上田城は真田昌幸が千曲川の分流の尼ヶ淵に築いた城で、
徳川軍を二度にわたる攻撃にも耐えた真田一族ゆかりの城である。
日本100名城第27番に選定された。
今回は二の丸の北東の上田城跡北観光駐車場に車を置き、城跡を歩く。
「 上田城は、徳川家康より資金を得て、真田昌幸により、
天正十一年(1583)に築城が開始された平城である。
城郭はさほど大きくないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、
他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周辺一帯を極めて堅固な防御陣地にしている。
この城の特性は、天正十三年(1585)、上杉方に付いたことに怒った徳川家康が、
兵を出した第一次上田合戦と関ヶ原の戦いの慶長五年(1600)の二回にわたる徳川氏との合戦の際、
いかんなく発揮され、真田氏と上田城の名を天下に鳴り響いた。
しかし、上田城は関ヶ原の戦い後に破却され、外堀なども埋められ、
藩主だった真田信之も松代に移封になった。
その後、小諸から入封した仙石忠政により、城は再興されたが、
忠政の死により工事は中断し、堀や石垣などの普請は完成したものの、
櫓や城門を建てる工事は本丸のみの未完成に終わった。
現存する上田城の隅櫓や石垣は、この時(寛永三年〜五年(1626-28))、築き直されたものである。
その後、上田城の城主は徳川家の一族である藤井松平氏になり、明治維新まで七代百六十余年間、
上田藩主であった。
明治の廃城令により建物は壊され、城地は売却された。
現在は本丸と二の丸を中心とした部分が城跡公園として残っている。 」
上田城駐車場の左手は児童遊園地になっている。
そこにある平和の鐘は、昔、上田城下町の人々に時を知らせる 「時鐘」 として使われていたもので、昭和九年に現在地に移築された。
左側の左右にあるのが二の丸北虎口石垣である。
説明板「二の丸北虎口石垣」
「 二の丸にあった三箇所の虎口のうち、東・北虎口のみ石垣が残っています。
主な石材は本丸の石垣と同じ緑色凝灰岩です。
現在北虎口にある石垣二基は平成2年及び5年に復元整備したものですが、
北側の石垣の西端は築城当時のものです。
北虎口土橋の両側面には石垣が積まれています。
東側は堀が埋め立てられて児童公園になっており、現在は見ることができませんが、
西側は陸上競技場につながる通路に沿って、良好に保存されています。
平成3年度に実施した発掘調査では、櫓門の礎石が確認されました。
このことから、上田城主仙石忠政は二の丸北虎口にも櫓門を建造する計画だったことが分かりますが、
病死によって建てられることはありませんでした。 」
二つの石垣の間をすすむと、正面に陸上競技場があり、 「百間堀の樋(ひゃくけんぼりのとい)」 の説明板がある。
「 現在の陸上競技場や児童遊園地は、江戸時代には大きな堀でした。
この付近はもともと矢出沢川が流れていましたが、
大工事をして城の北方に流れを変え、旧河床を広げて堀を造ったと考えられています。
その広大な規模から百間堀と呼ばれました。
二の丸北虎口の土橋には東から西側の堀に水を通すために、木で作った樋(導水管)を埋めてありました。
ただし、地中に埋めた木製の樋は腐ったりしてたびたび改修が必要だったと考えられます。
陸上競技場付近に残る石垣には、切石を組み合わせた樋(約90cm四方)の出口を見ることができます。
これは元禄15年(1702)に木樋から石の樋に変えた時のものと考えられています。
当時幕府に提出した修復願いには「木樋が腐って壊れてしまったので、石の樋に変えたい。」
と書かれています。 」
案内に従って坂を下り、陸上競技場に入ると右側に石樋があった。
陸上競技場の左右は少し高くなっているので、
陸上競技場は「 百間堀跡」 という説明に納得した。
北虎口の石垣の左手に、赤松小三郎記念館と、招魂社があった。
「真田忍者の活躍」 という説明板がある。
「 真田幸隆(幸村の祖父)は、武田信玄に仕え、砥石・岩櫃・沼田の城を
次々に手に入れました。
跡を継いた昌幸は真田忍者集団を作りました。
この真田流忍法は甲陽流と呼ばれ、真田一族の根津神平が家元になりました。
神平は、海野宿の近くで、歩き巫女を養成し、くの一忍びとして活躍させたと言い伝えられています。
昌幸は上田城をつくり、長男信之(幸村の兄)は沼田城主となりました。
上田と沼田を結ぶ道は真田街道と呼ばれ、街道の山々には砦が作られ、忍者達が守っていました。
徳川軍が二度攻めてきました。
第一次上田合戦では徳川の大軍に対して真田忍者はゲリラ作戦で大活躍しました。
第二次上田合戦で関ヶ原の戦いに向う徳川軍を上田に足止めにしたことにより、
真田の名が天下にとどろきました。
真田忍者たちは、徳川に仕えた兄信之(上田城と沼田城の城主)のもとを行き来し、
変装して徳川の動向を探っていました。 大阪の陣が始まると、各地にいた忍者は幸村の下に集まりました。
冬の陣が始まると、幸村は真田丸を築いて活躍し、徳川の武将を驚かせました。
しかし、翌年の夏の陣で、真田忍者は幸村とともに勇ましく戦い討死しました。
真田忍者の活躍ぶりは十勇士の物語を生んだのです。
上田城と沼田城を治めていた信之は、1622年松代に移され、上田の真田家は40年間で幕を閉じました。
真田家に仕えていた忍者たちは松代と沼田に分かれました。
現在でも、真田忍者の子孫の多くが吾妻地方で暮らしています。 伊能采女の子孫は甲陽流忍法を伝えています。
忍者頭横谷左近の十代目は上田に住んでおり、秘伝の巻物を所蔵しています。 」
招魂社を出ると目の前にあるのが本丸を守る水堀である。
上田城の堀は素掘りで掘り上げた土をその内側へ堤状に積み上げて土塁にしている。
本丸の北西の角には隅櫓が建っていた。
右側は野球場で、正面に小泉橋がある。
その左手は花木園になっているが、江戸時代には二の丸掘だったところである。
説明板「二の丸隅櫓台と煙硝蔵」
「 二の丸にあった3箇所の虎口には櫓台が東西に各1箇所、土塁上には6箇所に設けられていました。
現在、遺構が保存されているのは東虎口の1箇所と、土塁上の2箇所のみです。
櫓台の存在から、上田城復興に着手した仙石忠政は二の丸の各虎口にも櫓門と櫓を構築する予定だったことが分かりますが、
寛永5年(1628) 忠政が病死したため未完成に終わりました。
また、仙石氏在城以降の絵図には、二の丸南面部に煙硝蔵が1棟描かれています。
煙硝蔵は、仙石氏が上田城主だった貞亨3年(1686)に新設され、
本丸内の櫓に保管されていた煙硝(火薬)を移しました。 」
花木園の先は絶壁になっていて、そこには西隅櫓が建っている。
「 西隅櫓は尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓である。
屋根は入母屋造で、本瓦葺き、外壁は板張り(下見板)とし、
その上から軒の部分までを塗篭としている。
これは寒冷地の城に多く見られ、初期城郭建築の様式ともいわれる。
また、格子窓に突き上げ板戸が付いた武者窓や、
矢や鉄砲を放つための小窓 「矢狭間」 「鉄砲狭間」 も設けられた。
二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入りの櫓である。 」
西隅櫓の脇には急な石段があり、下りて行くと芝生広場と上田城跡駐車場がある。
ここは尼ヶ淵の跡地である。
「
当時、城の南には千曲川が流れ、緩やかで深みのある流れが天然の堀となっていた。
この場所を尼ヶ淵と称したことから、上田城を尼ヶ淵城と呼ばれていたという説もある。 」
西隅櫓の虎口であった石垣をくぐると、本丸である。
本丸の南部分に、真田神社が祀られている。
「 明治維新による廃藩置県で上田藩が廃止され、
国に接収された上田城は民間に払い下げられ、城跡は桑園や麦畑などに姿を変えていった。
そのような状況の中、旧上田藩士や旧領内有志により、旧藩主松平氏への報恩のため、
初代忠晴、二代忠昭、三代忠周
(上田入封初代)を祀る神社を上田城跡に建立しようとの声が起こり、
上田城本丸跡を所有していた丸山平八郎氏の篤志により、
その南半分の地が神社用地として寄附され、
明治十二年(1879)、松平神社が建立された。
その後、本丸の残りの地も丸山平八郎氏から松平神社付属の公園用地として寄附された。
昭和二十八年(1953)、上田の発展に寄与した真田氏と仙石氏、松平氏の歴代全城主を合祀し、
松平神社から上田神社に改称されたが、市内には同名の神社があったため、紛らわしいこともあり、
昭和三十八年、初代城主の真田氏の名を冠した眞田神社に改称された。 」
真田神社には真田氏の家紋の六文銭の表示があり、松平の葵もあるが、
真田氏ということでお参りする人が多いのではないか?と思った。
境内には真田信繁(幸村)が身に着けたといわれる巨大な鹿角脇立朱塗の大兜がある。
眞田井戸は、上田城内で唯一の大井戸で、本丸唯一の井戸で、直径二メートル、
深さは十六・五メートルに達する。
この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山の砦や藩主居館に通じていたとの伝説がある。
真田神社には、六文銭の幟が立っている。
「 真田家の家紋として名高い六連銭は六文銭とも呼ばれるが、
仏教説話の六連銭に由来する。
銭六文を死者の棺に入れ、六地蔵に供える風習にのっとり、
不措身命を唱える武士にとってふさわしい旗印だった。
東信濃の古代以来の豪族、滋野(海野)氏の代表家紋であり、
その流れをくむとした真田氏もこれを用いた。 」
その北側は前回訪れた時は整備されていなかったが、今回訪れると盛土で小高くなっていて、 上ると、 「史跡 上田城跡本丸跡」 の石柱が建っていた。
紅葉になっている木の下をすすむと、広々とした広場が広がり、
南西部には、上田城の歴史が書かれた大きな石碑があった。
本丸には、天守は建てられず、七基の二層隅櫓と二十基の櫓門が建てられたことが、
絵図と発掘調査により、確認されているが、現在は櫓三基と楼門一基が残るだけである。
下に降りて西に進むと、見えてくるのが北櫓である。
北櫓の右側にあるのは、東虎口櫓門、その隣は南櫓である。
「 正面の東虎口櫓門と袖塀は、平成六年に復元されたものである。
左右の隅櫓(北櫓、南櫓)は、明治十一年に移築され、遊郭で使用されていたが、
市民の寄付金により買い戻し、
昭和十八年〜昭和二十四年にかけて、もとの場所に移築し、復元したものである。
北隅櫓と南隅櫓の構造は、西隅櫓と同じで、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。
屋根は入母屋造で、本瓦葺き、外廻りは白漆喰塗壁大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗の真壁である。
窓は突き上げ板戸が付いている白漆喰塗の格子窓である。 」
櫓門の中で、真田氏、仙石氏、松平氏の展示が行われている。
東虎口櫓門を出て振り返ると、右側の石垣の中にに大きな「真田石」と呼ばれる石がある。
大手門の石垣に巨石を用いる例は多く、
城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。
「真田石」の説明板があった。
説明板「真田石」
「 真田昌幸(幸村の父)が上田城築城の際、太郎山から掘り出したこの大石を 「真田石」 と
名付けた。
その子・信之は松代に移封のとき、この石を家宝として持っていこうとしたが、
微動だにしなかったと、伝えられる。
以来、文字通り、上田城にそなわった礎石である。 」
二の丸の土橋の上にいたのは、「おもてなし部将隊」 の二人である。
撮影の合言葉は 「 さなだっ、じゅうゆうしっ!! 」 のようである。
二の丸跡の正面は空地で、道は左折、左側には紅葉に彩られた水堀があり、
本丸を東、北、西の三方を取囲んでいる。
水堀と別れ、右折すると、左奥に上田市博物館と別館がある。
ここには日本100名城のスタンプが置かれている。
直進すると、その先には二の丸橋という、土橋がある。
土橋の手前には、上田城の二の丸大手門があり、両側に、 武者立石段 と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
石橋の上には、頭文字のようにみえる標柱が建っているが、
ここに書かれているのは 「二のマルハシ(二の丸橋)」 である。
下に降りると遊歩道になっている。
ここは上田城の二の丸の堀だったところで、
昭和二年から昭和四十七年まで、 けやき並木歩道に、 軽便鉄道が通っていた。
二の丸橋の下には公園前駅(旧公会堂下駅)があった。
二の丸橋を出ると、信号交叉点の対面に上田市観光会館がある。
ここでも、日本100名城のスタンプが押せる。
地面に、「真田紐(さなだひも)」と書かれた説明石がある。
説明板「真田石」
「 この歩道は、真田親子が九度山に流された折、内職で織ったといわれる、
真田紐をデザインものです。
商工会議所の前の枡形の位置に、大手門があり、この前には幅32m、
南北の長さ200m余の掘があって、その内側が三の丸でした。
この三の丸を大手門より、二の丸に向って一直線にのびる通りは、
いわゆる大手通りで、新参町と呼ばれていました(現 大手町) 」
以上で、上田城の見学は終了である。
所在地:長野県上田市二の丸
JR長野新幹線上田駅から徒歩10分
訪問日 平成十九年(2007)十一月六日
再訪問
令和元年(2019)十一月二十一日
(ご参考) 「上田合戦」
◎ 第一次上田合戦
「 徳川軍七千余を撃破し、威名を天下に轟かせた合戦である。
戦国時代の終わり頃、徳川家康は、対立していた北条氏直と和睦し、和睦の条件として、
上州沼田を氏直に引き渡すよう真田昌幸に指示した。
しかし、昌幸は 「 沼田は自分の力で得た領地、北条に渡す謂れはない。 」 と拒絶した。
怒った家康は、上田城への攻撃を決意、徳川の先陣約七千人が佐久から、八重原に集結し、
陣を張った。
一方、昌幸は、城下に、 千鳥掛 (城外に向けて八の字に開いた柵) の柵をかけ、
五百人の兵とともに籠城した。
天正十三年(1585)閏八月二日、徳川軍は八重原を出て、
依田川の長瀬河原から、猫ノ瀬(子この瀬)を渡って、
信濃国分寺方面へ向う。
これに対し、昌幸は、息子の信之と幸村に兵を与え、
国分寺の北の神川近くに陣を構えさせた。
真田勢(信之と幸村の軍)は、神川を渡ってきた徳川軍を信濃国分寺近くで迎え撃ち、
小競り合いをしながら、誘うように退却。
徳川軍は誘いに乗って、信之・幸村軍を追撃。
追撃させた信之・幸村軍は上田城三の丸の横曲輪に逃げ込んだ。
徳川軍は、大手門を突破して二の丸へ攻撃を仕掛けた。
その時、昌幸は五百の兵で二の丸から打って出た。
これと併せ、信之・幸村も、横曲輪より側面攻撃を開始すると同時に、町家に火を掛けた。
不意を突かれた徳川軍は、慌てふためき退却を開始したが、退路を千鳥掛の柵にさえぎられ、
多くの兵を失なった。
さらに、退却する徳川軍は、昌幸の追撃と信之・幸村による側面攻撃を受け、
神川まで追い詰められ、
水かさが増していた神川を渡ろうとした徳川軍は更に兵を失った。
その後、神川周辺で両者は一進一退を繰り返し、夕暮れを迎えて、真田軍は兵を引き上げた。
翌三日、八重原に退却した徳川軍は、上田城を直接攻撃するのは難しいと判断し、
真田方の支城・丸子城の攻略に変え、陣場山・柴宮砦に移動。
それを見た真田勢も、市の砦と尾野山城に移動。 丸子河原で激しく戦ったが、
城を落すことが出来ずに、にらみ合いが続くこととなった。
九月十三日、家康の命を受けた井伊直政ら五千人の軍勢が着陣したが、
徳川家康の重臣・石川数正が豊臣方に寝返ったため、十一月十一日、
徳川軍は丸子の河原付近を焼き払い、
小諸城に真田の抑えとして、大久保忠教を残して引き揚げた。
こうして、三ヶ月に渡る第一次上田合戦は終わった。 」
◎ 第二次上田合戦
「 真田氏が、徳川秀忠が率いた徳川軍主力部隊三万余を翻弄した戦いである。
その結果、秀忠は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
豊臣秀吉が亡くなって二年目の慶長五年(1600)の春、
徳川家康は会津の上杉景勝が謀反を企てているとして会津征伐に向った。
真田昌幸と信幸・幸村の父子も、徳川勢に加わり、関東に向った。
その途中、石田三成が京都で挙兵し、昌幸にも誘いの書状が届いた。
これを受けた、父・昌幸と弟・幸村は石田方に、 兄・信幸は徳川方につくことになった。
世に言う犬伏の別れである。 昌幸と幸村は沼田城下を通り、上田城に戻った。
沼田城では、信幸の子(昌幸の孫)に会いたいと申し出て、入城を断られている。
八月二十四日、徳川軍の本隊を率いた徳川秀忠は、下野国の宇都宮を出発した。
上田城を攻め落としてから、西軍を討伐する家康と合流する予定である。
総勢約三万八千人が中山道を上野国から信濃国に入った。
江戸に戻った家康は、九月一日に西に向った。
九月二日、秀忠は、小諸城に到着し、昌幸に上田城を明け渡すよう、
本多忠政と真田信幸らを使者に送った。
会見は信濃国分寺にて行われたが、昌幸は返事を数日延ばし、
城の普請など戦いの準備を進めた後、西軍の三成に加勢することを告げた。
九月四日、激怒した秀忠は、小諸を出発し、信濃国分寺の北西、染屋台に、陣を進めた。
兄・信幸と戦うことを避けた真田幸村は、砥石城を捨てて、上田城に入った。
九月六日、徳川秀忠は上田城への攻撃を開始した。 迎え撃つ真田の軍勢は約三千人である。
昌幸と幸村は、城外に出て徳川軍を挑発し、小競り合いを繰り返しながら、
上田城へ退却を装った。
追撃してくる徳川軍に、上田城から真田軍が出撃し、戦っては退き、退いては出撃し戦った。
虚空蔵山の伊勢崎城に籠っていた伏兵が、徳川軍の背後を付き、牽制する。
徳川軍は、上田城の攻撃をあきらめ、小諸城に撤退し、九月八日、上田城の押さえとして、
仙石秀久・真田信幸らを残して、中山道の木曽路へと軍を進めることにした。
秀忠が、九月十五日の関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことを知ったのは、
木曽路を通過している時だった。
秀忠が率いる徳川軍の本隊三万八千人は決戦に間に合わなかった。 」