には、百間堀や新堀の水堀がある。
西側の便所・管理棟裏の土塁には、埋門が再現されている。
このように二の丸を巡っていた長大な土塁が部分的に再現されている。
南を見ると、本丸の東側に水堀があり、そこの橋が架かっているが、その東側が二の丸だった。
今は空地になり、その東には再現された土塁が巡っていた。
二の丸と本丸の間の堀に架かっていたのが東不明門前橋である。
東不明門は復元されていなかった。
これで松代城の見学は終えた。
二の丸南門から南に向って進むと、旧文武学校があった。
「 文武学校は、安政二年(1855)に開校した松代藩の藩校である。
廃藩置県により明治四年(1871)に廃校になったが、その後も松代尋常小学校、松代小学校として、
長きにわたり、地域の学問、教育の中心として使用されてきた。
昭和二十八年(1953)に国の史跡に指定された。 」
このあたりは、「中の辻」 と呼ばれたようで、道標には、真田家の家紋が刻まれていた。
真田邸・真田宝物館の方面に向うと、公園があり、童謡の石碑が多く立ち並んでいる。
その中に、 「恩田木工民親」 の銅像が建っていた。
「 恩田木工民親は享保から宝暦時代の
松代藩の家老で、藩の財政再建を行った経世家として名高い。
松代藩は度重なる水害により、藩の財政は窮乏し、足軽の出勤拒否や農民一揆が起こるなど、
藩政は混乱していた。
六代藩主・真田幸弘は、宝暦七年(1757)、木工に勝手方御用兼帯を命じ、
藩再建の大役をゆだねた。
木工は倹約を第一に、地租改定、荒地の開墾、財政帳簿の管理制度を確立した。 」
その先には真田宝物館がある。
前回訪れた時は同館と池上正太郎の真田太平記館を訪れた。
真田邸は、文久二年(1862)、参勤交代制度の緩和にともい、妻子の帰国が許されたことから、
松代城の外に造られた居館で、花の丸から御殿を移したといわれ、
明治以降は真田家の私邸として利用された。
敷地には、蔵、長屋、門、番所、庭園などが残っているが、
真田家の質素な暮らしが感じとれる家である。
日本100名城のスタンプはここの受付でいただいた。
松代城へは、JR長野新幹線長野駅から川中島バスで、「松代行き」で約30分、 松代駅下車、徒歩約5分
訪問日 令和元年(2019)十一月二十一日