上田宿は、北国街道、正式には北国脇往還の宿場であると同時に、
上田藩の城下町であった。
上田は、信州でも早くから開けたところで、奈良時代には国府や国分寺があった。
真田昌幸が千曲川の段丘に上田城を築き、城下町ができると、市場が開かれ、賑わいみせた。
江戸幕府が誕生し、北国街道(脇往還)が設置されると、上田は宿場町になる。
上田宿は、常田町・横町・海野町・原町・木町・柳町・とんや丁・鎌原・西脇・西新田・
すかべで、構成されていた。
海野宿より上田宿までの距離は二里(約8q)である。
上田宿の東の入口は、左に千曲川市民緑地がある、上堀交叉点あたりと思われる。
交叉点を越えて、北西に進み、信号交叉点で県道141号を横断する。
踏入二丁目で、小さな川を渡り、道なりに進み、ファミリーマートのあるT字路を右折し、
次の変則交叉点は左折して進む。
この通りは常田通りで、県道79号に突き当たると、対面に科野大宮社がある。
「 科野大宮社は、信濃国総社と推定され、中世には常田荘の中心に位置し、
「大宮諏訪大明神」 と称した、と伝えられる。
真田氏の上田城築城以来、真田城の鎮守と定められ、藩費で修繕された、という。 」
大宮社の左の道をすすむと、交叉点の右側に毘沙門堂がある。
そのまま歩くと、県道79号に突き当たる、
三叉路で右折するが、この通りが、横町である。
「 横町は、海野町の発展に伴って、北側の鍛冶町と共にできた町で、
日輪寺、宗吽寺など、寺院が多い。
城下町防衛のため、寺を集めた、といわれる。 」
右手の日輪寺は、天文十四年(1545)、 真田家の祖先である海野小太郎幸義によって建てられた、曹洞宗の寺である。
宗吽寺(そううんじ)は、真言宗智山派の寺院で、もとは上田城の堀の近くにあったが、
上田城築城の際、ここに移された。
その後、上田藩主の祈願寺となり、藩主の参勤交代の江戸への發の日をこの寺が占った、といわれる。
出本堂前の六地蔵石幢は、切妻屋根の家形で、六角形の石灯籠型が普通なので、珍しい。
「 正面と左右両面に、二体の地蔵像を浮彫し、
中央の前後に長方形の口を開けている。
裏面に、正平四年(1349)の印刻があることから、南北朝期のものと思われる
が、南朝の年号なので、南朝方を支持していたということになる。 」
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宗吽寺を出て、道を行くと、横町交差点に出るので、 ここで左折すると、海野町バス停があった。
「 海野町は、真田昌幸が上田城を築城した際、
先祖の地の海野郷・海野宿から住民を招き、町並みを作らせたのが起源と伝えられる。
江戸時代になると、北国街道の上田宿の中心になり、旅籠や商人、職人などが増加し、
隣の横町や鍛冶町ができた。 」
通り(県道142号)の右側に、高市神社がある。
説明板「海野町市神 高市神社」
「 御祭神* 大国主命神・事代主命神
この社に祭祀される御両神は、福の神の代表とされます恵比寿様、大黒様でございます。
真田昌幸公、上田城築城の折、城下町の元町として、海野町を作り、又、商いの主護神として、
請願されたのが、高市神社と伝えられています。
以来、長年に亘り、町の繁栄を守り、幾多の名主の屋敷に、近年では、海野町集会所庭、
海野町会館屋上などに、幾たびか遷座されてきたが、このたび、明治の三十年代に鎮座していた
このゆかりの地に、御参拝できる社殿を建立することが出来ました。
海野町を訪れる皆様の心の糧となりますことを心から願っております。 」
その前に出店が出て、野菜と果物を売られていた。
「市神とお船の天王」という説明板があり、上部に、 諸国煙草問屋・ 上田海野町市神角 上野屋喜左衛門 の店の様子が描かれている。
説明板
「 海野町は原町とともに市場に指定され、市日は1と6のつく日、
後に原町との市日の間隔が均等になるように、3と8.さらに3と5に変更されました。
市商いの繁昌を祈ってこの後ろに、市神が祀られています。
市の祭である祇園祭は、お船の天王、山車、練りなどが出て、盛大に行われました。
お船の天王は、今も横町伊勢宮の船倉に納められています。 」
左側の衣料店オオムラの前に、 「 北国街道上田宿本陣問屋 」 と書かれた石柱が 建っていた。
説明板
「 上田宿の本陣は柳沢家が務めて、問屋も兼ねており、屋敷は広大だった。
客殿の門の東側に、高札場も設けられていた。 」
そのまま進むと中央二丁目交差点に出る。
善光寺道(北国街道)は、この交差点を右折する。
「
上田は、宿場であると共に、城下町であった。
城下町では、町人町と侍町とは区分されていて、
海野町から侍町に入る道は、海野町口のみだった。
道の両側から土塀を突き出させて、見通しを悪くし、木戸を設け、番所を設けていた。
その先の左右は堀で、道に土橋を架け、橋を先は小枡形と大枡形で、L字型をしていて、
右折し、左折すると、侍町の新参町になり、この道が大手門に通じていた、
町民や旅人は右折すると、その先に狭い道があり、それを抜けって、原町へ出ていた。 」
原町交差点をこえた右側に池波正太郎の真田太平記館がある。
中央3丁目交叉点で左折すると木町バス停があるが、
善光寺道(北国街道)は、交叉点を左折したら、すぐ先を左折し、狭い道にはいる。
ここが柳町で、狭い道ながら両脇に古い町並みが残っている。
保命水の井戸で左に行き、「北向観音道」の道標の前を過ぎると、
元禄五年(1692)建立の 「右ぜんこうじ道」 の道標が建っている。
善光寺道の道標を右に曲がる。
交叉点で左折して住宅街を通る。 この辺りが新町で、交叉点を越えて進むと鎌原、
その先の右側に新町郵便局がある。
現在地名、常磐城2を進むと、その先は宿場の防衛となる桝形になっている。
道は右に曲がり、かって城を守っていた矢出沢川を渡り、
丁字路を左折して、次の丁字路を右折する。
そして、高橋を渡ると、生塚交叉点に出て。国道18号に合流する。
上田宿はここで終わりである。
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訪問日 平成十九年(2007)十一月六日
(ご参考) 司馬遼太郎の街道を行く 「 信州佐久平みち 二 上田の六文銭 」
司馬遼太郎は、昭和五十一年の夏頃、「信州佐久平みち」 を週刊朝日に連載している。
その中で、上田と真田氏については、かなりのページを割いて、書いている。
「 滋野氏という氏族が、平安中期から上田平で勃興し、荘園の管理人として勢力を増やし、
平安末期には最盛期を迎えた。
しかし、源平の時代になるころには衰弱し、本海野に本拠を持つ海野氏にとってかわられたが、
この地方の箔を付けるために、(海野氏は) 滋野氏の主族と称し、その系図をひき継いだ。
六文銭の家紋は、海野氏のころから、使われていたらしい。
真田氏は、上田盆地の東北の山中の真田村から興った。
盆地で繁栄した海野氏の主族であることは間違いない。
従って、真田氏も、また滋野系図をかかげて、自家の千曲川流域における筋目を誇った。
ということのなると、千曲川流域では、滋野氏というのは、よほどの名族だったと想像される。
(中略)
江戸中期に、新井白石が諸大名の成立事情を主題とした『藩翰譜』を書いた。
その中で、滋野系図は、「 清和天皇の御子・貞秀親王と申しまして、
信濃国海野白取の庄に下り住ませ給ひ、薨じ給ふ。
後に、白取明神と崇め、また滋野天皇と申し奉る。 」
と 記述している。 司馬遼太郎は、
「 滋野天皇という者が、平安初期、
千曲川ぞいの田園に住んでいたという伝説を作ったのは、滋野氏のおもしろさといっていい。 」
と書き、その後、平安時代以降に勃興した武士達が、政治的に安定させるため、
系図をつくったことが記されている。
「 真田昌幸は、武田信玄に属することによって、信玄の卓越した陣法と、
それ以上にすぐれた民政の方法を身につけた。
信玄の死や信長の非業の死により、武田の旧領の信州は、
徳川家康と小田原の北条氏の草刈り場となった。
その中で、真田昌幸は千曲川流域に独立圏をつくろうとした。
六文銭とか六連銭とか言われるかれの旗印が有効になったのは、この時かと思われる。
この旗はかって海野氏が用い、真田氏が継承した。
千曲川沿いの豪族、郷士、農民は、たいてい、
自分たちが海野氏の後裔であると信じているために、
この旗のもとに集まる習慣をもっていた。
六文銭こそ、千曲川統合のシンボル・マークだったようである。
昌幸は、千曲川流域をおさえる城が必要になった。
かれは、この川の尼ヶ淵というほとりに斬新な設計による城郭をおこし、
松尾城 (上田城) と名づけ、当時流行の城下町をつくった。
いまの上田市は、このときから始まる。 」
と、続けている。
司馬遼太郎は、「 信州佐久平みち 二 上田の六文銭 」 で、
上田平を中心とした滋野氏から真田氏に至る経緯と、徳川政権後の上田藩に触れているが、
本人は、夜、上田市内を通過したのみで、立ち寄った形跡はない。
そういう意味では、遼太郎にとって、歴史的には関心はあったが、
この地に興味はなかったということになる。