横浜中華街は、江戸時代末に、横浜が開港になり、外国人居住地が造成されると、
欧米人ともに、多くの中国人が外国人と通訳や商取引者として居住した。
上海・香港と横浜間に定期船が就航すると、中国人貿易商が来日し、
山下町の一角に、関帝廟や中華会館や中華学校を設立した。
これが横浜中華街の原型である。
明治から関東大震災までは、外国人が中心で、中華街ではなかった。
関東大震災で瓦礫化し、欧米人の大部分が帰国してしまい、中国人が中心となり、
南京町と呼ばれるようになった。
昭和三十年(1955)に、中華街の入口に、「牌楼門」が建てられ、門に掲げた額に、
中華街と書かれたことから、中華街と呼ばれるようになった。
今日のように賑わうになったのは、昭和三十九(1964)に開業したJR根岸線石川駅による。
観光客が来店するようになり、店数を増加し、今日の姿に近くなった。
平成元年に。牌楼門は、善隣門の名を変えた。
平成十六年(2004)、横浜高速鉄道みなとみらい線が開通し、終着駅として、
「元町・中華街駅」 が誕生し、訪れるのに便利になった。
中華街へ入る東西南北には牌楼(門)。が建っている。
元町商店街から前田橋交叉点に出ると、南門シルクロードがある。
この通りに入るとある門は、朱雀門(すざくもん)である。
「 南の方角を守護する神獣「朱雀(すざく)」が守護神である。
朱雀は聖なる鳥のことを意味し、柱には翼を拡げた鳳凰のような姿を見ることが出来る。 」
この門をくぐり、進むと左側に、「天后宮」の額を掲げた派手な門がある。
「 天后宮は、海の守り神・媽祖を祀る廟である。
この建物は一般的には、「横浜媽祖廟」 の名で知られる。
海の神から航海の神そして全能の神へ進化したもので、
中国全土で、媽祖を崇拝する信心があり、安全な航海が保証されると信じされており、
天后宮の正面玄関のほとんどは、海に面している。
」
門をくぐると、石段があり、そこには「媽祖廟」と書かれている。
当日は春節(旧正月 1月〜2月)の最終日で、特別参拝として、
長大な線香を窓口で売っていて、賑わっていた。
横浜媽祖廟を過ぎると、右側に、横浜大世界の大きな建物がある。
横浜大世界は、平成十五年(2002)十一月に開業した。
この交叉点の左側に、天長門が建っていて、この通りは関帝廟通りである。
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また、横浜大世界の脇の道は、蘇州小路である。
天長門をくぐると、両側にお店がずーと並んでいる。
ところが、訪れた時間、春節のイベントが、横浜大世界の前から、関帝廟通りに向って行われた。
先頭は、十人程の人が連なる蛇踊りである。
その後に、「東京華楽坊芸術学院」と書かれたプラカードと垂れ幕を持った集団が続き、
その後に、中華服を着た少女のグループが行進。
その後も、幾つかのグループが続き、人力車二台の後に、雨傘と扇子を手にした年頃〜中年までの華やかな行列が続いた。
横浜大世界の前で、パンダを合図に、緑の胴体に赤い口の蛇の蛇踊りが行われ、これがラストであった。
10分程度であったが、観客が道の両側に溢れ、通行ができない状態であった。
イベントで賑わった人々はどこかに消え、関帝廟通りは通常の姿に戻った。
関帝廟通りを歩くと、右側に上海通の小路があり、左側の広場は山下町公園である。
入った右側に「曾芳亭」の額がある、
六角形の極彩色の建物があり、その前に、雄と雌の獅子が置かれている。
「 曾芳亭(かいほうてい)は、明治三年(1870)に、劇場兼料亭として開業したが、
明治十年頃には姿を消した。
明治十六年(1883)には清国領事館新館が建てられた。
その後、山下町公園となり、2000年に、六角形の無料休憩所が建てられ、その名が付けられた。
屋根は、中国北京で造られた瑠璃瓦を使用している。
公共施設なので、宮廷建築でなく、庶民建築で建てられ、屋根の内側も豪華絢爛な金箔でなく、
瑞獣モチーフを用いず、山水画が描かれている。 」
春節の今回は、獅子の前に「横浜中華街2024春節」の看板が置かれ、
六角堂にはランタン(提灯)が四十八個吊り下げられていた。
また、左側には、春節を祝う、ビニール製の張りぼてが置かれていた。
通りを進むと、右側に関帝廟がある。
「 関帝廟は、道教によるもので、三国志時代の関羽(関聖帝君)を祀るお堂である。
明治時代に中華街が造られると、居住した中国人達により、検察された。
関東大震災や第二次世界大戦などで、焼失し、現在の建物は1990年に建立した四代目である。
建築資材は中国から取り寄せ、建築は中国から来た大工が行った、という。 」
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関帝廟は、媽祖廟と共に、中国道教建築の粋であり、華僑基督教会ともに、
中華系の人々の心の拠り所になっていて、春節の最終日である今日は特に
多くの人々がお参りをしていた。
その先の左側の道脇に「日本国新聞発祥之地」の石碑が建っている。
説明板「日本における新聞誕生の地」
石碑に書かれた文を要約すると、
「 ここは、横浜居留地跡で、この場所で、元治元年(1864)に、ジョセフ彦が
海外新聞を発刊した。
彦はリンカーン大統領と握手した、唯一の日本人である。 」
関帝廟の先に五差路があり、左右の道は長安通である。
右折すると、又、五差路があり、善隣門が建っている。
「 この門は、中華街に、昭和三十年に建てられた牌楼門が初代である。
観光誘致を目的に造られ、「中華街」の額を入れたことから、横浜中華街が認知されるようになった、という。
現在は合計十の門があり、その中でも、東西南北の入口に建つ四つの門は、
風水の考えを取り入れ、それぞれの方角を示す色と神獣がモチーフになっており、
町の守り神になっている。
現在の門は、1989年の横浜開港百三十年を記念して、博覧会が開催されたが、
それに合わせて、建て替えられた二代目で、名前も牌楼門から善隣門に変えられた。 」
門をくぐると、中華街通で、中華街で一番賑わっている通りである。
昭和五十年頃は萬珍楼や同発など、大型の建物を構えた、フルコースの料亭が主流で、
小さな店は小路の中にあるという状態であった。
二十一世紀に入る頃から、手軽に食べられる飲茶が流行し、その後、朝粥の登場。
また、客層も会社や官庁による接待が激減し、代わりに修学旅行生が訪れるようになったことから、肉まんや飲茶のテークアウトの店が大量増え、また、金額を押されたメニューで、気楽に食事が
出来る店が主流になり、大型店でフルコースを食べる人は少なくなった。
現在、中華街全体で、五百軒の飲食店があるといわれる。 」
中華街通の左右には、三つの小路があり、中山路。香港路、そして、市場通がある。
小路にあるのは、小さな店で、町中華の感覚で、一品料理が可能な店が多く、常連客の利用が多い。
市場通りは、関帝廟通お、中華街通の入口に、市場通り門が建っている。
市場通りは、客がごった返していたが、小路の中には閑散としたところもあった。
中華街通を引き返して、善隣門を出て、右折すると、左折する道は二つあり、北門通と、西門通である。
北門通には、玄武門がある。
「 玄武門は、北と夜を守る黒の門である。
横浜スタジアムやJR関内駅へ行く道にある。<br>
玄武とは、古代中国の神獣の一つで、亀の甲羅に蛇が巻きついている姿という。
門の柱などが黒色になっていて、この門の方角は北、一日の内では夜、季節では冬を守っている。 」
西門通には、延平門がある。
「 延平門は、西と夕方の時間を守る城の門である。
石川町駅から見えてくるのが、延平門で、柱が白色、中国古来の神獣「白虎」をシンボルにし、
方角では西、四季では
秋を守っている。 」
東を守るのは、朝陽門である。
「 山下公園の方から歩いてくると見えるのが、朝陽門(ちょうようもん)である。
古代中国の神獣「青龍」をモチーフにし、柱の色は鮮やかな青色、「中華街」の額の下に、
龍の彫物が沢山飾られている。
方角は東、時間は朝、四季は春を守っている。 」
朝陽門を出て、みなとみらい線が通る車道に出る。
地下鉄の入口近くに、台座に「横浜天守堂跡」と書かれた、キリスト像があり、
脇に「 1862年 横浜天守堂跡 」 の石柱が
建っている。
説明板「横浜市地域史跡 横浜天守堂跡」
「 文久元年12月(1862年1月)、横浜居留地80番地(現山下町80番地)に於いて、
開国後最初のカトリック教会の聖堂の献堂式が行われました。
正式名称を「EGLISE DE SACRECOEURですが、「天守堂」 と記した文字がありますので、
天守堂とも呼ばれました。
(以下省略)
その後、明治39年(1906)、聖堂は、山手11番地(現山手町11番地)に移転しました。
震災後、再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。
昭和37年(1962)、天守堂創建100年を記念して、
碑が建てられました。 」
この後、地下鉄日本大通り駅から帰宅した。
訪問日 令和五年(2023)六月二十五日
令和六年(2024)二月二十三日