「 塩田平を含む上田地方は、信濃の中では暖かく少雨であったので、肥沃な地として知られ、
奈良時代(8世紀)には、信濃国の国分寺や国分尼寺が建立され、
初期の信濃国府も上田にあったと推定されている。
鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の重臣・北条重時(塩田北条氏)が、
信濃守護として塩田城を設け、塩田平を中心に、三代六十年間にわたって治めた。
戦国時代に入ると、埴科坂城の葛尾城を本拠とする村上氏が、塩田平を支配したが、
武田氏の信濃進攻により、武田氏の手に渡った。
鎌倉時代には、北条氏の居城が塩田にあったので、別荘のように温泉が使用されたといわれ、
そのことが別所の地名の由来という説があるようである。 」
別所温泉は、日本武尊が発見したいわれるほど古い温泉で、
日本武尊は、「七苦離の湯」 と名付け、部下と一緒に入浴したと伝えられている。
北向観音堂は、比叡山延暦寺の中興の祖である円仁慈覚大師が建立したもので、
お堂が北を向いて建つことから、その名がある。
別所温泉には、「真田幸村公隠しの湯」 といわれる石湯や、大師湯などの別所温泉財産区が、
管理する共同湯がある。
大師湯は、慈覚大師が、北向観世音堂を建立するため訪れた際、
しばしば入浴したと伝えられる湯で、
昔は、北向山にお参りに来て、籠った人が夜中でも入りにきたので、
籠の湯とも言われていたそうである。
この塩田平には、
信州の学海として信州一円に鳴り渡った、高僧・樵谷惟仙が創建した安楽寺がある。
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旅をした日 平成十九年(2007)十一月六日
司馬遼太郎の街道を行く 「 信州佐久平みち 三 捨聖一遍 」
司馬遼太郎は、この編で一遍上人とこの地との関連を語っている。
「 一遍が京から信濃にくだったのは。弘安二年(1279)で、元寇の再来の二年前である。
八月、善光寺に参籠し、その後、しばらく信濃路を歩いて、ひとびとに念仏をすすめた。
一遍の本質は、むろん念仏にある。
その念仏は、その師といえばいえる法然より思想的に徹底し、
また、念仏を申すひととしての言動は芸術性をもっていたという点で、法然よりも豊潤で、
さらに、念仏を勧めあるく聖としての生涯も、その思想に苛烈なほどに、忠実だったという点で、
諸事おだやかな日常を好む法然の及びがたいところだった。 」
「 聖とは、僧として無位無官の乞食僧のことということ 」 を、遼太郎のこの章で知った。
私の家の菩提寺は時宗で、本山は藤沢の遊行寺であるが、
そういえば、一遍上人が開いた寺ではなく、弟子達の開山である。
一遍は自ら捨聖といい、南無阿弥陀仏以外は生涯捨てに捨てて、
死に臨んで自分の法義を書いたものさえ、焼きすてた。
「 一切を捨てずば定めて臨終に諸事を著して往生をし損ずべきなり。 」 (一遍上人語録)
遼太郎は、「 一遍が佐久平に入ったのは、
すでに捨聖としての境地を確立した四十一歳のときであった。
五十一歳で生をおえたかれとしては、晩年といっていい。
かれは夏から秋にかけて主に善光寺平にあった。
冬に入って佐久に入ったような気配がする。 」
と書き、一遍を招いたのは大井太郎という佐久武士だろうと推論している。
鎌倉期に入ると、東は相模から西は山陽道から九州にかけて、
野にも山にも念仏が満ちていたという。
念仏門は、法然にはじまって、親鸞がこれを承け、別派として一遍が存在するが、
実際には法然以前に古流ともいうべき念仏集団が多数存在したのである。
たとえば、高野聖を中心とする高野念仏、紀州熊野の熊野聖たちの熊野念仏、
さらには、信濃の善光寺を中心にあつまった善光寺聖という集団があり、
善光寺念仏といわれていた。
念仏の本尊は阿弥陀如来である。
これらの念仏集団は教団化されていないよさがあり、一遍が佐久平にきて、
「 佐久平で、別時念仏をしたい 」 ということになれば、
かれらはその後の法然や蓮如の教団のように相互に排除しあう体質はなく、
他から来たすぐれた聖に歓喜して従ったと、遼太郎は想像している。
また、一遍はここより南、伴野郷に近い小田切で踊り念仏を行った。
平安中期に市聖と呼ばれた空也が行った空也念仏といわれるのが踊り念仏の始めで、
一遍は小田切で再興した。
「 このとき、河原でもやっただろうが、大井太郎に請われて、
その屋敷においてもやった。
数百人をどりまはりけるほどにという騒ぎになり、
とうとう大井太郎の屋敷の床が落ちてしまった。 」
と遼太郎は書いている。
「 一遍の徒は時宗とか時衆とかと呼ばれたが、
一遍の考えもあって、組織化されることがなかった。
室町期になって、親鸞をかつぐ蓮如が出るにおよび、時衆の徒は、要するに同じ念仏ではないか、
ということで、
本願寺という強烈な大組織の中に組み入れてしまい、すくなくとも本願寺史では時衆の痕跡を消した。 」
と記している。