JR関内駅から、 赤レンガ倉庫まで歩き、バスで港が見える丘公園へ行き、 山手本通りを歩き、外国人墓地や洋館を見ながら、元町公園の先の代官坂を下り、 元町商店街へ到着し、その後、中華街で食事した。
◎ みなと大通り ・ 赤レンガ倉庫
JR根岸線関内駅南口から歩き始める。
右にベイスターズの本拠の横浜スタジアムがある。
この通りはみなと大通りである。
この道を進むと、左右にみなとみらい線が地下に通る車道と交叉点に出る。
交叉点の左側に、横浜市開港記念館がある。
建物まえの植え込みに、「横浜市開港記念館」 の説明板がある。
説明板「横浜市開港記念館」
「 横浜市開港記念館は、開港50年を記念して、
大正3年(1814)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「横浜市開港記念館」 として、
開館しました。
建物は、大正12年の関東大震災によって、一部が焼失したため、
昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ、創建時の姿に復元されました。
建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた、
辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。
屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺きとしています。 また、建物内部の広間、中庭に面する窓には、
ステンドグラスが用いされるなど、大正期の建物として、華やかで優れた意匠が施されています。
」
東南隅には、高塔(時計塔)、東北隅に角ドーム、 さらに、高塔を挟む位置にも角ドームが造られている。
西南隅には八角ドームが配置されている。
入口はい階段をの上った少し高いところにある。
入口左手の植え込みには、「史跡 横浜町会所」の石柱と、説明板が建てられている。
説明板「町会所」
「 この地に、明治2年(1874)4月に竣工した石造2階建て、
屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで、横浜の町政を執った町会所でした。
「時計台」乃愛称で親しまれ、横浜の名物となっていました。
明治23年、横浜貿易商組合会館と改称し、その後、横浜会館と改めましたが、
明治39年12月、類焼により、焼失いたしました。。
横浜跡地に、開港50年を記念して、現在の建物が大正6年竣工しました。
この地は、開港期より明治初年まで、
岡倉天心の父・勘右衛門が支配人をしていた、石川屋(越中藩(福井県)の生糸売込店) が
あったところです。
横浜市教育委員会文化財課 」
交叉点を渡ると右手に、神奈川県庁の建物がある。
「 神奈川県庁本庁舎は、関東大震災後の昭和三年(1928)10月に、
四代目の神奈川県庁舎として建てられた。
国指定重要文化財となっている横浜を代表する近代建築の一つである。
知事が執務する都道府県庁舎の中では、大阪府本館に次いで、二番目に古い建物である。
鉄筋コンクリート造り、地上5階地下一階建てで、
その中央部には建物のシンボルである「キングの塔」が立ちあがっている。 」
交叉点を渡った左側に駐車場があり、歩道に面して、煉瓦の構築物があり、 「開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構」 の説明板がある。
説明板
「 この遺構は、明治時代に建てられたと推定される、
開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。
建物は、大正十二年(1923)九月一日に起きた関東大震災で、大部分が倒壊しましたが、
その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的残されていました。
平成二十六年(2014)、建物解体時に発掘されたこの遺構は、
所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、
関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として、
現地に保存されることなりました。
開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発想取扱事務を営んでいた商社であった。
大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢により、
明治10年(1877)1月に創立された「開通社」の社名を明治24年(1891)に、
「開通合名会社」に改名。
当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで、
建物の領側面にはうだつ(防火壁)を設けていた。
この遺構は写真の一階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられる。
写真は明治38年(1905)頃のものと推定されている。」
その先の交叉点を越えたところには、横浜税関がある。
「 横浜税関の建物は、昭和九年(1934)に完成した。
高さは51mで、当時、横浜で一番の高い建物であった。
緑青のドームを持ち、神奈川県庁本庁舎がキング、横浜税関がクイーン、
横浜市開港記念館がジャックの塔と呼ばれ、横浜三塔の一つである。 」
道は税関の建物を取り巻くようにカーブする。
右手に、象の鼻パークがあり、
運河に架かる、新港橋を渡ると、新港一丁目である。
運河の下流は新港で、右手を見ると、横浜ハンマーヘッド(大さん橋埠頭)に
停泊している豪華客船が見えた。
少し歩くと、右手にあるのは横浜赤レンガ倉庫である。
「 横浜赤レンガ倉庫は、明治末期から大正初期に、
国の模範的倉庫として建設された。
クレーン式の貨物船からコンテナー船への変化により、港の倉庫が姿を消す中、
倉庫の二つが、平成十四年(2002)に、当時の面影を残したまま、
文化・商業施設に生まれ変わった。 」
手前の広場には屋台が多くあり、その奥に、1号館がある。
屋台の先に、横に広がる2号館があり、1号館の3倍位の面積がある。
2号館の先は、赤レンガパークと、駐車場になっていて、赤レンガ倉庫・マリンウオークバス停がある。
横浜赤レンガ倉庫には40のテナントが入っていて、アクセサリー・ジェエリーの店もあるが、
ほとんどがレストランか、カフェである。
1号館は文化施設が入っているせいか、比較的閑散としているが、
2号館は人でごったがえしていて、待ち時間も長く、利用するきにならなかった。
赤レンガ倉庫を過ぎると、左側は小高い丘のように造られ、
交叉点を過ぎると、左に東京ワールドポーターズという建物がある。
外壁の工事中のようで、外観はまったく、見えなかった。
このビルに入り、昼食をとった。
外が見えないので確認できなかったが、ビルの前から桜木町までロープウエイが通っている。
◎ 港が見える丘公園
食事を終えると、ビルの前の万国橋・ワールドポーターズ前バス停から、
港が見える丘公園の前を通るバスにのり、港が見える丘公園前バス停で降りる。
バスは公園の入口のロータリーを一回転し、外に出たところにバス停はあった。
公園に入ると、白い建物のイギリス館がある。
説明板「横浜市イギリス館」
○ 名称 横浜市イギリス館(旧横浜英国総領事公邸)
○ 所在地 横浜市中区山手町115−3 ○ 建築年 昭和12年(1937)
○ 設計者 大英工部総署 ○ 規模 RC造2階建、地下1階
「 日本の開国は、ペリーの来航に端を発しましたが、最も中心的な役割を果たしたのは、
オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交団です。
このイギリス館の建つ山手115番は、文久3年に、横浜の居留地防衛のため、
軍隊が駐屯するなど、横浜開港直後から、イギリスにゆかりの深い土地です。
横浜市イギリス館は、昭和12年に、上海の大英工部総署の設計によって、
英国総領事公邸として建築された建物で、広い敷地にゆったり建てられ、
条約開港都市横浜にふさわしい規模と風格を持っています。
建物は主屋と附属屋とが連結した形で建てられています。
は主屋は南面して、主要な部屋を配し、廊下を北側に設ける配置で、
一つの理想的な形態を示しています。
意匠的には、近代主義を基調とした合理性が見られますが、
単に、モダニズムの踏襲ではなく、英国調とも言える伝統を加味した穏健重厚な意匠が伺えます。
この横浜市イギリス館は、様式・意匠ともに優れた貴重な建物として、
平成2年11月に横浜市指定文化財に指定されました。 」
その先に、レンガ積みの柱で組み合わされた歩道があり、 その周囲は色々な花が植えられた庭園がある。
見晴しの良い場所から海の方角を見るが、小雨の天候なので、靄がかかり、遠くは見えない。
昭和四十年代までは、眼下の車道に民家が並び、道路の先は海だったが、
五十年を経た現在は、その海が埋め立てられて、山下埠頭と本牧埠頭になり、
民家もコンクリートの中層住宅に変わっていた。
二十一世紀になるころには、大黒埠頭に通じる、横浜ベイブリッジの架橋、
首都高神奈川3号狩場線の開通があり、
丘から港を眺めても、海は見えず、殺風景な姿に変わっていた。
同行した娘が、 「 ガンダムが見える。 」 というので、山下公園の方面を見ると、
自動車道の先、山下橋交叉点の付近に、ガンダムの姿が確認できた。
道を引き返すと、丸い噴水池があり、周囲に花が植えられ綺麗である。
その奥にあるのは、大佛次郎記念館である。
「 大佛次郎は、鞍馬天狗やパリ燃ゆなどの作品を書いた作家で、横浜生れである。
大佛次郎記念館は、遺族より寄贈された蔵書や愛用品などを収納する施設として、昭和五十三年(1978)建設された施設である。
アーチ型の屋根と赤レンガが特徴的な弐階建てで、設計は浦辺鎮太郎氏による。 I
大佛次郎記念館の横の道を下ると、道を横切る橋が架かっていて、 その先に、「県立神奈川近代文学館」の石柱があり、神奈川近代文学館がある。
「 神奈川近代文学館は、1984年に、神奈川県の文学資料を収集・保存・公開する
施設として開館した。
夏目漱石から、芥川龍之介・泉鏡花・有島三兄弟・武者小路実篤・川端康成・太宰治・
三島由紀夫・吉川英治・山本周五郎などの個人作家の展示が行われてきた。 」
当日も若い人達が好む展示会が行われていて、若い人で一杯であった。
娘もその友達も興味があったようで、三十分程、熱心に見て廻っていた。
◎ 山手本通り ・ 代官坂
公園を出て、港が見える丘公園前交叉点を左折して山手本通りに出ると、 左側に「ゲーテ座跡」 の説明板があり、赤いレンガ造りの建物がある。
説明板「ゲーテ座跡」
「 明治18年(1885)4月、この地に居留外国人のための劇場(パブリック ホール」 が開場した。
アマチュア劇団の芝居・音楽会等、様々な催し物が行われた。
設計はフランス人・ポール=ピエール・サルダで、
建坪270坪、地城2階、地下1階の赤レンガ造りであった。
明治41年(1908)11月、「ゲーテ座」 と改名した。
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで、外国人の社交場でもあった。
この前身は、オランダ人ヘフトにより、
明治3年(1870)、現山下町68番地に開設された 「ゲーテ座」 と名付けられた劇場である。 」
この通りの突き当たりに、山手門と呼ばれる石造りの門と、 左右には塀で囲まれた、外国人墓地がある。
「 この墓地には、19世紀から20世紀にかけての、40ヶ国余り、
4400人余の外国人が葬られている。
墓地の始まりは、ペリー総督の幕府に要求した、アメリカ艦隊の死亡した水兵の埋葬地である。
幕府は、ペリーの 「港が見える場所に埋葬したい。」 の要求に応え、
横浜村の増徳院の境内の一部を提供した。
その後、外国人はその付近に葬られ、文久元年(1861)、外国人専用の墓地に定められた。
基本的には非公開であるが、3月〜12月の土・日曜日・祝日には公開されている。 」
平日なので、門が閉じられていた。
三叉路を左折し、山手本通りを歩きながら、右側を覗くと、
キリスト教形式の墓がほとんどであるが、形はばらばらである。
墓地の終わり近くに、 「外国人墓地」 の説明板がある。
説明板
「 もと増徳院の境内であったこの地は、安政元年(1854)2月、日米修好条約(神奈川条約)
をむすぶため、来日中のアメリカ使節ペリー一行のうち、客死した海兵隊員を葬ったのに由来し、
横浜開港後、慰留外国人の墓地となった。
生麦・井土ヶ谷両事件の被害者を始めとし、明治初期、日本文化に貢献したワーグマン、モレル、ヘールツなごが眠っている。 」
山手本通りの左側には、10番館がある。
フレンチレストランのようである。
その先にある緑の建物は、山手資料館である。
「 山手資料館は、10番館の敷地内に、明治42年(1909)に建築された、
横浜唯一の和洋折衷の木造住宅である。
関内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦など、
文明開化期の展示物など、居留地時代から関東大震災までの資料が展示されている。 」
外国人墓地を過ぎると、右に下る坂があり、入口の右側に「貝殻坂」の石柱が建っている。
坂の途中の左側に、「 道 日本の道百選 山下公園通・山手本通り 昭和62年8月10日 」
貝殻坂を越えた山手本通りの右側は、元町公園で、変わった形の公衆電話ボックスがある。
その先にあるのは、エリスマン邸である。
「 エリスマン邸は、貿易商・スイス人のエリック・エリスマンの邸宅として、
1925〜1926にかけて、現在地より南東400mの地に建築された。
エリスマンの没後、所有者が点々し、マンション建築のため、取り壊された。
横浜市は、元町公園の一角に、解体した部材で復元した。
設計のアントニン・レーモンドは。フランク・ロイド・ライトの弟子である。
和室もあったが、部材がそろばず、洋館のみ再建された。
地上2階地下1階で、1階は応接間や台所、居間兼食堂、2階は寝室や浴室がある。 」
道の反対側に、横浜山手聖公会がある。
「 横浜山手聖公会は、日本聖公会横浜教区の教会堂である。
教会の始まりは横浜港開港時まで遡るが、現在の礼拝堂は関東大震災後の昭和6年(1931)に竣工
したもので、大谷石を使ったノルマン様式の聖堂で、設計はI・H・モーガンである。
昭和20年の戦災で内部が焼失、昭和22年(1947)に再建され、これまでの英語集会に加え、
日本語集会が成立し、横浜山手聖公会と呼ばれるようになった。 」
聖堂小学校前交叉点を越えた右手に、ベーリックホールがある。
「 ベーリングホールは、イギリス貿易商、バートラム・ロバート・
ベーリックの邸宅として、、昭和5年(1930)に建設された。
設計は、アメリカ出身のI・H・モーガンである。
彼の没後は、カトリック・マリア会に寄贈され、セントジョセフインターナショナルスクールの
寄宿舎として使用された。
ベーリングホールの名称は、マリア会の命名による。
学校は2000年に閉校になり、横浜市が取得し、元町公園の一環として整備した。
地上2階、地下1階建てで、地下はコンクリート造り。 地上部は木造。
スパニッシュ様式で、クリーム色の壁色やオレンジ色のスパニッシュ瓦、
アーチ式の玄関ポーチ、クワットレフォイルと呼ばれる窓の形式などに特徴が表れている。
1階は応接間や食堂、居間とそれに続くパームルームなど、
2階は主に寝室として使われていた。 」
代官坂上交叉点を右折して、代官坂を下る。
坂道を下って行くと、右側に、横浜猫の美術館から降りてくる階段があり、
その先に 「Paty Cafe」 と書かれた小さな看板のある、おしゃれな喫茶店があった。
Paty Cafe は、白い灯台のような入口をした洋館で、赤いドアがアクセントになっていて、
ゴジャルな雰囲気を漂わせている。
中に入ると、1930年代に造られたというイギリスやベルギーの照明、
石造りでアンテークなテーブルや椅子、壁に飾られて額など、興味深いものがあった。
4時近くなので、食事前として、プリンとウインナーコヒーを注文したが、満足できるものだった。
一服した後、坂を下ると、「代官坂」 の説明板がある。
説明板「代官坂」
「 この坂は、山手の丘を越えて、北方・本牧へ行く道で、
箕輪坂と称していましたが、坂の途中に、横浜村名主・石川徳右衛門が居住していたことから、
代官坂と呼べれています。
幕末開港前後の当主・徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場・食糧・
その他の設備一切を掌りました。
嘉永7年(1854)3月9日、ペーリーが横浜村に上陸し、住民の暮らしぶりを視察したおり、
屋敷を訪れ、徳右衛門が供応した様子が、「ペルリ提督日本遠征記」 に記されています。
その後、徳右衛門は、横浜村惣年寄となり、町政を担当しました。
(以下 省略) 」
坂を下り切ると、左右の通りが元町商店街である。
「 横浜の開港に伴い、居留者が増え、明治時代に日本では珍しい
喫茶店やベーカリー、洋服店・洋風家具店などが軒を連ねた。
これが、元町商店街の原型である。
昭和39年(1964)近隣に、JR根岸線の石川町駅が開業。<br>
昭和50年(1975)頃は、横浜トラデショナル、略称「ハマトラ」という独自の服装ファツションスタイルを打ちだし神戸の三宮とともに、ファツションの町として、女性のあこがれの地になった。
平成16年(2004)、地下鉄みなとみらい線の元町・中華街駅が開業した。<br>
元町商店街は、堀川に平行し、元河岸通り、元町通り、元町仲通りの三つの通りで構成されている。
元町商店街には、若い女性が多く見られ、今もファツション関係の店舗が多いなあ、と思った。
以上で、横浜を巡る散歩というか、旅は終了した。
この後、中華街へ行き、夕飯をいただいた。
訪問日 令和六年(2024)二月二十三日