大山阿夫利神社は、山岳信仰の対象となる大山を神として祀り、
中世以降は大山修験道が盛んになる。
江戸時代に入ると、関東各地に大山講が多く誕生し、
参拝する道は大山道(おおやまみち)とか、大山街道と呼ばれた。
江戸から気楽に出かけられる観光地になっていたようで、
落語に、 「大山詣で」を題材にした、こっけいな演目がある。
明治時代の廃仏毀釈により、大山寺の建物は神社の下社となった。
大山寺はその後、再建され、雨降山大山寺として、今日に至る。
大山阿夫利神社へ電車で行く場合は、小田急小田原線伊勢原駅で降り、
駅北口の4番乗り場で、大山ケーブル行きに乗る。
20分程乗車し、大山ケーブルバス停で下車する。
ケーブル駅まで、約15分かかる。
県道611号の大山駅バス停を過ぎると、鈴川に沿って、多くの旅館や民宿がある。
川の左側の坂道には、「大山講」 の石碑が建つ旅館があるが、大山講の御師の末裔である。
「 関東に移封された徳川家康は、大山寺を安堵する一方、
修験者が僧兵になるのを恐れて、
妻帯者などの還俗化を進め、修験者の多くを麓に転住させた。
坂本や蓑毛に降りた修験者達は、各地に出向き、お札を売り、大山寺の布教を行い、
生活の糧とした。
江戸時代中期になると、庶民の生活が豊かになり、お札を配る御師が檀家を組織化、
大山講を造って、関東各地からの参詣者を石尊大権現・大山寺へ送りこんだ。
大山講は、江戸中期から後期にかけて最盛期を迎え、
最盛期の宝暦年間には、年間二十万人の参詣者を数えたという。
関東各地からの道がすべて大山に通ずると言っても過言でない状況となった。
参詣者は、五〜六人、多い時は二十名以上の大集団で、
身なりは白の行衣・雨具・菅笠・白地の手っ甲・脚絆・着茣蓙という出で立ちに、腰に鈴をつけた。
「 六根清浄」 の掛念仏を唱えながら、大山へと向かっ道は大山道と呼ばれて定着化し、
道標にも記されるようになっていった。 」
この先は坂道になっていて、とうふ料理店が数店ある。
説明板「とうふ坂」
「 江戸時代より参拝者たちがとうふを手のひらに乗せ、すすりながらこの坂を登った。 」
ロープウエー駅までの参道のタイルは独楽をデザインしたものである。
説明板「こま参道」
「 大山の名産品にこまがあったので、こま参道といわれる。 」
これらの坂道は昔ながらのたたずまいが残る参道と思った。
今回歩いた下部にある社務所からロープウエー駅までの参道には、
大山講の人々が建てた石碑が残っている。
江戸の火消し集団のものが多いようだが・・・
とうふ坂 | 大山こま | 木遣塚 |
ロープウエー駅の下部の大型バス駐車場の下側に、良弁滝(蛇口之滝) がある。
「 大山寺開山の良弁僧正が 入山の際、最初に水行を行った滝である。
江戸時代の浮世絵師・歌川国芳(画号:一勇斎)の 「大山石尊良辧瀧之図」 には、
この滝に参拝する人々を描いている。
今回訪れた時は、水がわずかしか流れていなかった。 」
ケーブルカーに乗り、次の駅で降り、少し歩くと、大山寺の社殿がある。
本堂の脇には、銅造の宝しょう印塔が建っている。
火災に遭っているので、再建されたものという説明があった。
「 雨降山(あぶりさん)大山寺が正式名称である。
江戸時代までは、大山阿夫利神社の神宮寺であった。
大山は雨降山(あふりやま)と呼ばれ、古来から雨乞いに霊験のある山として、
農民の信仰する山であった。
日照りが続いて飢饉が多くなると、多くの農民達が阿夫利神社に雨乞いの祈願に訪れた。
江戸時代に入ると、
徳川家康などの徳川家の庇護により、山腹の石尊大権現・大山寺の建物は、
威容と善美を尽くしたといわれる。
しかし、安政元年の大みそかの山火事により焼失し、仮殿のまま明治を迎えたが、
明治政府の実施した廃仏希釈により、廃寺となった。
その後、地元民の嘆願で政府から許されて、
明治九年(1876) 、来迎堂があったところに、不動堂が再建され、明王院と称した。
大正四年、観音寺と合併して、現在の雨降山大山寺となり、今日に至る。
堂内には、 国の重要文化財である鎌倉時代の作の鉄造の不動明王と、セイタ童子と、
コンガラ童子像が祀られている。 」
ロープウエー駅に戻る途中に、芭蕉の句碑がある。
「 雲折々 人を休る 月見かな 芭蕉 」
芭蕉が野ざらし紀行から帰ってきた頃の句で、当地とは関係ないと思うのだが・・・
なぜ建立されたのか分らなかった。
蛇口之滝(良弁滝) | 雨降山大山寺の社殿 | 芭蕉句碑 |
ロープウエイに乗り、終着駅で降りる。
その先に、大山阿夫利神社の社殿が建っている。
「
大山阿夫利神社は、神奈川県西部の伊勢原市にある神社で歴史は古い。
神社がある大山は標高1252mの山で、太古より山そのものが信仰の対象になり、
山頂に阿夫利神社が祀られた。
社伝には、 「 崇神天皇時代の創建 」 とあり、延喜式神名帳にも記されている。
天平勝宝四年(752年)、東大寺初代別当の良弁僧正は大山に入山し、
山の中腹に大山寺(不動堂)を建立し、不動明王を祀った。
神仏混淆の時代に入ると、山頂には神社、山腹には寺院という体制になり、
大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになった。
源頼朝、そして、北条氏の崇敬を受けたが、戦国時代には疲弊したようである。
その後、徳川家康などの徳川家の庇護により、復活をとげ、
神宮寺である山腹の石尊大権現・大山寺の建物は、威容と善美を尽くしたという。
安政元年の大みそかの山火事により焼失し、仮殿のまま明治を迎えた。
その後、明治の神仏分離令により、神宮寺である山腹の石尊大権現・大山寺は廃された。
その際、大山寺不動堂が阿夫利神社の下社となり、山頂の祠が上社となった。
仮殿だった阿夫利神社下社(拝殿)が再建されたのは昭和五十二年のことである。 」
拝殿の左手に鳥居と石段があり、 そこに 「 奉納 東京日本橋 お花講 」 と書かれた片開門がある。
「
江戸時代までは大山全体が神聖な信仰の山で、山開き期間以外は立ち入ることが許されなかった。
山開きの任にあったのが、江戸浅草のお花講で、お花講が毎年山開きに立ち会ったといわれる。
現在は年中門が開かれているが、その歴史を伝えるのが鳥居前の片開き門である。 」
山頂まで登れば、神社の上社があるが、ここで終了し、下社と大山寺の参拝で終わった。
大山阿夫利神社下社 | お花講の片開門 |