◎ 戸塚宿から藤沢宿
JR戸塚駅の南西に戸塚町があり、江戸時代の戸塚宿上方見附跡がある。
ここが江戸時代の戸塚宿の京側の入口であった。
ここから藤沢宿へ向けて、東海道を歩く。
富塚八幡をすぎたころから、登り坂になったが、大阪下交差点を過ぎると、道は左にカーブし、傾斜が増したような気がした。
その先の右側に、「第六天宮」 という名の神社がある。
「
いざなぎ命が、黄泉の国から生還する時、身に付けたものを投捨てながら、
逃げ帰ったが、捨てた六番目の冠から生まれた、という神を祀っている神社である。
古事記には、黄泉の坂を塞いた石を、
道反之(ちがへしの)大神 と名付けたとあり、
これが各地の結界を守る道祖神になった、と考えられる。 」
少し歩くと、右側の道端に庚申塔が数基並んで建っている。
三猿を描いた石仏と、石塔が大きものと、小さなものを併せて、七基あり、
それが全て庚申塔である。
中には、元禄四年(1691)八月に建てられたものや、
庚申塔を建てるに到った発願主の願文などが書かれたものもある。
これだけ多くの庚申塔が並んでいるのは、珍しい。
坂を登って行くと、左側にファミリーレストランがあり、
道の両側には、マンションが建ち並んでいる。
その先には、大阪の峠といえる大阪上交差点が見える。
大阪上交差点から二百五十メートル程先で、国道1号線は、横浜新道と合流し、
両側四車線になった。
歩道橋の上から見ると、道の中央に並木があるが、その両側に車がひしめいていて、
ここは交通情報でしばしば登場する渋滞区間である。
車道の真ん中に区分帯のような形で、松並木の一部が残っている。
新しく植えられた松がほとんどで、以前はそこを歩行できたようだが、
現在は歩くことは出来ない。
道の右側は汲沢町、左側は戸塚町である。
汲沢町第二歩道橋を過ぎると、左側の橙色の建物の脇に、
「東海道お軽勘平戸塚山中道行」 の碑が建っている。
「
歌舞伎十八番仮名手本忠臣蔵に登場する、 お軽は大石内蔵助の山科での愛妾で、
お軽と勘平の話は創作された話であるが、芝居の話が有名になり、こんな碑までできてしまったのである。 」
原宿町第一歩道橋の手前で、道は右にカーブする。
下り坂になり、吹上交差点で、左右に分かれていた国道は一本になった。
このあたりは、左側に丘があったと思われ、国道はそれを切り通した形になっていた。
道路左側の一角に、「原宿一里塚跡」 の標札がある。
道の脇を見ながら歩かないと、気が付かずに通り過ぎるところだった。
説明板「原宿一里塚跡」
「 原宿の一里塚は、江戸から十一番目で、
塚の付近に茶屋などがあったので、原宿と呼ばれるようになった。
明治の初期の道路工事の際に取り壊したが、
ここは、その後も一里山と呼ばれていたところである。 」
道の反対側には、浅間神社があり、境内に巨大な椎の木が何本か生えている。
庚申塔が三基祀られていた。
ここから五百メートル程歩くと、歩道橋の下に、庚申塔や馬頭観音などの石仏がある。
金網の中に無造作に置かれているところを見ると、
道路工事で出てきたものを集めて置いた、という感じである。
この辺りは、台地になっていて、道は平坦で、南西に真っ直ぐ続いている。
原宿交差点で、国道は若干南に向きを変え、西南南の方向へ真っ直ぐに延びていく。
少し歩くと、工事箇所は終り、代わりに、道の中央に並木が現れた。
更に歩くと、影取歩道橋の付近にはコンビニがあり、
道の左側に、馬頭観音が祀られている。
「 影取の地名の由来について、相模国風土記稿に、 「 影取には僅(わずか)の清水が流れているが、昔は池があり、 池中に怪魚がすみ、夕陽に旅客の影が池中に投ずるのを食べたことから、影取という名前が残った、という伝承が残る。 」 とある。
四、五百メートル歩くと、影取第二歩道橋である。
その先の左側に、諏訪神社があり、市の名木古木に指定された大きな楠があった。
このあたりは、江戸時代の東俣野村で、東海道とは村の東境で接していた。
藤沢バイパス出口交差点で、国道1号と分かれ、左側の国道30号に入る。
道の左側を歩くと、東俣野歩道橋のところに出る。
国道30号は、車道と歩道を分ける松並木(松は少なかった)が続くので、
夏歩くときには木陰になり、ほっとすることだろう。
道は下り坂になり、歩道も良く整備されていた。
鉄砲宿交叉点を越えると、藤沢市の表示に変わる。
道の右側に移動した。
その先では、車道より1m程高い所を歩くところもあったが、
自然と共生するためにはやむをえない。
緑ヶ丘バス停がある。
右側の歩道に、「旧東海道松並木跡」 の石碑が建っている。
説明板「旧東海道松並木跡」
「 昭和三十五年頃から松喰虫の被害を受け、大半が枯れてしまい、
今は若干の松が残るのみである。 」
このあたりは住宅地になっていて、コンビニやその他の施設もあった。
遊行寺坂上バス停のところで、道の左側に移動して、坂を下る。
遊行寺坂は、道場坂とも呼ばれたようである。
遊行寺坂の標識のあるあたりからは両側には一軒も家がない。
左側に諏訪神社の常夜燈と鳥居が建っている。
石段を上ると、又、鳥居があって、その奥に、諏訪神社の社殿があった。
「 諏訪神社は、藤沢宿の大鋸町と大久保町の鎮守の諏訪神社である。
遊行四代呑海上人が、信濃でお札配りの道中に現れた諏訪明神を勧請したものである。
以来、藤沢山の守護神として、元旦には、遊行上人(遊行寺の住職)が神社に参拝し、
参詣者にお札を配っている、という。 」
石段を降りると、道の反対側に遊行寺の入口が見える。
道を渡り近づくと、「見附跡」の標柱が建っている。
「
江戸時代には、諏訪神社の先に藤沢宿の江戸見附があった。
現在は、道の右側にそれを示す標柱が立っている。 」
藤沢宿へ到着である。
戸塚宿の上方見附から一時間半の行程である。
◎ 藤沢宿
「見附跡」 の標柱を数メートル進むと、
「、時宗総本山遊行寺 」 と書かれた看板がある。
遊行寺は、藤沢宿の江戸側の入口にある。
「
鎌倉時代の正中弐年(1325)に、
遊行四代・呑海上人が、時宗の総本山となる遊行寺を開山した。
遊行寺の正式名は、藤沢山清浄光寺(とうたくさんしょうじょうこうじ)である。
藤沢は、開山以降、その門前町として栄えた。
慶長五年(1600)に、街道整備を目的とした伝馬掟朱印状が発せられ、
藤沢宿が誕生する。
合わせて、藤沢御殿と呼ばれる将軍専用の宿泊所がつくらた。
藤沢宿は、家数九百二十軒、宿内人口四千百三人で、
東海道では神奈川宿、小田原宿に次いで大きかった。
藤沢宿は、これまでの遊行寺の門前町に加え、大久保町と坂戸町で、宿場が形成した。 」
中に入ると、東門横の左側の奥まったところに、古く小さな石塔がある。
手前に「藤沢敵御方供養塔」 の説明板が建っている。
説明板「藤沢敵御方供養塔」
「 応永二十三年(1416)、上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対し反乱を起こしたが、
幕府が持氏を援助したため、氏憲は敗れさった。
このとき藤沢周辺も激戦地となったが、
遊行十五世尊恵(そんね)上人は、負傷者を敵味方の区別無く治療し、死者を葬り、
その翌年、死者を弔うための供養塔を建てた。
遊行寺の名を全国的に有名にしたのは、
平等の精神で建てられたこの供養塔と言ってよい。
振り向くと、正面に巨大なイチョウの木がある。
「
樹齢六百六十年といわれる古木である。
幹周り六メートル八十三センチ、樹高は三十一メートルあったが、
昭和五十七年の台風で上部が折損し、半分になり、横に広がった樹形となった。
現在は十六メートルの高さとなったが、堂々たるものである。 」
遊行寺は時宗の総本山であるが、高野山や延暦寺・東西本願寺に比べると、
建物の数も少なく、質素であるが、本堂は大きく立派である。
遊行寺の境内に、照手姫の創建と伝えられる寺がある。
東門を入った右側に、「小栗判官墓所」 と書かれた石柱があるので、
中に入って行く。
「 小栗判官は、常陸国の人である。
敵にあざむかれて毒殺されたのを救ったのが照手姫という説話があり、
その中に遊行寺が登場する。
これは説経浄瑠璃に発した古い説話であるが、説経浄瑠璃は室町後期に始まり、
江戸時代には浄瑠璃などに分化していく。 」
案内板に従って進み、石段を上ると、 左側に、長生院小栗堂がある。<
寺の裏に回ると、照手姫建立厄除地蔵尊と、照手姫の墓、
そして、判官の愛馬鬼鹿毛の墓があった。
その右側には、小栗判官と家臣達の墓があった。
また、「(伝)小栗十四代城主小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓 」 について
という説明板がある。
説明板の文面
「 桓武天皇の曽孫・高望王から、七代目の子孫・平重家が、
常陸国真壁郡の小栗(茨城県真壁郡協和町) に館を構え、
その地名から、小栗氏を称し、その十四代目が、小栗孫五郎平満重である。
応永十三年(1423)関東公方との戦いに敗れ、小栗城は落城し、
満重は、その子・助重と十名の家臣と共に、
一族がいる三河(愛知県)に落ちのびる途中、
相模国藤沢辺の横山大膳の館で毒をもられ、
家臣十名は上野ヶ原(藤沢市)に捨てられたのを、
遊行寺の上人により、境内に埋葬された。
小栗助重は照手姫の看護で回復し、
父の死後、十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦で、幕府軍の将として活躍し、
小栗の旧領を回復することができた。 」
以上で、遊行寺を出て、いろは道を下ると、右に時宗真浄院、左に赤門真徳寺があり、その先には黒門がある。
安藤広重の東海道五十三次・藤沢の浮世絵は、 境川に架かる遊行寺橋のあたりを描いている。
「
後ろに遊行寺、その下の家々、そして、手前の鳥居は江の島弁財天の鳥居と思われる。
ここは江ノ島弁財天への道の追分(分岐点)であり、
また、橋の手前には鎌倉への道があった。
現在は藤沢橋の手前から左に入ると左側に三島大明神があるが、
その道がそれなのだろうか?
黒門近くに説明板があった。
「
江戸時代には、この一帯は広小路になっていて、上野広小路・
名古屋広小路と共に、藤沢広小路は日本の三大広小路といわれた。
遊行寺橋は、当時は大鋸板橋といわれた板橋だった。
橋を渡った右手には高札場が、左手には江ノ島弁財天の大鳥居と、
その傍らには江の島道標石があった、」
藤沢宿は、この先で大山、伊勢原街道が分かれていたので、
東海道を江戸と京都、大阪、伊勢を往来する人々の他に、
江ノ島・鎌倉や大山参りの人で、賑わっていた。
遊行寺橋を渡ると、左手に藤沢橋交差点がある。
県道30号が東海道で、左右の国道467号が江の島道である。
「 江戸時代、江の島道は、
江の島弁財天の信仰と遊興のため大変な賑わいを見せたといわれる。
道を左折して、江の島方面に、400m〜500m行くと、左に入る道がある。
その道と江の島道の三角になっているところに、「江の島道」 の道標が建っていた 。
東海道は、国道467号で、道はかなり広く、古い建物は何も残っていない。
「
道筋としては昔の街道そのままである。
江戸時代、この先は、旅籠町・仲久保町・栄町と続き、
その先は東坂戸町・西坂戸町となっていた。
旅籠町は宿場創設前から遊行寺の門前町だったと推定されるが、
仲久保町から坂戸町にかけては宿場誕生により生まれた町だろう。 」
右側にあった「紙屋」 と書かれた家は、古い蔵作りの建物である。
街道の左側に、問屋場があったようだが、その跡は確認できなかった。
本町郵便局の先の信号交差点を右に入ると、藤沢公民館がある。
「
江戸時代の始め、藤沢宿には本陣が無く、慶長元年頃、
藤沢公民館と藤沢市民病院の間の約六千坪の土地に、藤沢御殿が建てられた。
家康・秀忠・家光と三代にわたり、三十回近く利用されたが、本陣の設置により、
元和弐年(1682)に廃止された。
藤沢御殿廃止後は、藤沢宿を治める藤沢代官の陣屋になっていたようである。 」
蒔田本陣は、藤沢公民館入口交差点のあたりにあったとされるが、 それを示す木柱は見つからなかった。
「
藤沢宿の本陣は、延享弐年(1745)まで、大久保町堀内家が勤めたが、
数次にわたる宿場の火災で、再建を諦め、
その後は、坂戸町の蒔田源右衛門家が勤めた。
その先の右側にある 「南無阿弥陀仏」 の石柱を入ると、
日蓮宗長藤山妙善寺がある。
蒔田家は、明治維新後、当地を去ったが、この寺に蒔田家の墓が残っている。 」
その先の左側にあるJAの脇を入って行くと、浄土宗常光寺がある。
山門を入ると左側に万治弐年(1659)と寛文九年(1668)建立の庚申供養塔が祀られている
山門の前には、「藤沢警察創設100年碑」 があり、
墓地には、洋文学者・野口米次郎の墓があった。
旧道から左の路地に少し入った本町4丁目の永勝寺に、飯盛女の墓がある。
「
藤沢宿には、旅籠が四十五軒あった。
飯盛旅籠が多かったので、享楽地としても賑わったのだが、それを支えたのは、
飯盛女の存在である。
山門を入ったすぐ左側に、飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があり、
その前に、源蔵が建てた四十数基の飯盛女の墓がある。 」
街道に戻ると、その先の右側に交番があるが、その手前に、
「義経首洗い井戸」 の標柱がある。
マンション脇の路地を入っていくと、本町公園の一角に首洗い井戸はあった。
湘南海岸に捨てられた義経の首が、境川をさかのぼって、この地まで流れ着き、
人々がこの井戸で洗い清めた、と伝えられる井戸である。
街道に戻り、西に歩いて行くと、白旗交差点がある。
そこを右折して少し行くと、白旗神社の鳥居がある。
鳥居の脇の大御神燈は、慶応元年(1865)に建立されたものである。
「
白旗神社の創立年代は不詳だが、古く時代は、
相模の国一の宮の寒川神社の寒川比古命を分祀し、寒川神社と呼ばれていた。
宝治三年(1249)九月、義経を祭神として祀ったことから、
白旗明神、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。 」
石段の左側に、 三笠山大神・御嶽大神・八海山大神などの石碑群がある。
その中には、寛文五年の庚申供養塔がある他、江の島弁財天道標があった。
「
江の島弁財天道標は、杉山検校が参拝者が道に迷わぬように建てたものである。
最初は四十八基あったと伝えられるが、現在は十基残っていて、
三面には 「 一切衆生 」 、 「 ゑのしま道 」 「 二世安楽 」 と刻まれている。 」
石段を上ると、白旗神社社殿がある。
「 文政十一年(1828)から天保六年(1835)まで、
七年の歳月をかけて造営された建物で、
本殿・幣殿・拝殿が連なった典型的な流権現造りである。
昭和の大修理をえているが、江戸時代のみごとな彫刻が残っている。 」
社殿前の御神燈は、天保十年(1839)に建立されたもので、 社殿の左側に、「弁慶の力石」 がある。
「
伝承によると、弁慶の首も、義経の首と同時に鎌倉におくられ、首実検が行なわれ、
夜の間に、二つの首は此の神社に飛んできた、という。
義経はこの神社の祭神となったが、弁慶の首は八王子社として祀られたとあり、
弁慶塚の石碑は常楽寺の裏側にあるという。 」
街道を戻り、白旗交差点を西に向かう。
ゆるやかな上り坂となり、坂を登りきると小田急をまたぐ、 伊勢山橋がある。
橋を渡り、伊勢山橋交差点を右折すると、小田急江の島線藤沢本町駅である。
伊勢山橋の先は下り坂となるが、その途中に「京方見附」 のあったようで、
ここで、藤沢宿は終る。