名所訪問

「 日本100名城 岩村城 」


かうんたぁ。


岩村城は、近世山城の代表で、 高取城、備中松山城とともに、近世城郭における日本三代山城といわれる。 
標高七百十七メートルの日本一高いところに築かれた城である。 
岩村城の創築は、鎌倉時代の源頼朝の重臣・加藤景康によるとされる。
永正年間(1504〜1521)に、遠山氏の居城として、山城部が築かれる。 
戦国時代には、遠山景任の妻 ・ おつや(織田信長の叔母) が、一時、女城主として、 領地を治めたので、女城主の城として有名になった。 
慶長六年(1601)、城主の松平家乗によって、岩村城の北西山麓に、 下屋敷 とも呼ばれ藩主邸が造られた。 
以後、ここが政治の中心としての機能を果たした。  
岩村城は、明治維新までの三百年間、譜代大名の居城として存在すると共に、 東濃地方の中心として、  城下町は大いに栄えた。 


岩村への公共交通アクセスは十分といえない。
小生は時間の自由さとフットワークの良さを優先し、レンタカーで訪問した。
朝名古屋を出て、苗木城跡を見学後、岩村歴史資料館に着いたのは十三時三十分過ぎだった。 

岩村歴史資料館は、明治十四年(1881)に焼失した藩主邸跡に建っている。 

「 岩村歴史資料館には、城内の八幡神社の棟札、 享保岩村城絵図や明和岩村城平面図など、岩村城絵図、 佐藤一斎自讃画像軸 (いずれ も重要文化財) など、 岩村城、岩村藩の史料を収蔵・展示している。 」

藩主邸跡には、平成二年に、太鼓櫓・表御門・平重門などが、復元された。 

「岩村藩校知新館」の説明板が建っている建物は、岩鞍藩校・知新館の正門である。 

説明板「岩村藩校知新館」
知新館は、 元禄十五年(1702)藩主の松平乗紀によって創立された学校で、 美濃地区では最初の藩学であり、 全国的にも古く十指に入る。 
知新館正面の向かって、左側に 釈てんの間 があった。 
釈てんとは孔子を祭ることで、知新館における孔子廟であり、 常に孔子の像を配し、教授は礼拝してから授業に向かった。 >」

藩主邸跡
     太鼓櫓、表御門、平重門      岩村藩校知新館
岩村藩藩邸跡
太鼓櫓、表御門、平重門
岩村藩校知新館


江戸時代に造られた岩村藩 岩村藩の藩主邸を出て、山頂へ向かう。
右側に 「本丸まで700m 標高580m」 の標識が建っている。 
この標識は、この先、 百メートル毎に立っている。 

右側に 「近代女子教育の先駆者 下田歌子先生略伝」  の説明板や下田歌子生地の碑が建っている。 
道は右に左にクランクしていて、石畳の道に変わる右奥には、下田歌子の勉学所がある。 

前述の 「 下田歌子先生略伝」 と、ここの 「下田歌子勉学所」    の説明板の内容を要約すると、 
「 下田歌子は祖父は学者、父は岩村藩校、知新館の教授をしたこともある 学者の家に生まれ、幼くして俳句、和歌、漢詩を詠むなど、神童と呼ばれたが、 近くにある知新館に女であるため、入学が許されなかった。  十八歳で上京し、宮中の女官に任用され、昭憲皇太后から歌子という名を賜った。  欧米に出張し女子教育を視察し、帰国後実践女子校を創設、生涯を女子教育に捧げ、 学者であり、歌人、社会奉仕家で才色兼備の女傑であった。  この家はそうした彼女が育ち、勉強した部屋が残る家である。 」 

木立に囲まれているので薄暗い。 坂は少し急になった。  

説明板「藤坂」 
「 岩村城大手の登城道のうち、 藩主邸から一の門まで続く急な坂道は、 「藤坂」 と呼ばれている。 
加藤景廉(かげかど)の妻 ・ 重の井(しげのい)が、輿入れの際に、 生まれ育った紀州藤城村から持参した種から育ったと伝える、 フジの大木があったことがその由来という。 」 

標識
     下田歌子勉学所      藤坂
本丸迄700m標識
下田歌子勉学所
藤坂


その先に、「本丸まで600m」の標識がある。 
道は左右にカーブして続く。 「初門」 の説明板がある。

説明板「初門」 
「 直線的に伸びる登城坂で、この部分だけが行く手を遮るように、 鉤の手に大きく曲げられている。 
有事の際には、ここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため、 「初門」 と呼んだという。 
岩村城の最初の関門である。  」 

その先に「本丸まで500m」の標識がある。 
比較的急な石段が続く。 山の斜面を削って道を通した 「切り通し」 の道である。 
その先もカーブしながら急坂が続く。 
「本丸まで400m」 の標識が現れた。 奥の方に石垣が見えてきた。 
石垣には苔がびっしり生えていた。 
本丸まではまだ半分以上ある。 相変わらず、木立の中で薄暗い。 

初門跡
     500mの標識      400mの標識
初門跡
500mの標識
400mの標識


右折して進むと、道の左側に 「一の門」 の説明板がある。 
藩主邸からの登城道の最初に設けられた岩村城第一の門である。  

説明板「一の門」 
「 二層の楼門で、大手一の門と呼ばれる。 
城に向って左側には単層の多聞櫓が構えられ、 右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。 
石塁が張り出していて、死角から敵が近づかないように工夫されている。 」 

右側には崩れかけた石垣が残っていた。 
この上に土塀があった訳である。 
まだまだ一の門。 これからも幾つかの門を越えなければ本丸に近づけない。 

一の門を過ぎると、道は左にカーブし、更に急になる。 
正面の斜面は、石垣で固められており、攻め手がまっすぐ突き進まないように設計されている。 
右側の石垣の小高いところに、 休屋があった。 

「  岩村城は、 山麓部の居館群と、 山頂一帯に階段状に配された曲輪群からなっていた。 
各曲輪には石垣が巡らされ、数多くの櫓や多聞櫓が建ち並んでいた。 
説明がないので分からないが、この高台も曲輪跡であろう。 

一の門跡
     一の門の石垣      休屋
一の門跡
一の門の石垣
休屋


その先をぐんぐん登っていくと、左側に 「土岐門」 の説明板があり、 石垣の虎口が残っている。 
土岐門は一の門に続く、岩村城第二の門である。 

説明板「土岐門」 
「 岩村城の第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。 
絵図では、 薬医門または四脚門として描かれている。 
土岐氏を破って、その城門を奪い、移築したという伝承から、この名がついた。 
廃城後に、 徳祥寺 (岩村町飯羽間) 山門として移築され、現存している。 」 

土岐門の石垣は切込ハギで築かれている。
石垣の手前に、「本丸まで300m」 の標識があった。 

道は右に折れていて、土岐門の配置図通りである。 
土岐門は石組を上から見ると、門をくぐるとすぐ右折していたことになる。 

土岐門跡
     土岐門配置図      土岐門跡
「土岐門」の説明板と土岐門の石組跡
土岐門配置図
土岐門跡



土岐門配置図では、 その先に馬出しエリアがあるが、 土岐門を過ぎると石畳の道がその先で土道に変わり、狭くなった。  

その先の薄暗い木立の中の石垣の前に、「畳橋」 の説明板が建っている。 /p>

説明板「畳橋」 
「 大手の入口は、高石垣と枡形門、三重櫓によって、厳重に固められており、 前面の空掘にL字形に架かる木橋を渡って、内部に入るようになっていた。 
床板を畳のようにめくることができたことから、 畳橋 と呼ばれたという。 」 

配置図を見ると、畳橋を渡ると左側に曲輪があり、高麗門をくぐると右枡形で、 その先楼門があり、そこをくぐるように描かれている。 

土道を歩く
     畳橋跡      畳橋配置図
土道を歩く
畳橋跡
畳橋配置図


左側に石垣があり、道は左に曲がる。 
右側にも苔蒸した石垣が残るが、野面積みの石垣のようである。 

奥に進むと、右側に見えていた石垣に、 上がる階段があり、 この階段は畳橋配置図には載っておらず、更に階段脇にコンクリートブロックがある。 
小生が歩いてきたのは、 当時の空掘跡で、 これらの石垣は畳橋の土台となる曲輪跡と思われた。 
階段を上がり、枡形の中に。 
三重櫓が建っていたくらいなので、かなり広い枡形である。 

野面積みの石垣
     上がる階段      枡形跡
野面積みの石垣
上がる階段
枡形跡


その先から下り坂になった。 左に右にカーブする。 
右側に。「追手門・三重櫓」の説明板があった。  

説明板「追手門・三重櫓」 
「 追手門は、畳橋から楼門をくぐり、直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門である。 
脇には、畳橋の見下ろすように、三重櫓が構えられていた。 
三重櫓は、岩村城唯一の三重の櫓で、天守に相当し、 城下町の馬場と本通りは、この櫓が見えるように設定されている。 」 

土岐門に続く第三の門が、追手門である。
前面の空掘は、畳橋 と呼ばれる木橋がかかっていた。 
その先の200mの標識のあたりが、古図に載る 「追手門」 の跡で、 看板の裏には、石垣を崩したような石材と盛り土がある。 

追手門を過ぎると、石垣に囲まれた細くまっすぐな道である。 
左右の石垣の上には、古絵図では屋敷跡とあるが、右側が三重櫓の跡だろう。 
その上の空地の前にある井戸は、 龍神の井 で、空地は大きな曲輪跡である。 

追手門・三重櫓の説明板
     200mの標識      両側が石垣の道
追手門・三重櫓の説明板
200mの標識と追手門跡
両側が石垣の道



しばらく行くと、右側の空地の中央に、昭和六十年に復元した 「龍神の井」 がある。 
今も水を湛え、岐阜県の名水50選に選ばれているが、生水は飲めないようである。  
この曲輪は城内住み込みの侍屋敷、五郎作屋敷跡である。 

更に登ると、「霧ヶ井」 の説明板があり、左側には 「本丸まで100m 標高690m」 の標識がある。 

説明板「霧ヶ井」 
「 岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸。 
敵が攻めてきたとき、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、 たちまち霧がわいて城を守ったという。 
蛇骨は、二の丸の宝蔵に収蔵されており、虫干しをした記録が残されている。 」 

その先の左側に、「八幡神社」 の説明板があるが、 左側の石垣群は、八幡曲輪、八幡神社跡である。 

説明板「八幡神社」 
「 中世の城主・遠山氏の氏神で、始祖加藤景康を祀る。 
明治5年(1872)に、山麓の現在地に移転した。 
入口に鳥居が建ち、中段に別当寺である薬師寺、 最奥部に拝殿と本殿、八幡櫓があった。 
棟札から、永正5年(1508)には、神社があったことが分かっている。 」 

龍神の井と曲輪跡
     霧ヶ井      八幡曲輪跡
龍神の井と曲輪跡
霧ヶ井
八幡曲輪跡


八幡宮を過ぎると本丸まで百メートルになる。 
その先は菱櫓と俄坂の説明板が建っていた。 

説明板「菱櫓と俄坂」 
「 山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった。 山城特有のものである。 
この上にあった建物も、菱形だったので菱櫓と呼ばれた。 
菱櫓は、全国城郭にもその例はあまりなく、 中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な、歴史的遺構である。 
菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所・多門があって、 大円寺・水晶山方面を遠望監視した。 
中世の頃はここが大手門(正門)で、大円寺城下町説があり、 大円寺へ通じる険しい急坂が残っている。 
実際は裏手の門で、普段は使わないが、落城等の非常口として用いられた。 
俄坂もその意味がある。 
俄坂の途中に、中世城の遺構である東曲輪があるが、 天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。 」 

菱櫓の石垣(二の丸石垣)は、自然地形に沿って鈍角に積まれて、 この石垣に合わせて、平面をくク角形とした菱櫓が建てられていた。 

その先の右側に、また井戸があり、 その奥に見えてきたのが、雛壇に築かれた、六段の見事な石垣である。 

菱櫓説明板
     菱櫓跡      六段壁
菱櫓説明板
菱櫓跡
井戸と六段壁


六段壁は、本丸の北東面に、雛壇状に築かれた、見事な石垣である。 
最初は、下記絵図のように、最上部のみの石垣であったが、 崩落を防ぐために、前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、 現在の姿となった。  
高石垣の崩落を防ぐ補強の石垣は、 その構築技法より、江戸時代後半に築かれたものと思われる。  

六段壁
     六段壁絵図      現在の六段壁
六段壁
六段壁絵図
現在の六段壁


石段を登っていくと、東曲輪跡に出た。 
東曲輪は、本丸を守るように、枡形のような形をしていて、 本丸の外桝形的機能を持っていた。 
登っていくと、「長局埋門(ながつぼねうずめもん)」 の 説明板があり、 その右手に入口の石段がある。 

説明板「長局埋門」 
「 両側の石垣の上に、多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。 
門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれている。 
入って左の本丸に入る内桝形状の通路は東口門で、本丸の正門である。  
前面の一段低い曲輪は東曲輪で、本丸の外桝形的機能を持っていた。 」 

東曲輪跡
     長局埋門跡      長局埋門絵図
東曲輪跡
長局埋門跡
長局埋門絵図


長局埋門の石段を登ると、本丸へは突き当たりを左に進んだところにある、 虎口から入る道と、 突き当たりを右に進んだところにある、本丸埋門(裏口)から入る道がある。 

右に進む。 石段のある門は、「柵門」 と呼ばれる、木戸付の冠木門である。 
この門跡から本丸へ上ると 「本丸」 の説明板がある。 

説明板「本丸」 
「 本丸には納戸櫓など二重櫓二棟、多門櫓二棟が石垣上に構えられていた。 
東と北には長局と呼ばれる細長い曲輪が附属する。 
正門は東曲輪側の東口門である。 
内部には施設はなく、広場になっていた。 」 

下記の絵図は、説明板「本丸」にあった、 本丸配置図 である。 
本丸は、東曲輪より一段高い曲輪で、周囲は土塀で囲まれ、多門櫓二基、二重櫓二基、 門が三つ設置され、内部には天守を含め、建物らしい建造物は建っていなかった。 

広い広場の中に、 「岩村城歴代将士慰霊碑」 と、 「岐阜県指定史跡 岩村城跡」 の案内板が立っていた。 
このあたりは二重櫓の跡のようである。 

柵門跡
     本丸配置図      岩村城歴代将士慰霊碑
柵門跡
本丸配置図
岩村城歴代将士慰霊碑


屋根付の東屋には、昇龍の井戸 があった。 
「織田信長宿営の地」 の説明板もあった。  

説明板「織田信長宿営の地」
「 天正十年(1582)三月十一日、甲州(武田)討伐の途に就いた織田信長公は、 家臣団の筆頭格であった明智光秀公などを引き連れ、岩村城へ入城した。 
おりしもこの日、武田勝頼公は、武田家ゆかりの地、 天目山棲雲寺への途上、木賊山麓の田野において、 織田軍滝川一益隊との最後の一線で、嫡男共々 敗死、亨年三十七。 
信長公は、三日目の十三日、岩倉城に統治滞在中に、 武田家滅亡の一報を聞いている。 
これより八十日余り後、信長公は京都・本能寺において、 明智光秀公の謀反にあい、自刃。 四十九歳の生涯を終えることになる。 」 

本丸内にはベンチが置かれ、 岩村城歴史方位盤 という御影石が設置されていた。 

別の出口から本丸を降りた。 

ここが本丸の正門になる虎口である。 
古絵図によると、門の周辺は土塀と多聞櫓のみで、櫓はなく、 それほど強固に守られていた訳ではなかったようである。 

昇龍の井戸
     岩村城歴史方位盤      本丸正門跡
昇龍の井戸
岩村城歴史方位盤
本丸正門跡


江戸時代には、本丸の高石垣の下には、出丸と帯曲輪があった。 
現在は管理棟(蘭丸)がある。 その外には駐車場とWCがある。
国道257号から岩倉城跡登り口から入ればこの駐車場に入ることができる。 

本丸から二の丸を繋ぐ門として埋門があった。 
埋門は両側の石垣を覆うように櫓が乗せられていた。 
今も門柱を乗せていた礎石とホゾ穴が残っている。 

石垣は積み方や石の加工法によって、 野面積み・打ち込みハギ・切込ハギに分類されるが、 岩村城では、三種の積み方が一度に見られる、日本でも珍しい場所である。 

埋門奥の本丸に入る入口は、かなり狭いものである。 
埋門の石段を下りると二の丸。 埋門の前に二の丸が広がっていたのだが、 民有地のため未整備で、植林のままになっていて、立ち入り禁止である。 

以上で、岩村城の見学は終った。 

出丸跡
     本丸埋門跡      埋門の石垣
出丸跡
本丸埋門跡
埋門の石垣


岩村城へは明知鉄道岩村駅から、岩村歴史資料館まで徒歩約20分、本丸までは更に徒歩約20分 
車で出丸跡の管理棟(蘭丸)まで行くことは可能で、駐車場から本丸まで10分位。 

訪問日    令和二年(2020)十一月二十六日



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