京急本線汐入駅で下車し、
コースカベイサイトストアーズの先の桟橋から出港する軍港めぐりを楽しむ。
45分の船旅を終えると、三笠公園へ向かう。
ビルと出ると、本町三丁目交差点で、国道16号を左方向へ歩く。
本町交叉点を過ぎると、左手は米軍横須賀基地なので、厳重な警戒監視下にある。
10分程で、横須賀市小川町交叉点へ到着。
左折すると、神奈川薬科大学にぶつかるので、右折して進むと、
左側に横須賀学園がある。
その一角に、童謡 「めだかの学校」 の歌碑が建っている。
「 めだかの学校
その下に楽譜
その下に歌詞が掘られた歌碑である。
作曲は中田喜直、作詞は茶木滋である。
茶木滋は、明治四十三年(1910)一月五日、横須賀市汐入町6番地で生れた。
横須賀中・旧制鎌倉中(現鎌倉学園)を経て、明治薬科専門学区に学び、薬剤師になりました。
中学時代から、童謡誌「赤い鳥」などに投稿していました。
他に、「とても大きな月だから」、童謡「くろねこミラック」などがある。
平成十年(1998)没。 」
近くに、めだかの誕生にまつまる石碑がある。
「 昭和二十一年の春、
茶木滋親子が小田原市郊外の小川のほとりを歩いていました。
おさない義夫くんが突然声をあげました。
「 お父さん、めだかがいるよ 」
滋は、すぐ川を覗きましたが、めだかは一匹もいわせんでした。
「おまえが大声をあげたから、びっきりして逃げたのんだよ」
すると、義夫は、 「 待ってればくるよ。 ここ、めだかの学校だもの 」
昭和二十五年の秋、NHKから、春らしい明るい歌 の作詞を頼まれた時、
ふとこの時の会話が浮かび、童謡「めだかの学校」 が生れたのです。 」
みちなりに進むと、三笠公園の入口で、円形の水槽の一段高いところに、
東郷平八郎の銅像が建っている。
司令長官・東郷平八郎の の 「皇国の興廃此の一戦にあり」 の文字を記した石碑も脇に
あった。
その背後にあるのが、記念艦 三笠である。
説明板「世界三大記念艦「三笠」 」
「 記念艦 三笠 は、1902年にイギリスで竣工しました。
日露戦争では、東郷平八郎司令長官が乗艦し、
連合艦隊の旗艦として、日本海海戦で、バルチック艦隊に勝利した後、
大正十五年(1926)、に記念艦として、横須賀に保存されました。
旅行サイト「トリップアドバイザー」2020年度日本全国博物館トップ20にも選出されています。
世界三大記念艦「三笠」は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。 」
入場料を払って、乗艦する。
甲板に、簡易テントが張られ、受付が待機していた。
小さな部屋には、モーリス信号を打電する人形があった。
説明板
○ 対馬海峡における索敵強化
「 海戦に勝利するためには、戦艦隊を早期に発見して主導権を確保することが不可欠であり、東郷連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊の近接に備え、対馬海峡西方海域に、
総勢70隻の艦船を幾重に配置しました。
5月27日02:45 巡洋艦「信濃丸」は、バルチック艦隊を発見し、
「 敵艦見ュ 203地点」を発信。 第3艦隊「厳島」がこれを中継し、連合艦隊司令部に
報告しました。
その後、巡洋艦「和泉」がバルチック艦隊との接触を保って、
刻々とその動向を連合艦隊司令部に打電し、これより、東郷連合艦隊はその敵情をもとに
、有利な迎撃態勢を整え、日本海海戦に大勝利することができました。 」
○ 三六式無線機
三六式無線機は、アンテナ直結の簡単な火花式送信機「三四式無線機」の不具合を改善した無線送信機であり、
インダクションコイルの採用などにより、送信出力600Wで、
概ね80海里(約150km)の距離での通信が可能になりました。
三六式無線通信機は、日露戦争直前に突貫工事により、全艦艇、監視所、陸上司令部等に、
装備され、円滑な作戦指揮運用、敵時の情報配布に大いに寄与しました。 」
その先の甲板の上に、丸い円柱群が青空に向って伸びている。
「 記念艦として残された三笠は、第二次大戦後、
米軍が横須賀を占領すると、主砲・マスト・煙突などが撤去された。
進駐軍が引き揚げてから、昭和三十六年までに、現在の姿に復元された。 」
甲板中央部の左側の船室に、大砲を打っていつ人形がある。
これは、15センチ砲による砲撃の様子を展示している。
説明板「砲員の働き」
「
砲員は、砲室の中で寝起きし、食事をとり、自ら砲の手入れを行って、
ピカピカに磨き上げていた。
夜は釣床(ハンモック)を砲室内に吊るして休みましたが、
この釣床は被弾したときに炸裂した砲弾の破片から乗員を守るためにも使われました。 」
近くに、12听砲の模造砲が展示されている。
砲員は4名で、砲弾の重さは54kgであったという。
この大砲が三笠には20門あったという。 現在、復元されているのは10門である。
甲板の奥には、主砲の模造砲がある。
最先端の甲板には碇を揚げる装置がある。
その先には、ニ門の主砲、その上に、司令塔と、その上に監視台を設置したマストがあり、
Z着旗がはためいていた。
説明板「Z旗」
「 旗信号では、旗の組合せにより、いろいろな意味をもたせますが、
一般に重要な信号には1旗だけを使います。
マストに揚げている信号旗はアルファベットの最後の字である、Zを表示しており、
普通Z旗と呼ばれています。<br>
日本海海戦のとき、三笠はこのZ旗をこのマストに揚げて、
「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層、奮励努力せよ 」 との東郷司令長官の号令を
全軍に伝えて奮戦し、遂にこの海戦で大勝利を収めることができました。<br>
その後、この故事に因んで、難事を打開する場合に、「Z旗を揚げる」 という、慣用句ができ、
また、Z旗が、「大成功を期する旗じるし」 として使われるようになりました。
マストに揚がると、操舵室がある。
その先には60cm信号探照灯がある。
説明板「60cm信号探照灯」
「
信号探照灯は、周りの僚艦に信号を送ったり、暗夜に目標物を探照するためなどに
使われるものです。
初期のものは、炭素棒を燃やして光源にしました。 」
監視台からは、二門の主砲の先に、三笠公園とその先に湾の海水が見えた。
下に降り、甲板下にある船室を見て回る。
廊下には、説明するパネルがある。
講堂があり、主砲が置かれた部屋には海軍大将 山梨勝之進 像があった。
説明文「山梨 勝之進」
「 明治10年(1877)〜昭和42年(1967)
陸軍大将・学習院院長<」br>
暗いため、文字が読めない。
小生の調べでは、
「 山梨勝之進は、海軍大将の中で数少ない艦隊司令長官にならずに、大将になった人物である。
戦艦三笠の乗船は、兵学校を卒業した4年後の明治34年(1934)で、海軍中尉に進級した時である。
翌年3月13日、イギリスを出発、5月18日に帰国し、下船しており、
三笠との出会いこの時、のみである。
翌日、2等戦艦・扶桑の水雷長心得兼分隊長心得で転出している。
大正元年(1914)海軍中佐に進級すると、大正三年から、海軍軍司令部へ出仕となり、
参謀として、ワシントン軍縮会議全権随行員になるなど、軍政に関わり、評価を得た。
艦長として操船は、大正6年(1917)12月から1年間の戦艦香取のみという。
山梨勝之進像の右手の壁には三笠神社の神棚があった。
長官公室とある部屋は艦内では広いスペースで、椅子や家具が豪華である。
説明文「長官公室」
「 長官公室は、連合艦隊の各司令官や艦長との作戦会議、
内外の来賓の応接などに使われ、また、公式の午餐会や晩餐会を行う場でもありました。
日本海戦におけるネボガトフ少将の降伏申し入れはこの部屋で行われました。 」
ここにあるテーブルは、三笠が建造された頃、英国で造られたマホガニー製のテーブルである。
出入りを考えて、組み立て式になっていて、四本の足は部屋の傾斜に修正するようになっている。
長官公室の隣に司令長官の部屋があった。
以上で、三笠の見学は終了である。
下船し、三笠を外観を眺めたが、明治時代はこの程度の装備で済んだのだなと、思った。
訪問日 令和六年(2024)二月二十四日