<名所訪問 木曽三川公園

名所訪問

「 木曽三川公園  」  


かうんたぁ。


木曽三川公園は、国営公園で、三重・岐阜・愛知県の三県に渡る、 日本最大の公園である。
上流地区には一宮市・各務原市・江南市に、それぞれ公園があり、 一宮市には138タワーパークがある。
中流地区には、稲沢市・海津市・愛西市・羽島市にそれぞれ公園がある。
河口には、桑名七里の渡し公園がある。
それらの公園の総称が木曽三川公園である。   


小生が訪れたのは、その中の木曽三川公園センター(海津市)である。
高さが65mの展望タワーがあった。
噴水が勢いよく噴きだしている。
大花壇では季節の花が植えられていて、カラフルである。
園内には、木曽三川に生息する魚や、鳥・昆虫・植物等を紹介する、 「水と緑の館」 がある。

シンボルの展望タワー x 噴 水 x 噴 水
シンボルの展望タワー
噴 水
噴 水


この地は、輪中と呼ばれた、水害に弱い地区であった。
海津市は木曽川・長良川・揖斐川の三つの流れが集まり、 屋敷が海抜0mの家が多いため、頻繁に洪水が発生していました。
そこで、水害から集落を守るため、輪中堤を築き、 屋敷の周りには石垣を築き、一段高くして、家屋を建て、 いざというときの避難場所として、水屋を設けるなど、 独特な家屋構造を生み出してきました。
セッターには、 輪中特有の「水屋(みずや」 と呼ばれる建物を持つ、農家が移築されていた。

説明板「母屋(おもや)の説明」
「 間取り 部屋は農家に最も多い田の字の形をしてあります。
出入口 建物の南東にあります。 大切なお客様は座敷の縁側から出入りしました。
土 間(どま) 雨の日には、わら仕事などの作業場に使いました。 土間の奥の方には、 かまどや風呂などがもうけられました。
台 所 普通の客と話をしたり、家族が集まるところです。
座 敷 大切な客をもてなす部屋で、床の間があり、ふだんは使いません。
奥  家の主人夫婦の寝室です。
勝 手 板張りが多く、食事をする部屋です。 主人や男子は西側に、 主婦や女子は東側に座って、食事をしました。 」

天井には「箱船」 のようなものがあった。 これが輪中の特色である。

説明板「上げ舟(上をごらんください)」
「 上げ舟(あげふね)は、農家が全部もっていました。
洪水のときに、云えの道具などをのせ、堤防まで運ぶために、使いました。
ふだんは、底を上にしてつるし、川の水が増えて危険になりますと、 舟を降ろし、座敷の前にある「舟つなぎ柿」につないで、洪水に備えました。
(注) 「舟つなぎ柿」 とは、座敷か台所の前に、舟をつなぐのに便利なように、 一本植えられた柿の木を言います。          」

輪中では、民家より、2m程高く石垣を組み、その上に水屋を建て、 重要な物は収納していたようである。

母屋 x 上げ舟 x 水屋
母 屋
上げ舟
水 屋


木曽三川公園センターの南に、治水神社がある。

「 治水神社の祭神は、治水の神 ・  平田靭負正輔大人命(ひらたゆきえまさすけうしのみこと)である。
江戸幕府は、木曽三川の水害を防ぐため、薩摩藩に治水工事を命じた。
薩摩藩は、多数の藩士と資金を投じ、宝暦四年〜五年(1754〜1755)、木曽三川の分流工事を完成させた。
治水工事が終了すると、莫大な工事費用と数多くの藩士(84名)が亡くなったことの責任をとり、 平田靭負は切腹した。
その遺業を讃え、地元の人々の浄財により、昭和二年(1927)に起工。
昭和十三年(1938)に、治水神として、建立された。 」

境内には、「薩摩義士像」が建っていた。
の道脇に、 「 史跡 油島千本松締切り堤」 の石柱が建っている。

「 宝暦三年十二月、幕府が薩摩藩主に木曽揖斐両川の治水工事を命じ、 両川合流点に締切堤の築造せしむ。
四年四月、工事を開始し、五年三月に工事は完了した。
この工事は大変な難工事で、多くの犠牲者を出し、多額の工事費を支出したため、 工事が完了すると、奉行平田靭負自刃して、罪を藩主に謝せり。
爾来、川の両岸の地、初めて、水害をまぬがれるに至る。
北は、治水神社境内より、南は、三重県県境に至る。
堤の両側にある松樹は、当時、護岸と記念の為に、植樹されたもので、よく旧観を存している。 」

治水神社 x 薩摩義士像 x 「史跡 油島千本松締切り堤」の石柱
治水神社
薩摩義士像
「史跡 油島千本松締切り堤」の石柱


旅をした日 平成二十年(2008)十月二十九日




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