美濃金山城は、斎藤道三の猶子の斎藤正義が築城した烏峰城が前身で、
森可成が永禄六年(1565)に城主となり、金山城に改称した。
続日本100名城第143番に選ばれている。
美濃金山城へはレンタカーで行った。
名古屋から中央高速道路の土岐JCTを経由し、国道475号に入り、
可児御嵩ICで降り、旧兼山町にある、可児市観光交流館隣の町営駐車場に着いた。
ここは公共交通手段はあるが、本数も少なく不便な、ある意味、陸の孤島である。
可児市観光交流館に、続日本100名城のスタンプがあるので、捺印した。
観光交流館の左手には可児市山城ミュージアムがある。
城戸の三叉路を左折して、城戸坂を上っていくと、兼山小学校の北側、 左手に蘭丸ふるさとの森第一駐車場があるので、そこに車を停める。
「 金山城は、木曽川の南にある標高約二百七十七メートルの古城山の山頂に築かれ、 天守台を山頂に配置、本丸を中心に、二の丸・三の丸・南腰曲輪・ 西腰曲輪が、連郭式に配され、 天守台北東側に、東腰曲輪と称する一郭がある、梯郭式の山城である。 」
石畳の道が大手道で、直進すると蘭丸広場がある。
この分岐で左折して石畳階段を上り、左右にカーブする道を十五分程歩くと、
駐車場と共同トイレのある出丸跡に到着。
出丸は大手口に築かれた重要な郭で、
東西五十五メートル、南北三十三メートルと城内で最も広い郭である。
細長い空地の一角、下の見晴がよいところに、
「金山城 出丸跡(県史跡指定)」 の説明板が建っている。
「 出丸は
金山城の第一線防禦のため、大手口に築かれた重要施設である。
このような、主郭から独立して設ける出丸は、
安土桃山時代の関西地方に多いといわれている。
その規模は、東西およぞ五十五メートル、南北およそ三十三メートル、
面積およそ千三百平方メートルを有し、北面は土塁で築き上げられている。
南面は高さおよそ三、四メートルの石塁で築造されており、
その手法は、山石を加工せず、そのまま組み合わせる野面積みで、
石と石との隙間には栗石(丸い小石)がつめられている。
この石垣は、戦国時代末期の創建当時そのままの遺構であり、
往時の特徴をうかがうことができる貴重な遺跡である。
広場の東南角に、建造物の土台の名残である丸石が点在しているが、
ここに出丸櫓が構えられていたと考えられる。
出丸櫓跡の東側から蘭丸産湯の井戸の横を抜け、大手道が山麓へと通じていた。
その他、門、高塀などの跡も遺在している。
目を遠方に転ずると、南には尾張富士が遠望され、
その手前に可児川を挟んで広がっているのが御嵩町、可児市の田園地帯である。
南西側にこの古城山と競い立つ高根山をへだてて、
西に鈴鹿山系伊吹連峰を白雲の間に望むことができる。
北面から眼下に広がる八百津町西部、美濃加茂市などが指呼の間にとられられ、
まさに敵情監視の絶好地点であることがわかる。
可児市教育委員会 」
広場の南東隅に、 「国史跡 美濃金山城」 の幟がひるがえっていたが、
かってはここに二重櫓の出丸櫓が建っていた。
今は丸石の礎石だけが残っている。
また、出丸の東側にあった出丸表門も礎石だけが残っている。
出丸から三の丸へ向かうと、道標 と、金山城の案内図が入った箱があり、
ここを上っていった。
整備された山道を上ると、道は二又になっていて、左の道を行く。
その先には、 「三の丸門跡」 の説明板があり、
門の礎石は、表が平らに加工されていた。
説明板
「 これは門の礎石です。 この門を過ぎると、水の手二の丸へ出る。 」
三の丸門跡の左側の斜面はかなりの切石になっている。
右側の石垣の隅部が崩れているが、「破城の痕跡」 の説明板があり、 故意に崩した、とある。
「 城を故意に壊して、再び城を築かれないようにすることを破城と言い、美濃金山城跡には多くの場所で壊された石垣が残っています。
すべての石垣は自然の石を加工せずに積む、野面積と呼ばれる積み方で、
石垣の裏側には排水のための裏込め石が詰められています。
角は強度を増すために長方形の石を交互に積む、算木積が残っています。
この石垣は、天端(一番上)と角が崩される破城の痕跡が残っています。 」
上った先の平地が、三の丸である。
「 三の丸は西腰曲輪の南側に位置する郭で、 厩などが設けられていたと考えられ、 中央部に見張櫓、南側に三の丸門が設けられていた。 」
三の丸の左奥に、「水の手」 の説明板がある。
「 これより水の手門を通り、水の手に達する。
平右衛門谷と称する断崖上にあり、年中清水が湧出する城内生活飲用水補給場所。 」
平右衛門谷へ下る道は、「この先危険」 とロープで封されていて、侵入禁止である。
水の手は金山城の北西側に存在した湧水で、
水手門の先にある、 水の手道 とよばれる道を通って、
城兵はここまで飲料水を汲みに来たという。
東腰曲輪にも天水井戸があったが、飲料用ではないので、
城中生活の飲料水はここに依存していた。
中央の盛り上がったところには、礎石や石垣の石が転がっていて、 昭和二十九年(1954)建立の 「古城山払下記念碑」 が建っている。
「 ここにあったのは二層の櫓、見張櫓で、
東西約六・五メートル、南北約五・五メートルの台地上に建てられていた。
ここは三の丸、二の丸、西腰曲輪、北方物見櫓へ通ずる要所で、
金山城の最重要箇所だったが、
昭和二十九年(1954)の 「古城山払下記念碑」 の建設などにより、
原型は崩されて、礎石や石垣などの残石がそのままの状態で、
西腰曲輪などに散乱している。 」
上ると二の丸跡である。
二の丸は、南腰曲輪の南側に位置する郭である。
北側に二の丸門があり、中央の広い空地に侍屋敷があった、とされる。
侍屋敷があったとされる空地に、
「ニの丸跡」 の説明板と、
「ここは二の丸 ←本丸跡 駐車場→」 の道標がある。
説明板「ニの丸跡」
「 二の丸奥の一段上にあるのは、本丸の周囲は土塁囲(かこい)らしく、
二の丸門・侍屋敷・物見櫓などの諸施設があった。 」
南側には 「二の丸物見櫓跡」 の説明板があり、礎石があった。
説明板「二の丸物見櫓跡」
「 二の丸南端に位置し、敵状監視の最適地。
南方にひろがる丘陵に、明智光秀の居城・長山城跡、
西方に中山道太田宿、東方に久々利浅間山や恵那方面が望見される。 」
今は木々が生い茂り、 ここから眺望は望めない。
物見櫓は、二層の櫓で、二棟の建物から形成された、天守台に匹敵する広さで、
櫓からは、城の東側周囲を見渡すことができ、金山城の敵勢監視をするために重要な櫓だったようである。
二の丸から上る石段は最近修復された、と、 右側の説明板にある。
ここには、かって二の丸門があり、両側とも土塀と隣接していた。
今は礎石が残るのみである。
石段があったような道を上がって行くと、正面にくずれかかった石垣があり、 「大手枡形」 の説明板がある。
「 枡形は、攻め寄せてきた敵の進む勢いを鈍らせるために設けられた
正方形の平地である。
普段は、登城する武士たちへの威厳を示すためのもので、
ここまで登ってきた武士はここで呼吸を整えながら、
本丸へ上るための衣紋の乱れなどを整える場でもあった。
犬山市瑞泉寺の表門と裏門は、ここにあった大手門と城門を移したものと伝わっており、
この大手門の土台石との寸法が全く一致している。 」
ここは、本丸と腰曲輪に繋がる大手枡形虎口で、
南北約九メートル、東西約十二メートルの大きさである。
枡形には、南側正面に大手門(一の門)、
大手門をくぐると、右手の三段の石段の上に、
二の門が設けられていた。
枡形跡の右側に、三段の石段と枡形を構成した石垣が残っている。
「 大手門(通称、追手門、一の門、表門) は、門の両脇に潜り門とし、
更に両脇に袖塀をつけていた。
慶長五年(1600)に、犬山城へ移築されて、内田御門に使用された。
二の門(通称、裏門、出口門)も、大手門と同様に、
犬山城へ移築され、高麗門に使用された。
その後、犬山市の瑞泉寺に、表門と裏門として移築された。 」
二の門は、石段を上がったところにあった門で、ここをくぐると南腰曲輪になる。
「 南腰曲輪は、本丸の南側直下にあった曲輪で、
その面積は三百二十uである。
周囲を高土塁と石垣で固め、 中央に三棟の建物から構成された一重の武器櫓が建られていた。
出入口は北側中央部にあったようだが、今は礎石が残るだけである。 」
本丸は、北側の森の奥に聳える高土塁の上にある。
南曲輪から本丸へは、本丸の東側に沿って奥に進み、坂道を上がる構造になっている。
正面の石垣は、本丸の南東端にあたり、盛り上がっているところが櫓台跡である。
櫓台跡まで進む。 土塁の高さからして、かっては上まで石垣が積まれていたのだろうが、破城のせいか、下段の数段しか石垣は残っていない。
「天守台西南隅石」 の説明板があった。
「 長形の角石を交互に組み合わせ、算木積みにしたもので、 これにより、石垣がいっそう堅固になっている。 」
かなり豪快に積み上げた野面積みであるが、長短交互に積んだ算木積みである。
階段を上がる。 本丸への道である。
階段の先の左側は石垣がなくなり、石垣の石が散らばっていた。
道なりに進むと、石が一直線に並んでいて、左側に向って、石垣が組まれている。
ここは本丸の大手枡形虎口跡である。
正面の石垣の上に 「本丸虎口」 の説明板が置かれている。
「 この虎口を入った正面の石垣沿いに、
四つの柱の土台石である礎石が確認されています。
このことは、石垣沿い、もしくは石垣よりもはみ出して、
虎口全体を覆うような建物があったことを想像させます。
石垣には等間隔で縦置きした石も配置され、
入って来る人に見せる石垣であったことがうかがわせます。 」
本丸虎口は、左折、左折を繰り返すと、階段をある。
本丸虎口の石垣は、今は下部の数段しか石垣はなく、
上部はくずれたのか、破城によるのか、土がむきだしになっていた。
階段を上ったところが、金山城の中枢 ・ 本丸である。
その先に、「岐阜県指定史跡 美濃金山城 ―興亡の歴史ー 」 の説明板がある。
説明が長いので要約。
「 室町末期の天文六年(1537)、斎藤道三の命をうけ、
道三の猶子・斎藤大納言正義は、この山頂(標高二七三メートル) に築城。
烏ヶ峰城と称し、 中井戸の庄の地名を、 金山村と改めた。
天文十七年(1548)、斎藤氏は、久々利城主・土岐三河守に討たれた。
正義はその時、三十三歳。
永禄八年(1565)、織田信長が東濃経路の拠点として、
森三左衛門可成を七万五千石の金山城主とした。
以来、森可成・長可・忠政 三代の居城となった。
森可成は、元亀元年(1570)の浅井朝倉軍との戦いで、戦死(47才)
これより先に、十八才の長男・可隆も、朝倉攻めの初陣の敦賀で戦死してしまい、
二男・長可が、二代城主となる。
天正十年(1582)、三月九日、織田信長が甲州武田征伐の途上、金山城に一泊する。
同年六月二日、信長が、本能寺で明智光秀に討たれ、
信長の小姓をしていた、可成の三男・蘭丸長定(岩村城主5万石18才)、
四男・坊丸長隆(17才)、五男・力丸長氏(16才)の三名が、討死してしまう。
二代城主・長可は、武勇に優れ、鬼武蔵といわれたが、
天正十二年(1584)の長久手の戦いで討死(27才)
森家は、わずか十五年間に、父子六人もの戦死者を出した。
三代城主の六男・忠政は、十五歳で長可の跡を継ぎ、七万石で秀吉に仕え、
金山城の整備拡充に努めた。
しかし、慶長八年(1600)、家康の命令により、信州海津城(13万7千石)へ移封となる。
森家の金山での統治は、三十五年という短いものであった。
移封後の金山村と金山城は、犬山城主・石川備前守光吉の領有になり、
天守、諸櫓等は、全て取り壊されて、
木曽川を下り、犬山城郭の増築、修覆に使われたと伝えられる。
忠政は、慶長八年(1603)、美作国津山(18万6千石)に国替えとなり、
以後十三年かけて津山城を完成させ、現在の岡山県津山市の基をつくった。 」
空地中央の地面上に、「本丸跡(発掘の成果)」 の説明板がある。
説明板「本丸跡(発掘の成果)」
「 発掘調査により、四棟の建物礎石と排水溝も確認され、
周囲からは瓦がが出土したことから、居住性のある建物だったことが判明しました。
茶陶器なども出土したことから、御殿の他に茶室の存在も想定されます。
高石垣、建物礎石、瓦という三つの要素が城に用いられるのは、
織田信長、豊臣秀吉やその家臣たちが造った城の特徴を語るものです。
豊臣秀吉の家臣であった森忠政が城主であったことから、
この城には天守も存在したと想定されています。
建物は解体され、その材木などを木曽川を下して、
犬山城建築の材料としたという「兼山越」の伝承も残っています。
現在は建物の礎石が等間隔に並んで残っています。 」
本丸御殿は城主の居館として使用された建物で、
東西約十一メートル、南北約十三メートルで、 二棟の建物があり、
南棟の南側には廊下が存在したようである。
本丸跡の礎石は埋まっているところもあり、確認しづらかった。
その奥(北西)に、 「史跡金山城址」 の石碑がある。
「 石碑が建てられたのは昭和四十五年で、 森可成が討死した年から四百年を記念して建てられたものである。 」
城址碑の奥(北側)には、平成二十八年(2016)まで、鳥竜神社の拝殿と本殿が建っていた。
「 平成二十八年(2016)、金山城の遺跡調査と保存のため、
本殿を移築し、拝殿は撤去された。
もとはここに天守と小天守が建てられていたのである。 」
石碑の北側に、奥まったところがあり、そこが天守跡と思われるが、 確認はしなかった。
「 天守は二重二階の層塔型で、
安土城の天守とほぼ同時期に造られたとみられる。
南東側で接続していたのが小天守で、西側で柚櫓と隣接していた。 」
その先(本丸の東側)は、搦手(裏口)である。
東腰曲輪側の石垣は、比較的残っている。
かってこの上に、右から左までを覆うように、
天守と小天守が連結して建っていた。
天守は二重の層塔型といわれる。
左奥の林の中に、 「東腰曲輪」 の説明板が建っている。
説明板「東腰曲輪」
「 搦手の重要施設、本丸の最終防衛線で土塀や侍屋敷の礎石がある。 」
石垣の下には、区切られたものがいくつもあり、その一角が 天水井戸 という。
今は林になっているところも含め、侍屋敷になっていた曲輪である。
「 東腰曲輪は、北側には野面積みの東西約十メートル、
高さ約三メートルの石垣を築き、 東西約二十一メートル、面積は三百三十uである。
天水井戸は、深さ約一・四メートル、幅一・五メートル、長さは二・五メートルの井戸で、 山頂にあることから、雨水を貯めていた井戸と考えられている。 」
その先には、「搦手門礎石」 の説明板がある。
説明板「搦手門礎石」
「 搦手の左近屋敷から東腰曲輪に入る重要な門で、丸石はその礎石である。 」
東腰曲輪から東側斜面への降り口には、「←左近屋敷」 の道標と、
階段の脇に丸い石があった。
かって、ここに搦手門があった。
今は礎石とわずかに土塁が残っているだけである。
「 搦手門は東腰曲輪の南東隅にあった門で、
本丸から左近屋敷へ向かう途中に置かれていた。
長さは約二十メートル、幅約五・六メートル。 」
搦手門を降りて行くと、斜面に幾つかの曲輪があり、 その先に左近屋敷の狭い曲輪にある。
「 左近屋敷は森氏の家老、細野左近の館で、
南東側で物見櫓と隣接している。
屋敷は削平にした東西約十四メートル、南北約十五メートルの台地上の東端にあった。
今は屋敷の門の礎石と建物の礎石が残っている、という。 」
方角的には右下写真の右奥方面になるが、時間の都合で、ここで引き返した。
東腰曲輪の石垣に沿い、左に回ると、少しへこんだところに、
「 石段址 本丸周囲は3米ないし4米の石段を巡らせ、
石段以外には本丸に入れないようになっている 」
という、手書きの看板があった。
どこが石段なのか分かりずらいが、両側の石積みの間に階段があったのだろうか?
その先で大手枡形のところに出たので、先程来た道を下る。
道標と金山城の案内図が入った箱があるところで車道に降り、
三叉路を左折して車道を進む。
五分程進むと、三叉路に出て、正面には数台車が停められるようになっている。
三叉路の左を見ると、左右に繋がっていた土地を掘削して出来た切り通しになっている。
尾根を豪快に分断した大堀切で、道の左側の道標に、 「現在地は大堀切」 とある。
また、左側の斜面の上に、左近屋敷があった。
説明板「大堀切り」
「 南北約五〇メートル、巾約四〜七メートル、高さ約一〇メートル、
搦手左近屋敷の防衛施設で、峰を切り開いたものである。 」
反対側から見上げても、左近屋敷にはのぼれそうになかった。
道標には 「つくも谷のせせらぎ」 を示すものがあり、
車道の下に降りる散策路に、 「堀切の小道」 の標示があった。
紅葉に彩られている道を歩いていこうと思ったが、 駐車場と違うところに出ると困ると思い、出丸跡まで戻り、下に降り、 美濃金山城の探索は終了した。
所在地:岐阜県可児市兼山常磐町
名鉄広見線明智駅からYAOバスで元兼山町役場前で下車、徒歩約20分
訪問日 令和三年(2021)十一月二十五日