神奈川宿は、南から東にかけて、海が広がる台地の上にあった。
幕末の横浜港の開港以降、南の対岸を埋め立て、そこが横浜の中心街になっていく。
現在、街道から海を望むことはできない。/p>
神奈川宿の入口は国道15号の滝坂踏切入口交叉点付近で、
旧東海道は無くなっているが、国道の子安通りを歩く。
子安橋の上に、首都高速道路横羽線が通っているが、
昭和三十年以前はそこから先は海であった。
江戸時代には東海道の右側は白砂・青松がある風光明媚なところだったのだろう。
今日の姿からは想像できない。
「
東海道分間延絵図には、東子安村に、 一里塚と遍照院の表示がある。
武蔵国風土記にも、「 子安一里塚は左右とも東子安村地内にあり、
右は榎、左は松を植ゆ、 江戸より六里。 」
とあるが、一里塚の位置は確認できなかった。 」
遍照院は、子安通り交差点の先を右に入り、
京浜急行の踏み切りを渡ったところに今もある。
入口から本堂にかけて、工事が進められていたが、境内には庚申塔が残されている。
中央の石碑には、「奉納庚申供養」 と刻まれていて、
右側の庚申塔は、左側に安永三年・・・ とあり、
正面には、帝釈天が天邪鬼を踏んでいる図があり、その下には三猿が描かれていた。
左側の庚申塔にも、三猿が描かれている。
入江橋を渡り、京急子安駅を過ぎると、浦島町である。
浦島町交差点の右側に、京急神奈川新町駅がある。
その手前の路地を入って行くと、神奈川通東公園がある。
「
江戸時代には、土居があり、神奈川宿の江戸見附があったところである。
また、長延寺があり、開港時にはオランダ領事館になった。
公園の中央付近に、それを示す石柱が建っている。 」
公園前の道を西に進むと、京急神奈川新町駅の出口にある交叉点の先に 良泉寺があった。
「 江戸時代には新町といわれたところだが、 開港当時、外国の領事館に充てられることを快しとしない、この寺の住職は、 本堂の屋根をはがし、修理中であるという理由を口実にして、幕府の命令を断った、 と伝えられる寺である。 」
良泉寺の角に、 「笠脱稲荷神社」 の石柱が建っている。
笠脱稲荷神社は、良泉寺の奥に京急の線路があり、その奥にある稲荷で、
かっては稲荷山の麓にあった。
「 天慶年間(938〜947年)に創祀、
元寇の際には、北条時宗より、神宝を奉納されたという由緒ある神社である。
社前を通行する人の笠が、自然に脱げ落ちたことから、笠脱稲荷大明神と称されれるようになった。 」
国道を歩き、東神奈川二丁目交差点を越えて、次の路地に入る。
このあたりは、江戸時代の荒宿町である。
その先の左手に神明宮、そして、右側に能満寺がある。
「 海運山能満寺という寺で、
正安元年(1299)に、この地の漁師が海中より霊像を拾い上げ祀ったのがこの寺の始まりで、
本尊は高さ五寸の木造虚空蔵菩薩坐像である。
案内板に描かれた絵には、薬師堂、不動堂、その奥に本堂、左側に神明宮が表示されていて、
この寺は神明宮の別当寺であった、と書かれていた。 」
神明宮の角を右折すると、神奈川小学校の脇にでた。
この場所は小学校の校庭の端で、壁面の一部に、タイルで、
東海道分間延絵図が描かれていた。
標題に 「絵図で見る神奈川宿」 とあるが、
子供達にこのモニュメントがどのように映っているか、気になるところである。
この絵図によると、現在の第一京浜は勿論、京急の駅も大部分が海の中で、
東海道は京急の線路より北にあったという感じである。
小学校の校庭脇の道を歩いて行くと、東光寺があった。
大田道灌の守護仏を平尾内膳が賜り、この寺を草創した、といわれるが、
山門は閉ざされているので、中の様子は分らなかった。
一旦、第一京浜に戻り、神奈川二丁目交差点を渡り、 東神奈川郵便局の角を右折すると、金蔵院がある。
「 平安末期に、勝覚僧主により創られた古刹で、
徳川家康より、十石の朱印地を許された、という寺である。
立派な山門があり、境内には、徳川家康の御手折梅があるはずであるが、この寺も、閉じられていて、中には入れなかった。
道の反対側にある熊野神社は、神仏分離令で、金蔵院から分離された神社である。
江戸時代には祭礼で大いに賑わった、という。
境内の大きな石の獅子(狛犬)は、嘉永年間(1848〜1854)に、
鶴見村の飯島吉六という石工が造ったものであるが、感情表現が豊かである。
京急仲木戸駅からの道は、歴史散歩道となっている。
その道を進むと、左側に神奈川地区センター、その前に、復元された高札場がある。
江戸時代の高札場は、現神奈川警察署の西側にあり、間口五メートル、
高さ三メートル七十センチ、奥行1メートル五十センチの大きなものだった、という。
成仏寺の門前の左側には、「史跡外国人宣教師宿舎跡」 の石柱が建っている。
説明文
「 成仏寺は、 鎌倉時代の創建の古刹で、三代将軍徳川家光の上洛に際し、
宿泊所となる神奈川御殿を造営するため、現在地に移った。
安政六年(1859)の開港当初のアメリカ宣教師の宿舎に使われた。
ヘボン式ローマ字で知られ、和英辞典を最初に作った、ヘボンは、
本堂に、讃美歌の翻訳を手がけたブラウンは庫裏に住んだ。 」
成仏寺から西に向かうと、滝の川に突き当たる。
そこを右折し、京急のガードをくぐると、「慶運寺」という白い看板がある。
幕末の開港時にフランス領事館が置かれたところである。
亀の上の石柱に、「浦島観世音浦島寺」 と刻まれている。
境内には、「浦島父子墓」 と書かれた石碑があった。
「
慶運寺は、室町時代に芝増上寺の音誉聖観によって、創建された寺である。
浦島太郎は、兵庫県の日本海側に戻ってきたが、当時の面影がないので、
故郷の神奈川に戻り、ここで亡くなった、とされ、
この寺は浦島伝説にまつわる遺物を多数伝えていることから、
浦島寺と呼ばれるようになったようである。
江戸時代の名所図会に、浦島寺 とあるので、すでに浦島伝説のある寺になっていたのであろう。 」
川を下ってくると、第一京浜の滝の橋交差点にでる。
滝の川に橋が架かっているが、上には高速道路が通り、景観を壊している。
「 江戸後期の金川砂子には、滝の橋という小さな橋がかかっていて、 その手前に高札場と神奈川本陣が描かれている。 」
橋の手前の右側の茶色と白い家がそれにあたるのだろう。
写真は川の反対から写したものである。
このあたりが、江戸時代の神奈川宿の中心部である。
「
神奈川宿の旅籠は五十八軒と多くはなかったが、
家数は千三百四十一軒、人口も五千七百九十三人と大きな町だった。
橋の東は神奈川町、西は青木町と呼ばれ、橋の東側に神奈川本陣、西に青木本陣が置れた。
橋を渡ったところに青木本陣があったはずだが、あった場所は確認できなかった。 」
橋の右側に、川に沿って、道があったので、そこに入る。
その先で左折すると、曹洞宗の寺院・宗興禅寺がある。
境内にはヘボン博士の碑がある。
「
建物は最近建て替えられたと思える寺らしくないものだが、
幕末の開港時に、ローマ字の創設者ヘボン博士が診療所を開いた寺である。
ヘボン博士がキリスト教の宣教師で来日していることは既に述べたが、
実は医者であったので、この寺に診療所を開いたのである。 」
川沿いの道を上って行くと土橋に出る。 <
そのまま、直進すると、浄滝寺(じょうりゅう)に出る。
門前には、 「史跡イギリス領事館跡」 の石柱が建っている。
「 文応元年(1260)、日蓮聖人に出会った妙湖尼が、
自らの庵を法華経の道場としたことに始まるという寺である。
東海道沿いにあったが、徳川家康の江戸入府の際し、現在地に移った。 」
第一京浜国道に戻り、旅を再開する。 左側に神奈川公園が続く。
江戸時代、橋を渡った右側が権現山から流れる滝に因んで、滝之町、道の左側は久保町、
そして宮之町と呼ばれた。
この神奈川公園になっているあたりだろうか?
第一京浜を百メートル程歩くと、東海道は右側のJR神奈川駅に通じる狭い道に入る。
そこには、宮前商店街の看板が立っていた。
宮前商店街の中央右手に、源頼朝が勧請したと伝えられる州崎大神がある。
説明板
「 建久弐年(1191)、安房国一之宮の安房神社の霊を移して祀ったというもので、
江戸名所図会にも、 「州崎明神」 として紹介されている。
神社前から第一京浜への参道(現在の宮前商店街)の先に船着場があり、
横浜が開港してからは、横浜と神奈川宿を結ぶ渡船場として賑わった所である。
その先にある普門寺は、州崎大神の別当寺だった。
江戸後期には、本堂、客殿、不動堂を持ち、開港時にはイギリス士官の宿舎に充てられた。 」
甚行寺の門前には、「史跡フランス公使館跡」の石柱が建っている。
甚行寺を過ぎると、宮前商店街も終わり、京急神奈川駅に出る。
東海道は、京浜急行とJRの線路に阻まれるので、
その上にかかる陸橋の青木橋を渡らなければならない。
橋を渡ったところの右側の高台に、本覚寺がある。
説明板「本覚寺」
「 臨済宗の開祖、栄西によって、鎌倉時代に開創された寺である。
戦国時代の権現山の合戦により、荒廃し、
天文元年(1532)に陽広和尚が再興し、曹洞宗に改められた。
開港当時、ハリスがこの高台は渡船場に近く、横浜が眼下に望めたので、
アメリカ領事館に決めたという。
山門はこの地区に唯一残る江戸時代の建築である。 」
坂道を下り、青木橋交差点まで戻り、国道1号を少し進み、
やまざき歯科の角を右折、これが東海道である。
少し歩くと、右側の空地の先にトンネルがみえるが、これは東急線の名残で、
今は地下をくぐっている。
その先の右側に、「大綱大神 金刀比羅宮 鎮座」 と刻まれた石柱と、赤い鳥居がある。
大綱金刀比羅神社である。
「 この神社は、平安時代の創建で、もとは飯綱社といわれた。
その後、琴平社と合祀され、大綱金刀比羅神社となった。
神社前の道の両側に、東海道の江戸から七番目の一里塚があったのだが、今はない。 」
幟がはためく石段を上って行くと、こじんまりした社殿があり、
右脇に天狗の石碑(?)があった。
説明板に、
「 かって、眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、
大天狗の伝説もある。」、とあるのと関係があるか?
その右側には、お稲荷さまが祀られていた。
江戸後期の「金川砂子」には、金刀比羅神社の右側に三宝寺が描かれている。
ごく最近まであったはずなのに今回訪問するとないので、地元の人に訊ねると、
高いビルの上部を指差した。
その場所にはビルが建ち、上部は寺院と思える形にはなっていたが、
敷地の大部分は貸しビルに充てられて、三宝寺は母屋を取られてしまった形である。
道は上り坂になる。
ここ台町は、かって、「神奈川の台」 と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす、
「袖ヶ浦」 と呼ばれる景勝地だった。
江戸時代には、道の左側は、海に面して茶屋が並び、海を見ながら休憩ができた、という。
高度成長の時代までは、茶屋だったところが料亭などになり、繁昌していたようだが、
今は数軒の料亭が残っているだけで、その内の一軒が田中屋である。
「
十返舎一九は、東海道膝栗毛にその当時の姿を、
「 この片側に茶屋軒を並べ、いずれも座敷二階建、欄干付きの廊下、桟などわたして、
浪うちぎわの景色いたってよし 」
と、書き、弥次と喜多の二人は、
「 おやすみなさいやァせ 」 という茶屋女の声に引かれ、 ぶらりと立ち寄り、
鯵(あじ)をさかなに一杯引っ掛けている。 」
このように、色香ただようところだったが、バブルがはじけてからは、 住宅化が一気に進み、道の両側に、マンションが並んで建てられて、 残った料亭が何時まであるかは予想しずらい。
坂を登っていくと、右側に、「神奈川台場関門跡 袖ヶ浦見晴所」 と、
刻まれた石碑がある。
幕末の横浜開港後、攘夷過激派による外国人の殺傷事件が相次いたので、
幕府が警備のために、各所に関門を設けた一つである。
関門は明治四年に廃止された。
道は右にカーブすると、坂の頂上である。
そこからは、短いけど、坂を一気に下る。
下ったところに、道路にかかる陸橋がある。
「上台橋」 と名付けられた陸橋を渡ると、神奈川宿の京側の入口で、
ここで、神奈川宿は終わりとなる。