苗木城は戦国時代の大永、天文年間(1526年頃)、遠山正康が築いた城である。
木曽川に面した絶壁に築かれていて、石垣がすごい。
続日本100名城の第142番に選定されている。
名古屋駅新幹線口でレンタカーを借り、苗木城に向けて出発。
名古屋高速から楠JCT、小牧ICTを経て、
中央自動車道中津川ICで高速を降り、国道257号を経由し、苗木遠山史料館に着いた。
ナビタイムでは一時間二十分だが、渋滞に巻き込まれて、二時間以上かかった。
「 苗木城は、木曽川の北に一段と高くそびえる標高四百三十二メートルの城山に築かれていて、
木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約百七十メートル。
岩山の上で利用できる土地の確保が困難だったため、
建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、
自然の地形を生かして築かれた山城である。
苗木城の城域は、内郭部分が約二万平方メートル、外郭部も含めると約三十五万平方メートルである。
そのうち十五万平方メートルが国の史跡に指定された。 」
下絵は中津川観光センターが発行したパンフレットからの転載であるが、 左側は苗木城の復元想像図で、右側は現在の姿である。
苗木城想像図 | 現在の苗木城跡 | <
苗木遠山資料館は、苗木城の入口にあり、苗木城と苗木遠山家の資料が展示されている。
苗木城の唯一の建物遺産である風吹門と門扉が保管されている他、
遠山家に伝わる武具などが展示されている。
続日本100名城のスタンプをここで押した。
駐車場を出て、左手の坂道を上ると鳥居があり、 「高森神社と風穴」 の説明板がある。
「 ここに風呂谷門があった。
風呂は山の中腹にある風穴で、江戸時代は幕府に献上する氷餅を貯蔵した。
高峰山のちには二ッ森山で厳冬にさらして製造された氷餅は6月1日に献上され、
それまで風穴で保管された。
坂道を登ると烏枢沙摩(うすさま)を経て龍王権現(今は高森神社)にいたる。 」
苗木遠山資料館 | 100名城スタンプ | 高森神社の鳥居 |
砂利まじりの坂道を行くと両側に石垣が残るところを通過するが、
これは竹門跡のようである。
その先の左側の空地には「足軽長屋跡」の説明板がある。
説明石「足軽長屋跡」
「 竹門すぐ西側の上段の平地には、
表方の足軽が出勤した時に必ず立ち寄る足軽長屋がありました。
足軽達はまずこの屋敷に立ち寄り、その後城内のそれぞれの係り役所へと出向きました。
ここには小頭部屋、稽古場など、三・四棟の建物がありました。 」
空地の左端に、「↑ 高森神社 江戸時代は龍王権現だった 」 という道標がある。
標札には、
「 高森神社 江戸時代は龍王権現が祀られ、龍王院の法印(住職)が管理した。
例年8月28日に大きな祭礼があった。
明治の神仏分離令に従い、慶応4年(1868)7月、龍王院と龍王権現は廃止された。
神道の高森神社と改まり、現在に至る。 」 と書かれていた。
竹門跡 | 足軽長屋跡 | 「↑高森神社」道標) |
石畳と石垣が続く道に出た。 右下は切り下がる崖である。
左側の石垣は三段に積まれ、下の方は大きい石で組み、
上の二段は布目状に積まれている。
打込み石積みという工法によるのだろう。
その先はカーブで、右側には空堀が道に沿って続いていた。
左にカーブするところから、頂上部の天守展望台が見えた。
石畳と石垣 | 三段の石垣 | 天守展望台が見えた |
歩くと右側はかなり深い空堀で、しかも石垣がきちんと組まれている。
その先に「風吹門跡」の標識と説明板が立っている。
説明石「風吹門跡」
「 2階が飼葉蔵として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、
城下から三の丸への出入口でした。
門の南側に門番所が併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していました。
城主の在城の時は開門していましたが、江戸詰で留守の時は締め切られ、
潜り戸が利用されていました。 」
風吹門の左側の石垣は打込石整層積みによるものである。
風吹門の左側の石垣の上にWCの看板があり、上に登る道があり、その上に
高い石垣が見えるが三の丸の大矢倉の石垣である。
深い空堀 | 風吹門跡 | 三の丸への道 |
三の丸の大矢倉は天然の巨石を利用して更に土台に、その上に石垣を造っている。
巨石と石垣のコラボレーションが見事である。
三の丸の隣の空地は二の丸で、二の丸の左、一段下ってところに、
「駆門跡」 の標識がある。
その奥に突き出した空地は牢屋跡である。
大矢倉 | 上から写した大矢倉 | 駈門跡 |
駆門跡の石組はしっかり残っていて、立派な楼門があったように思われる。
左下は、四十八曲りの道である。
搦手門と思われるが、その下は駆け下るような坂なので、その名が付いたのであろう。
その先には広場が広がるが、その一角に「苗木城跡」の標識があった。
その先に「大門跡」の標識があり、説明板もあった。
説明文「大門跡」
「 苗木城の中で一番大きな門は、2階建てで、三の丸とニの丸を仕切っていました。
門の幅は二間半(約5m)程で2階部分は物置に利用されていました。
領主の江戸参勤の出立時などの大きな行事以外は開けられず、
普段は潜戸を通行していました。 」
駈門跡 | 苗木城跡碑 | 大門跡 |
大門の先の左側には江戸時代巨大な四面体に削平された土台に御朱印蔵があった。
石段の手前の右側には「錦蔵門跡」の木柱があり、説明板がある。
説明板「錦蔵門跡」
「 本丸へ上る道をさいぎる形で建っていた綿蔵門は、
夕方七ッ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。
年貢として納められた真綿が、門の2階に保管されていたことが名前の由来になっています。 」
右下の奥に見える礎石跡を表示がある空地は二の丸で、藩主遠山家の住宅や家臣が集まる部屋があった。
御朱印蔵跡 | 錦蔵門跡 | 二の丸跡 |
その先は左にカーブするが道の左側は石垣で、右側は天然の大岩が聳えている。
その道は石段で、石段を終えたところに「坂下門跡」の標識があり、説明板がある。
また、坂下門の礎石が残っていた。
説明板「坂下門跡」
「 この門は、礎石と手前の石段が現在でも状態よく残されています。
坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれています。
また、別名を久世門といい、これは三代領主友貞の奥方の実家で、
苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家、
久世家の名からきていると伝えられています。 」
坂下門を過ぎ、石段が現れると「菱櫓門跡」の標識があった。
石垣と大岩 | 坂下門跡 | 菱櫓門跡 |
急で狭い石段を登りきると、左側に井戸がある。
説明板「千石井戸・本丸口門跡」
「 苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、
どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、
千人の用に達するということから千石井戸と名付けられています。
千石井戸の西側にある本丸口門は本丸と二の丸の境になる門で、
總欅で建てられていたことから、欅門とも呼ばれていました。
千石井戸の北側には、懸造りの小屋が並んでおり、
渋紙蔵、山方蔵、郡方蔵などがありました。 」
本丸口門の石垣は切込石整層積みで、石の形を調整して積み上げている。
積み石の面はあまり加工されておらず、
他のタイプの石垣に比べて積石が小さいものを使用している。
井戸の左に入って行くと「的場跡」の標識があった。
その先まで行かなかったが、江戸時代には仕切門があり、
その先の左下には天守を守る細長い平地の帯郭があったようである。
千石井戸 | 本丸口門の左石垣 | 的場跡 |
その先右側に礎石が残っている土地は具足蔵跡である。
説明板「武器蔵跡・具足蔵跡」
「 武器蔵は、八間(約16m)、三間(約6m)程の土蔵でした。
建物の長さから別名を八間蔵といい、
大名遠山家が所蔵していた鉄砲や弓などの武器類が納められていました。
一部の土台が崩壊しているものの、現在でも礎石や縁石が往時のまま残されています。
具足蔵は、本丸口門から見て右側の崖上にあり、二間三尺(約4.9m)、三間(約6m)程の建物でした。
ここには領主の具足や旗が保管され、別名を旗蔵とも呼ばれていました。
その先、突き出ている狭い土地にあったのが笠置矢倉で、 笠置山に向って設置された物見櫓である。
説明板「笠置矢倉跡」
「 本丸からみて西側にある矢倉で、通常は何も置かれていませんでした。
矢倉は、3層の懸造りで巨石の上に建てられていました。
ここからの展望は良く、笠置山が正面に見えることから、
「笠置矢倉」と呼ばれています。 」
手前の石段を登ると「玄関口門跡」の説明板がある。
説明板「玄関口門跡」
「 玄関口という名のとおり、この門を抜けていくルートが天守への正式な道でした。
この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋につながっていました。
通常は鍵が掛けられていて、ここから中に入ることは禁じられており、
鍵は目付役が管理していました。 」
具足蔵跡 | 笠置矢倉跡 | 玄関口門跡 |
その先は本丸で、「本丸玄関跡」の説明板が立ている。
説明板「本丸玄関跡」
「 本丸玄関は、天守台より一段低い位置にありました。
そのため、玄関に入ると、苗木城の特徴の一つである懸崖造りの千畳敷を通り、
廻り込むようにして南東から天守台へ入りました。
玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、
整備前の調査でも、多くの玉石が確認されました。
この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。
玄関の右側にある巨石には柱穴があり、
この巨石から外にはみ出す形で建物(居間)が建てられていました。 」
現在、江戸時代、懸崖造りの千畳敷であったところには、
当時の柱穴を利用して展望台が建っている。
天保台からは木曽川の流れが確認されるが、かなりの高低差があるので怖い位である。
まさに山城にふさわしい城で、これだけ石垣が残っているのは稀有といわざるをえない。
以上で苗木城の探勝は終了である。
本丸玄関跡 | 懸崖造りの展望台 | 天守からの眺望 |
(ご参考) 苗木城の歴史
「 苗木城は中津川市内を左右(東西)に流れる木曽川の北側(右岸)にあった城で、
別名は霞ケ城。
大永、天文年間(16世紀前期〜中期)に遠山正廉が築いたとされるが、
諸説あるようである。
遠山氏は鎌倉時代初期、岩村城を本拠地として恵那郡を統治した遠山荘の地頭で、
室町時代には守護土岐氏の支配下にあり、
応仁の乱で信濃の小笠原、木曽氏の侵略を受け、美濃守護の勢力が衰えた。
遠山正廉は、天文二十一年(1552)、断絶した苗木家の養子となり、手賀野に館を築いて入り、
後に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)に拠点を移し、高森山砦を拡張し、
苗木城主になったとされるので、、
苗木城が高森に築かれたのは天文年間(1532年〜1555年)のことだろう。
城主の遠山正廉は、東濃地方の覇権を狙う勢力に振り回され、
斎藤氏、武田氏、織田氏と通じ、信長の妹を娶り、
勝頼の室として、娘を信長の養女として嫁がせている。
永禄十二年(1569)の戦いで矢傷を負い、それが原因で死去する。
信長は、遠山七家の一つである、飯羽間遠山家の遠山友勝を後継者にした。
友勝の死後、三男友忠とその子友政が苗木城に入ったが、
天正十一年(1583)、森長可の攻撃を受け、苗木城を追われ、
遠山友政は、徳川家康の配下に置かれた。
慶長四年(1599)、秀吉の命により、川尻直次が苗木城主となり、城代
・関治兵衛が城を守る。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、遠山友政は、
中山道を進んだ徳川秀忠の東濃入りに参加し、
城主・川尻氏不在の苗木城を攻め、落城させた。
友政は、徳川家康から苗木領を安堵され、
苗木城と恵那郡、加茂郡一万五百石の苗木藩が誕生する。
以後、江戸時代を通じ、十二代にわたり遠山氏が苗木藩主を務めた。
明治四年(1871)、廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、城の建物は取り壊された。 」
苗木城はJR中央本線中津川駅からバスで20分、苗木バス停下車、徒歩30分
訪問日 令和二年(2020)十一月二十六日