北国街道は北国脇往還ともいい、
中山道の追分(軽井沢町)と 北陸道の高田(新潟県上越市)を結ぶ、
三十五里(140km)の道のりである。
途中に、善光寺があるため、
そこまでの道を善光寺街道とか善光寺道と呼ばれていた。
善光寺道は、追分宿から浅間ヶ原を通り、小諸宿、上田宿を経て、
屋代(当時は矢代)から川舟に乗って千曲川を渡り、篠ノ井宿に向い、善光寺を詣でる、
という道であった。
海野宿は、田中宿と上田宿の間の宿場であったが、田中宿との相宿になった。
田中宿の水害による混乱により、本陣や脇本陣が出来、田中宿と立場が逆転した。
◎ 海野宿(うんのしゅく)
北国 (善光寺) 街道の海野宿は、田中宿と上田宿の間にあった宿場である。
田中宿から十六丁(二キロ位)、上田宿へは二里の距離である。
田中宿とは近い距離であるが、元々は田中宿しかなかったが、
田中宿が度々の洪水で閉鎖になったため、
間の宿であった海野宿が宿場に昇格し、田中宿と相宿となったという、いきさつがある。
海野宿の東側に有料の駐車場があったので、そこに車を置き、歩き始める。
「 海野宿は、東と西の入口に枡形が配置され、
東の枡形には番屋があった。
東の枡形は、白鳥神社と地蔵寺の前に斜めに置かれた。
しかし、明治四十三年の大洪水で流失してしまったので、当時の面影は残っていない。 」
公共トイレの隣に、 「海野氏発祥」と書かれた石碑があり、傍らに説明板が建っている。
説明板の文面
「 海野氏は、千二百年前の奈良時代には海野郷として開けていたこの地に居を構え、
中信から北上州に及ぶ地域を支配していた。
居館は段丘の上にあり、海野集落は城下町であった。
その後、京より下ってきた滋野氏の一族となり、
治承五年(1181)、、木曽義仲の白鳥河原挙兵に際しては、中心的役割をはたした。
木曽義仲は、この南の白鳥河原で、信濃と上州の兵二千騎を集め、挙兵した。
平家追討の軍は、横田河原(長野市篠ノ井)の戦いで、越後軍を破り、
その後は破竹の勢いで、京に攻め上った。
鎌倉時代には、源頼朝の家人として重んじられ、弓馬の名手として、天下に名を轟かせた。
その後、北条氏に、室町時代には信州守護・小笠原氏に仕えたが、
戦国時代に入ると、小笠原氏の勢力が衰え、天文十年(1541)五月、
甲斐の武田信虎(信玄の父)が、村上・諏訪氏と連合し、滋野一族を攻めてきた。
海野平の合戦 といわれる戦いであるが、
その戦いに負け、一族の禰津氏と矢沢氏は降伏、
海野棟綱、真田義隆は上野国に逃亡、海野氏の嫡男・幸義は戦死し、
佐久平の名門、海野氏は滅亡した。 」
右側の広い敷地の中にあるのは白鳥神社である。
「 日本武尊が、この地に滞在したことから、白鳥神社と称し、
海野氏の祖、貞元親王、善淵王、海野広道を祭神し、
寛正二年(1461)に建立されたと伝えられる。
海野氏が信仰するものであったが、その後、海野宿の産土神(うぶすながみ)として、
崇敬を集めてきた。 」
本殿は、寛政三年(1791)、拝殿は明治十四年の建立で、
白鳥神社という名になったのは明治に入ってからである。
境内の東側にある新海神社は、海野氏居宅跡にあった神社を移設したものである。
また、道祖神が祀られていた。
社叢はこれらの歴史を語っているようで、中央のけやきは、樹齢七百年を超えるとある、
威風堂々としたものだった。
その先に右側の奥には海野宿ふれあいセンターがあるが、 旧地蔵寺 の跡である。
媒地蔵尊を祀る祠があった。
説明板
「 地蔵寺は、元禄四年に建立され、女性に人気があり、
多くの参拝者を集めたという寺だが、昭和二十六年に燃失、
現在のは平成七年に再建したものである。
加賀の殿様が参拝したところ、姫が良縁に恵まれ、殿様が大変お喜びになった、
という逸話が残り、この逸話から、媒(なかだち)地蔵尊とか、
縁結地蔵と呼ばれるようになった。 」
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通りに立つと、左側に柳と用水があり、古い家並みが続いている。
昭和六十二年に、江戸の旅籠時代の建物と明治から大正にかけての養蚕時代に建てられた建物が共存する歴史的に価値のあるところとして、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。
用水の形は当時のままのようである。
「 海野宿は、全長約六町(約650m)で、道の真中に用水が流れ、
北屋敷、南屋敷の両脇に、家並みが続き、上宿、中宿、下宿に分かれていた。
北側の屋敷は本陣や脇本陣を含め、四十九軒、南側の屋敷は六十軒、
合わせて百九軒の家が軒を連らなっていた。
小路は、北側に三、南側に三あった。 」
右側にある海野宿資料館は、寛政年間(1790年頃)に建てられた旅籠屋造りの建物である。
資料館の前に、一茶の歌碑があった。
「 夕過ぎ乃 臼の谺(こだま)の 寒哉 」 (文政九年十一月)
海野宿資料館 (200円、9時〜16時、年末年始は休み)
玄関を入ると、右手に伝馬をつなぐ馬屋と台所があり、
左手に店の間、表座敷、中座敷、奥座敷が並んでいた。
座敷には、奈良時代の海野郷の起源や東信随一の豪族・海野氏の資料などが展示されていた 。
二階には出桁造り(一階より二階が張り出しているもの)で、三部屋の大部屋があり、
旅人はこのような相部屋に宿泊した、という。
危険ということで二階が見られなかったのは残念だった。
明治時代には養蚕が行われたので、小屋根(気抜き窓)が取り付けられていた。
裏庭には養蚕関係の展示室や味噌部屋、風呂場などがあった。
その向こうに、卯達(うだつ)が上る家がある。
海野宿の建物の特徴として、卯達(うだつ)と海野格子が挙げられる。
卯達は富裕の家でなければ建立できるものではなかったので、
「 うだつがあがらぬ 」 という言葉がうまれたのである。
説明板「卯建」
「 うだつは卯建の他、宇立、宇太知とも書かれるが、
建物の両側にある妻壁(つまかべ)を屋根より一段上げ、小屋根を付けたものを、
「本うだつ」 といい、防火壁の役割を果たし、火返しと呼ばれていたようである。
それに対し、一階の屋根の上に張り出して、意匠をこらし、装飾をかねた袖壁が、
明治時代に入ると作られた。
これは「袖うだつ」と呼ばれるものであるが、長屋造りの建物で、
戸ごとの仕切りに作られたものもあった。 」
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大嶋屋は御休処になっているが、屋根の上に小屋根がある建物である。
説明板「気抜き」
「 蚕の飼育には保温が必要なため、室内で火を焚いたため、
「小屋根」 と呼ばれる煙出し用の気抜き(けぬき)窓が、大屋根の上に取り付けられた。
この小屋根は下から紐で引っ張って開閉できる構造になっていた。 」
海野宿には、格子戸のはまった家が多いが、格子に特徴があり、海野格子と呼ばれる。
海野宿資料館の二階を見上げると、海野格子が確認できる。
「 一階の格子戸は明治以降に造られたものが大半ということだったが、
二階の格子は出格子になっていて、長短二本ずつと交互に組み込まれ、
美しい模様を描いていた。
普通の格子は上から下まで一本通しで、間隔を置いているが、
海野格子は、二本通しの間に、少し上部が開いて、二本間隔で横木がくっついて、
上部に二本あるのが特徴である。 」
海野宿は、宿場のほぼ中央に、本陣、その左右に脇本陣を設けられていた。
「
宿場が開設された当初は問屋のみであった。
問屋は、武井作左衛門がつとめたが、寛永十四年(1637)からは、藤田市太輔栄吉に代わった。
寛保二年(1742)の洪水で、田中宿が大被害を受け、宿場の機能が麻痺したことから、
田中宿から本陣は移され、問屋の藤田傳左衛門が兼ねることになった。
本陣を補佐する脇本陣も矢島六左衛門と宮下彦左衛門の手に委ねられることとなった。 」
本陣は門長屋(もんながや)の一部を残すのみである。
門の左側に 「本陣跡」 を示す石碑が建っている。
「
藤田家は藤原鎌足の末裔で、藤田信吉は武田信玄の旗下に属し、
武田氏滅亡の後は上杉氏の被官となり、上州沼田城を守っていた。
その後、北条氏のものになり、沼田城城代になったが、秀吉による北条氏攻めで落城。
不遇のうちに、信濃国奈良井で死んだ。
孫の藤田市太輔栄吉は、小諸藩仙石家の家臣・簿田七郎兵衛の娘を妻に迎え、
本海野に住み、本陣を勤めた。
以来八代、藤田傳左衛門国直まで、藤田家が本陣職を勤めた。 」
左側の脇本陣は改築されており、右側にあった脇本陣は撤去されていて、当時の様子は確認できなかった。
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滞在したのは短い時間であったが、多くの団体客が訪問していた。
特に印象的だったのが、タイやマレーシアやインドなどの留学生達のグループである。
ボランティアガイドの説明で、日本の歴史をどのくらい理解できたのかなあと思いながら、
海野宿に別れを告げた。
留学生のツアー | <
海野宿へは、鉄道を利用する場合、 しなの鉄道の田中駅あるいは大屋駅から徒歩二十分である。
訪問日 平成十八年(2006)九月六日
(ご参考) 海野宿の歴史
「
海野宿は、寛永二年(1625)に北国街道の宿駅として開設された宿場である。
田中宿に隣接しているのにかかわらず、海野に宿場が設けられたのは、
旅人が多かったこともあるが、
依田窪や松代からの道や祢津からの道が集結する交通の要路にあったこと、
また、六斎市も行われ、交通と商業の中心地であったためである。
初めは、田中宿の間(あい)の宿として、問屋だけが置かれ、
公道の輸送を任務とし、人足二十五人と馬二十五匹を常備し、
田中宿と半月交代で任務にあたっていた。
寛保二年(1742)の大洪水により、田中宿は大きな被害を受けたため、
本陣などが海野宿に移されたことにより、享和三年には旅籠が二十三軒に増え、
伝馬屋敷が六十三軒と、田中宿を越えた宿場に発展したのである。
江戸幕府は宿場を設置するにあたり、宿場に伝馬を常備させる一方で、
その代償として。一定の伝馬屋敷地の地祖を免除した。
伝馬屋敷は、東海道では伝馬一匹につき三十〜百坪、一宿で七十二軒を基本としたが、
寛永十五年(1638)に、常備馬が百匹に増加すると、一宿に伝馬屋敷が二百軒が基本となり、
その屋敷地を拡大した。
海野宿の問屋場には馬指二名と帳付二名の役人が常勤していた。
また、伝馬屋敷は六十三軒あったが、本陣、問屋と庄屋を除いた五十九軒で勤めていた。
その内、二十五軒が馬持役、二十五軒が人足役で、人足と馬が常備され、
残りの九軒分は代金役で出していた。
なお、寛永十九年(1642)の荷物は、普通一駄が小諸へ七十五文、上田へ五十文だった。
明治維新で参勤交代が無くなり、宿場の機能は失われたが、製糸業が盛んになり、
長野県、ことに小県(ちいさがた)地方は、生糸の景気で活況を帯びてきた。
本海野の人々は、宿場だった広い部屋を利用して、養蚕や蚕種業を始め、
蚕種は関東地方から外国にまで売り出され、養蚕の村に変わった。
(*) 本海野の地名は、真田氏が上田に城下町を開設した際、海野から住民を移住させ、
上田に海野町を作ったので、それと区別するため、本海野と名のった。
少雨量、乾燥地であるこの地は養蚕に適し、その中でも本海野は蚕種製造が盛んで、
明治元年に十八軒、壱万枚以上の種紙を販売したとある。
明治十一年(1878)の調べによると、養蚕兼農業が百三十五戸、工業七戸、商業一戸、とあり、
宿場から養蚕の村へ脱皮した姿が窺える。
明治二十一年(1888)には、隣の田中宿に信越線の駅が開設され、
海野にもという動きがあったが、実現しなかった。
明治時代に海野村と田中村などが合併し、県村になったが、その後、田中村になった。
昭和の大合併で東部町へ、そして、今回の合併で、東御市となった。
鉄道の駅が誘致できなかったことや産業誘致などからも取り残されたことが、
海野宿に古い町並みが残った理由であろう。
昭和五十五年頃から町並み保存の運動が始まり、昭和六十一年に日本の道百選に選ばれ、
翌六十二年に、江戸の旅籠時代の建物と明治から大正にかけての養蚕時代に建てられた建物が
共存する歴史的に価値のあるところとして、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。 」
◎ 司馬遼太郎の街道を行く 「 信州佐久平みち 五 千曲川点景 」
司馬遼太郎は、昭和五十一年の夏頃、「 信州佐久平みち 」 を週刊朝日に連載している。
遼太郎氏は、関西在住のため、長野県には訪れたことがなく、軽井沢を始め、
この佐久から上田へかけての旅行は始めてとあるが、
そうしたこともあってか、訪れた印象は芳しくなく、
冷たい表現に終始しているのは少し気になった。
前夜別所温泉に宿泊した遼太郎氏は、信濃国分寺跡と、海野宿を訪れていて、 その印象を「 五 千曲川点景 」 として掲載している。
最初に、信濃国の国府について論じている。
「 温泉のある塩田平がそれと連なる上田平とともに、
信濃でまとまった規模の農耕地帯として最初にひらけ、
小県(ちいさあがた)という地名で、中央にも早くから知られていた。
奈良朝の律令体制がはじまると、このあたりに国府がおかれたらしい。
どこに置かれたかは、明確ではない。 」
と記し、いくつかの候補地を上げて述べてられている。
その後、信濃路に話題を転じている。
「 続日本記の和銅六年(713)に 美濃・信濃二国の堺は、
経道艱難なり。 よりて 吉蘇路(きそじ)を通ず。 とあり、
信濃側の松本から木曽福島を経て、美濃の中津川へ出ていく道路ができた。 」
と記し、この道のその後の歴史的な出来事を書いている。
しかし、これには、一部に誤りがあるように思われるので、小生の見解を述べる。
「
続日本紀には、大宝二年(702)に、 岐蘇山道(きそのやまみち)が、
和銅六年713年(713)に、吉蘇路が開通したとあるのは、遼太郎氏のいう通りである。
当時の官道は東山道で、美濃と信濃の堺は恵那山で、美濃から伊奈谷の方に下りていたが、
神坂峠越えが命からがらの旅だった。
吉蘇路が開通したことから、東山道は、時代と共に利用者は減り、
木曽路に置き換わっていくが、戦国時代まで続いている。
恵那越えよりは楽な木曽路だが、谷が厳しく、川越えが危険で、
中山道として街道に制定されたのは、江戸時代のことである。
なお、木曾の表記は平安時代末期ごろからで、
木曾義仲の活躍などによって広く定着したといわれる。 」
遼太郎氏は松本からと記して、中山道で都に行くのに使われたと書いているが、これが氏の勘違いである。
初期の中山道は、岡谷から小野峠を越し、小野宿に出て、牛首峠から木曽谷の日出塩へ入り、
桜沢から贄川宿に通じるルートであった。
小野宿は、東山道の宿場だったところで、江戸時代にも伊奈街道の宿場である。
遼太郎氏が書いた松本から贄川への道は、江戸時代には善光寺道と呼ばれた道である。
遼太郎氏は、万葉集の東歌の一つ(巻十四、3399)、
防人に徴せられて、都へゆく若い夫のために妻が詠んだ歌
「 信濃路は 今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に
足踏ましなむ 久都(くつ)はけ わが背(せ) 」
を記し、墾道とは、開通したばかりの新道で、
「 まだ、笹などの刈株がそそけ立っているので、
足を踏みぬいたりしないように、履(久都)をはいていらしゃいよ 」
と歌の意味を記している。
信濃の国府は時代と共に、転々としたようで、一時は諏訪にもあったようで、 遼太郎氏のいう街道の開通だけでは判断できないのではないか? それより朝廷や荘園などとの結び付きの方が強いと、小生は思う。
遼太郎氏は上田の郊外の国分寺跡に訪れると、
「 河原に信濃国分寺跡という大きな石碑が建ち、
史跡公園などと仰々しく銘うたれているが、
地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台がある程度で、
樹木といえるほど樹木はなく、その場に立っているだけで心が荒涼としてくる。
信州人は神経がゆきとどいた感覚を持っている。
そのことは定評があるところだが、どうも諸事品下がってきた日本のなかにあって、
信濃人までがさつになってきたということだろうか。 」 と、記している。
この後に、遼太郎の公園観というか、定義は杜があるところということのようで、
一頁半を使って述べている。
遼太郎氏は、国分寺跡から、千曲川にそってわずかに南にゆくと、
本海野宿と呼ばれる集落に入った。
「 この海野郷は、上田平・佐久平のなかでは、
律令制度が崩れる過程で、営農集団の親分ともいうべき武士が勃興したとき、
千曲川沿いでもっとも巨大な勢力 ー 海野氏 ー が成立した場所であるが、
いまはむしろ、江戸末期の宿場の名残りのほうが、めだつ。
各戸にうだつを上げた宿場の宿が、道路の両脇にならび、
道路の片隅に、石積みでつくられた溝が流れている。
馬の足を洗うための流れで、いかにも風情がある。 」
と、ここまではよかったが、
「 このせっかくの家並をかざるだけの街路樹がよくないために、
家々が剥身で露天にさらされている感じで、
古寂びたという翳はなく、むしろ古屋敷の古さが、
寂びよりもすさびとしてめだつようであった。
往年、自分の環境を美しく守ってきた信州人の姿勢は、
どこかで崩れはじめているのかもしれないと思った。
」
と、ここに住む人からすれば、勝手なことをいうという気持ちを持ったのではないか。
当時の海野宿には、県が馬籠宿のような史跡指定を申請する動きがあったようで、
生活が不自由になることから、若い人を中心に反対する動きがあった。
遼太郎氏は、反対する運動には肯定的で、
「 人間の住まいという私的な環境は、
そこでは誰に遠慮することもないということで、古代から成立している。 」
と述べておられる。
小生が訪れた時は、海野宿も伝統的建造物の指定を受けていたが、 遼太郎が指摘した項目はかなり改善され、 外見ではかなりの制約はあるが、内部の制約は少なくなっているようだった。