高遠城は武田信玄により、高遠頼継の高遠城を改修された、武田築城術による後堅固な城である。
日本100名城の第30番に選定されている。
城に咲く桜は、タカトウコヒガンザクラという品種である。
紅の色のあでやかさと小ぶりな花が特徴で、地元の人達はいっせいに咲き、
ぱっとと散ってしまう花のいさぎよさと、血汐のように見える花色に、織田軍と戦い、
壮烈な死を遂げた武田の大将、仁科五郎盛信を重ね合わせ、大事に育ってきたという。
高遠に入るには茅野市の諏訪大社上社前宮前の国道152号を南下する。
国道152号は、峠の茶屋からを杖突峠抜け、高遠へ至る道である。
この道は三河から信濃に塩を運ぶ塩の道と言われていたところである。
お昼時であったので、紅さくら というそばやに入り、天婦羅せいろをいただいた。
高遠はからみ蕎麦が有名で、そば切り発祥の地といわれるところである。
車は高遠町歴史博物館の駐車場に入れた。
ここには江戸時代、歌舞伎役者生島と大奥女中
絵島の密会が発覚し、奥女中の絵島が閉じ込められた 「絵島囲み屋敷」 がある。
生母お静と正之の像があり、傍らに 「保科正之公・生母お静(志津)」 の説明板が建っている。
「 保科正之の生母・お静は、天正十二年(1584)小田原で神尾家の二女として誕生しました。
成人して二十五歳才のとき、二代将軍・徳川秀忠の侍女として、江戸城に奉公しました。
容姿端麗にして、聡明な素養を身につけていました。
まもなく、秀忠公の寵愛を得て、子を身籠り、慶長十六年(1611)に幸松は誕生しました。
しかし、秀忠公の正室お江与の方は大変嫉妬深く、お静と幸松は危険を避けるため、
武田信玄の娘・見性院と、信松尼の愛情と助けを得て、江戸城内の比丘尼屋敷で暮らしました。
元和三年(1617) 幸松七歳の時に、高遠藩主・保科正光公の養子となり、
母子ともにこの高遠に迎えられました。
正之公は、知将の武士たちから教えを受け、
同時に四季折々に展開する大自然と人々の営みからも多くを学び、
鋭い感性を研き、清貧・人格を身につけていったのでした。
お静は、秀忠公が他界後は浄光院と名を改め、母親の深い愛情を幸松にそそぎ、
大成を願っていました。
正之公は二十一歳で高遠城主となり、正之が二十五歳の時、、
五十二歳の生涯を高遠の地で終わりました。
江戸の目黒にある成就院は、三大将軍家光公が正之公を異母弟だと知らされた逸話のある寺です。
そこにはお静が正之の大願成就を願い奉納した金剛宝・金剛幢・金剛願の地蔵があり、
これをお静地蔵と呼んでいます。
正之は七歳から二十六歳まで高遠で心身を鍛え凛々しい青年に成長しました。
その後、家光の信頼は益々深まり、高遠藩の人々を伴って、最上藩から会津藩へ転封されました。
兄家光没後、慶安四年(1651) 四十一歳からは江戸に招かれて二十年間、
四代将軍家綱公を助けて、武断政治から文治政治へ転換を図りました。
民衆の立場に立った人道主義的善政を実施し、幕政と藩政を両立させながら、
江戸幕府二百六十五年の基礎を築き上げました。
なお、保科正之の会津藩は松平姓を名乗り、会津若松で明治維新を迎えるのである。
また、保科正光の保科家は保科正光の従兄弟(父正直の三男)が継いで、
上総國飯野藩(三千石→二万石)となって行く。 」
高遠は、今は時代に取り残された山あいの静かな町ではあるが、
明治までは信濃統治上重要な場所であった。
高遠城は、月蔵山の山裾が西に伸びた土地の兜山と呼ばれる丘の上、
三峰川と藤沢川に削された河岸段丘上の突端に位置し、
南方へ三峯川が張り出した伊奈谷の中でも一番堅固な地形の上にあった。
「 高遠が属する信濃は、古代から諏訪神社の大祝職の諏訪氏が勢力を持ち、
南北朝のころには、諏訪氏一族の高遠氏がこの地を支配していた。
天文年間に入ると、武田信玄が信濃に侵略し、高遠も支配下に置き、
諏訪氏一族の高遠氏は切腹させられ、高遠家は断絶してしまう。
二十五才の若さの武田信玄は、この地が諏訪から伊奈路に入る場所に位置し、
駿河や遠江に進出するための重要な拠点であることに着眼し、高遠城を堅固な城に改築するよう、
山本勘助に指示し、天文十六年(1547)に鍬立てを行っている。
山本勘助は、築城技術駆使し、城を拡張改築させた。 」
江戸時代に大規模な改修が行われたため、信玄時代の城の姿は分かっていないが、 各曲輪を隔てるためにめぐらした深い空堀や城内に残る土塁からは、 地形を利用した戦闘的な城の姿をうかがい知ることができる。
日本100名城のスタンプは高遠町歴史博物館に置かれているので、受付でゲット。
博物館からは上りで、案内に従っていくと信州高遠美術館がある。
そこに入らず進むと高遠城の南ゲートがある。
さくら開花の時期はここから先は有料入場となる。
「 慶長六年、下総国多古城主・保科正光は、家康の命により、高遠城主になり、
高遠藩三万石の譜代大名になった。
その際、下総多古の名刹、樹林寺観音堂の土を運んできて、お堂を建て、夕顔観音を写し作って、
勧請したのが樹林寺で、保科氏の祈願寺になっている。
保科正光は、その後、秀忠の庶子を嗣子として預かり、保科正之として、母子とも養育し、
二十一歳になると、藩主にして、自らは隠居した。
三代将軍になった家光は、保科正之が異母弟であることを知り、
寛永十四年、山形二十万石へ転封、次いて、会津若松二十三万石の城主に任じ、
補佐役を命じた。
高遠藩は、保科正之の跡には鳥居氏が来たが、他に転出となり、
元禄四年(1691)、摂津国富田の内藤清枚が三万三千石で高遠藩主となり、
その後、内藤家が明治維新までの百八十年にわたり、この地を治めた。 」
南ゲートは 「馬場先門」 の跡である。
入った先は横に細長く続く、法幢院曲輪(ほうどういんくるわ)の跡地である。
右側にあるのは外堀で、対面には二の丸の無字の碑が見えた。
左側には駐車場が見えるが、その手前のへこんだところは外堀跡である。
法幢院曲輪には、松井芒人歌碑や広瀬奇壁 河東碧梧桐の句碑がある。
句碑の表は高遠出身の広瀬三郎(俳号奇壁)が遠く東の仙丈ヶ岳を詠んだ句で、
「 斑雪 高嶺 朝光 鶯 啼いて居 」
裏面は奇壁と交流があった河東碧梧桐の句で、西の駒ヶ岳の残雪の雪形が駒の姿に見える
情景を詠っている。
「 西駒は 斑雪(はだれ)てし尾を 肌脱ぐ雲を 」
題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、
独特のスタイルをもつ書家、中村不折の揮毫によるものである。
外堀に架かる白兎橋を渡る。
渡った右側には 「靖国招魂碑」 があり、その手前には石垣が一部残っている。
渡った先には、「南曲輪」の説明板がある。
説明板「南曲輪」
「 本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。
形状は方形をなし、本丸とは堀内道、二の丸とは土橋でつながっていた。
本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、
これは本丸南東の隅にある巨大な中村元恒・元起記念碑を立てるために造られたものである。
また、明治三十年(1897) それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、
靖国招魂碑を立てるにあたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。 」
かっては、本丸と南曲輪との間に、内掘と竪掘があり、
江戸時代にはその間を掘の下に降りて、上っていく道があった。
非常用の道と思われ、通常は南曲輪から二の丸経由で通行していた、という。
本丸跡の左隅にあるのは太鼓櫓である。
江戸時代にはその南下に笹曲輪があった。
太鼓櫓は明治以降に建てられた櫓で、時の太鼓が置かれていた。
秋に訪れる寂しいが、桜の時は見事である。
本丸の中央は柵で囲まれていたが、ここも桜の花見時は人がごったかえして、
身動きができないほどである。
「本丸跡」の説明板がある。
「 高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、
東から北にかけて二の丸、
さらに、その外側に三の丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。
(中 略)
江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。
本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、
今では明治八年(1875)頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、
幾多の武士が眠るこの地に散華となって、降り注いている。 」
高遠藩の旧藩士達が桜の馬場から城跡に桜を移植したことにより、 高遠は全国でも有数の桜の名所となった。
「 ここの桜は、タカトウコヒガンザクラという品種である。 紅の色のあでやかさと小ぶりな花が特徴で、地元の人達はいっせいに咲き、 ぱっとと散ってしまう花のいさぎよさと、血汐のように見える花色に、織田軍と戦い、 壮烈な死を遂げた武田の大将、仁科五郎盛信を重ね合わせ、大事に育ってきたという。 」
本丸跡の北西隅であるのは新城藤原神社で、明治維新後、城下から移建された。
外側は柵で囲まれているが、江戸時代には本丸は竪堀と内掘りで囲まれていて、
この下には竪堀、その下に山本勘助の名を取った勘助曲輪があった。
本丸と二の丸を繋ぐ橋は桜雲橋(おううんきょう)である。 手前に問屋門がある。
説明板「問屋門」
「 この門は高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、
また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人を置いていた。
高遠の問屋は二人の名主との合議によって調整にも参与していた。
昭和二十年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、
歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、
募金を集めて現在地に移築したものである。 」
桜の時、一番賑わうのはこの門と橋である。 桜の満開の景色はすばらしい。
桜雲橋の下に降りる。 ここは内掘で、右手に池があり、その先は竪掘である。
池に写り込む桜を撮るために下に降りたが、内掘と桜雲橋の状態は分かる。
桜雲橋を渡るとニの丸跡である。
柵でぐるーと囲まれたところにどうがらしの鉢が並べられていた。
「信州高遠藩 内藤とうがらしプロジェクト」 の看板には
「 高遠藩主内藤家の下屋敷は、現在の東京都新宿区四谷にあり、内藤新宿と呼ばれていた。
現在の新宿御苑はその名残りで、その周辺では内藤とうがらしや内藤カボチャなどの江戸野菜が栽培されていました。
現代に内藤とうがらしを復活し、保存・活用するプロジェクトが、新宿御苑からスタートし、
内藤家の国元「高遠」でも、新宿のプロジェクトから種を譲り受けて栽培しています。 」 とあった。
「 高遠藩主になった内藤家は内藤清成がその祖である。
内藤清成は徳川家康の小姓を務め、その子、秀忠の子傳役を任された。
天正十八年(1590)家康が関東に移封された時、四谷から代々木村にかけて二十一万坪の広い原野を賜る。
この拝領地は、元禄十一年(1698)、甲州街道の宿場(内藤新宿)開設された際、
相当部分を返上されたが、
明治維新まで内藤家の江戸屋敷として使用された。
新宿御苑は、高遠藩内藤氏の江戸屋敷のあったところといわれる。 」
二の丸は本丸を取り巻くように、勘助曲輪の左側から北に、そして東に、西で南曲輪に通じていたが、中心は東部部分であった。
桜雲橋を渡った左側に、 「天下第一の碑」 があり、
その左手、二の丸の北東隅に建っているのが高遠閣である。
国の登録文化財に指定される高遠閣は、
昭和十一年に、高遠出身の池上秀畝・小松伝一郎・広瀬三郎・矢島一三の四氏が建て、
町に寄贈したものである。
その先に北ゲートがあるが、ここは三の丸からの出入口の二の丸門の跡である。
北ゲートを出ると左手に進徳館がある。
かっては二の丸と三の丸の間は中掘(空掘)になっていた。
廃城後、三メートル以上埋まっている。
「 最後の藩主、内藤頼直は、万延元年(1860)、三の丸に藩校進徳館を開き、 藩士子弟の教育に勤め、長野県が教育県になる基礎を築いたといわれている。 」
その先に旧大手門がある。
廃城後に城外に移築された大手門は移築時に縮小されたという。
その先にあるのは大手門跡石垣で、高遠城で只一つ残る石垣である。
この坂道が大手坂と呼ばれるが、この左側に大きな観光用の駐車場がある。
そこからグランドゲートという城への入口があるが、駐車場の一部は鍛冶掘の跡で、
埋められて平地になっている。
以上で、高遠城の探訪は終了した。
以前二度、桜の季節に訪れた。
人がごったかえす混みようで、また、桜の木の葉で、城の輪郭が分らない状態だった。
しかし、中央アルプスに雪が残り、また、五月の節句の前なので、鯉幟りも泳いていたので、
大変風情があった。
帰りに、さくらの湯という日帰り温泉に立ち寄ったが、気持よかった。
「 高遠の桜(タカトオコヒガンザクラ)は、
明治八年、高遠城が壊され公園になった際、町内の小原より桜が移植され、
増やしてきた結果千五百本もの数になったという。
本丸の老木はこの時植えられたもので、百三十年生以上の古木が二十本、
五十年生以上のもの五百本などに、若木を加えた約千五百本のタカトオコヒガンザクラが
四月に淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつける。
また、秋にはおよそ二百五十本のカエデがきれいに色づき、紅葉が楽しめる。 」
高遠城へはJR飯田線「伊那市駅」からJRバス関東、「高遠線」で約25分、「JR高遠駅」下車、徒歩約15分
高遠城のスタンプは高遠町歴史博物館(9時〜17時 月休、祝日は翌日休) にて
訪問日 令和元年(2019)十一月二十日