小田原城は東海道筋の関東の入口の要衝を占めた堅城である・
北条氏の拠点になった城で、上杉謙信や武田信玄の侵攻も退けた難攻不落の城であった。
小田原高校の東にある八幡山古郭東曲輪公園に向うと、
「東曲輪跡」の説明板が建っている。
説明板「東曲輪跡」
「 小田原城は、室町時代の十五世紀前半に、
西相模に進出した大森氏より築かれた山城が前身である。
文亀元年(1501)までに、北条早雲が大森氏から小田原城を奪い取り、
二代目氏綱以降、北条氏の本拠地となった。
これ以降、五代氏直が秀吉との小田原合戦で開城するまで、
小田原は関東支配の拠点として栄えた。
この山城は、県立小田原高校がある八幡山を中心に、
いくつかの曲輪で構成されていたと思われ、
小田原高校の東にある八幡山古郭東曲輪公園は、城の東曲輪跡と考えられている。 」
北条氏時代の城は、県立小田原高校がある八幡山を中心にいくつかの曲輪で構成されていた山城であった。
この城は難攻不落で上杉軍も武田軍も撤退している。
豊臣秀吉の来襲にそなえて、さらに、 城下町をも含む全周九キロの大規模な総構を構築された。
山王橋バス停の近くに、 「小田原城址江戸口見附跡」 の標柱がある。
「 江戸時代にはここ浜町が小田原城の総構えの最東端で、 小田原の城下町入口であると同時に、宿場町の入口でもあった。 」
現在の城は、大久保忠世と稲葉正勝により、近代的な城郭に改修された城である。
「 豊臣秀吉は四国、九州を平定し、関東と東北の和平を進めるため、小田原城を攻め、落城させた。
秀吉は、家康の家臣・大久保忠世に、
小田原城を四万五千石の領地として与えた。
文禄三年(1594)、大久保忠世が死ぬと、その子・忠隣が六万五千石で、
小田原藩の初代藩主になった。
慶長十八年(1614)、徳川家康は、大久保忠隣を突然改易し、
自ら数万の軍勢を率いて、総構えを撤去させ、小田原城は本丸を除き、破却された。
総構えは完全には撤去されず、北西部を中心に一部残っている。 」
小田原城は大久保忠世の時代に近代的な城郭に整備されたが、 現在のような総石垣の城になったのは寛永九年(1632)、 稲葉正勝により始められた大改修後である。
「 忠隣の跡を継いたのは、
家光の乳母・春日局の子の稲葉正勝である。
稲葉正勝は、 北条時代の小田原城の居館部分を小田原城の主郭部分として利用し、
更に、現在の小田原城址公園及びその近辺に、領域を拡大し、
主要部のすべてに、石垣を用いた総石垣造りの城を構築した。
山城であった八幡山の曲輪部分は、使用されず放置された。 」
江戸時代の小田原城の縄張は、本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を連ね、
本丸西側に屏風岩曲輪、 南に小峯曲輪、
北に御蔵米曲輪を設け、 四方の守りを固めたものである。
更に、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、
二の丸北側に弁才天曲輪と四つの小曲輪が設けられた。
本丸に天守と桝形の常磐木門、二の丸に居館・銅門・平櫓が設けられ、
小田原城全体では城の門が十三、櫓が八つ建っていた。
二の丸の銅門(あかがね門)と、隅櫓が復元されている。
「 銅門は、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸へ入口の門で、
石垣による桝形と内仕切門及び櫓門を組み合わせた 「桝形門」 と、
呼ばれる堅固な門である。
現在の門は昭和五十八年(1983)から行われた発掘調査に、
古写真、絵図などを参考にして、平成九年(1997)に再建されたものである。 」
佐倉城や川越城など、関東地方の城は土塁のみの城の多い中で、
小田原城は石垣造りの城なので、珍しい。
、
徳川幕府の江戸城への構えの入口として、小田原城の重要性を伺うことができる。
本丸は堀で囲まれているが、この掘は二の丸掘とつながる水堀である。
「 発掘調査により、本丸東掘跡が見つかり、
最も幅があるところは二十メートル以上もあることが分かった。
植木と盛土になっているところが掘跡で、
この掘を渡るために架けられていたのが常磐橋で、
水鳥の池は掘の名残といえる。 」
その先あるのは常磐門である。
「 常磐門は本丸の正面に位置し、
小田原城の城門の中でも最も大きく、堅固に造られた。
元禄十六年(1703)の大地震により崩壊後、宝永三年(1706)、
多門櫓と渡り橋から構成される枡形門形式で再建されたものが、
明治三年(1870)までは残っていた。
現在の門は明治の写真などを基に、昭和四十六年(1971)に再建したものである。 」
本丸にあった御用米曲輪跡にて、現在、発掘調査が行われている。
「 江戸時代の絵図によると、江戸幕府の蔵が六棟描かれているが、
発掘調査で北東の土塁から三棟、曲輪の内部から三棟の基礎が発見された。
蔵には米の他に、 弓や鉄砲などの武具や馬具・大豆やもみ・小豆・塩・海藻なども、保管されていたという。 」
寛永十一年(1634)、三代将軍・徳川家光が、
天守からの眺めを楽しんだとの記録があるように、
江戸時代の小田原城は、徳川将軍家の上洛の際の宿所・御成城であった。
天守も含めて、本丸は、 藩主ではなく、将軍家の敷地として使われていたようである。
説明板「小田原城天守」
「 小田原城天守は、六十年〜七十年周期で訪れる震災の度、
再建と修復を繰り返してきた。
北條氏の時代の天正九年(1581)から天守が存在したという説もあるが、
寛永十年(1633)の震災まで存在した初代、
寛永十年より再建された二代目、 明治三年(1870)に取り壊された三代目と、
三代に渡って存在したのではないかと言われている。 」
小田原城の天守は、 一階建の小天守・続櫓・三重四階の大天守 からなる、 複合天守である。
「 大天守は見た目は三重であるが、一重目は二階に別れており、
四階建の天守となる。
これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮である。
天守の高さは二十七・二メートル、天守台の石垣の高さは十一・五メートル、
合わせて三十八・七メートルの高さである。
一重の屋根には出窓の上に切妻破風と千鳥破風が施され、
出窓は三ヶ所にあるが、平安の時代を反映したのか石落しは設けられていない。
二重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風が、入母屋造の屋根には入母屋破風と、
軒唐破風、鯱がいる。 」
現在の天守は。昭和三十五年(1960)、市制20周年の記念事業として造られもので、 宝永三年(1706)に造られた天守をモデルに、 本来無かった高覧付廻縁が追加された復興天守といわれるものである。
所在地:神奈川県小田原市城内6−1
JR東海道本線・東海道新幹線・小田急小田原線の小田原駅から徒歩約10分