◎ 芦之湯
江戸時代に入ると温泉ブームがくる。
湯本・塔之澤、・、堂ヶ島、・宮ノ下、・底倉、・木賀、・芦之湯の各温泉場は、
「箱根七湯」 と呼ばれ、江戸や関東一円から、多くの湯治客が訪れた。
特に、芦之湯は、文化文政期(1804〜1830)、箱根七湯の中で最も標高が高く、
江戸から一番遠い所にありながら、硫黄泉のもつ独特の温泉効果と夏の涼しさが、
江戸の人々に大変な人気を呼び、大いに賑わった。
松坂本店旅館は芦之湯に残る当時から湯宿である。
松坂屋主人の松阪賢全、芦之湯主人の勝間田茂野は、熊野権現の敷地に東光庵薬師堂を建てて、
湯治にきた客の憩いの場として提供した。
湯治にきた客は、ここで碁や将棋に興じ、また、文人や墨客は句会や茶会などを開いて、
風流を楽しんだのである。
明治に入ると、芦之湯は時代から取り残され、東光庵も明治十五年頃には朽ち果てて、
取り壊されてしまった。
東光庵跡は町の指定史跡となり、平成十三年、東光庵は百二十年ぶりに再建された。
東光庵の右側にあるのは、江戸時代には、熊野権現と呼ばれた熊野神社である。
熊野権現社は箱根七湯の全てに祀られていた。
この神社の創建時期ははっきりしないが、
文化十一年(1811)の七湯枝折には熊野権現と東光庵が紹介されているので、
それ以前から存在したことは間違いない。
逗留した文人墨客には、賀茂真淵、蜀山人、安藤広重、本居宣長などがいる。
境内には、彼等の句碑や歌碑がある。
蜀山人(四方山人)のは、享和四年(1804)に詠んだ句を翌年の文化二年(1805)に、
狂歌碑 としたものである。
「 てる月の鏡をぬいて 樽まくら 雪もこんこん 花もさけさけ 四方山人 」
その近くには 「 逗留と 定めて旅の 月見かな 祖友 」 と刻まれた句碑があったが、祖友とはいかなる人なのか?
熊野神社の右側にも石碑や句碑などが建っていた。
大磯の鴫立庵の庵主との交流があったようで、庵主が文化十二年(1615)に建てた芭蕉の句碑
「 芭蕉翁 しばらくは花の うえなる月夜哉 」 があった。
芭蕉の花上の句碑と呼ばれるものだが、芭蕉のこの句は人気があったようで、
全国各地にこの句碑は見ることができる。
その隣にあるのは、 蘆湯神游碑である。
寛政四年(1792)に勝間田万右衛門賢宣と東光庵主菊仙叟により建てられた。
また、文化十一年(1814)に建立された弁天峯詩碑というのもあった。
右手にある薬師堂の一角は、湿気が多く、じめじめしていて、薄暗い。
「
薬師堂は、徳川家康の四女徳姫の霊堂で、京知恩院に寄進されたものである。
三井家番頭・益田鈍翁の別荘に移築され、その後、松坂屋に寄贈された、とあった。 」
東光庵西側の岩場には、十六羅漢像が置かれていて、色々なポーズの姿はおもしろかった。
「きのくにやの道」 の反対には 「 明治大帝駐輦所 」 の石碑が建っていて、
明治天皇が来たことが分かる。
その隣には、今も地下から湧き出ている源泉があった。
箱根の中でこのあたりだけが今なお江戸の雰囲気が残っているのではと思った。
芦ノ湯フラワーセンター近くから奥に入ると、阿字ケ池弁財天が祀られている。
芦ノ湯温泉の付近は、古くは湿原だったので、
「 芦の海にある湯 」 という意味で芦ノ湯と呼ばれていたようである。
江戸時代に入り、湿原は干拓されたが、
弁財天が祀られる阿字ケ池は干拓された時に残された部分と言われている。
その池もその姿はほとんど見られなかった。
これからも景色が変わっていくのであろう。 寂しい気はするが、それもいたしかたがないのだろうか・・・
◎ 元箱根 地獄谷の 石仏 ・ 石塔群
平成二十三年(2011)六月七日(火)、元箱根石仏・石塔群を訪れた。
東海道の旧道より少し入ると、箱根の森の一角にお玉ヶ池があるが、
そこから北東に約一キロお玉ヶ池遊歩道を歩くと、国道1号線にある六道地蔵バス停に出る。
駐車場の奥に 「 石仏群と歴史館 」 と書かれた建物があり、その前に、精進池が静かに佇んでいた 。
ここは鎌倉時代に始まった湯坂道沿いにあるが、精進池周辺は厳しい気候と火山性の荒涼とした景観で、
地獄の地として、また、 賽の河原として、鎌倉時代に、 地獄信仰の霊場となった。
国道下のトンネルをくぐり、数メートル上ると、山裾に石垣と御堂がある。
覆屋は、幅46メートル、奥行き7.1メートル、高さ9.2メートル、杉材を用いて建てられていて、屋根は寄棟で、柿葺きになっている。
お堂の中には六道地蔵と呼ばれる石仏が祀られている。
六道地蔵は、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、蓮華座の上に結跏趺座している。
引き締まった端正な顔に、薄ものの質感を巧みにとらえた衣紋の襞、 胸の華やかな瓔珞などが、
暗い中になんとか見えた。
箱根町教育委員会によると、
「 この石仏は巨大な転石に彫られた像高3.5メートルに及ぶ地蔵菩薩坐像で、
銘文から鎌倉時代の正安2年(1300)の造立と分る。
磨崖仏としては線刻のものを除き、関東では最大級のもので、昭和49年に国の重要文化財に指定された。
保存修理の際、石垣で補強し、周辺を当時の地盤まで削掘し、景観を当時に戻し、
白毫や右手、錫杖も正しい姿に戻し、覆屋も室町時代の姿に復元した。 」 、という。
精進池に戻り、北に向かって歩くと、八百比丘尼の墓がある。
これは、宝篋印塔の残欠で、室町時代初めの観応元年に建てられたもので、
「八百比丘尼の墓」 と呼ばれるようになったのはいつからか分らないようである。
八百比丘尼は、各地に残る人魚伝説に登場する。
人魚の肉を食べたため、八百年間も生きたとされる美女である。
少し行くと、右側の国道の下に、「応長地蔵」 と呼ばれる地蔵菩薩がある。
高さ百二十四センチメートルの安山岩に地蔵菩薩が彫られたもので、
昭和四十九年(1974)に国の重要文化財に指定されている。
応長元年(1311)に造像したという願文が彫られていることから、「応長地蔵」 と呼ばれるが、
岩には二つの龕(壁面に仏像や仏具を納めるために設けたくぼみ)があり、
大きい龕に一体、小さい龕に二体の地蔵菩薩が彫られていた。
教育委員会によると、
「 宮城野地区では、家族に死者があると、四十九日以内にここまで家族の者がやってきて、
送り火を焚く(浜降り)という風習があったことから、火焚地蔵とも呼ばれています。 」
という見解である。
この先の三叉路を左に行くと、精進池の西岸を廻る遊歩道になっている。
直進すると、高さ三メートルほどの大きな宝篋印塔があった。
この石塔には、「 永仁四年(1296) 」 が基壇に刻まれているが、「多田満仲の墓」 と、呼ばれるものである。
「
多田満仲は、平安時代中期の武将、清和源氏発展の礎をつくった、 源満仲 の別名である。
彼は、清和源氏六孫王経基の子で、酒天童子退治で有名な源頼光や、源頼親など、の父である。
この石塔が多田満仲の墓と呼ばれるようになったのは近世以降のようである。
宝篋印塔とは、石で造られた塔の一種で、笠を階段状に造ることと、四隅に隅飾を持つことが特徴で、
始められた頃は、基礎の内部に、「宝篋印陀羅尼」 というお経を納めたことから、その名が付けられた。
」
磨崖地蔵菩薩群は、地蔵菩薩立像が二十四体、阿弥陀如来立像が一体に、
供養菩薩立像が一体、上の国道の右側にも三体ある。
大きいものは高さ一メートル、小さいものは高さ20センチで、
銘文から永仁元年(1293)から造り始めたと推定されるという。
これらの石仏群は、平安末期の末法思想から興った地蔵講の衆徒が、、
鎌倉時代後期に、この地に死後の救済や極楽浄土を願つて、建立したものである。
昭和四十九年(1974)、国の重要文化財に指定された。
遊歩道はその先トンネルをくぐり、国道の反対側に出る。
その手前に、三体の石仏が掘られた岩山が飛び出している。
この岩と前述の石仏群が掘られた岩は繋がっていたのだが、国道工事で分断されてしまったのである。
また、「地獄谷」 という地名も、明治天皇がくるというので、小涌谷と大涌谷に改称されてしまった。
鎌倉を中心に活動した忍性による地蔵信仰は、石工達や勧進僧によって各地に広められたが、
その史蹟が、箱根の石仏群として、今日まで残っているのである。
彼ら地蔵講の衆徒は、岩に地蔵像を刻み、
峠を越える旅人や病を治すために訪れる湯治客に、ひたすら地蔵による救済の道を説いたのである。
木立の中を少し歩くと、ぽっかり空間が開き、右側に、五輪塔・俗称・曽我兄弟・虎御前の墓がある。
曽我兄弟が父の仇討をしたのは鎌倉時代初期のこと、江戸時代に入ると仇討ブームが起きたので、
曽我兄弟の話は庶民に好まれ、墓の俗称がついたものと思われる。
五輪塔から少し離れたところの説明板「五輪塔」
「 五輪塔は宇宙の五つの生成要素をかたどったもので、特に二基の五輪塔には仏像が刻まれており、
極めてまれな例です。
右の塔には、永仁三年(1295)に、地蔵講中により建立されたという銘が刻まれているのは、
この五輪塔が日本最古のものといわれています。 」
この先に湯坂道入口のバス停があった。
箱根駅伝のアナウンサーが 「 選手は最も苦しい最高地点にさし
かかりました! 」 と絶叫するのはこのあたりである。
その場所が古代の地獄霊場で、
地蔵講の聖地だったとは知らなかったのである。