◎ 間の宿 ・ 茅ヶ崎
小田急江の島線・藤沢本町駅から歩き始める。
東海道は県道43号で、
駅の左手にある陸橋が、藤沢宿の境界で、東側が藤沢宿の京都側入口である。
西に向かって歩くと、
右手にある緑豊富な小高い山は伊勢山で、その一部が伊勢山公園になっている。
湘南高校入口交差点を過ぎると、鵠沼(つげぬま)神明である。
伊勢山が終ると、引地川が流れていて、引地橋を渡ると、
北側は城南、南側は羽島地区である。
スーパーのそうてつローゼンを越えると、引地坂と呼ばれる上り坂になる。
上って行くと、道はカーブし、
右側にあるのは、大きな何連かのタンクが連なるメルシャンワインの工場である。
坂の途中の左側の道端に、「おしゃれ地蔵」 と、
地元で呼ばれている小さな祠があった。
傍らの説明板
「 女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、
白粉を塗ってお礼をする と、伝えられているものである。
実際は地蔵ではなく、道祖神(双体道祖神)だろう。 」
メルシャンの工場正門前には石仏が祀られていた。
坂もここで終り、平坦になる。
羽島交差点を越えると 三叉路で、右折は県道43号で、厚木・用田方面へ、
直進は県道44号で、旧東海道である。
そこから少し歩くと、四ッ谷信号交差点で、左右の道は国道1号線である。
交叉点を右折すると、新湘南バイパスの藤沢インター交叉点にでる。
広い国道を横切り、向こう側に渡ると、正面にある新聞販売店の左側に狭い道がある。
これは、江戸時代の大山道で、
国道との間の狭い土地に、石の道標と祠が建っている。
「
祠の中には、大山道の道標を兼ねた不動明王が祀られている。
この道標は、延宝四年(1676)、江戸横山町の講中が、
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられたものである。
大山不動尊の下の正面に、 「 大山道 」 、両側面には、 「 これより大山みち 」 と、
刻まれている。
片足をぶらんと下げ、眼をひん剥いてこっちを睨んで座っている不動明王は、
四谷不動 と呼ばれているものである。 」
祠の外にある道標が初代で、 万冶四年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられた。
江戸時代に入ると、江戸の町人達の間に大山詣が盛んになり、
落語にも登場するほどの人気であった。
ここ四谷辻には、多くの茶屋が立ち並び、参詣客を誘い込んでいたのである。
狭い大山道に、天狗のお面が付いた大山への鳥居が建っている。
鳥居をくぐり、車が一台だけ通れる道を歩いて行くと、右側に大庭トンネルが見える大きな道に出た。
道を横切った先には、先程と同じような狭い道が続いていて、少し先の三叉路の正面に、
地蔵が祀られている。
二股に分かれた道は、右は大山道で、左側の道は東海道に通じているようである。
大山道の探索はここでやめ、四谷交差点に引きかえす。
国道1号を進むと、羽鳥交番前交差点にでる。
交差点を左折すると、JR辻堂駅である。
東海道は直進で、小さいながら松並木がある。
松の木の下を通る歩道は、松を保護するため、凸凹している。
右側に 「一里塚跡」 の木柱が建っている。
江戸から十四里目の一里塚で、左に榎、右には松が植えられていた、といわれる。
二ツ谷公民館前交叉点の右側に、二ッ家稲荷神社がある。
境内には、寛文十年(1670)建立の庚申供養塔が祀られている。
「
現在の地名は二ツ谷であるが、二つ家だったのが変化したという。
江戸時代には、二軒茶屋の立場があったところである。 」
大山街道入口交差点の両脇に、道標がある。
鎌倉街道と大山街道の道標である。
「
より小高いところにある道標は、「寛保二?」 の年号と、
その下が土に埋まっているが「常光明 … 」 の文字字と読めた。
東海道分間延絵図に、 「 二ツ谷木橋を渡るとすぐ左側に、
「寛保二壬戌之三月」 の供養塔 」 の記述があるので、その道標だろう。
道標の 「常光明 … 」 は、鎌倉街道の別名・常光明真言道が刻まれているはずである。
道の右側にある道標は、奉巡礼西国坂東秩父供養塔である。
「是より大山道」 と描かれた道標で、享和三年(1803)に建てられたものである。 」
茅ヶ崎市に入ると、道の北側は小和田で、その先の北西は菱沼である。
このあたりの松並木は、背が高く立派である。
東小和田交差点の手前二十メートルのところにある右側の民家の前に、
明治天皇の小休止碑が建っている。
道は南西に向って、続く。
上正寺交差点の南側は、代官町・本宿町と付いているが、
本宿町は鎌倉に向う道脇にあったので、江戸時代には宿場になっていたのだろうか?
小和田のバス停近くで、左の路地を入る。
右にカーブする突き当たりに、地蔵堂があり、その向かいに馬頭観音が祀られている。
昔はここが東海道だったのかもしれない。
道路の整備で、道が直線になったときに路地として残った、と推定したが間違いだろうか?
その先の信号交差点の左手前に千手院があり、右側に広徳寺がある。
このあたりから、道は右にカーブし、やや上り道になる。
北側の地名も、小和田から松林に変る。
藤沢宿と平塚宿との距離は、十三キロ強と長かったので、間(あい)の宿として、
前述の二軒茶屋の他、 菱沼(牡丹餅)と南湖(南郷)の三つの立場があった。
菱沼バス停の先で、道は左にカーブし、このあたりから、再び、松並木が現れた。
「 菱沼の立場は、牡丹餅(ぼたんもち)を名物とした茶屋があったので、
いつしか牡丹餅茶屋が立場の呼び名となった、といわれる。
この茶屋はどこにあったのだろうか??
茅ヶ崎高校のバス停付近にあったという説があるが、
菱沼とあることを考えると松林地区にあったとするのが無難だろう。 」
松林中学校交差点を越えると、本村である。
茅ヶ崎高校前には、東海道の松並木の説明板が建っている。
説明板
「 国道1号線の黒松の中には、二メートル二十センチの高さのものがあり、
四百年を経てる。 」
本村交差点の手前の右奥に、海前寺がある。
入っていくと、「海前禅寺」 と書かれた石柱がある山門の両脇に、
仁王立ちした石仏が祀られている。
その左側には大きな灯篭がある。
説明板
「 徳川二代将軍秀忠の菩提のため、慶安四年(1651)
久留米藩二十一万石の二代目藩主・有馬忠頼が、奉納したもの。 」
山門をくぐって境内に入ると、本堂の左右に、供養燈篭が建っている。
左側のずんぐり太い燈篭は、堀長門守が宝暦十一年(1761)、
第九代将軍家重の供養のため、建立したものである。
堀長門守とは信濃国須坂藩1万石の藩主のことだろうか?
右側の燈籠は、播磨国安志藩第二代目・小笠原長逵が同じ年に建立したものである。
「
安志藩は、豊前中津藩主の小笠原長邑が六歳で没したため、
無嗣改易となるところを名家ということで、
当時五歳だった弟の長興に、播磨安志1万石の名跡がゆるされたことから、
誕生した藩である。
長逵はその子であるが、家名が維持できた将軍に感謝し、供養燈籠を建てたのだろう。 」
旧東海道は高台にあり、北側は低いため、右側を見ながら歩くと、
尾根沿いの道のようである。
右下の八王子神社を見下ろすと、まさにその感を強くした。
街道を歩くと、右側にサティがあり、このあたりから道はなだらかになった。
車の往来は激しいが、歩道を覆うように松並木が続いている。
元町に差し掛ると、道はゆるい下り坂となった。
その先の一里塚交差点の左側には、石垣が築かれ、何本かの木が植えられている。
これは、江戸から十四番目の茅ヶ崎一里塚を復元したものである。
ここからJR茅ヶ崎駅へ通じる道には、 「一里塚通り」 という名称が付けられている。
駅に近いからか、一里塚あたりから、人が急に多くなったが、このまま東海道を歩く。
駅交差点を過ぎた右側に、樹木が茂った一画があり、その中に三基の灯篭があった。
傍らの説明板
「 徳川家菩提寺の上野寛永寺は、昭和二十年に戦災に遭い、
その復興を援助した人達に、
全国の大名が歴代将軍へ奉納した供養燈篭を贈った。 」
先程訪れた海前寺の燈篭も、同じ理由で、あそこにあるのだろう。
その先にひときわ目立つ高い松の木がある。
周囲のビルと比較すると十五メートルはありそうである。
その先左側に郵便局があり、そのあたりから緩い坂道になる。
茅ヶ崎郵便局の反対側には、背の高い松が見下ろすような姿で立っている。
また、びっくりドンキーの前にも松の木があった。
国道1号線の右側の歩道を歩く。
十間坂交差点を過ぎると、少し上り坂になったが、これが十間坂である。
十間坂2交差点を越えた、右側に第六天神社がある。
説明板「神社の由緒」
「 祭神は、於母陀琉神(おもだたがみ) と、 妹阿夜詞志泥神(いもあやかしこねのかみ) である
元弘三年の新田義貞の鎌倉攻めで兵火にあった、と伝えられる、かなり古い神社で、
この神様は天地創造の神で、天神七代の第六代目の神である。 」
坂は下りになり、南湖入口交差点を過ぎると、茶屋町郵便局がある。
道の左側に古い家が一軒あり、その先で、道が左にカーブする。
「 この南湖地区は、藤沢宿から平塚宿の間に三つあった間の宿の一つで、 南湖の立場は 「茶屋町」 と称せられた程の大きな立場だった。 」
茅ヶ崎高校前の (東海道の松並木」 の案内板にあった、
「広重の松並木」 の風景はこのあたりと、思われるが、松の木は一本も残っていない。
カーブを曲がりきると少し上り坂になり、その上に千ノ川が流れ、鳥井戸橋が架かっている。
それ程大きな川ではないが、橋を渡ると、橋のたもとの左側に、南湖の左富士之碑が建っている。
このあたりは、北西に道が続くので、左側に富士山が見えたからである。
道の反対側には赤い鳥居があるが、これは、鶴嶺八幡宮の鳥居である。
鳥居をくぐると、右側にある民家の中庭に、「弁慶塚」の説明板がある。
説明板「弁慶塚」
「 弁慶塚は、武蔵国稲毛の領主・稲毛三郎重成が、亡妻の供養のため、相模川に橋を架け、
文久九年十二月、落成供養を行なった際、参列した源頼朝は、その帰途、
鶴嶺八幡宮付近に差し掛かったとき、義経・行家等の亡霊が現れ、頼朝は落馬し、
重傷を負い、翌、正治元年に亡くなった。
後年、里人は義経一族の霊を慰めるため、塚を築いた、と伝えられるものである。 」
民家の入口に、「 ご自由にどうぞ!! 」 と書かれているので、入って行くと、 想像したよりひっそりとした塚だった。
街道に戻り、松並木が残っている道を歩く。
橋から三百メートルm程歩くと、下町屋交叉点がある。
「新湘南バイパス 茅ヶ崎西 300m 」 という標識があり、東海道は直進だが、
ここから道は大きく左にカーブする。
その先の左側に、神明神社があり、境内の左側に、「厄神大権現」 とある、大きな石碑と、
祠の中に、道祖神など、三体の石仏が祀られている。
本堂には、龍の彫刻が施されていた。
道はこの先、左に大きくカーブし、傾斜のある上り坂になる。
上って行くと、左側に、 「 東海道の名物まんじゅう でかまん 」
、という看板を掲げたお菓子屋がある。
その先に流れる川は、小出川(こいでがわ)で、それ程大きな川ではない。
川の手前の左手に、小公園があり、旧相模川橋脚が残されている。
川に架かる下町谷橋を渡ると、新湘南バイパスの高架橋があり、
左側に松の木があった。
今宿バス停の道の右側に日蓮宗の上国寺、下の川入口交差点を過ぎると、右側に信隆寺がある。
産業道路を越え、五百メートル歩くと、新田交差点である。
交叉点の手前右側に、道祖神碑と道祖神像が、小さな祠の中に祀られている。
気を付けないと、通り過ぎるところにあった。
新田交差点から東は茅ヶ崎市中島で、西は平塚市馬入である。
その先の相模川には、 「馬入橋」 という大きな橋が架かっている。
橋までは上り坂になっている。
「 江戸時代には、相模川に橋を架けることは禁止されていた。
東海道は馬入の渡しにより、相模川を渡った。
当時の相模川はもっと東に流れていたのだろう。
舟着場は旧中島村と対岸の旧馬入村にあったが、川会所と川高札場は馬入村にあった。
川会所には、川名主三人、川年寄三人が勤務し、船頭は昼夜を問わず十六人が待機していた。
寛永十一年(1634)、 三代将軍・徳川家光が上洛した時と、
慶応元年、 十四代将軍・徳川家茂が長州征伐に際しては、舟橋を架けられた。 」
橋を渡ると陸軍架橋記念碑があり、大正時代に陸軍の手で橋が架けられたことが分かる。
◎ 平塚宿
左側の工事中のビルの塀には、広重の平塚宿の 「馬入川舟渡り」 の絵が描かれていた。
この絵を見ると、正面に大山があり、その先に富士山が一部見える。
「 平塚は、北条氏の城下町として発展し、相模川水運による物資の集散地であり、 東海道の他、中原往還(中原街道)、八王子道が通るため、交通の要衝として、 早くから栄えたところである。 」
二百メートル程先の馬入交差点で、国道1号線は右折して分かれていく。
旧東海道はそのまま直進する。
ここと次の交差点(国道129号線と交差する)との間に、一里塚があったようだが、
それを示すものはなかった。
国道129号線を渡った、蔵屋敷バス停あたりが、馬入村の西の外れである。
江戸時代には、このあたりから、新宿まで松並木が続いた。
平塚は戦時中、軍の工場があったので、戦災に遭い、ほとんどのところが焼かれてしまったので、現在ある並木は最近のものだろう。
それでも、松原バス停・松原公民館など、松並木があったことを示す地名が残っている。
松原バス停を過ぎると、宮の前地区に入る。
その先は平塚駅前交差点で、左折すると、JR平塚駅である。
右折すると、平塚八幡宮のある八幡山公園がある。
「 相模国風土記には、「 平塚宿が困窮し、公役の負担に耐えられないため、 慶安四年、八幡村の一部を加宿とし、平塚新宿とした。 」 、とある。 」
交叉点付近と、その先の明石町が、旧平塚新宿だと思うが、ビル街になっていた。
長崎屋の裏あたりの紅谷町公園に、番町皿屋敷のお菊の墓とさせるお菊塚がある。
番町皿屋敷で自害させられたお菊さんの墓があったとされるところで、
塚の脇に詳しい説明板がある。
街道に戻り、再び歩き始める。 市民プラザ前交差点を横切ると、見附町に入る。
右側に、「旧東海道平塚宿史跡絵地図」 という看板が建っている。
「 平塚宿は、途中から、平塚新宿が加わったが、
それ以前の平塚宿は、ここが江戸側の入口で、この先、東西十四町六間(約1.5km)の間に、
十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町と続き、上方見附まで続いていた。
宿場には、四百四十三軒の家と、二千百十四人が住んでいたのである。 」
その先に、平成十三年(2001)に復元された、江戸方見附がある。
「 宿場の入口の街道の両側に、石垣を築いて、塚をつくり、その上に矢来を組み、 宿場に入る旅人を監視したのが、見附である。 」
市民プラザの中庭に入ると、「平塚里歌碑」 がある。
「 哀れてふ 世のしるし朽ちはてて かたみもみえめ 平塚の里 」
傍らの説明板「平塚里歌碑」
「 文明十二年(1480)、平安紀行の作者が、京に上る途中、
ここで隠遁して亡くなった、三浦遠江入道定可を思い出し、
里人に墓などを尋ねたが、誰も知らなかった。
それで、上記の歌を吟じた。
なお、平安紀行の作者は、大田道灌とする説と、異説がある。 」
見附跡から四百メートル程行くと、旧二十四軒町である。
右側の茅沼酒屋前に、 「脇本陣蹟」 の石柱が建っている。
説明板「脇本陣蹟」
「 脇本陣は、当初は西問屋場の西にあったが、天保年間に現在地に移転し、
山本安平衛が営んでいた。 」
平塚本陣郵便局を過ぎると、旧東仲町で、右側の山口屋茶舗前に、 「平塚宿高札場の蹟」 の石碑が建っている。
説明板
「 平塚宿高札場は、長さ二間半(約五メートル)、横一間(一.八メートル)、
高さ一丈一尺(約三メートル)で、土台は石垣で、その上を柵で囲み、
高札が掲げた部分には風雨を避けるための屋根が作られていた。
隣の宿場までの公定運賃などの高札が掲げられていた。 」
道の反対側には、 「東組問屋場蹟」の石碑が建っている。
平塚宿には、古い建物や往時の面影は残っていないが、
この通りに、五十四軒の旅籠が軒を並べていたのである。
本陣は、更に百メートル先の右側にある神奈川銀行平塚支店のところにあったようである。
その前に、 「平塚宿本陣旧跡」 という標柱が建っている。
「 加藤七郎兵衛が務めた本陣の建物は、間口約30m、
奥行は約63mの総ケヤキづくりだった、と伝えられている。
平塚信金の先の交差点を左折すると、宝善院がある。
この寺が平塚宿本陣の菩提寺になっていた。 」
平塚信金交差点を右折する道は新豊田道で、この先で中原街道(県道47号)と交差する。
「
徳川家康は東海道ではなく、中原街道を好んで使ったという。
鷹狩のために造営した中原御殿(雲雀御殿ともいわれた)があったので、
鷹狩りで訪れただけではなく、江戸と駿河の往来にも利用した。
道は、この先で、田村の渡しを越え、寒川、用田、丸子渡し、洗足、虎の門と行くが、
道が平坦だったことが、家康が利用した理由のようである。 」
東海度は直進すると、旧西仲町で、少し歩くと、右側に分かれて行く狭い道がある。
右側のなまこ壁の消防小屋が、 西組問屋場跡 である。
「 問屋場は、二十四軒町に東組問屋場、西仲町に西組問屋場があり、東西の問屋場が十日毎に、 問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名の構成で、交替で勤めた。 」
この建物を右折して行くと、突当りに松雲山要法寺がある。
山門前に、「七面大明神」 と、書かれた大きな石柱があり、
「松雲山要法寺縁起」 の説明板がある。
説明板
「 鎌倉幕府の執権・北条泰時の次男・泰知が、 この地の地頭をしていた時、
日蓮上人が平塚にご来臨されるという、七面天女のお告げを受けた。
日蓮上人はこの地に宿泊され、法華経のご説法したところ、
邸内の平真砂子塚にそびえ立つ老松に、紫雲たなびくという端相が現れた。
それを見た人々は法華経の信者になり、北条泰知は、弘安五年(1282)、
自らの館を献上して、当寺を開山した。 」
要法寺の先には西仲町公園がある。
その公園の一角に、 「平塚」 と呼ばれる塚がある。
「
天安元年(857)、桓武天皇の曾孫で坂東平氏の始祖といわれる、平真砂子が、
一族とともに東国へ向かう途中、ここで没したため、遺骸を埋め、この塚を築いた、という。
これが、平塚の地名の由来である。
隣には、春日神社がある。 」
東海道に戻り進むと、右からきた国道1号線と合流した。
国道で左折し、国道を百メートル程進むと、西組問屋場跡で分れた道と合流する三差路の古花水橋交差点に出る。
「 江戸時代には、旧柳町のこのあたりに上方見附があったといわれ、 交差点の左側に、復元された上方見附がある。 」
これで、平塚宿は終わりである。