酒匂川を渡り、松の老木の残る見付跡を過ぎれば、東海道の宿場の中でも有数の賑わいを誇った
小田原宿である。
小田原宿は、江戸から二十里二十町、普通の男たちにとって、東海道の二日目の宿、
足弱の者にとって、三日目の夜も宿であった。
明日はいよいよ、箱根の峠越えである。
押切橋の上から眺めると、左手に相模湾があるが、
西湘バイパスの橋に視界がさえぎられてしまうのは残念である。
橋を渡ると、ゆるやかだが、長い上り坂・車坂になる。
坂の途中の橘インター入口交叉点の左手に、西湘バイパス橘ICの入口があり、
海がわずかに見えた。
ここから小田原市前川である。
「 相模国風土記によると、前川村は、東西十四町余、民戸百六十三、 東海道が村の南を貫いていた。 」 とある。 」
浅間神社入口交叉点の先、、町屋バス停を越すと、坂の頂上になる。
下り坂となると、ほんの一時であるが、左手に相模湾が開ける。
昔は、今のように住宅が無かったので、常に海を眺めながら歩けたのだろう。
坂をほぼ下り終える、右側に歌碑がある。
「 鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆう立の空 大田 道潅 」
「 浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今の 暮れにけるかも 源 実朝 」
「 浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 阿仏尼 」
その先の右側の果物屋の角に、右に入る小路があり、
天保五年建立の大山道標が建っている。
風土記に記載のある、「 海道中小名向原にて北に入、一路あり、大山道なり、
幅六尺。 」 とあるのがこれだろう。
その奥に、秋葉山常夜燈と石祠があった。
坂を下りると、道は右にカーブ。
小さな川の手前の民家の塀の前に、坂下道祖神碑と、双体道祖神像が祀られている。
その先の右側に、「今戸神社」 の石標が建っている。
中宿公民館の前には、道祖神(?)が祀られている。
昔の家と思える建物もある。
西前川交叉点を過ぎると、左側には民家はなく、海岸になる。
海岸には西湘バイパスが通っている。
ここまでは無風だったのに、ここから小田原までは強風で、しかも、曇り空に変った。
場所により気象の変化はあるが、このように短い距離での変化には驚いた。
右側が崖のようになっていて、松の木が聳えているところまで来ると、坂は終る。
右手にJR国府津駅がある。
国府津駅は小高いところにあり、東海道本線の丹那トンネルが開通するまでは、
御殿場回りであった。
この駅では東海道本線と御殿場線が発着する駅である。
駅からは眼下に真っ青な相模湾を見ることができると聞いていたが、
前にマンションなどが建ち、景観はよくない。
国府津駅前交叉点を過ぎると、横浜銀行の先に、「親鸞聖人七ヶ年御旧蹟 真楽寺」
の石柱がある。
境内には、親鸞が指先で名号を書いた、といわれる二メートル程の石が安置された、
「帰命堂」 と呼ばれるお堂がある。
脇には、市天然記念物の菩提樹がある。
「 真楽寺は、相模国風土記に、「 聖徳太子の開にして天台宗の古刹なり。、 安貞のころ、親鸞、当国化盆ありし時、 現在性順、師資の約をなし、 一堂を建て是に移り、親鸞をして 当寺住せしむる事七年、 夫より親鸞、寺務を上足顕知に譲りて帰治ありし 」とある浄土真宗のお寺である。 」
傍らの説明板
「 山門の国道を挟んだ南側の袖ヶ浦の海岸に、勧堂がある。
親鸞は、七年間、このお堂に住まい、民衆を教化されたと伝えられる。 」
真楽寺を出て、さがみ信用金庫がある、岡入口交差点を右折する。
JRのガードを越えたところに、道祖神が祀られている。
その先の三差路に、菅原道真を祀った天神社の菅原神社がある。
境内には、 わらべ歌 「 とうりゃ んせ 」 の発祥の地の石碑と、
曽我兄弟の隠れ石の石碑が建っている。
「 曽我兄弟が、父の敵(かたき)の 工藤祐経が、鎌倉に向う行列を見つけるも、 多勢に無勢のため、 石の陰に隠れて見送った、 という言い伝えのある、 曽我兄弟の隠れ石の石碑である。 」
隣には、安楽院がある。
街道に戻り、少し歩くと、親木橋で、左側に横断歩道橋が見えた。
近づくと右側は交差点をそのまま渡れる。
このあたりから、左側に松並木が見られる。
「 この一帯は、江戸時代の小八幡村である。
相模国風土記によると、「 家数九十六軒、東海道が村の東南を貫いていた。
山西村の梅沢の立場から、一里の距離で、路の左右に松の並木があり、
ここも立場になっていた。 」 とある。 」
少し行くと、「一里塚」 というバス停がある。
「
この先あたりに江戸から十九番目の小八幡一里塚があったようである。
相模国風土記には、 「 一里塚は東海道の東にあり、左右相対せり、
高二間、舗(つらなり)六七間塚上に松樹あり 」 、とある。 」
宮の前交叉点近くに、「八幡神社」 の石柱があったが、
覗いてみても、神社の姿が見えないので、寄らずに進む。
その先の右側に、「弘法大師利剣名号安置」 の石碑がある。
その奥に見える寺は、東海道分間絵図にある三宝寺である。
小八幡交叉点を過ぎると、旧小八幡村は終わりである。
漁場前バス停を過ぎると、両側の松並木は太く高くたくましいのが続いた。
このあたりは江戸時代の酒匂村である。
左側にある酒匂郵便局を過ぎると、松並木もなくなってしまう。
酒匂3丁目交叉点の右側に、「大見寺」 の石柱がある。
その隣に
「小田原市指定文化財 小島家宝しょう印塔と五輪塔」 の標柱が建っている。
隣の黒塀の立派な門構えの旧家は、江戸時代には川辺本陣だったところである。
現在、社会福祉法人ゆりかご園(児童養護施設)である。
東海道分間絵図には、東海道の左側に描かれているが、
そこには酒匂不動尊が祀られていた。
その先の左側の小路奥に、妙蓮寺がある。 道の角に、道祖神が祀られている。
右側に「法善寺」 の石柱があり、その先の小路にも、道祖神碑がある。
右側の大きな白いビルの手前が連歌橋交差点で、その先の小さな橋が連歌橋である。
その先の小さな川の桜は満開で、きれいだった。
「 東海道分間絵図には、傳ヶ橋の手前に、川高札場があり、
高札場の向いに間口七間、奥行四間の川会所があったように描かれている。
相模国風土記には、「 菊川が村の西方を流れ、村南にて海に入、
幅四五間、十間余に至る。 東海道の通ずる所に土橋を架す。
長さ十二間、幅二間半余、傳ヶ橋と呼ぶ。 」 とある。
傳ヶ橋は、今日の連歌橋だろうか? 」
放水路の小さな橋を渡ると、酒匂橋東側交差点で、 その先には酒匂川が流れている。
「 酒匂川は船渡しだったが、後に徒歩(かち)渡しとなり、
冬(十月五日から明年三月五日)の間は土橋の仮橋がかけられた。
相模国風土記に、川渡場の記載があり、
「 酒匂村・網一色村・山王村の三村にて、歩行人夫を出し、其役を勤む。
人夫は三十九人を定額とした。 」 、 と、ある。
江戸時代の渡し場は酒匂橋の袂にあり、
仮橋は酒匂橋より百メートル上流の中州にかけられたようである。 」
国道1号の酒匂橋を渡っていると、
正面に箱根から伊豆半島の峰々が見え、川の下流には西湘バイパスの橋があるのが分かる。
三百八十一メートルの橋を渡り終えると、左側の城東高校の校庭には桜が咲き誇っていた。
「
対岸のこちらは、江戸時代には網一色村であった。
当時の民家は五十三戸で、漁業を生業にしていた。
東海道は、酒匂橋の百メートル上流の八幡神社のあたりで、
酒匂川から上り、神社の前を通り、国道1号線に出て、
国道1号線を横断し、城東高校の先の道を右折し 再び、国道1号線と合流するルートだった
」
城東高校の付近に、新田義貞の首塚があるが、民家の路地を入った所で判りにくい。
城東高校前交差点を左折し、二つ目の道を右折し、突き当った丁字路を右折すると、
その奥の金網に、「新田義貞の首塚」 の説明板があり、民家の奥に入るとある。
説明板「新田義貞の首塚」
「 福井県藤島にて討死した新田義貞の首は、
足利尊氏によって晒首(さらしくび)となっていたのを、
家臣・宇都宮泰藤(後の小田原城主・大久保氏の祖先)が奪い返して、
義貞の本国(群馬県)に埋葬するため、東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとりの網一色村で、病に倒れ、止む無く、この地に 首を埋葬し、自らも亡くなった。 」
国道の手前の道が東海道で、常顕寺入口交差点で、国道に合流した。
その先の右手には、常顕寺・呑海寺・弘経寺・昌福院・心光寺と、お寺が並んでいる。
山王橋交差点の先には、山王川があり、短い山王橋を渡る。
右側に、山王神社と宗福寺がある。
「神社の由緒」
「 明応四年(1495)、北条早雲が、当時の小田原城主の大森藤頼を破り、
城を手中に納めた頃は、この神社は海辺にあった。
しかし高波で崩壊したため、慶長十八年(1613)に、ここに移された。 」
星月夜詩碑と、最近つくられた井戸がある。
星月夜詩碑
「山王神社が海辺にあったとき、星月夜ノ井戸があり、星月夜の社 と、呼ばれていた。
神社が移転した時、井戸もここに移された。
江戸時代の朱子学者・林羅山は、寛永元年(1624)、神社の境内で、
星月夜の詩を詠んだ と、ある。 」
山王橋バス停を越えると、歩道にある行灯の下に、
「東海道 小田原宿」 と書いた道標がある。
その先の新宿公民館前の歩道橋の下に、「小田原城址江戸口見附跡」 の標柱と、
小田原城などの案内板があり、中には石組みに松の木が植えられている。
相模国風土記には、 「 江戸口の外 南側にあり、高六尺五寸、 幅五間ばかり、 塚上榎樹ありしが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、 古は双こうなりしに、 今隻こうとなれり。 」、とある
「江戸口見附跡」 の国道の反対側に、小田原山王原一里塚跡
「江戸より二十里」 の表示があるようであるが、気が付かなかった。
その先に、浜町交叉点がある。
「 浜町が、小田原城の総構えの最東端で、
江戸時代には、城下町入口であると同時に、宿場町の入口でもあった。
小田原は後北条氏時代、関東を掌握する大大名として君臨して、
居城のある小田原は、城下町として発展した。
江戸時代に入ると、東海道の江戸防衛の要として大久保氏が配置され、
十一万三千石の城下町となった。
箱根越えと箱根関所を控えていたため、参勤交代の大名も、宿泊を強いられ、
本陣が四軒、脇本陣も四軒と東海道の宿場で一番多かった。 」
浜町交差点を過ぎると、新宿交差点に出ると、 歩道に「新宿町(しんしくまち)」の標石がある。
標石「新宿町」
「 江戸時代の前期、城の大手口の変更によって、
東海道が北寄りに付け替えられた時に出来た町である。
藩主が帰城のときの出迎場であった他、郷宿や茶屋があり、
小田原提灯づくりの家などもあった。
東海道はこの先、鉤型(曲手)になっていた。 」
東海道は、新宿交差点で、国道1号と分かれ、左折して、蹴上坂(けあげさか)を上る。
左側に、「鍋町」の標石がある。
蹴上坂は、坂といえない程の坂である。
蹴上坂を百メートル程歩いて、右折すると、「万町」 の標石がある。、
「 この通りには蒲鉾屋が多い。
江戸時代には、紀州藩の飛脚継立所があったところで、この町には旅籠が五軒<あった。 」
万町と高梨町の間の右側の小路を行くと、江戸時代には唐人町があった。
「
後北条氏が、難破し小田原に漂着した中国人を、この地に住まわせ、対明貿易を行っていた、といわれ、最初は唐人村と呼ばれていたらしい。
現在は、唐人町交差点と、バス停と、「唐人町」の道標にのみ、その名が残る。 」
街道に戻ると、左側に、「高梨町」 の石標がある。
ここは甲州街道の起点であり、問屋場でもあった。
その先に、青物町交差点がある。
江戸時代には青物を扱っていた商人の町がこの北側にあった。
青物町交差点を越えると、左側に、古清水旅館がある。
江戸時代には、「小清水」 という名で、旅籠を営んでいた。
「宮前町」の石標がある。
石標の文面
「 町の中央に、藩主専用の入口、浜手門口が設けられていた。
本陣が一軒、脇本陣一軒、旅籠が二十三軒あり、高札場もあった。
本町と共に、宿場の中心だった。 」
旅館の先に、 「明治天皇聖趾」 の石柱がある。
清水金左衛門本陣があったところで、入った右側には、「明治天皇行在所」 の碑が建っている。
傍らの説明板
「 ここは明治天皇宮ノ前行在所跡である。
清水金左衛門本陣は、四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤め、
宿場町全体の掌握を行なっていた。
本陣の規模はおよそ二百四十坪で、明治天皇の宿泊は、
明治元年(1868)十月八日の御東行の際を初め、五回を数える。 」
その先の右の小路を入って行くと、突き当たりに松原神社がある。
「 北条氏綱の時、
海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされ、
北条氏の庇護も厚かった神社である。
四月に行われる祭礼は、小田原市内で最も盛大のものである。 」
街道に戻り、道を直進すると、国道が直角に右折してくる左側に、 なりわい交流館 という建物がある。
「
江戸時代の旅籠・住吉屋吉衛門の家で、
大正時代にはブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。
この建物は、大正十二年の関東大震災で被害を受けた建物を、昭和七年に再建したもので、
小田原の典型的な商家の造りである出桁(だしげた)造りで、建てられている。
二階正面は出格子窓で、昔の旅籠の雰囲気を醸し出している。 」
小路を進むと、「市場横町」 の標石がある。
標石市場横町」の説明
「 本町と宮前町と千度小路の境を抜けられる横町である。
魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、魚市場が開かれていた。 」
交差点を越えた右側に徳常院がある。
右側のお堂には、総身五メートルの青銅製の地蔵尊が祀られている。
「 もとは、元箱根の賽の河原に安置されていたもので、 明治の廃仏稀釈で、東京の古物商に売り渡され、運搬途中、 この地の有志がその商人から買取り当寺に安置したものである。 」
境内には、古い石仏群がある。
街道にもどると、「東海道 小田原宿本町」 の表示がある。
「
本町は、小田原宿の中心地で、本陣が二軒、脇本陣が二軒、旅籠が二十六軒あった。
かっては、古い家が軒を並べていたのだろうが、店もビルになり、マンションが建って、
昔の面影はない。 」
左側のレーアージュ小田原本町、というマンションの駐車場の脇に、「明治天皇本町行在所跡」 の大きな石碑が建っている。
「 ここは片岡本陣があった場所で、以前は映画館だったが、いつの間にかマンションに変り、道路に本陣跡の表示がないので、見つけるのに苦労した。
明治天皇が、明治十一年十一月七日、東海北陸御巡幸の際、宿泊された。 」
調剤薬舗の看板を掲げた小西薬局の前に、「中宿町」の標石がある。
「 中宿町には脇本陣と西の問屋、旅籠が十一軒あった。
小西家は、藩の御用商人だった。
小西薬局は、寛永十年の創業だが、建物は関東大震災後に建てたものである。 」
その先の向かい側に、お城のような建物があるが、ういろう本舗である。
「 ういろう本舗は、歌舞伎の外郎(ういろう)売りで登場することから、
有名になった薬の外郎を売る店である。
、
五百年の歴史を誇る日本最古の薬屋である。
創始者は元から亡命した陳廷祐で、中国での官名が礼部員外郎だったことから、
「ういろう」 と名乗り、薬を製造販売したのが始まりという。
建物は大永三年(1523)に建設されたが、現在の建物は平成十年に復元されたものである。 」
本町交叉点から早川口交叉点の間の北側には小田原城が江戸時代にはあった。
「
東海道は、江戸時代に造られた、小田原城の外側を回るように歩いていたので、
天守閣などが見え、江戸への構えの城であることが実感できたことであろう。
北条氏時代の城は、秀吉の攻撃に備えて、城下町を囲む、
全長九キロの総構と、山城であった。
江戸時代に入り、城主となった大久保忠世と稲葉正勝は、総構と山城を廃し、
東海道に面したところに、石造りの近代的な城郭を造った。
明治維新により、城は解体され、遺構として残っているのは、
本丸・二の丸の大部分」と三の丸と総構の一部である。
天守や銅門・常磐木門などが再建されている。 」
箱根口交差点の周辺が、江戸時代の欄干橋町である。
その先に、「筋違橋町」の標石がある。
「 欄干橋町には、本陣が一軒、旅籠が十軒あった。
清水彦十郎本陣は、ういろう本舗の道を隔てた反対にあった。
しかし、清水彦十郎本陣の跡は確認できなかった。 」
この辺から、板橋見附までは八百メートル程である。
古そうな家がぽつりぽつりと残っていた。
諸白小路交差点の左側の小路を入ると、ヨハネ玩具商会の前に、
「三好達治旧居跡」 の標柱が建っている。
この先に、「山角町」 の標石がある。
「 江戸時代にはかわら職人が多かったところである。
山角町は、小田原北條氏の家臣・山角定吉の屋敷があったところから名付けられた、といわれる。 」
この先の信号交差点を右折すると、交差点の向こうに、山角天神社がある。
「 山角天神社は、菅原道真を祭神とする地域の鎮守社である。
御神体は、高さ三十二センチの木像である。
江戸時代には、再興した三光寺を別当寺としていたが、明治に廃寺になった。
別当寺の什宝だった菅原道真画像は、北条氏康の奉納によるもので、
現在は神社が保管している。 」
境内にある芭蕉句碑は、文政三年(1820)に建立されたもので、 刻まれている句は梅の花を詠んだ句である。
「 有米家可耳(うめがかに) 乃都登(のっと) 日能伝<(ひので)る 山路閑難(やまじかな) 」
その他、とおりゃんせの歌碑と、紀軽人の狂歌碑がある。
紀軽人は、地元の筋違橋の呉服商の主人で、江戸に出て太田蜀山人などと親交して、
一流の狂歌師になった人である。
早川口交差点を左折し、二百メートル程行くと、左側に、小田原城の早川口の遺構がある
説明板「早川口遺構」
「 早川口遺構は、北条氏が秀吉の小田原攻めに備えて、城下町すべてを取り囲んで構築した、、小田原城大外郭の西側平地の代表的な遺構である。
土塁が二条平行し、その間の堀を道とする独特の虎口で、
昭和五十三年に国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されている。 」
街道に戻り、JR東海道本線と箱根登山鉄道のガードをくぐると、 直ぐ左側にあるのが大久寺である。
「 徳川家康軍の猛将だった大久保忠世が小田原藩主になり、建てた寺である
彼を初め、大久保氏の代々の墓がある。 」
大久寺を出ると、昔の赤い郵便ポストの前に、
「御組長屋(おくみながや)」 の標石がある。
道を挟んで反対側に、居神神社(いがみじんじゃ)の入口がある。
「
居神神社は、戦国初期の永正十三年(1516)、
伊勢長氏(後の北条早雲)に討たれた三浦道寸の嫡子・義意<(よしおき)の霊と、
木花咲耶姫命・火之加真土神を祀る神社である。
義意は、七十五人力といわれた豪傑であったが、
このとき、樫に鋲を打ち込んだ棍棒を振り回して奮戦し、多くの将兵を殺傷した後、
自ら腹を切り首を刎ねて死んだ。
その首は恨みを含んで、伊勢氏の本拠地である小田原まで飛んできて松の枝にかかり、三年間、目を見開いて通行人を睨み殺した。
久野総世寺の忠室和尚がやって来て、これに諭したところ、義意の首は枝から落ち、
瞬く間に白骨と化したという。
和尚がこれを弔い、祠を建てて、義意を祀ったのがこの神社の始まりである。 」
参道を進むと、社殿がある。
「 神社は、旧山角町と板橋村の鎮守であった。
神輿の巡業は大永元年(1521)から始まり、その行列は十万石の格式であった、と伝えられている。
境内には、鎌倉末期の念仏供養碑の古碑群や、庚申塔などが祀られている。 」
石段を下り、街道に戻ると、左隣に大きな銀杏の木が生えている光円寺がある。
寺の角に、「東海道」の案内板や、「上方見附跡」の表示がある。
また、交叉点の名は、板橋見付である。
江戸時代には、ここに小田原宿の京側入口であることを示す、上方見附があった。
小田原宿はここで終わり、この先は堅固な箱根路と箱根関所が待っている。