◎ 保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿は、慶長六年の東海道開道と同時に出来た宿場で、 江戸を出て最初の難所といわれた、急坂の権太坂を控えていたので、大変賑わった、という。
相鉄天王町駅で降り、天王町駅西交叉点の手前にある道が旧東海道である。
この道を北西に進み、松原商店街入口交叉点を越え、西区浅間町4丁目に入ったところに、
三叉路があり、右手に追分公園がある。
交叉点の角に、「追分」の道標が建っている。
「 新しいので、最近建てられたと思えるものだが、
追分と書かれた右側に、八王子道、 左側に旧東海道と、書かれている。
八王子道は、帷子川に沿って伸び、町田・八王子と続く道である。
安政六年(1859)の横浜開港後、八王子方面から絹が運ばれるようになり、
絹の道と呼ばれた。 」
ここで引き返す。
保土ヶ谷区に入ると、商店街のアーケードが見えてくる。
交差点をそのまま進むと、洪福寺松原商店街に出る。
ビニールの天幕があったり、脇にトラックを止めていたりして、
ごちゃごちゃした雰囲気で、戦後の秋葉原を思い出した。
この商店街は安さが売り物で、休日には人でごったがえすというが、
平日の15時半過ぎだったが、買物客がけっこう多かった。
松原商店街入口交叉点で、国道16号線を越えると、普通の商店街になった。
保土ヶ谷宿の江戸側の入口である。
商店街を進むと、左側の駐車場の一角に、「歴史の道 江戸方見附跡」 と、
書かれた案内板がある。
「 東海道分間延絵図によれば、 芝生の追分から国道16号線を越え、
天王町にいたるところに、江戸側の見附があったされる。
土盛りされた土塁の上に、竹木で矢来を組んだ構造の土居が築かれて、
旅人の監視にあたっていた。
保土ヶ谷宿は、慶長六年の東海道開道と同時に出来た宿場で、江戸を出て最初の難所といわれた、急坂の権太坂を控えていたので、大変賑わった、といわれる。
保土ヶ谷宿は、ここから外川神社付近の上方見附までの十九町(約2km)が宿内である。
本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠が六十七軒もあり、家数は五百五十八軒、
二千九百八十二人の人が暮らしていた。 」
信号交差点の右側に、橘樹神社がある。
「
かっては、牛頭天王社といわれた神社である。
境内には、力石三個と、
延宝六年霜月に江戸より寄進された石盥(たらい)盤が置かれている。
奥には、県内最古といわれる、寛文九年(1669) の 青面金剛を祀った祠がある。 」
道に戻り、先に進むと、帷子(かたびら)川に出た。
川に架かる橋を渡ると、相鉄線天王町駅の高架が見えてくる。
そのまま商店街を進み、その先の相鉄線天王町駅の下をくぐると、駅前に帷子公園がある。
道路の車止は、ちょんまげと裃(かみしも)をデザインしたものが並んでいるが、
これは旧東海道を示すものらしい。
天王町駅から公園を歩いて、道路に出られるように、歩道が付けられていた。
歩道の一角に、妙なものがあった。
宿場行燈らしきものと、橋桁をイメージしたものを、四つ並べたモニュメントである。
説明によると、 「 江戸時代にはこのあたりに帷子川が流れ、
東海道はそれに架かる帷子橋(新町橋)を渡って、宿場に入ったいた。 」とある。
そういわれば、安藤広重の東海道五十三次の保土ヶ谷宿にも、橋を渡る姿が描かれていた。
「 当時の帷子川は、天王駅の西方で、北から南に向きを変え、
駅前に向って流れ、駅前の東で、北に向きを変えて、そこから東に流れていた。
即ち、逆コの字のように曲がって流れている上、今井川の水も合流するため、
度々大水に遭った。 その対策のため、
昭和三十一年(1956)、 川の流れを天王駅の南側から北側に付けかえ、
直線になるように変えた。 」
天王町駅からJR保土ヶ谷駅までは、約1kmで、二車線の道がほぼ真直ぐ続いている。
左に市民プラザ、右に岩間郵便局、その先は大門交差点である。
その先の右側には香衆院や天徳禅院などの寺院がある。
その先に交差点の右奥には、遍照寺と、右にカーブしていく道が見える。
街路樹も植えられ、小きれいな町並みで、比較的古い家が何軒かあったが、
東海道の面影はまったくなかった。
昔の相州街道への分岐点は、どれなのか確認できないまま歩き終えた。
帷子会館を過ぎると、正面に、ごちゃごちゃした商店街が見えてきた。
この商店街を通る道が、東海道である。
JR保土ヶ谷駅前に出る。
当日は保土ヶ谷宿祭りが行われていた。
お祭りで歩道に、「本陣」 と書かれた、商店街の本部が置かれたり、
催し場の入口になったりして、スペースが取られた上、荷物を運んでいた車も駐車して、
混乱していた。
東海道だったこの道は、ここから急に狭くなり、路上駐車も多くなるので、
平常でも歩きにくいところである。
その先の左側には、高札場や助郷役所などを説明した看板がある。
少し歩くと、右側の蕎麦屋だった家の前に、「高札場跡」の木柱があった。
道の反対にある保土ヶ谷税務署入口の案内柱や、郵便公社の赤い看板などあって、
気をつけないと、見落としそうである。
更に歩いていくと、交差点があったが、左右の道は車が一台通れる程の狭い道で
ある。
この四つ角は、金沢・浦賀往還への追分で、金沢横町とよばれていたところである。
「 金沢・浦賀往還は、金沢文庫や鎌倉方面に行く街道で、 円海山・杉田・富岡などの信仰や、鎌倉や江の島といった観光地があった。 」
交差点の左側には、四つの石製道標が建っていた。
4つの道標で右側から説明すると、
最初の石柱には、 「円海山之道 天明三年(1783)建立」 、
左面に、「かなさわかまくら通りぬけ」 、と刻まれている。
円海山はは峯のお灸が有名だった。
次の道標には、「かなざわ かまくら道 天和弐年(1682)建立」 、左面に、「ぐめうし道」、 とある。
その次は、「杉田道 文化十一年(1814)建立」、正面に、 「 程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花 其爪 」 と、刻まれている。
最後は、「冨岡山芋大明神社の道」 「弘仁弐年(1845)建立」 の道標である。
芋大明神とは、富岡の長谷寺のことで、ほうそうの守り神として信仰された、という。
少し歩くと、東海道線の踏切があり、目の前を電車が通り過ぎた。
踏切を渡ると、すぐ国道1号線に合流、旧東海道は、その角を右折して国道を進む。
T字交差点の正面にあるのが、保土ヶ谷宿の本陣だった軽部家である。
「
小田原北条氏の家臣・苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部氏が、
保土ヶ谷宿の問屋・本陣・名主を代々勤めた。
明治以降、軽部と姓を改めたが、今も子孫が住んでおられる。
建物は建て替えられているが、宿場時代の通用門は残されているという。
門は閉まっているので、内部がどのようになっているのか、分らなかった。」
国道をそのまま進むと、道の左側に、赤いトタン屋根で、
外側は赤ちゃけてしまっている家がある。
その前に、「脇本陣藤屋跡」 と書かれた標柱柱がある。
保土ヶ谷橋のバス停を過ぎると、右側の保土ヶ谷消防署本陣出張所の隅に、
「脇本陣水屋跡」 の標柱がある。
標柱には、 「 天保年間の水屋(与右衛門)の建坪は、
百二十八坪(約423u)、間口八間(14.5m)、奥行十六間(約29m)、部屋数十四で、
玄関門構付きだった。 」
とあるので、かなり立派のものだったのだろう。
その脇の説明板には、 「 宿場に、本陣は一軒、脇本陣は三軒あったが、
経営は苦しかった。 」 とある。
もう一軒の脇本陣の大金子屋は、前述の脇本陣藤屋の道の反対側にあったようである。
すこし歩くと、連子格子の古い建物がある。
説明板「旅籠本金子屋跡」
「 建坪や部屋数では、先程の脇本陣の水屋よりは、一回り小さい。
現在の建物は明治二年に建てられた。 」
現在の建物は、旅籠として建てられたのかどうかは分らないが、大変立派なものである。
旅籠は、寛政十二年(1800)に三十七軒だったのが、
天保十三年(1842)には、六十九軒に増えているところを見ると、
幕末には、旅人の往来が増えたことが分る。
この付近、マンションの林立する中で、
このように、古い建物が残っているのは、東海道を歩いているものにとって、
貴重に感じられた。
やがて、左手に高台が迫り、今井川が見えてきた。
交差点の左側に今井川を渡る橋があり、橋の左側に外川神社がある。
「
東海道は、慶安元年(1648)に、ルートの変更が行なわれた。
変更後、外川神社の前あたりに、京方の見附の土居が造られた。 」
東海道分間延絵図には、
見附の手前に道祖神が祀られているが、現在は、外川神社の境内にある。
保土ヶ谷宿はここで終わる。
◎ 保土ヶ谷宿から戸塚宿
保土ヶ谷宿の西側の入口・外川神社のある信号交差点の左側に、細い松が数本植えられている。
また、一里塚のミニチュアみたいなものある。
説明板
「 これは一里塚を模したもので、当時と同じ、榎(えのき)を植えた。
江戸時代には、ここから境木地蔵まで松並木が続き、
昭和初期まで残っていたが、今は権太坂付近に一部残るだけなので、
復元事業として植えた」
国道を少し歩くと、「岩崎ガード」 と書かれた、横断歩道橋がある。
「
江戸時代の後期に創られた東海道分間延絵図では、外川神社の先に西の木戸があり、
茶屋町橋と西の木戸の間に、一里塚が左側だけ描かれている。
横断歩道橋のすぐ傍に一里塚が有ったようである。
さっきあった一里塚は、見やすいところに造ったのだろうが、
どうせなら、江戸時代の場所に置いて欲しかった。 」
横断歩道橋の左側に、「湯殿山」の供養塔と、石仏が祀られている。
供養塔には、「保土ヶ谷宿 文化七庚午年 三月吉祥日再建」 と刻まれていた。
「 江戸時代には、街道に、茶屋町橋 という小さな木橋が架かっていた。
このあたりには、本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋本陣があったようである。
茶屋本陣は参勤交代の大名が休憩するところで、宿場の入口にあたるので、大名の出迎えもしていたようである。
文化七年(1824)、保土ヶ谷宿には、茶屋が三十三軒あったというから、
江の島・鎌倉や大山詣での遊山客が多かった、ということだろう。 」
その先の保土ヶ谷2丁目の交差点で、東海道は、
国道1号線と別れ、右側の線路沿いの道に入る。
この道は、車の通行が減り、安心して歩けるようになった。
右手の小高い所を東海道線が通っている。
右側の石段の先に、樹源寺の山門が見える。
保土ヶ谷三局郵便局の前を通る。
道は平坦で、ほぼ真直ぐである。
この一帯には古い建物は無く、昔の面影は全く残っていない。
七百メートル歩くと、三叉路の元町ガードの交差点にでる。
交叉点で左折すると、今井川に架かる元町橋を渡る。
橋の脇に、「元町」 のいわれが書かれていた。
「元町」 のいわれ
「 東海道が開設された当時の保土ヶ谷宿は、このあたりから始まり、
相鉄天王駅の北側にある古町橋を渡っていた。
東海道は、慶安元年(1648)に、現在のルートに変更になり、
宿場はそちらに移されたので、この町は元町と呼ばれるようになった。 」
橋を渡ると、右側の元町橋ストアー前に、庚申塔と堅牢地神塔が建っている。
脇にあるので見づらいが、庚申塔は 「明和二酉年、堅牢地神塔は文政十?」 、とあり、
「元町講中」 と刻まれている。
堅牢地神塔は初めての出逢いである。
(注) 後で、調べると、以下のようである。
「 堅牢地神は、もともとはバラモン教の神で、仏教に取り込まれた十二天の一神、
大地を司る地天(じてん)のことである。
堅牢地神(けんろうじしん又は、じじん)塔は、
農民が豊作を祈願するために地神講を結成し、造立したものが多い。 」
少し上ると、国道1号線の元町交番前交差点の手前に、右側に入る道がある。
この坂道が東海道最初の難所。権太坂である。
ここから本格的な上り坂で、この角に、「歴史の道 旧東海道」 の案内板があり、
「境木地蔵尊まで1.5km」 と書かれている。
権太坂を上っていく。
正月に行われる大学駅伝の権太坂は、元町交番前交差点がある国道1号線を
南西に向かって走り上るものである。
東海道の権太坂の左側に、赤い鳥居と社(やしろ)があり、
その間に、「権太坂改修」の碑が建っている。
江戸時代には、行き倒れが出るほどの急坂だったらしいが、改修により現在の坂になった 。
権太坂は、横浜横須賀道路の上を権太坂陸橋で越えて行く。
振り返ると、遠くに横浜ランドマークタワーが見えた。
右側の光陵高校の敷地の下に、「権太坂」の石柱がある。
「 新辺武蔵風土記稿によると、
「 旅人が道端の老夫に坂の名を聞いたところ、耳の遠い老人は、
自分の名を聞かれたと思い、権太と答えたことが、名の由来である。 」、とある。
江戸時代には、坂の上から見える神奈川の海が大変美しかった。 」
今は、高層マンションが建ち並び、海は埋め立てられて、その姿を想像するのは難しかった。
その先の信号交叉点を越えると、左側に権太坂小学校がある。
小学校周辺はフラットになっている。
小学校を取り囲むように、一大住宅地になっている。
その先にあるゼットワンあたりから道は左にカーブすると、
だらだらした上り坂に変わった。
道が右にカーブすると、ローソンがある。
お店で、おいなりさんとお茶を購入する。 これまでお店が一軒もなかった。
少し歩くと、三叉路に突き当たり、正面に境木小学校があり、その隣に境木中学校がある。
ここが権太坂の頂上で、これで権太坂は上り終えた。 。
権太坂で行き倒れになった人々を葬った投込塚を探す。
三叉路を左折して、百六十メートル下ると、左側に、「投込塚之跡碑」を建っている。
「 権太坂は、箱根につぐ難所で、行き倒れも多かった。
「 二番坂を上りきった横に、死人を投げ込む井戸があった。 」 と伝えられてきた。
昭和三十六年(1961)、井戸があったところが、地区開発で発掘されると、
多数の人骨が発見された。
行き倒れた旅人の霊を慰めようと建てられたのが、大理石で作られた、「投込塚之跡」
の碑で、両脇には石仏、石碑が祀られていた。 」
東海道に戻る。 東海道は三叉路を右折する。
境木小学校を越えて、道なりに百七十メートル程進むと、右側の黒塀に囲まれた屋敷がある。
旧家の立派な門がある御屋敷は、境木立場茶屋を営んでいた、若林家である。
「 若林家は、明治中期まで、
黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、
参勤交代の大名などが利用したと、伝えられている。
宿場と宿場の間に、馬子や人足の休憩のため設けられたのが立場である。
ここ境木の立場は、権太坂・焼餅坂・品濃坂と、難所が続く中で、
見晴しの良い高台にあった。
西に冨士、東に江戸が望める景観にあったので、旅人は必ず足を止めた景観だった、という。
茶店で出す牡丹餅は、境木立場の名物として、旅人の間で広く知られていた。 」
そこから、数十メートル先の右側に、「一心良翁院境木延命地蔵尊」
と、刻まれた石柱があり、赤い屋根のお堂が見える。
石段を登っていくと、地蔵堂があり、万治弐年(1659)に建立されたという、
石のお地蔵様が祀られている。
「 境木地蔵の境内には、大きなケヤキの木があり、
堂前に、武蔵国 と、 相模国 の境の杭が建てられていた。
このことから、境木という地名が生まれた、とある。 」
石段を降りると、道の脇の広場に、その復元と思える柱が建っていた。)
神奈川県は相模の国と思っていた小生はびっくり!!
これまで歩いた保土ヶ谷区は武蔵の国で、
これから先の戸塚区は相模の国だったのである。
境木地蔵前交差点は三叉路になっている。
正面の褐色のマンション側に渡り、左側にある道を下って行くのが、東海道である。
マンションの植込みに、「右環状2号線、左旧東海道」 と、
書かれた大きな石標がある。
その傍には、小さな 「焼餅坂」 の石碑があり、
この坂が焼餅坂であることが確認できた。
「
焼餅坂は、別名、牡丹餅坂とも呼ばれた。
東海道五十三次 ・ 戸塚宿焼餅坂 の絵は、
ここから見えた富士山を描いたもので、当時の雰囲気を伝えている。 」
このあたりは急速に住宅化が進んでいて、
一年前とまったく景観が変るという状態である。
林の中を切り通しして造ったこの道も、早晩、マンションで埋まる気がした。
右側に、品濃焼餅坂公園がある。
そのまま下ると、交差点があり、右手に品濃なかよし公園がある。
東海道はここから、道が狭くなる。
小さな橋を渡り、直進すると、左は山のままだが、
右側は開発が進んだところに出る。
このあたりは、まだ自然が残っていたが、その先の車が一台しか通れない道では、
完全に都市化が進み、集合住宅が建っていた。
この先が品濃坂だろう。
少し上り坂になったと思っていたら、鬱蒼とした森があるところに出た。
右側に、「←戸塚宿 旧東海道 保土ヶ谷宿 →」 と書かれた道標がある。
隣に一里塚の説明板が建っている。
説明板「品濃の一里塚」
「
「 東海道をはさんで、ほぼ東西に二つあり、地元では一里山と呼ばれていた。
東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に置かれ、
西の塚には榎(えのき)が植えられていた。
木が生い茂ってはいるが、盛り土は江戸時代のままである。
神奈川県内で、一里塚が両方残っているのは,ここだけである。 」
道の両脇にあるのは、江戸から九番目の品濃の一里塚である。
左側の塚は私有地のため立ち入る事も出来ない。
右側の塚は、品濃一里塚公園になっていて、右に回ると、一里塚の形が確認できた。
街道に戻り、少し歩くと、交差点に出る。
左右の道は二車線で、右手には、環2品濃交差点がある。
旧東海道である対面の道は、歩いてきた道と同じ幅である。
アップダウンはあまりない。
一車線しかない道の両脇には、住宅が並んで建っている。
右手に、環2東戸塚交差点が見えるところの道角に、福寿観音が祀られている。
交叉点の五百メートルのところに、東海道本線の東戸塚駅がある。
ここには、東戸塚駅誘致に貢献した顕彰の旨が書かれた碑が建っていた。
住宅が切れると、交差点の左側に、観光果樹園がある。
かっては、こうした果樹園がこの地の産業だったのだろうが、土地が切り売りされ、
次回訪れた時、果たして残っているか、と思った。
果樹園の脇をそのまま進むと、民家に入ってしまうような狭い道である。
これでよいのかと不安になったので、庭にいた人に聞いたら、
その先に行くと広い道にでる、と言われた。
広い道を直進すると、三叉路に出た。
左側に旧東海道の標識があったので、安心し、指示通りに坂を下っていくと、
交差点がある。
左に行くと平戸小学校なので、右の道をカープしながら下ると、
環状2号線の横断歩道橋が見えてくる。
車道から歩道橋に降りるところにに、旧東海道の地図が描かれた銅板がある。
それを見ると、品濃坂は、環状2号で切断されているが、その先も続いている。
石段を下りると、「品濃坂」の石柱があり、
こちらからなら、迷わずにすんだのにと思った。
東海道は環状2号線で寸断されているので、品濃坂歩道橋に上り、
反対側で降りる。
降りたら、左折して品濃公園方面に向かう。
東海道は、品濃公園の東側の細い道である。
公園から坂道を下り、、県道218号の東戸塚陸橋の下をくぐる。
少し歩くと、左側に「東海道」 の標識がある。
小さな橋を渡ると、道の右側に川上川が流れている。
用水のような川上川を見ながら、少し歩くと、
国道1号線が左右にある東戸塚駅入口交差点に出る。、
そのまま国道を横断し小さな橋を渡ると、左側に永谷川が流れ、川には白鴫と鴨が餌を探していた。
町名が品濃町から前田町に変わったので、品濃坂は終わったのだろうと思った
。
この辺は江戸時代には前田村で、戸数十三戸の小さな村だった。
少し歩くと、再び、国道1号に合流。
その先に、赤座橋交差点があり、永谷川に架かる赤座橋がある。
「永谷川赤座橋」 と表示され、旅人をデザインした橋柱である。
東海道は、橋を渡り、左側の道に入る。
ここからは、戸塚区上柏尾町である。
江戸時代は上柏尾村で、東西四町十間、村の中程を貫く三間巾の東海道が通り、
字桃灯立場があったところである。 当時の面影をしのばせるものはなかった。
再び、国道1号線と合流。 その先の右手にヤマザキパン工場がある。
ポーラ化粧品の前を過ぎると、道路の左側の駐車場の奥に、白い蔵が見える。
さらに歩くと、国道のすぐ左脇に、モチの木の大木が目に入った。
近づくと、「益田家のモチの木」 、という看板があり、
蔵からすぐの国道の左側の二メートル程上にあるのが、
神奈川県の名木百選に選ばれたモチの木である。
東海道は、この先で、国道1号線と別れ、左の道に入っていく。
この道の幅は、昔の東海道のままの道幅といわれる。
「 不動坂交差点に大山跨線橋があるが、
江戸時代の大山道にちなむものである。
このあたりは柏尾、江戸時代は下柏尾村であった。 」
不動坂を下って行くと、右側に赤レンガの倉庫が残っている。
その先には、黄色い塗り壁に、立派な土蔵と、門構えの屋敷がある。
その先に信号交叉点で、交叉点を越えると橋が架かっている。
交叉点を右折し、舞岡川沿いに歩き、舞岡交差点で、再び国道1号線に合流。
舞岡川に架かる五太夫橋を渡る。
橋の手前の左側が旧舞岡村で、橋を渡ると旧吉田町である。
道の右側はブリジストンの工場が続く。
左側に、天文十六年(1547)中興、寛永九年(1632)建立の不動尊を祀る宝蔵院がある。
そこを過ぎると道端に、「東海道 吉田町」 と書かれた標識がある。
江戸見附前交差点に到着。
江戸時代、ここは戸塚宿の江戸側の入口である、江戸見付があったところである。
◎ 戸塚宿
江戸見附前交差点にあるステーキレストランの植え込みの中に、 「江戸方見附跡」 の石碑が建っている。
「
戸塚宿は、保土ヶ谷宿と藤沢宿間が四里九町(16.6km)もあったことから、
慶長九年(1604)に設けられた宿場である。
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
宿場の長さは二十町十九間(2.2km)で、宿内に二千九百六人が住み、
家の数は六百十三軒であった。
戸塚宿は、東に権太坂、西に大坂と、二つの難所に挟まれていることや
江戸から十里半(42km)であることから、
日本橋を七つ時(午前4時)に出発した旅人は、
ここで最初の夜を迎えるのが一般的だった、という。
江戸時代の人は健脚だったのですねえ。 」
江戸見付前交差点を過ぎたスズキのあたりには比較的古い家も二、三軒あった。
元町交差点を過ぎ、その先の左側の狭い道を左折し、少し行くと、
左側に妙秀寺がある。
「 鎌倉の小町にある日蓮宗の本覚寺の末寺に当たる寺で、
延文元年(1356)の創建とされる古い寺である。
明治時代に建物が全焼し、建物は最近のものである。 」
境内には、「南無妙法蓮華経」 と刻まれた石碑と。
安藤広重の 「東海道五十三次、戸塚」 の浮世絵に描かれているものとされる道標がある。
道標は、山門を入って左側の水屋の先にあり、
途中で折れたものをコンクリートで修復したもので、
刻まれた文字はほとんど読めなくなっていた。
安藤広重の 「東海道五拾三次 戸塚宿」 の絵は、
この先にある吉田橋周辺を描いたものである。
「
橋の手前の左側に、「こめや」 の看板を掲げた茶屋がある。
その先の常夜燈の右側に、「 左りかまくら道 」 と記された道標が描かれている。
先程、妙秀寺で見た、「かまくら道」 の道標は、ここに建っていたのである。
五街道細見に、 「 やべ町と云う里を越えて、左の田中のあぜ道を鎌倉へ行く道あり 」 と書かれている道が鎌倉街道で、ここから鎌倉へは三里の行程である。 」
街道を歩くと、吉田橋の手前五十メートルのところに、
「一里塚跡」 の標板があった。
かって、戸塚の一里塚がここにあったのだろう。
橋の手前の右側に、赤い鳥居と小さな社がある。
これは吉田元町の住民により、江戸中期に創建された木之間稲荷である。
吉田橋交差点の先に、吉田大橋がある。
「
柏尾川に架かる吉田大橋は、江戸時代には吉田橋、あるいは、高島橋とも呼ばれていた。
長さ八間(約十四メートル)の大きな木橋だった。 」
東海道は吉田橋を渡って直進である。
橋を渡ると、右側に、江戸時代の八王子道が残っている。
「
川沿いに続く狭い道を二十メートルほど行くと、道祖神碑と道標が建っている。
大きな道標の正面には、 「上矢部 淡島大明神道十丁」 、とあり、
左面には、 「ふしのや 八王子道」 と刻まれている。
このあたりは旧矢部町で、手前の吉田町、
この先の戸塚宿と共に、戸塚宿を構成した町である。
道標は宝暦十二年建立である。 」
先程のかまくら道道標や、八王子道標が示すように、 この地点は、 東海道と鎌倉道や八王子道との分岐点で、 多くの人々で賑わった様子は、十辺舎一九の東海道中膝栗毛にも窺える。
「 弥次喜多のご両人は、旅の一日目にここに投宿している。
保土ヶ谷や戸塚宿で、有名な客引きの留女(とめおんな)に、振り回されている。
東海道中膝栗毛の文面
「 両側より旅雀の餌鳥(おとり)に出しておく留おんなの顔は、
さながら面をかぶりたるごとく、 真白にぬりたて、
いづれも井の字がすりの紺の前垂を〆たるは、 さてこそいにしえ、
ここは帷子(かたびら)の宿といひたるところとなん聞へし 」 、とあり
とめ女 「 もしおとまりけへ 」 と、引とらへて引ぱる。
旅人 「 これ手がもげらあ 」
とめ女 「 てはもげてもよふございます。 おとまりなさいませ 」
旅人 「 ばかあいへ。 手がなくちゃあ おまんまがけはれねへ 」
とめ女 「 おぬしのあがられへほうが、おとめもうしちやあ猶かつてさ 」
旅人 「 ええいめへましい、はなさぬか 」
と、やうやうにふり切って行く。
ここで、弥次は、 狂歌を一句
「 おとまりは よい程ヶ谷と とめ女 戸塚前では はなさざりけり 」
当時の戸塚宿には、本陣が二軒、脇本陣は三軒、旅籠が七十五軒あったが、
こうした表現から、隣の保土ヶ谷宿との客の奪い合いでの留女の活躍振りと、
戸塚宿の賑わいを感じとることができる。
しかし、現在の戸塚には古いものは残っていない。
矢部団地入口交差点を過ぎると、右手に善了寺がある。
道は右にカーブし、その先の信号交差点の左手はラピス戸塚、
その先にJR戸塚駅がある。
東海道は直進して、JR東海道本線の踏切を渡る。
電車がきていて、しばらく待たされた。
立体交差になればよいのに!!
「開かずの踏切」と言われた、戸塚踏切は、平成二十七年(2015)三月二十五日、
アンダーパス(立体交差)が完成し、渋滞が解消された。
清源院入口交差点の手前、右手奥に、清源院がある。
正式名は、南向山長林寺という寺である。
「 京都の知恩院の末寺で、家康の側室・お万の方が、
家康他界の後、尼になり、本尊に歯吹阿弥陀如来像を祀って開基したという寺である。
清源院は、お万の方の法号(尼名)である。 」
急な階段を上っていくと、本堂があり、戸に三葉葵の紋が付いていた。
本堂右側の石段を上ると、薄暗い墓地の左側の奥に、
「 当山開基 清源院殿尊骸火葬霊迹也 」 と書かれた、
安政十五年(1858)建立の 「お万の方火葬の地」 の碑がある。
本堂の石段の脇には、芭蕉の句碑がある。
、「 世の人の 見つけぬ花や 軒のくり 」
石段の左側に、「心中句碑」、「朝日堂石碑」と。 庚申塔が並んで建っている。
心中句碑には、「 井にうかふ 番(つが)ひの果(はて)や 秋の蝶 」 という句が刻み込まれている。
これは、寺の井戸で心中した戸塚の薬屋の息子(十八歳)と、
戸塚の伊勢屋の飯盛女(十六歳)を慰霊するため、
当院の住職が建てたものである。
街道に戻ると、清源院前交差点の右側は、
区画整理で赤い土が剥きだしになっていた。
このあたりが戸塚宿の中心地であったところで、
白塀で囲まれた左側には最近まで古い家も一部あったのだが、
すべて壊されてしまっている。
その先にあるバスセンター前交差点は、三叉路である。
東海道は直進するが、右折すると、その先に横浜新道があるので、
車の大部分はそちらに向うので、東海道を走る車はかなり少なくなった。
四百メートル歩くと、左側に戸塚消防署がある。
その手前の一メートル程高くなった所に、「明治天皇行在所阯」 の石碑と、
「東海道戸塚宿澤邊本陣跡」 の木柱が建っている。
澤邊本陣初代の澤邊宗三は、幕府と掛け合って、戸塚宿を開設させた人物で、
門柱に、「澤邊」 とあったので、子孫の方がおられるようである。
その先の海蔵院は、臨済宗の寺院である。
「
山門の横には、「遍照金剛」 と刻まれた、文政四年(1821)の 木食観正碑 がある。
山門の上部には、左甚五郎の作と伝えられる龍の彫刻がある。 」
さらに行くと、郵便局の少し先に、八坂神社がある。
「
毎年七月十四日、無病息災を祈念して行なわれるお札まきは、町内十名が女装して、
渋団扇を打ちながら、原始的な踊りをおどって、五色のお札を撒く行事である。
境内に、「明治天皇東幸史蹟」 と書かれた石碑と、庚申塔がある。 」
その前の八坂神社前交差点は三叉路で、東海道は直進である。
左折する道は、鎌倉へ通じる鎌倉道である。
百五十メートル程歩くと、右側に、富塚(とつか)八幡宮の鳥居がある。
「
富塚八幡宮は、平安時代、源頼義・義家親子が、前九年の役の平定を感謝して、
延文四年(1072)に社殿を造り、誉田別命(交神天皇)と、富属彦命(相模国造二世孫)
を祀ったのが始まりである。
富塚(戸塚)一族が、この地に住み、当神社を氏神として崇敬していた。 」
石段の脇に、松尾芭蕉の句碑がある。
「 鎌倉を生きて 出でけむ 初松魚(初鰹) 」
と、いう芭蕉が元禄五年(1692)に、初鰹を詠んだ句である。
江戸っ子に珍重された初鰹は、鎌倉で水揚げされて、戸塚を通り、
江戸まで運ばれたようで、句碑は、嘉永弐年(1849)に、
戸塚宿の俳人たちによって建てられた。
石段を登ると、拝殿があったが、樹木に覆われているので、大変暗い。
拝殿は昭和九年のものだが、社殿は、天保十二年の建立である。
左手にかわいらしい赤い社と狐が祀られているのは玉守稲荷で、
その先には庚申塔などの石碑群があった。
その先の小高い丘は、 富属彦命(とつきひこのみこと)墳堂(墓) と、
伝えられる古墳である。
これを 「富塚」 と称したことにより、戸塚の地名の発祥となった、と伝えられる。
街道に戻り、二百メートル程歩くと、
大阪下バス停前のファミリーレストランサイデリヤがある。
その前には、「東海道戸塚宿見附跡 ー 上方見附」 の標柱がある。
石積が見附で、その上に、小さな松の木が植えられていた。
また、安藤広重の東海道五十三次の戸塚宿の浮世絵の模写絵がある。
松並木の下を旅人がこの坂を上って行く姿と、富士山が描かれていた。
道路の反対側を見ると、民家の塀の所にも、同じような石積が見られた。
ここで、戸塚宿は終わる。