品川宿と神奈川宿の間が長いため、両宿場の負担が大きいことから誕生したのが、川崎宿である。
元和九年(162)に設けられた新宿であるが、
六郷の渡しを控えていることや、厄除けで知られる川崎大師があることから、
旅人だけでなく多くの参拝客で賑わいを見せた。
天保十四年の東海道宿村大概帳によると、
宿内人口、二千四百三十三人、家数、五百四十一軒、本陣二軒、旅籠七十二軒である。
本陣が二軒のみで脇本陣がないのは、川留めなどの緊急事態がなければ、
大名は江戸に入ってしまうので、
需要がなかったためである。
また、男子千八十人に対し、女子が千三百五十三人だったことは、
この宿が遊楽の比重が高かったことを示している。
江戸時代には、戦時に備えて、多摩川に橋が架けられなかった。
今は国道1号に六郷橋が架けられている。
品川方面から来て、六郷橋を渡ると、道から左に少し入った多摩川のほとりに、
「厄除 川崎大師」と書かれた朱色の献灯が建っている。
近くに明治天皇東征記念碑があり、
石碑に埋め込まれた 「 武州六郷船渡図 」 のレリーフには、
二十三艘でつくられた舟橋の上を、 官軍が威風堂々と歩いて渡っていく姿が描かれている。
「 明治元年(1868)十月十二日、明治天皇が東征の折は、
多摩川に舟を並べて、その上を行く船橋渡御で行われた。
本来、多摩川は六郷の渡しで行われたので、異例のことで、その時の記念碑である。」
この碑の下手の土手下に当時の渡しがあったと推定される。
その痕跡は見当たらなかった。
説明板「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」
「 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、
東海道の交通をさいぎる障害でもありました。
そこで、慶長五年(1600) 徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。
以来、修復や架け直しが行われたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、
架橋をやめ、明治に入るまで船渡しとなりました。
渡船は、当初、江戸の町民らが請け負いましたが、
宝永六年(1709)三月、川崎宿が請け負うことになり、
これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
川崎市 」
多摩川土手の左側には京急大師線があり、赤い電車が川崎大師に向って走っていた。
江戸時代、多摩川の船着場から土手をあがった旅人は、現在の国道を横切って、宿場内へ入った。
第一京浜(国道15号)の下をくぐり、国道の右手の道に入ると、道の左側に「旧東海道」の石柱があった。
道は心持ち下っていく感じだが、右側に見える褐色のビル手前の緑灰色のビルの前に、
「六郷の渡しと旅籠街」 の説明板があり、万年屋の絵がある。
ここは奈良茶飯で有名な万年屋の跡である。
説明板「六郷の渡しと旅籠街」
「 六郷の渡しと旅籠街
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続く。
舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街。
幕末のはやり唄に、 「 川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・ 」 。 なかでも、万年屋とその奈良茶飯は有名だった。
川崎宿の家並
旅籠六十二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、
道具屋、鋳掛屋、米屋など合計、三百六十六軒。 ― 文久三年の宿図から 」
奈良茶飯とは、大豆、小豆、粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、
これに多摩川でとれたシジミの味噌汁がついていた。
旅の疲れを回復する滋養のある食べものとして、全国に名を馳せた奈良茶飯だが、渡しの消滅と共に、
万年屋は消滅し、奈良茶飯を食べさせる店は現在一軒も残っていない。
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その先には「川崎歴史ガイド 旧東海道」の白いプレートの道標を中心に手前に「稲荷横丁」の石柱、
奥に「旧東海道」の石柱がある。
「旧東海道」の石柱の奥には「新宿という街」という説明板があった。
説明板「新宿という街」
「 東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿は、いわば新宿。 後に中心部だけをこう呼んだのか。 あるいは、宿を設ける際、新たにできた町並みをこう呼んだものなのか。 このあたりが新宿だった。 」
この先は本町交差点で、国道409号(大師通り)と交差するところだが、
ここはその右手前に位置し、右に入る道が稲荷横丁である。
稲荷横丁に入る道の左側に、「史跡東海道川崎宿 川崎稲荷社」の説明板がある。
説明板
「 戦災で社殿や古文書が焼失したため、創建など不明。
現在の社殿、鳥居は昭和二十六年(1851)頃再建された。
東海道川崎宿、新宿にあった「馬の水飲み場」からここ稲荷社の前を通る道は「稲荷横丁」と呼ばれ、
この稲荷横丁の少し先に大師用水に架かる石橋がありこれを渡ると府中道に合流し、
一方、反対に東海道を横切ると真福寺の参道となり、大師道へとつづいていた。
八代将軍・徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際、この稲荷社地せ休憩したと伝えられている。
川崎市 」
説明板の奥に昭和に再建された川崎稲荷社の鳥居と社殿があった。
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本町交差点を越えて、直進する。
本町一丁目交差点を越えた右側にも、「旧東海道」の標柱があった。
その先の右側にある深瀬小児科医院が、二軒あった本陣の一軒、田中本陣があったところである。
説明板「東海道川崎宿 田中本陣(下の本陣)と 田中休愚」
「 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、
寛永五年(1628)に設置されている。 田中本陣はその場所が最も東、すなわち、江戸に近いため、
下の本陣ともいわれた。
(中略)
安政四年(1857)、アメリカ駐日領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、
宿を牢屋に変えたことは有名である。
明治元年(1868)、明治天皇が東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したという記録がある。
明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に、各地で種痘を行ったが、田中本陣で行う旨の布達が出されている。
宝永元年(1704)、四十二歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、
幕府に働きかけ、六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、
渡船賃の収益を宿場の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。
。
さらに、商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」を著した。 これによって、享保改革を進める八代将軍吉宗にも認められ、
幕府に登用されて、その一翼を担い、晩年には代官となったのである。 」
その先に、「宝暦十一年の大火」の説明板がある。
説明板「宝暦十一年の大火」
「 川崎宿二百年で、最大の火事。
小土名から六郷渡しまで、町並みはほぼ全焼。 宗三寺、一行寺も焼けた。
再三の火事から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。 」
説明板にあった一行寺の前にきたが、門は閉まっていた。
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右手奥の宗三寺に入った。
説明板「史跡東海道川崎宿 宗三寺」
「 中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、
その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、
五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。
勝福寺はその後退転したようであるが、
宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を再興している。
江戸名所図会に、「 本尊釈迦如来は一尺ばかりの唐仏なり 」 とあるように、
本尊はひくい肉鬢、玉状の耳たぶ、面長な顔、腹前に下着紐を結び、
大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。
今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、
川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
川崎市 」
墓地の一番奥に、川崎宿貸座敷組合が建てた遊女の供養塔が建っていた。
街道に戻ると、すぐに砂子一丁目の交差点にでる。
手前右側に、「旧東海道」 の石柱と川崎宿の大きな説明板があった。
この場所は、幕末以前に廃業になった「中の本陣」と呼ばれた惣兵衛本陣の跡である。
本陣の前には、高札場があり、道路の反対側にあるセブンイレブンあたりに問屋場があった、とされる。
説明板には一柳斎広重「東海道五十三駅名所・川崎大師河原真景」の浮世絵があり、
その下に宿場紹介があった。
「 旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、
近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、
旅籠や商家など、三百五十軒程の建物が約千四百メートルの長さにわたって軒を並べ、
賑わいを見せていた。
古文書や絵図から、宿の町並を探ってみると、旅籠は約七十軒を数え、油屋、煙草屋、小間物屋、
酒屋などが店を広げる。 一方、大工、鍛冶屋、桶屋ほか、多くの職人や農民も居住しており、
活気にみちた都市的景観を認めることができる。
もともと、川崎宿のあたりは、砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。 そのため、旧東海道は、砂州の微高地上を通るよう配慮がなされ、さらに、
川崎宿の設置に当っては宿域に盛土が施されたという。
現在でも、砂子(いさご)から小土呂(こどろ)あたりを歩いて見ると、旧街道筋が周囲よりも随分高いことが
良くわかる。
川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)年の大火など、度重なる災害に見舞われ、
明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、
川咲宿のおもかげを見ることができる。 」
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その先の砂子交差点は、左右に道幅が広い市役所通りが通り、
右折するとJR川崎駅である。
道を横断した先には、大きなビルが並んでいた。
左側の川崎信金本店の一角には、「 詩人、佐藤惣之助 」 の石碑がある。
「 佐藤惣之助(そうのすけ)は、江戸時代に上の本陣といわれた佐藤本陣の後裔である。 」
本陣があった場所は、道の向かい側の三菱UFJ信託銀行が入っているビル辺りだろう。
その先の広い通りは、「新川通り」で、そこを横断すると、道の右手に、小土呂橋の
擬宝珠(ぎぼうし)があった。
「 小土呂橋は、東海道と幅五メートル程の新川掘が交差する地点にあった石橋である。
川が暗渠となったため、橋が撤去され、残った二基の擬宝珠を地元の自治会が記念にとここに設置したものである。 」
新川通りを越えると、小川町に入る。
キングスホテルの先の交差点を右折すると、教安寺(きょうあんじ)がある。
説明板「史跡東海道川崎宿 教安寺」
「 江戸時代後期、幕藩体制の動揺にともなう社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、
人々の将来に対する危機感をつのられた。
そのような状況下に富士山に弥勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である「富士講」は、
関東一円で爆発的な流行をみた。
さらに当時「生き仏」と崇められた浄土宗の高僧、徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、
浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、
「六字名号講」の建立が行われた。
教安寺に残る燈籠は、富士講の有力な先達であった堀の内出身の西川満翁が組織した
「タテカワ講」によって建立されたものであり、
境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。 」
街道に戻り、二百メートル歩くと、市電通りと交わる交差点を渡って、進むと川崎小学校交叉点があり、奥に校門が見えた。
その先に「芭蕉ポケットパーク」と書かれた白い板があった。
書かれていた文面
「 旧東海道を八丁畷の駅に向って歩いていくと、右手に松尾芭蕉の句「麦の穂を便りにつかむ別れかな」 をしるした石碑(1830年建立)があります。
これは1694年、芭蕉の旅立ちに際し詠まれたもので、芭蕉が関東で詠んだ最後の句となりました。
当広場には、当時芭蕉との別れを惜しんだ、江戸の門人達の餞別の句を紹介しました。
芭蕉と門人の心の交流に触れてください。 」
右側に老人ホームがあり、その先には馬嶋病院がある。
このあたりが、川崎宿のはずれで、
京側の入口である上手土居が築かれていたところと思われる。
「 土居とは切石を積んでもので、宿場を入る旅人を監視していた。 」
なお、芭蕉の門人達の句は円筒形に列挙されていた。
川崎宿には江戸時代のものがほとんど残っていなかったので残念だったが、
川崎市の説明板が当時の様子をくわしく説明していたので、よかった。
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