名所訪問

「 川崎大師 」


かうんたぁ。


川崎大師は、真言宗智山派の別格本山である。
大治三年(1128)の創建で、正式名称は金剛山金乗院平間寺。
尊賢が開山で、平間兼乗を開基とする寺院である。
高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに、関東三本山のひとつである。 
厄除け弘法大師という名を持つ御本尊を崇信することから、厄除け弘法として名高い。


多摩川土手の左側には京急大師線があり、赤い電車が川崎大師に向って走っている。 

「 江戸時代には、 東海道の多摩川の船着場から土手をあがり、現在の国道を横切って、 川崎宿へ入り、、本町二丁目交差点で、大師通り(国道409号)に入り、向かうか、 江戸からの参拝者は、六郷神社から左手に向い、そこから川崎大師への渡し船に乗っていたようである。 
当時の道標が境内に移築されている(後述)          」

京急川崎駅から、京急大師線に乗り、三つ目の川崎大師駅で降りる。
駅を出ると、左手に大師に向う参道があり、表参道厄除門が建っている。
両側は、御土産を売る商店がずらりと並んでいた。 
途中に馬頭観音が祀られているお堂がある。

説明板「馬頭観世音」
「 馬頭観音堂は、今から三七〇年以前に創建されたといいます。
本尊馬頭観世音菩薩は、畜生道に堕ちた人々を救いあげるといいます。
後に人々は馬や牛から受ける恩恵に感謝し、信仰が盛んになりました。
その昔、平間寺に参拝する人が、お堂の格子に手綱を結ぶと、 どんな暴れ馬でもおとなしく待っていました。
そこで、赤い布に好きな人の名前を書き、格子に結び、良縁を願うようになり、 若い人のお詣りが多いといいます。
また、馬の守護神でもあるので、人参をお供えしてお詣りしてはいかがでしょう。
  平成十七年六月   川崎南ライオンクラブ               」

川崎大師駅
     表参道厄除門      馬頭観音堂
川崎大師駅
表参道厄除門
馬頭観音堂

その先の川崎大師入口の表示のある交差点を右折すると、「大師 仲見世」の額を掲げた門がある。

この通りは大師仲見世で、その通りには、「元祖 せき止め飴」 の看板の店が多い。
何故か、せき止め飴を売る店が両側に並んでいた。 

その突き当たりに、大山門がある。

説明板「大山門(遍照門)」
「 この山門は、昭和五十二年(1977)、当山開創六百五十年記念として建立されました。
明治三十四年(1901)に建てられた総檜造りの豪華な山門は、関東第一の結構を誇ったものですが、昭和二十年(1945)四月の戦災にて焼失しました。
山門の四方には、仏法の守護尊として、 京都東寺の国宝、四天王像を模刻・鋳造してお祀りしております、
楼上には薬師如来と十二神将が安置され、信徒の安奉が永遠に祈られております。
 (鉄筋コンクリート重層入母屋造り神廊付) 」

仲見世門
     仲見世通り      大山門(遍照門)
仲見世門
仲見世通り
大山門(遍照門)

山門をくぐると、「厄除 遍照院」 の額を掲げた本堂が建っている。
本堂も戦災で焼失したため、戦後のものである。

説明板「厄除弘法大師略縁起」
「 平安時代、第七十五代・崇徳天皇の御代(1123〜1141)、 平間兼豊・兼乗という武士の親子が、無実の罪により、生国尾張を追われ、諸国流浪したあげく、この川崎の地に住みつき、漁師を仕事として、貧しい暮らしを立てていました。
兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していました。
当時四十二歳の厄年に当たりましたので、日夜厄除けの祈願を続けていました。
ある夜、一人の高僧が、兼豊の夢まくらに立ち、  「 我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり、 以来未だ有縁の人を得ず。 いま、汝速やかに網し、これを供養し、 功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて、福徳となり、諸願もまた満足すべし。 」  と、告げられました。
兼乗は、翌朝直ちに海に出て、光輝いてる場所に網を投じますと、 一体の木像が引き揚げられました。 それは大師の尊いお像でした。 
この地は、夜光町と名づけられ、大師の浜の古い歴史を今に伝えています。
兼乗は随喜して、このお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕に香花を捧げ、 供養を怠りませんでした。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中、ここ兼乗のもとに立ち寄られ、 尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感涙し、兼乗と力をあわせ、 大治三年(1128) 一寺を建立しました。
そして、兼乗の姓・平間を持って、平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。 
これが、今日の大本山川崎大師 平間寺の由来であります。
兼乗は、この信仰のおかげで、晴天の白日の身となり、 晴れてふたたび、尾張の国に帰任しました。
平間寺の開基である尊賢上人は、保延二年(1136) 、 弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇の御后・美福門院に、 平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消除と皇子降誕の祈祷を修行されました。
その霊験たちまち現れ、まもなく皇子(のちの第七十六代・近衛天皇)が、 お生れになりました。
これ、まったく、災厄弘法大師のご霊徳と、美福門院も、殊のほか、お喜びになりました。
このことを上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)、近衛天皇のお名によって、 平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されました。
爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く、 災厄弘法大師のご霊徳は、いよいよ天下にあまめく、関東災厄・第一霊場として、 善男善女の参詣、相ついて跡をたたず、現在に至っております。
  大本山 川崎大師 平間寺           、」

大山門の左手に、不動門がある。

説明板不動門
「 この門は、今次大戦後、当山第四十三世・隆超和上が、戦災によって、 失われた旧大山門の跡地に、有縁の地から移設された記念すべき建物で、 新たに大山門が復興するまでの約三十年間にわたり、 当山の山門でありました。
 (総欅、銅板葺き、二層楼門造り)            」

川崎大師社殿
     川崎大師 平間寺      不動門
川崎大師社殿
川崎大師 平間寺
不動門

大山門の左手に、八角五重塔が建っていた。
また、大山門の右手には、聖徳太子堂がある。

境内には、江戸時代、稲荷道入口に置かれた大きな道標が移設され、保存されている。
道標の正面右側には 「大師河原」、中央には 「従是弘法大師江之道」 、 左側に「 災厄消除」 と、雄勁な書体で書かれている。

説明板「寺内由緒 道標」
「  寛文三年(1663)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、
大師へ至る道の入口に建てられたもので、この碑には、
 「 こうぼう大し江の みち 」 と刻まれている。
この碑は、第二次大戦後、六郷橋付近の道路工事にともない、
当山境内に移設されたものである。
  大本山 川崎大師 平間寺   」

境内には、宝暦六年に田安家が寄進した宝しょう印塔や東京太神楽曲芸協会が建立したまり塚があった。 

八角五重塔
     聖徳太子堂      川崎大師道 道標
八角五重塔
聖徳太子堂
川崎大師道 道標



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