名所訪問

「 東海道 間の宿・鶴見と生麦 」


かうんたぁ。


◎ 間の宿 ・ 鶴見

京急八丁畷駅から東海道の道筋を探して歩く。
八丁畷駅の北東にある小川町停留所の前にある馬嶋病院のあたりに、 川崎宿の西の見附の上手土居があった、といわれる。

「 土居とは、切石を積んでもので、宿場を入る旅人を監視していた。
幕末に起きた生麦事件後は、外国人を警護するため、第一関門が設けられた。 」

東海道は、この先、平坦で真直ぐ続く一本道の八丁畷となる。 

「 畷(なわて)とは、田圃や畑の中をまっすぐに続く道のことである。
川崎宿を出ると、人家がなくなり、道の両側に麦畑が拡がっていて、 川崎宿から隣の市場村まで、八町(約870m)続いたことから、この名が付けられた。 」

一キロ程先の右側の少し小高くなったところに、芭蕉の句碑がある。

「 芭蕉は、元禄七年(1694)五月十一日 (現在の六月下旬)、  江戸深川の庵をたち、故郷の伊賀への帰途、送ってくれた門人達と、 八丁畷にあったよしず張りの腰掛茶屋で休憩した。 
その時、別れを惜しみ、「 翁の旅を見送りて 」 と題し、各人が俳句を詠みあった。 
 「  刈りこみし  麦の匂いや  宿の内    利牛  」
 「  麦畑や    出ぬけても猶 麦の中  野坡  」
 「  浦風や    むらがる蝿の はなれぎは  岱水  」
芭蕉は弟子達に
 「  麦の穂を  たよりにつかむ  別れかな  芭蕉  」 
という句を返し、旅立ったが、その年の十月に大阪で亡くなったので、 弟子達との別れの句になった。 
芭蕉の死後、百三十年ほど経った文化十三年(1830)に、俳人の一種が建立した句碑で、 最初は上手土居にあったのをここに移転したものである。 」

20m程歩くと、京浜急行の八丁畷駅があり、その右側の踏切を渡る。
左側に、昭和九年に建てられた慰霊塔等がある。 

「 この周辺から、江戸時代のものと思われる人骨が多く出土した。 
江戸時代には、大火、洪水、飢饉や疫病の発生により、頻繁に大量の死者がでたようで、 川崎宿ではそれをまとめて宿はずれのこの地に埋葬したものらしい。 
  それを慰霊するために、建立されたようである。 」

馬嶋病院    芭蕉句碑    芭蕉句碑    慰霊碑
馬嶋病院
芭蕉句碑
芭蕉句碑
慰霊碑


市場上町の交差点を過ぎると、横浜市鶴見区になる。 
少し歩くと、右側に熊野神社がある。 

「  弘仁年間に、紀州熊野神社から勧請したと伝えられ、徳川家康が入国に際し、 武運を祈ったされる神社で、最初は旧市場村八本松にあったが、 天保年間に東海道沿いに移され、明治五年に現在地に移った。 」

 神社の前の交差点を左に入り、京急鶴見市場駅前に行くと、 手前の右側を少し行ったところに、専念寺がある。 

「  ここには、紫式部の持念仏と伝えられる市場観音と、 富士山から飛んできた夜光石や、イボ地蔵が祀られているのだが、 門が閉められていて、入ることができなかった。 」

街道に戻り、300m程歩くと、市場橋バス停のそばの左側に、社が祀られている。
その前に、「市場村一里塚」 と書かれた石碑が建っている。

説明板「市場村一里塚」
「 江戸時代には、京急鶴見市場駅付近は海が間近にあったので、 漁業や製塩業で生計を立てる人が多く、天文年間(1532〜1554)には、 海産物の市場が開かれるようになったため、市場村という地名になった。
市場村一里塚は、江戸から五番目の一里塚で、道の両側にあったのだが、 今は左側の土盛りされているところに、中町稲荷が祀られているが、 これが一里塚の名残である。 」

右側の一里塚跡は床屋になっていた。 
その先の民家の一角には、双体道祖神が祀られていた。
更に、馬頭観音を祀った小さな祠の脇には、小さな地蔵さんが鎮座していた。 
また、下町稲荷の社もあった。 
これらは皆、民家の一角を削ったようにして祀られているので、 信仰心の強い土地柄なのだろう。 

右側の光明山金剛寺を横目に見ながら通り過ぎると、少し上りになり、鶴見川橋が見えてきた。
一里塚跡からここまでは五百メートル程の距離だろうか? 

鶴見川に架かる鶴見川橋は、アーチ形の立派な橋で、歩道の巾もきちんと取られていた。 
橋を渡ると、少し下りになる。
左側の植栽の中に、「旧東海道鶴見橋」 の木柱に、「武州橘樹郡鶴見村三家」 と書かれていた。 
その脇には、「鶴見橋関門旧跡」 の石碑がある。

「  幕府は、万延元年(1860年)四月、横浜の外国人保護する目的で、 横浜に入る者を取締るため、この橋に関門を設けた。
さらに、文久弐年(1862)八月に起きた生麦事件後には、外国人保護を強化するため、 この橋に川崎から五番目の関門番所を設けた。 」

熊野神社    市場一里塚跡    双体道祖神    鶴見川橋    鶴見橋関門旧跡
熊野神社
市場一里塚跡
双体道祖神
鶴見川橋
鶴見橋関門旧跡


50m程歩くと、鶴見上町交差点で、道を越えた右側の鶴見図書館の前に、 「馬上安全 寺尾稲荷道」 の大きな道標があり、「従是廿五丁」 とある。

「  江戸時代、ここは、寺尾稲荷(現馬場稲荷)へ向う道の分岐点で、 寛永二年(1705)に、このように大きな道標が建てられた。 
その後、壊されても、二度建て替えられた、という。 
この稲荷は、馬術上達や馬上安全に非常にご利益があるとして、 祈願をかける者が絶えることなく、江戸からの参詣者も多かった。 
また、この道は、馬場を通り、菊名に抜ける寺尾道や、 末吉橋を渡り、川崎へ向う小杉道に繋がる重要な道であった。 」

駅東口入口交差点まで行くと、自動車が増え、 両脇には、マンションのビルが連なっている。 
交差点を越えて、少し歩くと、右側に鶴見神社の参道入口がある。

鶴見神社の由緒書
「 往古から杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社であった。
その創建は、約千四百年前の推古天皇の御代と伝えられ、
  続日本後記承和五年(約千百八十年前)二月の項に、
「  武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以って官幣を之に預らしむ。 」 とあるとしており、
武州で一番古い神社のようで、一村一社合祀令により、 周囲の神社が統合された際、現在の名前になった。 」

社殿は、明治四十四年(1911)に火災で全焼したが、大正四年(1915)に再建されたのが、 現在の建物である。 
境内には、寺尾稲荷道道標が保存されていた。
傍らの説明板には、先程見たのは複製で、ここにある道標が本物だ、とある。 

説明板「寺尾稲荷道道標」
「 江戸時代、道標は、東海道筋の三家稲荷に設置されていた。
神社合祀を行なったとき、三家稲荷も神社の境内に移され、道標も移ってきた。
この道標は、三度目のもので、文化十一年(1828)に建立された。 」

寺尾稲荷道道標    鶴見神社    鶴見神社社殿    寺尾稲荷道道標
寺尾稲荷道道標
鶴見神社鳥居
鶴見神社社殿
寺尾稲荷道道標


東海道は、鶴見神社の参道入口で、くの字に曲がっているので、 そこを左折すると、右側にJR鶴見駅、そして京浜急行鶴見駅に突き当たる。 
このあたりが、旧鶴見村の中心地である。

「 川崎宿から神奈川宿は、二里十八町(9.7km)の距離で、 中間にあたる鶴見に立場があり、旅人相手の茶屋が並んでいた。 
江戸名所図会には、鶴見村最大の志からき茶屋の絵が描かれていて、 「  生麦は河崎と神奈川の間の宿にて立場なり。 
此地しがらき屋といへる水茶屋は、享保年間廊を開きしより、 梅干をひさぎ、梅漬の生姜を商う。 
往来の人ここに休はざるものなく、今時の繁昌な々めならず。 」 と記述されている。
竹の皮に包んだ梅干しが名物だった、というが、その跡がどこだったのか、分らない程、 変ってしまっている。 
京急鶴見駅では、道に沿って、左側に進み、線路の高架をくぐると、駅の左側に出た。
この道は、車もほとんどなく、人影もまばらである。

「鶴見銀座」 と表示されていて、飲食店や商店もある。
その間にアパートなども出来て、このままでは、早晩商店街はなくなるだろうと、思えた。 
両側を見ながら、そのまま進むと、その先の交差点で、第一京浜(国道15号線)に出た。 
東海道は、国道を横切り、向かいの細い道に入ると、 前方にJR鶴見線のガードが見えてきた。

それをくぐると生麦五丁目で、右手には国道駅がある。 
このあたりから、道のにおいが変わってくる。 
両側に天婦羅屋があると思ったら、その先には魚屋が並んで商っていたので、 このにおいだったのだなあ?!と思った。 
やがて、道の両脇が全て魚屋になってしまう。
まだ早いので、買い物客はまばらであったが、 「魚河岸通り」 と呼ばれるところである。 

「  江戸時代、左側の海から揚がったばかりの蛤・蛸・イカなどを売っていたところである。
今でも、三百メートルほどの距離に、八十軒もの魚屋が並んでいる。 」

活気に溢れているし、魚介類が新鮮で安いので、散歩気分で訪れるのもいいのでは、 と思った。 

京浜急行鶴見駅前    鶴見銀座    JR鶴見線    魚河岸通り
京浜急行鶴見駅前
鶴見銀座
JR鶴見線
魚河岸通り



◎ 生麦事件が起きた 生麦

二百メートル程歩くと、道の右奥に慶岸寺があり、その手前に、子育て地蔵堂があった。 
生麦四丁目に入り、五百メートル程歩くと、右側に「道念稲荷」 の石碑がある。
その先の鳥居の前には、左右にお地蔵様が祀られていた。 
鳥居をくぐって進むと、道念稲荷神社の社殿がある。
この神社で、毎年六月第一日曜日に行われる、 「蛇も蚊も祭り」 は、 数百年前から伝わるもので、横浜市の無形民俗文化財に指定されている。 

神社から街道は大きく、右にカーブすると、魚屋は見られなくなり、住宅街になった。 
その先、三百メートル程行くと、右側の住宅前のフェンスに、「生麦事件の現場」  というパネルがある。 
今まで、生麦事件は、生麦事件碑のある所で起きた、と思っていたので、新発見である。
生麦三丁目に入り、県道六号と交差する交差点まできた。 
県道を横断して、少し先を右に入ったところに、神明社がある。
江戸時代の分間延絵図には、「字原町立場」 と書かれて、その右側に神明社がある。 
川崎宿から一里六町、神奈川宿から一里十二町にあった立場であるが、 このあたりに 「茶屋の跡」 の表示はないようで、 今は原西自治会の名に、原の地名が残るだけである。 

先程の道念稲荷と同様、 「蛇も蚊も」 に由来するお祭りが残っている。

「  生麦が農漁村だった三百年前に始まった悪疫祓い豊漁祈願の行事で、 氏神祭神のすさのうの尊(みこと)にちなみ、大蛇によってこの疫病を退散させようと考え、 萱(かや)で長さ八間胴回り二尺の大蛇をつくり、これを担ぎ、  「 蛇も蚊も出たけ 日和(ひより)の雨け 出たけ 出たけ 」 と、大声に唱えながら、町内を練り歩き、最後に、この蛇体を海に流す行事である。 
本宮(道念稲荷)が雄蛇、原(神明社)が雌蛇で、両蛇が絡み合った後、  海にながしていたようだが、現在は個別に実施している。 」
と、説明板にあった。

街道の右側は住宅地だが、左側は横浜に向って麒麟麦酒の工場が続いている。
工場がきれるとキリンビアビレッジがあった。 
レストランもあり、ビールも飲める、また、事前に申し込めば工場見学も出来る。

第一京浜に合流すると、すぐの左側に生麦事件の石碑がある。

「  明治十六年に、鶴見の住人・黒川荘三が建てたものである。
殺されたリチャードソンは、事件の起きたところから逃れてきて、 ここで亡くなった、といわれる。 
幕末の文久弐年(1862)、薩摩藩主・島津久光の大名行列の前を横切ったイギリス人三人に、 薩摩藩士が斬りつけ、二人はけがを負いながらも、逃げ帰ったが、 一人はその場で切り殺されたという事件で、このことが契機となり、 翌年の薩英戦争へと発展した、といわれる。
日本と欧米の文化の違いから起きた悲劇である。 」

生麦はここまでで、国道15号へ東海道が合流するところから先は神奈川区子安地区になる。

道念稲荷神社    生麦事件パネル    神明社    蛇も蚊も祭り    生麦事件碑
道念稲荷神社
生麦事件パネル
神明社
蛇も蚊も祭り
生麦事件碑




名所訪問 (東日本編) 目次