石垣山城は天正十八年(1590)、羽柴秀吉が北条氏の小田原城攻めの際、
陣城として築城された城で、別名は一夜城である。
石垣山城は昭和三十四年(1959)に「石垣山」として国の史跡に指定された。
「 豊臣秀吉は、
天正十八年(1590)、山中城を落城させた後。
箱根湯本の早雲寺に本陣を構え、
小田原城の西三キロの笠懸山の山頂に城の普請を開始する。
城が完成する三ヶ月の間、京から能役者を呼んで能を楽しんだり、
淀君ら数人の側室や千利休を始め、何人かの茶人を呼んで、茶会を開いたり、
天皇の勅使を迎えたりと、秀吉には余裕があった。
城の構築は、四月から六月まで、延べ四万人を動員し、八十日で完成させたといわれる。
秀吉は城が完成すると、本陣を石垣山城に移し、小田原城側の樹木を伐採させた。
小田原城は秀吉軍の十五万人とも二十万人とも云われる大軍に包囲されながら、
籠城を続けていた。
城兵は、一夜のうちに城郭が出現したのに驚き、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる。 」
石垣山城は石垣や櫓を備えた本格的な近世城郭であり、
関東で最初に造られた総石垣の城である。
現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている。
城は駐車場の北面にあり、本丸を中央に東に二の丸、その下に井戸曲輪、
本丸の西に天守台、その下に西曲輪、南に南曲輪を配している。
石垣は近江の穴太衆による野面積で、大正十二年(1923)の関東大震災で崩落したが、
駐車場を出て道路を横断した左側にある南曲輪の石垣は比較的良好な状態で残り、
隅石が大きい。
二の丸(馬屋曲輪)は本丸と並んで最も広い曲輪で、中心部分、
北に長方形に張り出した部分、東の腰曲輪部分の三つの部分からなる。
伝承では馬屋が置かれ、本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧水があったようである。
井戸曲輪に行く道直ぐ横には櫓台跡がある。
二の丸跡は芝生広場として整備されている。
二の丸の左側に、「これより本丸登口」 の道標があり、
それを上ると、 「門の基台跡」 の表示板の先の更地になっている台地が、
本丸(本城曲輪)跡である。
石垣の高さは十メートル、本丸の標高は二百五十メートル、
面積は約七千五百平米である。
南曲輪石垣 | 二の丸跡 | 本丸跡 |
その先の物見台からは早川や酒匂川に挟まれた小田原の市街地が一望できる。
本丸の左側(南西部)に行くと高台があり、「天守台跡」 の標木がある。
ここの標高は二百六十一メートルで城内で一番高いが、展望はない。
その南に西曲輪があるが、天守台からは直接行けないので、
本丸から回っていくと、 「門の基台跡」 の表示板があり、
石が多数あったがこれが基台跡なのだろうか、分らなかった。
西曲輪は今は更地で、「西曲輪跡」 の標柱だけが建っていた。
物見台からの展望 | 奥に見えるのが天守台跡 | 西曲輪跡 |
二の丸に戻り、二の丸から下って北隅に向うと北曲輪で、
展望台からは丹沢、箱根の山々、眼下の家々が眺められる。
二の丸と展望台の途中に、下(南東)に降りる道がある。
「
北曲輪から四方を囲まれた石垣を下りたところにあるのが井戸曲輪である。
井戸曲輪は谷地形を利用して造られた曲輪で、南側、西側には石垣、
北側、東側には石塁が築かれて、その底に井戸が掘られている。
石塁により谷を遮蔽することにより、湧水を貯水する構造である。
今も水は枯れていない。
湧水部は二の丸から約二十五メートル低いところにあり、
本来は二の丸東部からスロープと階段で降りるようになっていたといい、
らせん状に降りる構造からさざえの井戸とよばれていた。 」
周囲に石垣を積み上げて、その底に 井戸が掘られている。
井戸まで下がって石垣を見上げると、石積みの迫力がすごい。
石塁は約十メートルの高さがあり、下幅で十一メートルから十八メートル、
上幅で五から八メートル程の規模である。
石垣山城で、石塁はここだけだが、穴太衆による野面の様子が良くわかる。
北曲輪跡 | 井戸曲輪跡 | 井戸跡 |
所在地:神奈川県小田原市早川1383−1
JR東海道線早川駅または箱根登山線箱根板橋駅からタクシーで10分
徒歩の場合はJR早川駅から2.3km、
所要時間は1時間半、かなりの上り坂なので、ちょっとしたハイキングとなる