名所訪問

「 東海道 間の宿・畑宿  」


かうんたぁ。


◎ 板橋から箱根湯本 

いよいよ、「天下の嶮」 八里の峠道が始まる。
箱根八里」は、小田原から三島までの八里(約32キロ)の山道を指す。
このうち、小田原から箱根峠までを、 「東坂」、峠から三島までを、 「西坂」と呼んでいる。 

箱根登山鉄道板橋駅で降り、国道1号を小田原に向って歩き、新幹線のガードをくぐり 、板橋見附交差点に出た。 

「  交差点の先にある大銀杏の光円寺の角が、小田原宿のの終り・上方見附があったところである。 
江戸時代の東海道は、光円寺で北に進み、直角に西に曲がっていた。 
即ち、鉤型になっていた訳である。 」

板橋見附交差点で、国道と別れ、右の道に入り、赤褐色のビルの脇の新幹線のガードをくぐる。
ガードを越えたところに、「旧東海道と板橋(上方)口」 の案内板がある。
道は対向二車線で、歩道はなく、両脇に白い線で、区分してるだけである。 
ここは昔の板橋村で、古い家がちらほら残っている。 
すぐに、左側の歩道帯はなくなり、右側にだけ歩道が現れた。
左に下田とうふ屋という手作り豆腐の看板をかけた店がある。
その先には、江戸時代には水抜石橋があり、番所があった、といわれるが、 右に入る小道を行くと、突き当たりに香林寺、左に松永記念館がある。 
日本の電力王で、数寄茶人として、高名な松永安左ヱ門(耳庵)が別邸内に設けた美術館である。
今は市の管理になっていて、見学はできるのだが、時間が早くて入れなかった。 

街道に戻る途中に、左に入ったところに、秋葉山量覚院がある。 
寺の由来によると、 
「 天正十八年(1590)、徳川家康が、小田原城主の大久保忠世に管理を命じ、一月坊法印により、 遠州秋葉山上より、御本尊を小田原に奉還されて以来、関東山伏の目付としての役割を任じた。 」 とある。

街道に戻り、少し進むと、右側に、立派な石作りの墓のような施設がある。
戊辰戦争後、戦争での犠牲となった、官軍の軍監・中井範五郎等、  十三名の姓名を刻んだ慰霊碑が建っている。

板橋駅    板橋(上方)口    下田とうふ屋    松永記念館    官軍の慰霊碑
板橋駅
板橋(上方)口
下田とうふ屋
松永記念館
官軍の慰霊碑

その先の石段を上ると、銀杏が茂る先に、堂々と建つのは、金麓山宗福院の本堂(地蔵堂)である。 

「 本堂には」、板橋地蔵尊が祀られている。 
永禄十二年1569)、香林寺九世の文察和尚が身の丈一丈(330cm)の大坐像を作り、 箱根湯本の宿古堂に祀られていた、弘法大師の自彫造の御真体を胎内に安置したと、伝えられる。
地蔵堂は、正徳五年(1715)に建てられた、旧慈眼寺の仏殿を移築したものである。 
桁行三間、梁間三間の主屋の四周に、裳階を巡らした方三間の裳階付きの構成である。
本堂の前に、大きな大黒天が祀られている。 」

境内には、寛政七年(1795)建立の一刀流六代目・横田常右衛門豊房と、 七代目石坂四郎治政宣の供養碑がある。
また、馬頭観音などの石仏群がある。 

道がカーブするあたりは、自動車がすれ違うのがやっとという狭さである。 
そのまま進み、箱根登山鉄道の高架をくぐると、植え板橋交叉点があり、国道1号と合流する。 
道の脇に、常夜燈が集められたように置いてあった。 
国道を川側に移ると、「小田原用水(早川上水)取入口」 の看板がある。 
このあたりから、道はなだらかな登り坂になる。
右手に、箱根登山鉄道の列車が走り、右国道には車が多く行き来している。
国道と左の早川の間に挟まれて進み、西湘バイパス(小田原厚木道路)のガードを潜る。
国道と分かれ、右側の箱根登山鉄道の踏み切りを渡る。 
踏み切りを渡ると、二又で、すぐ右手に日蓮旧蹟の大きな岩・象ヶ鼻がある。 
日蓮が身延山への往来の途中、この岩の上より故郷の安房を臨み、亡き父母を偲んだ、といわれるものである。 
東海道は左の道で、すぐにある二又も、左で、右手奥に、妙覚寺が見える。

「  ここは旧風祭村である。
天保年間の相模国風土記稿に、 「 風祭村は家数八十五軒、東西六町、南北七町程、 東海道村中を貫けり、道幅二間或は三間 当場は立場なり、 西方湯本茶屋 へ一里 」 とある。 
この道は、東海道の道幅がそのまま残されているといわれる。 」

「東海道の風祭一里塚」 の標柱が建っている。

説明文
「 相模国風土記稿に、 「 東海道側に双こう有り、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、 東方小田原宿、 西方湯元茶屋の里こうに続けり 」  、とあったが、一里塚は、 明治十二年に取り壊されてしまった。 」

地蔵堂    供養碑    国道1号    妙覚寺    風祭の一里塚跡
宗福院>地蔵堂
供養碑等
国道1号(早川上水口)
妙覚寺
風祭の一里塚跡

右側の小道を入ったところに、宝泉寺がある。
その先で入生田(いりゆうだ)集落に入り、駅の近くまで来ると、長興山紹太寺の案内板がある。 
右側の道は入ると、長興山紹太寺の広い参道の右側に、「総門(大門)跡」 の説明板がある。

説明板「総門(大門)跡」
「 江戸時代には、東海道に面した、この場所に石造りの門が建っていた。 
元禄四年(1691)、ドイツ人、博物学者・ケンペルが、江戸に向う途中、この総門を見て、 江戸参府紀行に、「 入生田村は小さな村であるが、その左手の四角の石を敷き詰めたところに、 紹太寺という立派なお寺がある。
この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方側には、金の文字で書いた額があり、 前方には、金張りの文字を付けた石造りの門があった。  」 、と書かれている。 」

少し進むと、「長興山紹太寺」 の石柱があり、山門をくぐると、茅葺きのお堂がある。

「  紹太寺は、春日の局とその子、小田原城主・稲葉正勝と、稲葉氏一族の菩提寺である。 
稲葉氏は、寛永元年(1632)から貞亨弐年(1685)まで、正勝・正則・正通の三代、五十三年間、 小田原城主であった。 
稲葉正勝は、三代将軍・家光の側近であり、寛永九年(1632)に、小田原城主に任ぜられた。 
正勝の母は、家光の乳母を勤めた春日局である。 
そうした縁から、正勝に対する家光の信頼は厚いものだった。 
しかし、わずか二年後に正勝は三十八歳で、急死。 
家督を継いたのは、若干十二歳の息子正則である。 
正則は、寛永九年(1632)、父母の追福のため、菩提寺を城下の山角町に建てた。
寛文九年(1669)に現在地に紹太寺を移転拡張し、父母と春日局の霊をとむらった。 
紹太寺の七堂伽藍は、弘化四年(1847)、安政年間(1854〜1859)、明治の火災で、焼失してしまったが、 清雲院だけはかろうじて難を逃れ、寺の法燈を守り続けている。 」

清雲院を出て、参道を進むと、墓地にのぼる石段があり、けっこうきつい。 
歩いて行くと、かって、紹太寺の伽藍が建ち並んでいたという場所にでた。
その奥に稲葉一族の墓があった。
合掌。

墓から少し戻り、更に奥に向うと、一吸亭跡や、刻銘石・百花叢がある。
杉林を抜けると、枝垂れ桜の木が一本ある。
神奈川県の名木百選に選ばれている、長興山のしだれ桜である。

傍らの説明板
「 エドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝がたれさがるのが特徴。 
稲葉氏が紹太寺を建立した頃に植えられたもので、樹齢三百二十年と推定される。
高さ十四メートルの枝垂れ桜である。  」

桜の季節に、再度、訪れると、見事な桜で満足した。 

宝泉寺    長興山紹太寺総門跡    清雲院    稲葉一族の墓    長興山のしだれ桜
宝泉寺
紹太寺総門跡
清雲院
稲葉一族の墓
長興山のしだれ桜


◎ 箱根湯本から畑宿

東海道に戻り、入生田駅前を通る。
この道は、静かな佇まいを見せていて、国道1号線の渋滞振りにと違い、車は殆ど通らない。 
駅を通り過ぎたところにある踏切を渡ると、また国道1号線に合流する。
ここは箱根境交差点で、箱根町湯本である。 
  道の左に東山崎バス停があるところで、国道には歩道がないので、歩くのはこわい。 
百メートル程で、右に細い道があるので、国道と別れて進む。
道脇の空地に、 道祖神 と思われる小さな石仏が置かれている。
少し歩くと、再び、国道と合流したが、ここからは巾は狭いが、歩道があった。 
横断歩道橋があったので、早川側に移動して歩くと、箱根三枚橋交差点に出る。 
早川に架かる三枚橋から、箱根登山鉄道の箱根湯本駅が見えた。

「  江戸時代には、直進する道は、 七湯道 と呼ばれた。 
湯本を始め、芦ノ湯・木賀(きが)湯・底倉(そこくら)湯・宮ノ下湯・堂ヶ島湯・塔ノ沢湯を、  箱根七湯 と言う。 
その後、強羅温泉・小湧谷温泉等、五つの温泉が加えられて、箱根十二湯と言われるようになった。 」

東海道は、国道1号の七湯道ではなく、三枚橋交叉点で左折し、県道732号に入り、 三枚橋で早川を渡る。

「  相模国風土記稿には、 「 三枚橋は土橋、元は板橋なり、長二十二間、幅一丈余・・・ 」 、とある。 
橋が一つなのに、三枚橋 とあるのは、かつては川幅が広く、二つの中洲があり、そこに、 三つの橋が架かっていたからである。  また、小田原から順に、地獄橋、極楽橋、そして、三昧橋とも、呼ばれていた。 
三昧橋(三枚橋)は、その先は仏三昧に生きよという意味らしい。 
江戸時代、早雲寺に逃げ込むと、どんな罪人でも罪を免れる、と言われ、追手も地獄橋までは追うが、 その後は追わなかった、という。 
まさに、地獄橋と極楽橋があった訳である。 」

箱根越えは、標高1438mの箱根岳に連なる、ニ子山(1065m)の南麓の南側の斜面を回るルートである。

橋を渡り終えると、上り坂(東坂)が始まる。
江戸時代の箱根路は、峻険な山が頭上を覆う道で、転げ落ちるような急坂が連続し、 ぬかるみから坂を守るため、随所に石畳が築かれていた。
今回歩く東海道は、改良された道なので、江戸時代の旅人の苦労を感じることは難しい。

   相模国風土記稿には、「 湯本村は東西二十六町、南北五町で、家数は七十六軒、 橋の辺りに茶店が軒を連ねていた。 
橋を過れば道次第に険しい山道となり、往来困難なり。 」、とある。 

入るとすぐのところに、「新明町自治会」 の看板があり、 その脇の小さな石の祠の中に、道祖神が祀られている。

入生田踏切    箱根境道祖神    箱根湯本駅が見えた    三枚橋    小さな石の祠
入生田踏切
箱根境道祖神
箱根湯本駅が見えた
三枚橋
小さな石の祠

相模国風土記稿の言葉通り、下宿バス停の先で、右にカーブしながら、道は上っていく。  左側に、日帰り温泉の天山弘法の湯がある。 
その先の左側には鬱蒼とした林に囲まれた白山神社があり、道の反対側には湯本仲町集会所があり、 その脇の道を入ると、早雲寺の惣門(薬医門)が建っている。

「  早雲寺は、戦国時代の武将・北条早雲を始祖とする後北条氏の菩提寺である。
本尊は、室町時代の釈迦三尊仏である。 
北条早雲が、大森氏を追放し、三浦氏を滅ぼして、相模国を手に入れたが、このあたりは 晩年に好んで訪れたところで、北条早雲の遺命を受けた二代氏綱により、 早雲寺は、大永元年(1521)に建立された。
小田原城主の北条氏の庇護の下、臨済宗大徳寺派の大寺院へと発展していった。 
戦国時代に入ると、天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉の小田原攻めで、豊臣軍は、 箱根を越えて早雲寺に入り、この寺に本陣を置いた。 
六月下旬、石垣山一夜城が完成すると、この寺に火を放ち、 関東屈指の禅刹として威容を誇った、この寺の伽藍や塔頭寺院は、尽く灰燼に帰した。 
現在の早雲寺は、寛永四年(1627)、当山十七世菊径宗存と、北條河内狭山家と、北條下総岩富家により、再興されたものである。 」

本堂は、寛政年間に建てられたもので、昭和三十年代までは茅葺き寄棟造りだったという。 
境内は禅寺特有の閑静さで、時が止まるようだった。 
墓地には北条五代の墓や、連歌師飯尾宗祇の墓などがある。

「  北條五代の墓は、寛文十二年(1672)八月十五日、狭山北條家五代当主・氏治によって、 竣工された。
この日は、北條早雲(伊勢新九郎長氏)の命日に当り、後北條氏滅亡から八十二年後のことだった。
天正十八年(1590) 七月五日、北條氏が降伏し、 同十一日には、北條氏四代目・氏政と弟・氏照は切腹、 氏政の子で、家康の娘を正室にした五代目の氏直は、高野山に追放され、 翌天正十九年十一月四日、逝去した。 
伊豆韮山城主だった北條氏規(三代目氏康の五男、氏政の弟)は、 秀吉より大坂河内狭山に約一万石を許され、狭山北條氏として、 また、鎌倉玉縄城主・北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられ、 玉縄北條氏として、北條の血筋は残った。 」

境内の茅葺き屋根の鐘楼に下がる梵鐘は、 秀吉が小田原攻めで石垣山一夜城の陣鐘に使用した、というものである。
本堂の脇にある庭園は、早雲の三男・幻庵作で、「枯山水香爐峯」 という名が付いている。

早雲寺惣門    早雲寺本堂    五代の墓    早雲寺鐘楼    幻庵作庭園
早雲寺惣門
早雲寺本堂
北条氏五代の墓
早雲寺鐘楼
幻庵作庭園

街道に戻り、三百五十メートル上ると、湯本温泉の共同湯の一つ・弥坂湯がある。
ここから先の道の両側には温泉旅館が多い。 
少し歩くと、左側に、「 臨済宗大徳寺派正眼禅寺 」 の石柱がある。

「  この地にあった湯本地蔵堂を基にして、鎌倉時代に建立された寺で、 曽我十郎、五郎の縁者たちが、兄弟を弔うため、供養地蔵を奉納した、と伝えられてきた。
慶応四年(1865)の火災で、寺の建物は焼失、当時のものは、石仏と石塔のみという。 」

放光山正眼寺である本堂の左側にあるお堂前の大きな地蔵は、火災でなくなった後、 早雲寺から移されたものである。
曽我兄弟の供養塔と、曽我五郎の槍突石(鏃突石、やじりつきいし)があるというので、 槍突石を池の周りで探したが、どれなのか分らなかった。 
曽我堂の案内があったので、裏山の墓地を上っていくと、曽我堂があった。 

「  曽我十郎、五郎の兄弟が、苦難の末に、建久四年(1193)の源頼朝による富士の巻狩りの際、 父・河津祐泰の仇(かたき)・工藤祐経を襲い、見事に復讐を遂げた。 
頼朝の側近だった工藤祐経は、頼朝と同じ館に宿泊していたことから、宿館の警備は厳しく、 警護の侍たちが一緒に泊まっていた。 
その館に、兄弟は討ち入りし、寝ていた工藤祐経を襲うが、 寝首を掻くのは卑怯と祐経を起こしてから斬りかかって討ち取った、といわれる。 
曽我十郎は、その直後、警護のため、泊まり込んでいた新田忠常と斬り結んだ末に討ち死。
五郎は、頼朝の寝所を襲おうとして捕らえられた。
頼朝は、兄弟の苦労や孝心と警備厳しい館に斬り込んだ剛勇ぶりに感嘆し、五郎を許そうし、 有力御家人たちも助命を嘆願するが、工藤祐経の遺児らの訴えにより、処刑された。 
曽我堂には、二人の姿を写したといわれる地蔵像が納められている。 」

街道に戻ると、少し先の右側に、苔むした長方形の双体の道祖神が祀られている。 
これは湯本茶屋村の境の道祖神である。

相模国風土記稿によると、  「 湯本茶屋村は、家数二十七軒、東西十町許、南北二十町程 東海道の往還係れり、幅四間、 当所立場にて、下は風祭村立場、上は畑宿立場へ各一里、休憩の茶舗あれば村名となれり 」 、とある。
湯本茶屋村は立場で、旅人は原則としては宿泊できなかったが、湯治にかこつけて泊まるものが多かった、という。 

さらに少し行くと、右側に、日本橋より二十二番目の一里塚跡がある。
靜観荘の脇の石碑には、「 旧箱根街道一里塚跡の碑、江戸から二十二里」  、と彫られている。
相模国風土記稿に、 「 海道の西辺、左右に並、榎樹あり 囲六尺五寸ほど、東方は風祭村、 西方畑宿の一里塚に続けり 」、とあるものである。 

正眼寺    大きな地蔵    曽我堂    双体の道祖神    一里塚跡碑
正眼寺
大きな地蔵
曽我堂
双体の道祖神
一里塚跡碑

坂の傾斜はかなりあるが、温泉施設が多くある。 
江戸時代も、この辺が箱根湯本の中心で、街道の両側に、茶屋が沢山建っていたように思われる。 
「日帰り温泉 箱根の湯」 の看板が出ているところで、上りは一旦、終わる。 
そこから、道路が狭くなり、車の交差がようやくできる程度になる。 

道を下ると、台の茶屋バス停 の先で、 東海道は、県道より右に下る。
降り口の湯本茶屋公民館の前に、石造りの馬の水飲み桶がある。
昔は、ここで、馬子たちが休憩をとったのだろう。 
「箱根旧街道入口」 の看板には、 「 延宝八年(1680)に石畳を敷き、舗装をした。 
この先から、二百五十五メートルはその面影を残し、国の史跡にしてされている。 」  、と書かれている。
ここは江戸側から最初の石畳で、すり減った石畳は、まぎれもない江戸時代の名残りである。
大名はもとより、百姓、町人にいたるまで、幾代となく、箱根の難所を越えていった人たちの営みが、 静かな林の中に続いている。

左側は崖で、右側は谷、その間が石畳の道になる。
「猿沢の石畳」 と呼ばれるもので、長い期間、多くの人に踏まれたため、 表面の角は取れ、丸くなっている。 
しかし、下っているので、決して歩きやすいものではない。

少し歩くと、猿沢に架かる猿橋があり、頭上に建物があり、その下をくぐる。 
この施設は、箱根湯本ホテルの本館と別館をつなぐ連絡通路の渡月橋である。
石畳をそのまま歩くと、箱根観音・福寿院の上で、再び、県道と合流する。
この観音坂は、登りが続くきつい道である。 
このあたりは、温泉施設がほとんどなくなったが、見晴らしの良い街道歩きとなる。 

その先の天山湯治郷の辺が、箱根湯本の一番奥で、 奥湯本温泉 と呼ばれ、温泉街がある。 
その先は急な坂道である。
上るに比例して、赤や黄色の葉が増えていくが、紅葉には程遠い。 
須雲坂を上りきると、右側に、金ぴかの寺・浄土金剛宗天聖院がある。 
ここは塔ノ沢で、 五分位歩くと、ホテル初花(はつはな)がある。
少し先の道脇に、石碑があるが、かろうじて、「初花の滝の碑」 と読める。

「  初花<は、浄瑠璃、箱根権現霊験記に登場する飯沼勝五郎の妻の名である。 
初花が、対岸の湯坂山の中腹の滝で、水垢離(みずごり)をとったところが初花の滝である。
今は、樹木に隠れて、街道からは見ることが出来ない様子である。 」

葛原坂を上り切ったところに、須雲川ICが有り、その先には、「須雲川」 の道標がある。

相模国風土記稿によると、 
「 須雲川村は、古(いにしえ)は、箕作と唱う、箕を造るを以て生産となせり、 民戸二十三、東西十四町余、南北一里余 戸数三十・・ 」、とある。
東海道を開設した当時、民家がなかったので、強制的に他所から移住させたようである。 

旧東海道入口    猿沢の石畳    渡月橋    ホテル初花    須雲川道標
旧東海道入口
猿沢の石畳
渡月橋
ホテル初花
須雲川道標

そこを過ぎると、須雲川が良く見えるところに出る。 
川の反対側には、須雲山荘バンガローがある。 
小さな集落を過ぎ、左手に駒形神社を見て、街道はゆるい上り坂となる。
左側に 霊泉滝があり、その右側に、「鎖雲禅寺」 の小さな石碑がある。

「  石段を登ったところにあるのが、鎖雲寺(さうんじ) という小さな寺である。 
もとは、早雲寺の一庵であったのだが、寛永七年(1630)に、須雲川村に移し、 寺として建立したものである。 
普段は無住で、管理は正眼寺で行っている。 」

この寺の境内に、勝五郎と初花の墓がある。
比翼塚(ひよくづか)と呼ばれるようであるが、本堂の右手の墓地の一角に、 小さな五輪塔が二基並んで建っているのがそれである。
また、初花堂もある。

浄瑠璃・箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)
「 飯沼勝五郎は,父の敵を追って、箱根山中まで来たが,ここで病を得て、寝込んでしまう。 
妻の初花は、昼は山に分け入り、薬草を採って、夫の看病を 、夜は、夫の病気治癒と敵討ちの成就箱根権現に願い、また、向山の滝まで行き、水垢離をとった。
懸命の看病の結果、勝五郎の病も快方に向かい、慶長四年八月、ついに、父の仇の佐藤兄弟に出会い、 見事仇討ちを果たして、本懐を遂げる。 
「 このあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る・・・、」
ご存知、歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花が夫勝五郎を恋うる名台詞である。
歌舞伎では、仇の名は滝口上野。
勝五郎は兄を殺され、
初花は父を殺されたことになっている。 
また、初花は返り討ちにあい、その亡霊と箱根権現の霊験によって、勝五郎の足は治り、 仇を討てたことになっている。 」

鎖雲寺を出ると、上り坂は大きく右にカーブし、須雲川に架かる須雲橋を渡る。
その手前の左手に、自然遊歩道の入り口があり、そこに建つ、「女転し坂」 の石碑には、 「女転がし坂登り1町余 」  と、彫られている。

相模国風土記稿には、
「 海道中の西方にあり登り1町余、昔婦人駅馬に乗り、此にて落馬す故に 此名ありし 」 
とある坂だが、関東大震災の時、崩落してしまい、今は通行できないようである。 

橋を渡ると、県道は急な傾斜の坂になる。 
上って行くと、右手に、箱根大天狗神社がある。
これも先程の金ぴかの寺と同じ宗教法人で、由緒などははっきりしない。 
カーブしながら、坂は上るが、道脇の 「女転がし坂」 の説明板には、
「 江戸時代、馬に乗って通っていた御婦人が、傾斜のきつさで落馬し、死亡したことからこの名が付いたようである。 」 と書かれていた。 

鎖雲禅寺    比翼塚    初花堂    女転し坂碑    箱根大天狗神社
鎖雲禅寺
比翼塚
初花堂
女転し坂碑
箱根大天狗神社

きちんと整枝された杉林の中に、県道は続く。
歩道はもちろん、歩道帯を表示することもない道なので、危険である。 
正一位稲荷大権現の稲荷像があり、発電所前バス停があるところを過ぎると、右側に、手すりがあり、 「割石坂」 の石碑が建っている。
ここから石畳の道が畑宿まで続く。
街道に沿って茂る杉林は、雨風や夏の日ざしから、旅人を守り続けtてきたものである。
現代人の我々は、拍も履物も違い、薄暗い林の中なので、苔がむし、枯葉も落ち、滑りやすい。

相模国風土記稿には、 
「 是も海道中にて畑宿の境にあり、登り一町、路傍に一巨石あり、長四尺、横三 尺、厚さ五寸許、 相伝ふ、曾我五郎時致、富士野に参り向ふ時、此坂にて帯刀の利鈍を試ん とて斬割れる石なり、 其半片は渓間に落しとなり 」 、とある坂である。 

 明るくなった、と思ったら、左下に県道が見えた。 
説明板に、 「 江戸時代のものに、明治・大正時代に、須雲川小学校への通学路として整備した。 」 、とあった。
前後の新しいものは、最近設置したもののようである。 

橋が見えてきたと思ったら、石畳は終わった。 
県道を歩く。 このあたりは、紅葉がかなり進んでいた。
しばらく歩くと、「箱根旧街道」 の木柱が左側に建っている。
下り坂になる、石畳の道を歩く。 
昔は立派に整備されていたのだろうが、石が減って地面が見えるところがあったり、石がなくなり、 ただの山道となっているところもあった。 
石は角がとれて丸くなり、苔が生え、傾斜も急で滑りやすい。 

川に一枚の板を渡した橋を渡る。 

江戸時代の相模国風土記稿には 
「 千鳥橋という橋が、大沢川に架していて、長幅各二間、古は土橋なり、寛政十年石橋となり、 欄干あり、領主の修理なり。 」
 、とあるので、川も現在より大きかったのだろう。

橋を渡ると、上りになるが、そこに説明板が建っている。

説明板
「 幕末の下田奉行、小笠原長保の甲申日記に、  「 大沢坂又は座頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし 」 と、書かれていた、とあるところで、当時の石畳道が一番良く残っている。 
苔むした石畳は往時をしのばせる、」

道幅が広い石畳の左側に、「大澤坂」 の石碑が建っている。
大沢坂は歩きずらいが、我慢して上っていくと、県道に出て、 江戸時代、間の宿だった畑宿の集落に入った。 

割石坂の石碑    石畳の道    県道を歩く    堀田沢    大沢坂
割石坂の石碑
石畳の道
県道を歩く
堀田沢
大沢坂


◎ 間の宿 畑宿 

大澤坂の石畳を上り終えると、県道に出て、その先にある畑宿集落に到着。 

「 江戸時代の畑宿は、小田原宿と箱根宿の間の、「箱根旧街道の間の宿」 として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦・鮎の塩焼き・箱根細工に人気があったといわれる。 
相模国風土記稿によると、 
「 畑宿村は、江戸より行程二十四里、此地は東海道中の立場にて湯本茶屋へ一里、箱根宿へ一里八町、民戸連住し、宿駅の如し、家数四十三、東西二十三町、南北十八町余 」 
とあり、 「 当所も正月松に替へて樒(しきみ)を立り 名主畑右衛門、字号を茗荷屋と称す、 湯本細工、挽物(ろくろ細工)、塗物類をひさぐ 」 、と書かれている。  」

坂を上り切った所は、国道のカーブの所である。
近くに、道祖神と思える石碑があったが、磨耗しているので、確認できなかった。 
畑宿バス停の脇には、「浜松屋」 という寄木細工の店があり、 隣に、「畑宿本陣茗荷屋跡」の木柱が建っている。 

「  間宿でも本陣があり、代々、茗荷屋畑右衛門を名乗った。
明治天皇は、京都から東京への遷都に際し、明治元年十月八日、同年十二月十日と、 翌年三月二十五日の三回、ここで御小休を取られた。
それを記念して、大きな石碑が建っている。 
米国初代総領事のハリスが、江戸入りの途中、下田から駕篭で上京したが、 その際、ここで休息し、日本式庭園を観賞している。 
大正元年の全村火災の折、建物は焼失したが、庭園は、昔を偲ぶ形で、残された。 」

右側の細い道の奥にあるのが、「駒形宮」 の鳥居がある箱根駒形神社である。 
荒湯駒形権現とも言われる。
この神社は、箱根神社の社外の末社で、畑宿の鎮守社である。

箱根細工ともいわれる寄せ木細工は、古くは木地挽きから起こった。 

「  北条氏の小田原の発展に伴い、畑宿は、轆轤(ろくろ)を使った挽き物と、 平面的な箱物などの指物(さしもの)が、製品として作られるようになった。 
江戸時代の中期以降は、寄木(よせぎ)細工と、象嵌(ぞうがん)細工が中心となり、 旅人の人気を博した、という。 」

こうした伝統工芸を紹介する、畑宿寄木会館は、街道に戻り、 少し行った右側の小道を入ったところにあり、寄せ木細工の販売とともに、 製作の模様が見学できる。

畑宿    畑宿本陣跡    箱根駒形神社    畑宿寄木会館
畑宿
畑宿本陣跡
箱根駒形神社
寄木会館

道は、畑の茶屋バス停で、右にカーブして登り坂となる。
東海道は、そのまま進むと、「一里塚」 の木柱があり、その先に、畑の茶屋がある。
畑の茶屋は休日だったので、蕎麦処桔梗屋に入り、ざる蕎麦を注文し、休憩をとる。 
平日なので、客は小生一人だけである。
囲炉裏が切られていたので、その脇に陣取り、炎をぼけーと見ていた。 
蕎麦はなかなか美味かった。

先程の一里塚の木柱まで戻り、脇の参道を上ると、守源寺がある。

「  箱根七福神の一つ、蓄財の神様である大黒天が、本堂の右側の大黒堂に祀られている。  
箱根七福神巡りは、江戸時代初期より庶民の間に広まった信仰で、今でも人気がある。 」

街道に戻る、畑の茶屋の先から、石畳が始まる。 
その先には、木々に囲まれた大きな広場が有り、小山が二つある。
これが江戸から二十三番目の畑宿一里塚である。

「 右の塚に、樅(もみ)、左の塚に、欅(けやき)の木が植えられている。  
これは、畑宿一里塚を整備、復元したもので、なかなか美しい一里塚である。 
相模国風土記稿には、 
「 西海子坂の下、海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、西は箱根宿の一里塚に続けり 」、とある。 」

間の宿・畑宿はここまでである。

畑の茶屋    蕎麦処桔梗屋    守源寺    畑宿一里塚
畑の茶屋
蕎麦処 桔梗屋
守源寺
畑宿一里塚



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