平塚宿から大磯宿は三キロと短い。 大磯は海辺の町である。
宿場の出入口には松並木が残っている。
古代には相模国の国府が置かれ、江戸時代には宿場町として栄え、明治以降は別荘地、避暑地として著名人が住んだ地である。
到るところに、曽我物語の虎御前の伝説が残る。
平塚宿を出ると右手にこんもりと丸い高麗山の姿が見える。
安藤広重の東海道五十三次・平塚宿の絵に、古花水付近を描いたものがある。
「
平塚宿西端の古花水から、東海道の畷道がつづら折りに続き、道の右側の大きな松の下には、
榜示杭と関札が見え、その脇を旅人などが通り過ぎていく姿が描かれている。
道の先に高麗山が見え望み、富士山も一部姿を現わしている。
榜示杭は、大住郡と淘綾郡(ゆるぎぐん)の境を示すためのもので、
関札は、平塚宿を利用する大名が、宿場の入口に掲げたものである。 」
平塚宿から大磯宿は三キロと短い。
花水橋東交差点は三叉路で、右折すると秦野に行く県道62号である。
東海道は直進で、花水川に架かる花水橋を渡る。
橋を渡ると、大磯町である。
右手にこんもりと丸い高麗山(こまやま)の姿が大きく見える。
高麗山は、高麗の王族が移り住んだとか、虎御前の庵があったなどと、伝えられる山である。
その右側に大山のある丹沢連峰がよく見えたが、浮世絵にあった富士山は見えなかった。
花水橋交差点を越えると、左側に善福寺がある。
山門を入ると、左側に、親鸞聖人旧跡碑がある。
「 この寺は、親鸞聖人の高弟の一人・了源上人の創建である。
伊東祐光は、伊豆の押領使・伊東祐親の孫にあたり、
仇討ちで有名な曽我兄弟とは従兄弟の関係にあり、平塚に住んでいたが、
一族の菩提を弔うため、武士を捨てて出家し、親鸞の弟子になったという人物である。
寺には、鎌倉時代の木造了源坐像(国重文)と、阿弥陀如来立像(県重文)がある。 」
その先の道の右側に、茅葺きの古い家が残っていた。
「
このあたりは、江戸時代の寛政年間に、大磯宿高麗寺領(百石)が、
高麗寺村になったところである。
高麗寺には、家康を祭った権現社があったことから、村内には 「下車」 の制札が掲げられ、大名は駕篭を降り、頭を下げて、高麗寺の権現前を通った、といわれる。 」
高来神社入口交差点の右側に、「高来神社(たかくじんじゃ)」 の石柱と、
鳥居が建っている。
鳥居をくぐると、慶覚院がある。
「
慶覚院は、慶長十八年(1613)に、 大磯宿南下町に創建された寺である。
明治十五年の大磯の大火で、高麗寺地蔵堂があったところに移転した。
最近建て替えられたので、建物は新しいが、
建治四年(1278)造立の木造地蔵菩薩坐像(県重文)や、
当寺本尊の木造千手観音立像が祀られている。 」
紅葉し始めた桜と大きな神燈が建つ参道を歩くと、左側に力石が置かれていた。
その先の左側にある神社らしくない建物が、高来神社の社殿である。
「
この建物が、神社らしくないのも、当然で、江戸時代まで、高麗寺の観音堂だったのである。
高来神社は、神功皇后の三韓征伐から帰国後、武内宿祢の奏請により、
高麗大神、和光を勧請したのがはじめという説や、
高句麗が滅び、その王族、若光の一行が日本に逃れて来て、この地に上陸し、
その一族を祀ったのがはじめという説もあり、
神社の創建の時期や起源ははっきりしないようである。 」
右隣の建物は、元々神輿殿だったようだが、これもまた、寺院風の建築である。
「高来神社の由緒」
「 漁民が海から引き揚げた千手観音を本尊とした寺を、
行基上人が高麗寺と認めたことから、山頂の高麗大権現を上社、山麓の高麗寺を下社とし、
山頂の左右の峰に、白山と毘沙門を勧請して、高麗三社権現と称した。
明治の神仏分離の嵐により、高麗寺が廃寺となった時、山頂の高麗権現社を観音堂に移し、
高麗神社と名を変えて、観音堂は残った。
また、明治三十年に、現在の名前の高来神社に改称した。 」
これで分るように、江戸時代までは神仏混淆で、
高麗寺と高麗大権現は一体とされていたのである。
これで、神社の社殿がおかしい理由が分った。
高麗寺は徳川幕府の庇護下にあったため、明治政府により、観音堂と神輿殿を除き、
すべての建物が破壊された。
それにしても、京都御所と公家達の徳川憎しの怨念が漂う話である。
街道に戻り、歩き始めると、道の右側に、「虚空蔵尊」 の石標があり、 小さな祠がある。
傍らの「説明板」
「 江戸時代には、青木宮という。熊野権現と虚空蔵侍を祀ったお堂があり、
隣に「下馬標」、 反対の左側には村の境を示す、三メートル程の寺領傍示杭が立っていて、
村の境に、字駒留橋が架かっていた。 」
道は右にカーブし、更に進むと、道の右側に松の木があり、
その先に三叉路の化粧坂(けはいさか)交叉点がある。
高来神社入口交差点から三百メートルほどの距離である。
東海道は右の狭い道に入るが、緩い上り坂で、「化糀坂」 という名が付けられている。
「 平安時代から鎌倉時代にかけては、化粧坂近辺が大磯の中心地だったようで、化粧坂には遊女屋も多かった、という。 」
旧街道に入ってすぐの右側に 「車屋」 という、水車がある手打ち蕎麦屋があった。
百五十メートル程歩くと、左側に黄色い壁の家があり、化粧井戸があった。
「
仇討ちで有名な曽我十郎の恋人の虎御前は、大磯一の美女といわれた。
虎御前は、このあたりに住んでいて、この井戸で、朝夕化粧をしていた、と伝えられる井戸である。 」
車は殆ど通らず、旧東海道のたたずまいを感じさせる道の両側に、
樹齢百二十年〜百三十年の榎(えのき)巨木がある。
どれも巨木揃いで、歴史の深さを感じさせた。
坂を上りきった右側に、「王城 釜口古墳 0.3km 」の木柱がある。
王城山には横穴古墳が多くあり、釜口古墳は高麗王若光の墓だという説もある、という。
街道を進むと、「東海道五十三次 大磯宿 虎ヶ雨 」 という標題の浮世絵看板が現れ、 「 右手は高麗山の麓、虎御前と曽我兄弟の悲恋伝説も雨にぬれそぼってわびしい。 」 、と書かれていた。
その先の左側に、三界万霊供養塔と。馬頭観音が祀られている。
坂の頂上と思えるところで、東海道は、東海道本線により、寸断されている。
右側の随道(徒歩と自転車のみ)をくぐり、反対側に出る。
ここから下り坂となり、松並木が現れる。
松の木はかなり大きいので、東海道の生き残りのように思えた。
その先に、「見附」 の案内板があったので、大磯宿に到着である。
道の右側にあった江戸方見附の案内坂には、さっき通り抜けてきた随道の手前あたりに、
大磯一里塚があったように表示されていた。
気が付かないまま通り過ぎてきたのである。
このあたりには大きな松の木は残っているが、両脇に住宅が建ち並んでいるので、
現世を感じさせる風景になっているのは、残念である。
一軒の魚屋の前には、海から揚げられた魚が干されていて、その魚を買おうと、
多くの人が群がっていた。
坂を下っていくと、「大磯宿」 と書かれた宿場行燈があった。
「 大磯宿は、天保十四年に発行された東海道宿村大概帳によると、
宿内人口は三千五十六人、家数は六百七十六軒で、本陣が三軒、脇本陣はなく、旅籠が六十六軒である。
大磯宿は、江戸時代には宿場町として栄えたが、明治以降は別荘地や避暑地として、
多くの有名人を集めた。 」
東海道は、三沢橋東側交差点で、国道1号線と合流してしまう。
ここからしばらくは、国道を歩くことになる。
三沢橋交差点を過ぎると、神明神社があり、
境内には、松の木が多く茂っている。
「 神明神社は、江戸中期に、神明台より遷座した神社で、神明町はこれに由来する。 」
大磯駅入口交差点の右手には大運寺がある。
そのまま直進すると、穐葉神社入口交差点手前の左側に、秋葉神社の鳥居と、
「虎御石」 の説明板がある。
「 秋葉神社は、宝暦十二年(1761)一月十九日の大磯宿の大火により、
宿場の殆どが焼けたため、 翌年、遠州秋葉山より勧請し、大運寺内に建立された神社である。
しかし、明治の神仏分離令により、寺から他に移され、大正七年(1918)に、
現在地に遷座した。 」
説明板「虎御石」
「 虎御石は、曽我十郎の剣難を救った身代わり石、また、虎御前の成長につれて、
大きくなったといわれる生石である。
江戸時代の東海道名所記に、 「 虎が石とて、丸き石あり、よき男のあぐればあがり、
あしき男の持つにはあがらず、という色好みの石なり。 とある。 」
江戸時代には東海道のこの場所に置かれていたようだが、現在はここにはなかった。
小路を少し入ると、延台寺がある。
「 慶長四年(1599)に、身延山十九世・法雲院日道上人が建てた日蓮宗のお寺である。
虎御前が、恋人の曽我十郎と、その弟の五郎の菩提を供養するため、
結んだという庵の跡に建てられた、と伝えられる。 」
日道上人が虎御前を供養するために建てたといわれる、虎御前供養塔があった。
また、小さな丸い墓碑の大磯遊女の墓もあった。
「
大磯一の美女で舞の名手だったといわれる、虎御前は、曽我十郎佑成の愛人で、
曽我兄弟の仇討ちのため助力した、と伝えられる女性である。
前述の虎御石は、最近建てられた法虎庵曽我堂の中に収められてしまったので、
入館料二百円を納めないと拝見できない。
大磯の遊女は、人知れず無縁坂に葬られるものが多かったが、その中で、
当寺信徒はこの寺に葬られた。 」
江戸時代、ここあたりは北本町で、虎御石の道の反対に北組問屋場があった。
中南信用金庫駐車場の金網前に、その標示板があった。
その先の右側にある蕎麦屋の前に、「小嶋本陣跡」 の説明板がある。
説明板「小嶋本陣跡」
「 享和三年(1803)には、大磯宿に小嶋・尾上・石井の三本陣があり、
その建坪は夫々、二百四十六坪、二百三十八坪、二百三十五坪だった。
ここにあった小嶋本陣は裏口で地福寺に出られるようになっていた。 」
本陣跡のすぐ先に、消防署前交差点がある。
江戸時代には、ここに境橋があり、ここか ら先は南本町だった。
ここを右折すると、承和四年(837)の創建と、伝えられる地福寺がある。
山門の前には、「真言宗地蔵堂」 の石柱が建っていた。
本堂の前庭に梅の木が植えられているので、春になるときれいだろう。
墓地には、大磯で亡くなった島崎藤村の墓がある。
その先の中南信用金庫の前の自転車置場化しているところに、
「大磯小学校発祥之地」 という大きな石柱が建っている。
その右側面には、「尾上本陣跡」 と刻まれている。
ここは尾上本陣の跡である。
もう一軒の石井本陣は、幕末になる前に廃業になったので、説明板や石柱はないが、
尾上本陣の筋向いの現在の大内館(旅館)の場所にあったようである。
道の右側に、古い家を改築したような商店があり、多くの客で賑わっていた。
大磯プール入口交差点にある、「大磯名物 虎子まんじゅう 西行まんじゅう 」 という、
看板を揚げた 杵新 は、明治二十四年の創業で、建物もかなり古そうに思えた。
交差点を左に入ると、突き当たりに、「 初代軍医総監松本順の尽力により、明治十八年に日本最初の海水浴場が大磯に開設された。 」 ことを示す、
松本順謝恩碑が建っている。
街道に戻ると、左側の民家に、「南組問屋場」 の標示板がある。
少し歩くと、照ヶ崎海岸入口交差点に出た。
東海道はここで大きく右にカーブしていく。
角の三角形をしたところに、「照ヶ崎海水浴場」と、「鴫立庵」の道標が建っている。
大磯は日本で最初に海水浴が始められたと伝えられるところである。
植え込みの中に、「同志社大学の創始者 新島襄先生終焉の地」 という大きな石碑がある。
「 新島襄は、米国から帰国後、学校教育の必要性を感じて、
大学創設に尽力中に病に冒され、大磯の百足屋旅館で療養していたが、
明治二十三年(1890)、四十七歳の若さで亡くなった。
この場所は、百足屋があったところのようである。 」
江戸時代は、ここを過ぎると、南茶屋町であった。
少し歩くと、「さざれ石」 というバス停がある。
その先に、鴫立沢(しぎたつざわ)交差点がある。
その手前の民家前に、江戸時代には、右側に高札場があったようで、それを示す標示板がある。
南茶屋町との境には、江戸時代には、鴫立石橋が架かっていた。
信号を越えると、左手に鬱蒼とした森と鴫立沢に囲まれて、鴫立庵がある。
「 鴫立沢は、西行法師が、「 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ 」 を詠んだところといわれる。 鴫立庵は、 江戸時代の寛文四年(1664)、小田原の崇雪(そうせつ)が、五智如来を運び、 西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始めである。 元禄八年(1695)、俳人の大淀三千風が入庵して、ここを俳諧道場にしたことから有名になり、 京都の落柿舎・近江の無名庵とともに、俳諧三大道場と呼ばれた。 」
境内には、五智如来石像や歴代の庵主の供養碑が祀られている。
また、芭蕉などの句碑や、佐々木信綱筆の西行上人歌碑などが所狭しと並んでいた。
鴫立庵の対面には、虎御前を祀る法虎堂があり、
上った正面には西行の旅姿の立膝坐像が祀られている円位堂が建っていた。
崇雪が建てた「鴫立澤」 と書かれた石碑の前には、「湘南発祥の碑」 という看板があった。
この石碑のどこかに、「著盡湘南清絶地」 と書かれているようで、中国洞庭湖のほとり、
湘江の南側がこの地に似ていることから、湘南という地名が生まれたのである。
街道に戻ると、右側に古い家があり、入口にパン屋と書いてあった。
このあたりは、江戸時代の加宿の東小磯村で、現在は南台町である。
その先の右にある狭い道を入り、次に左折していくと、右側に島崎藤村の居宅だった家がある
「 島崎藤村は、晩年の2年間をこの家で過ごし、七十二歳で亡くなり、 地福寺に葬られた。 」
街道に戻ると、左側のレストランガストの先の松の下に、 「上方見附」の説明板がある。た。
説明板「上方見附」
「 大磯宿の上方見附は、東小磯村加宿のはずれにあり、
現在の統監道バス停付近にあった。
街道を挟んで、高さ一メートル六十センチの台形の石垣の上に、
竹矢来が組まれ、御料傍示杭が立っていた。 」
これで大磯宿は終わりである。