名所訪問

「 東海道 箱根宿  」


かうんたぁ。


◎ 畑宿から甘酒茶屋 

東海道は、畑の茶屋の先から、坂道が始まる。 
その先には江戸から二十三番目の畑宿一里塚跡がある。
、 木々に囲まれた大きな広場に、右の塚には、樅、左の塚には、欅(けやき)の木が植えられている。
相模国風土記稿に、 「 西海子坂の下、海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、 西は箱根宿の一里塚に続けり 」、とあるもので、整備、復元したものである。

一里塚跡を見ながら急な石畳を上って行く。 
相模国風土記稿には、「 宿外西の方にあり、登り二町許り 」 、とある。

先程までの石畳と違い、石が地面から浮いていたりするので、歩きずらい。 
説明板には、「 雨水を排水するため、斜めの排水路を作っていた。 」とある。
上流側に小さな石、下流側に大きな石を積み、斜めに段差を付けることで、街道脇に流し込むもので、快適に歩くための江戸時代の工夫である。 

更に歩くと、前方に階段が見えてきた。 
ここには、「西海子坂」の石碑があり、「 石畳の前の東海道は、雨や雪の後は、泥道になるため、 竹を敷いていたが、調達に苦労した。 」 とあった。 
階段を上ると、舗装した県道に出る。
「七曲がり」 と呼ばれる坂で、幾重にも曲がりくねった道である。
道は、右にカーブし、左にカーブするが、歩行者は直線で上れる石段があり、そこを上る。 
続いて、左にカーブするところで、箱根新道の下をくぐる。 
この坂は、かなり厳しい坂である。 
それでも、左側に、石畳風に石をあしらった歩道が設けられているのは助かる。 
車もスピードは出ないようだが、小生はスローペースで上って行くと、橿木坂バス停があった。

説明板「橿木坂」
「 相模国風土記稿に、 「 峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得 」 とあり、 東海道名所日記には、 「 けわしきこと道中一番の難所なり、おとこかくぞよみける、かしの木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼれる  」 と、書かれていた。 」  

相模国風土記稿にも、 「 此坂山中第一の険しさにして、壁立するが如く、岩角をよじ登るべし、 一歩も謹(つつしま)ざれば千尋の岩底 におとしいれり 」 、とあるから、 江戸時代の箱根路で、一番の難所だったのだろうと思った。 
「橿木坂」の石碑の脇の石段を上る。
石段の一段一段が高かったので、非常につらい石段だったが、上りきると、県道に出た。 

畑宿一里塚    急な坂道    七曲がり    橿木坂バス停    橿木坂の石段
畑宿一里塚
急な坂道
七曲がり
橿木坂バス停
橿木坂の石段

県道の右にカーブするところで、また、石段があったので、上っていくと、「旧街道心晴橋」 、という道標が建っている。 
左に入ると、「 箱根旧街道(新設歩道)  甘酒茶屋1300米 元箱根3000米 」 と書かれた道標が建っている。 
この道は、最近作られたもののようであるが、この道を歩く。 
右側に石段があり、家のようなものが見えるのが見晴茶屋かも知れない。 
立ち寄らず、そのまま進むと、山根橋に出た。 
橋の脇の 「 旧街道 山根橋 」 の道標には、「元箱根まで三キロ」 の表示がある。
石畳の道を歩くと、階段があるので、それを上ると、甘酒橋があった。、
山根橋からここまでの距離は三百メートルである。 
その先も石畳の厳しい坂が続く。 
目の前を中高年の二人が歩いていたが、この坂を上るのは、けっこう苦労していた。

階段が見えてきたところに、「猿滑り坂」の石碑が建っている。 
説明板には、 「 猿滑り坂は、相模国風土記稿に、 「 猿、猴といえどもたやすく登り得ず、よりて名とす 」 、と難所らしい名の由来が書かれている。 また、 「 県道の横断歩道橋が架かるあたりが当時の坂でした。 」 とあるが、階段を上っても、横断歩道橋はなく、代わりに、横断歩道と対面の山際に斜めに階段があった。
  かっては横断歩道橋があったのだろうか?

横断歩道を渡り、階段を上ると、県道を下に見て歩く形になる。 
高度も高くなり、対面の山と肩を並べつつあるなあ、という感じがした。 
このあたりは、紅葉も進んでいるようで、それを眺めながら、石畳を進むと、階段があった。 
階段を降りて、県道脇の歩道を進むと、ちょっとした平らな所に出た。
ここには、「笈の平」 の碑と、近くにはさつきに囲まれた、「笈親鸞上人御旧蹟」  と刻まれた大きな石碑がある。

「 東国の教化を終えての帰路、親鸞上人と四人の弟子が険しい箱根路を登って、 この地に来たとき、上人は、弟子の性信坊と蓮位坊に向い、立ち戻って、東国布教をしてもらいたい、と 頼み、悲しい別れをしたところ 」 、という話が伝えられている。 

碑の裏側になだらかな階段があり、県道に沿って続く、未舗装の細い道が東海道である。 
入口に、「 追込坂登二町半余 」 の石碑があり、脇の説明板には、
  「 追込坂は新編相模国風土記稿のふりがな(万葉仮名)をみると、ふっこみ坂といったのかもしれない。  甘酒茶屋までのゆるい坂道の名である。 」 、と書かれていた。

この道をたどると、左側に、昔の旅道具などが展示されている箱根旧街道資料館がある。
その隣の家の前に、「甘酒茶屋」 の石碑があり、江戸時代から茶屋を営んできた、甘酒茶屋である。
名物の甘酒を頼んだが、小さな頃飲んだ甘酒を思い出す味だった。 

「  江戸時代、赤穂浪士の一人・神崎弥五郎の詫び証文で、有名になった茶屋である。
この茶屋は畑宿と箱根宿の中間に位置し、旅人が一休みするのに絶好の場所で、名物の甘酒と力餅を出していた。 
こうした甘酒茶屋は、箱根八里全体では、十三軒あった、という。 
以前は小さな小屋だったのだが、今は立派な建物になっていて、甘酒以外にも、色々なものを商っている。    
観光バスできた団体やマイカー客に、ハイカーも混じり、かなり繁盛しているようである。 」

山根橋    猿滑り坂の横断歩道    親鸞上人御旧蹟碑    追込坂碑    甘酒茶屋
山根橋
猿滑り坂の横断歩道
親鸞上人御旧蹟碑
追込坂碑
甘酒茶屋


◎ 甘酒茶屋から箱根宿

十五分程滞在し、街道を歩き始める。
甘酒茶屋の裏からヒノキ林の石畳道に入る。
、「標高七百十五メートルの地点の」標示がある。 
ここから、追込坂、お玉坂、白水坂ときつい登りが続き、旅人を苦しめた。
左側が杉林、右が雑木の道を歩くと、「於玉坂」 の石碑が建っている。
この北東にお玉ケ池がある。
池の由来は、 「 元禄十五年(1702)二月十日夜、南伊豆町(伊豆大瀬村)の百姓の娘・お玉が、 主人に叱られたか、故郷が恋しくなってなのか、 江戸の奉公先から抜け出して、箱根の関所を迂回する屏風山の抜け道の木柵を越えようとして、 捕縛され、池のほとりで獄門にかけられた。 」 という実話によるが、於玉坂もそれにちなむ名であろう。 

於玉坂は二町余で終り、県道に出たが、対面に石畳の道が続いていて、 「 甘酒茶屋まで0.4km、元箱根まで1.2km 」 の道標が建っている。 
その先の石畳道に、「史跡箱根旧街道」 の石碑がある。

「 江戸幕府は+箱根越えの補修工事を沿線の村人に命じた。
始めは竹で土止めをして補修していたが、その位ではすぐに壊れてしまう。
幕府に資金を借りて、恒久的な石畳にした。
お間酒茶屋から元箱根まで続く石畳は、文久二年、幕府が直々に代官に命じ、文久三年(1863)に 徳川家茂に嫁する皇女和宮のために、改修工事を完成させたものである。
結局、和宮は、この箱根路を避け、中山道を下って、江戸に向かったが、 箱根旧街道のうちで、もっとも長い石畳道が残り、今でも、私たちの旅を慰めてくれている。 平均三メートル六十センチの道巾の中央に、約一メートル八十センチ巾に石を敷きつめられていた。 
石垣道は、この地点から元箱根に至る約一キロメートル残っている。 」 

道脇に、「 白水坂 登十二間余 」 の石碑が建っている。 
少し先には、「 天ヶ石坂 」 の石碑がある。
この坂は相模国風土記稿に、「 天ヶ石坂は登り七間余、坂側に 一巨石あり、方八尺余、 天ヶ石と云う 天蓋石の訛なり 其形、天蓋に似なればなり、 此所 箱根宿の界にて山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり 」 、とある坂である。
石碑の先の大きな岩が天蓋石なのだろうか? 

この坂を過ぎると、ようやく下り坂となる。
石畳道から外れて、右に少し入って行くと、展望広場がある。 
しかし、展望の名に反して、眺望は良くない。 二子山はなんとか見えたが・・・ 
その先にお玉ケ池があるが、池の下には下りていけそうもないので、お玉ヶ池へは行かないで、引き返した。 

下り坂はあまり整備されていないのか、石畳とは思えぬ、石がゴロゴロあったりして、歩きにくかった
坂の途中に「箱根八里馬子唄」 の石碑がある。
、 「 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 」 と唄われた。
更に下ると、右側に 「 箱根旧街道元箱根まで十五分 」 と書かれた道標がある。
その先で舗装した道と交差するが、交差する道は、鎌倉時代の東海道の湯坂道である。 

舗装された道の石垣の上に 「 おたま池ゆかりのお玉観音堂(曹洞宗興福院) 」 の看板が建っている。
石畳の道を下るが、この坂は 権現坂とか、八町坂 と呼ばれた坂で、 坂道の長さは、約八町、八百六十四メートルである。 
かなりの急坂で正面には樹間を通して、芦ノ湖がかいま見える。
小走りに坂を下る感じで、芦の湖に向って、樹間を一気に駆け下ると、舗装した車道に出た。
石畳の道は、ここで終わりである。 
坂を下ると、成川美術館の脇で出て、芦ノ湖畔に到着した。
ここは箱根宿の入口である。
この先も多少のアップダウンはあるが、江戸時代の旅人が難儀した箱根路東坂を歩き終えたといってよいだろう。 

於玉坂の石碑    史跡箱根旧街道の石碑    箱根旧街道石畳道    天ヶ石坂碑    箱根馬子唄碑    権現坂
於玉坂の石碑
箱根旧街道の石碑
箱根旧街道石畳道
天ヶ石坂碑
箱根馬子唄碑
権現坂


◎ 箱根宿

成川美術館の反対側にある大鳥居は、箱根神社の一の鳥居である。

「  箱根神社は、天平宝字元年(757)、万巻(まんがん)上人が、丈六薬師如来を祀ったのが始まりである。
後に、源頼朝の保護を受け、伊豆山、三島と並ぶ、関東第一級の神社となった。 
一の鳥居のある湖畔が、賽(さい)の河原である。  東海道名所図会では、西の河原と紹介されている。 
江戸時代には百三十基の石仏や石塔があったが、今は五十四基しか残っていない。 
このあたりは、元箱根で、定期バスのターミナルもあり、芦ノ湖遊覧船が常時発着し、 その傍は、観光バスで混雑している。
先程のところに戻ると、成川美術館の隣の吾妻山日輪寺の参道入口には、髭題目が建っていた。 
その先、左側の岩屋に、身替わり地蔵が祀られている。 

「  宇治川の先陣争いで名高い梶原景李(かげすえ)が、箱根を通りかかった時、背後から何者かに襲われた。  父の梶原景時と間違えられたらしい。 
しかし、かたわらにあった地蔵が身代わりなって、かろうじて命が助かったと 伝えられ、それ以来、この地蔵は景李の身代わり地蔵と呼ばれるようになった。
地蔵と呼ばれているが、実際は阿弥陀如来像。 
よく見ると、右肩から左脇腹にかけて、刀傷が残されている。 

梶原景時は、源頼朝の側近だったが、弁舌巧みで、たびたび人を陥れたといわれ、源義経を始め、 次々にライバルを追い落としたため、相当嫌われていたらしく、 頼朝の死後は、失脚して鎌倉を落ちる途中で、殺されてしまった。 」

東海道は、箱根駅伝でランナーが走る国道1号になっている。
道の右側に逆さ富士駐車場があり、逆さ富士が見られる場所といわれる。
芦ノ湖の畔に箱根神社の鳥居があり、 冨士山は見えたが、水面に富士は現れなかった。
逆さ富士は、富士山が見えるだけでなく、湖面が平らであることが条件になるので、 なかなか難しいと思った。 

箱根神社一の鳥居    元箱根港    身替わり地蔵    富士山
箱根神社一の鳥居
元箱根港
身替わり地蔵
芦ノ湖と富士山

その先は杉並木で、杉並木に入って直ぐのところに、「一里塚跡」 の石碑がある。

「  巨大な杉が二本生えている下にあるのは、江戸から二十四番目の葭原久保一里塚である。 
かつては、盛り土をして、ここでは珍しく檀(まゆみ)が植えられていた、という。 
檀は、ニシキギ科の落葉小高木で、真弓とも書かれた。 」

>この先、国道の左の狭い道に入ると、昔ながらの東海道が残っている。

「  この杉は、元和元年(1618)に植えられたもので、 平均樹齢は三百七十年を越える立派なもので、四百二十本残っている、という。 
杉並木の中は薄暗く、少し明るくなったところに出ても、霧が出ているのか、写真は 少しミルキータッチに写っていた。
これ等の杉の木は、江戸時代の旅人の歩きを見守ってきたと思うと、 幾百もの年輪を感じさせるぬくもりを感じた。 」

見事な杉並木の中を、杉が吐くオゾンを吸いながら歩くと、国道に合流。 
恩賜公園前のバス停があり、駐車場の先に芦ノ湖へ飛び出した土地があり、恩賜箱根公園になっている。
駐車場の道の反対に、箱根関所資料館が芦ノ湖に面して建っている。
この施設には、通行手形や古代道中絵図など、関所に関する資料や、 関所破りを防ぐための武具などが展示されている。

資料館を見て、その前の道を進むと、広場に出て、目の前に冠木門がある。 
ここは、江戸時代に、箱根関所があった場所で、箱根関所の江戸口御門を復元したものである。

「  元和五年(1619)、江戸幕府は、全国に五十三ヶ所の関所を設置したが、 東海道の新居、中山道の碓氷、福島とともに四関と称され、 「 入り鉄砲に出女  」 、つまり、江戸に武器が入らないように、そして、 人質として置いている大名の妻女を国本に逃げ帰さないように、厳重に取り締まっていた。 
箱根関は、大名の妻女が江戸から抜け出すことを防止することが主眼だったので、鉄砲改めは行われなかった。 
そういうことから、箱根関を通るのには、江戸に入る(下り)場合には、手形がいらなかったが、 江戸を出る(上り)ときは、手形が必要であった。 
なお、女子と囚人以外ならば、手形をもっていなくとも吟味の上で通していた、という。」

葭原一里塚    箱根杉並木    箱根関所資料館    江戸口御門
葭原一里塚
箱根杉並木
箱根関所資料館
江戸口御門

復元された箱根関所にはいる。
大番所の中には吟味する様子を再現した人形があった。

「  箱根関所は、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで、 柵で厳重に区分していた。
入口に江戸口、京口両御門を備え、大番所と足軽番所が向き合うようになっていた。
担当したのは、小田原藩で、十一組編成されていて、毎月交替で、関所役を勤めた。 
箱根関所は、士分十名、足軽十七名、人見女、二名が一組であった。 
非常時は、小田原藩から非番のものが駆けつけた。 
箱根関所は、通常の往来手形の他に、箱根関所宛の関所手形を持たないと通行出来ない程、厳重だったが、御三家と旗本は、関所手形は必要なかった。 
門の手前には、千人溜まりと言われる広場があり、吟味を受ける順番を待ちの人が待機していた。 
旅人は、中の建物の前で、吟味を受けた。 
女子の取締りにあたったのが人見女(俗称、関所婆)である。 」

足軽番所の裏の高台に、遠見番所があり、湖上監視のため、関所破りを見張っていた。
箱根全山の監視は、ここだけでは出来ないため、根府川・仙石原・矢倉沢・谷蛾・川村にも裏関所が設けられていた。 
関所破りは死罪に処せられたが、記録に残る関所破りは以外と少なく、五件六名しかない。 
これは、関所破りを見つかっても、ほとんどの場合は藪入りと言って、道に迷っただけとみなして、 関所の役人が叱責して、追い返していたからである。 」

小生も、番所役人から許可が出たつもりになって、反対側の門をくぐって外に出て、 芦ノ湖のきれい紅葉を見ながら、茶屋で一服した。

大番所    吟味人形    遠見番所    芦ノ湖の紅葉
大番所
吟味人形
遠見番所
芦ノ湖の紅葉

「  江戸時代には、関所の御門の前の広場は「千人溜まり」 と言われ, 関所の順番待ちの人たちが大勢いて、それを目当ての茶屋などが立ち並んでいた。 
東海道に箱根関所が出来たころは、箱根に宿場がなかった。 
関所の門は、暮六つには閉じられてしまう。 それと同時に、裏道はすべて封鎖され、 抜け道はまったくないので、関所の通過には、旅人はすごく神経を使った。 
大名行列も例外ではなかったので、西国大名の要請で、箱根越えを緩和するため、元和四年(1618)、 小田原宿と三島宿より五十軒ずつの宿を移住させ、箱根宿が開設された。 
本陣の数は六軒と東海道最大で、脇本陣も一軒あった。 
旅籠は三十六軒で、宿場創設時より減少していった。 
大名が多く泊まることや、関所が近いことから、民衆は敬遠したようで、 旅人の多くは、三島か、小田原に泊まったようである。」

京方御門をでると、オルゴール館・蕎麦屋・箱根寄木細工の店や、御土産店が建ち並んでいる。
また、国道に出て、右折するとクラシックホテルの箱根ホテルがあり、通りに旅館・ホテルや御土産店がある。
なお、箱根ホテルは、本陣だった 「はふや」 の現在の姿である 
江戸時代の箱根宿の中心は、その先の遊覧船とバスの発着所になっているところだが、 江戸時代の面影は全く残っていない。 
時代の移り変わりを反映して、雲助だんご本舗の奥には、箱根駅伝に関連する石碑が幾つか建っていた。

毎年正月に行なわれる東京から箱根往復の大学駅伝は、東海道の沿線を走る冬の風物詩である。 
ここには、「箱根栄光」の碑や、駅伝をたたえての歌詞が書かれた碑などが建っている。 
その先の右側には、箱根駅伝ミュージアムがある。
交差点の左側にあるコーナーにも、箱根駅伝の歴史を語る出来事が書かれていて、 ここが箱根宿であったことは一言も書いてなかった。 
今の箱根は、江戸時代の東海道の箱根宿より、テレビで放映される箱根駅伝なのだ、と思った。 

その先の交叉点で、駒形神社が先にある県道737号と、国道1号に分かれるが、 このあたりが箱根宿の終わりで、国道1号を進むと、箱根西坂で、三島へ向かうことになる。
これで、箱根宿は終わる。 

箱根関所付近    箱根ホテル    箱根駅伝碑    箱根駅伝ミュージアム
千人溜跡
箱根ホテル(本陣跡)
箱根駅伝碑
箱根駅伝ミュージアム



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