中津川市は、岐阜県の東濃地方にある市。
長野県(信濃国)に隣接しており、古くから、木曽谷や伊那谷との関係も深かく、
文化的かつ経済的な接点を果たしてきた。
江戸時代の中津川は、中山道の中津川宿町で、
北に苗木(なえぎ)城下、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地として栄えていた。
三と八の付く日には六斎市が立ち、東濃の中心地として大いに賑わった。 」
島崎藤村の夜明け前にも登場するので、中山道の道筋を辿り、 遺跡を訪ねようと、中津川を訪問した。
JR中津川駅の東方約5百メートルのところにある旭ヶ丘公園付近から、歩き始めた。
最初に出会ったのは、いろいろな形をした石碑で、 「標示石」 の説明板があった。
説明板「標示石」
「 この石は、判読も覚束ないぐらい磨滅していますが、貴重なことを伝えております。
はじめに、「○石 相和房」 「雪石 囲三」 「涼石 藤朴」 「木賊石 藤井氏」
「萩石 赤井氏」 「揃石 大島氏」、 右三ヶ口」、六歌仙塚 とあり、 六個の石には、それぞれの形容を詠んだ、 おかしみのある句が刻まれ、
いまは木賊石のみ不明のまま、 市立図書館で保管しております。
次に、 北野石室翁塚 とあるのは、 すみれ塚を指し、 「南石室歌仙塚」 は
ここから扇薬師に移された碑のことであります。
これらの七つの石は、もと台地にあった2つの塚のほぼ中央に置かれ、
天明3癸卯冬日、芭蕉の90回忌に設けたことをあらわし、
それ以前に すみれ塚 が存在していたことを標示しております。 」
奥に稲荷神社の社殿がある。
境内には、多くの石仏や石碑がある。
芭蕉の句碑(俗称月塚) を見付けた。
説明板「(7)芭蕉句碑 (俗称月塚)」
「 三井寺の門 敲はや けふの月 」
(碑陰左側) 指月亭糸甘 (しかん) 拝
松尾芭蕉の句 この句は元禄四年(1691)8月15日に、 近江の国、義仲寺の
無明庵にて 仲秋の明月を吟じた句である。
(碑を建てた指月亭)糸甘は、 もと上金台地にあった茶屋 「指月」 にかかわる女性らしく、その亭内に建てられたものであろうと思われる。
これも 大津を思い浮かべて建てられた、 すみれ塚 三井寺観音
と一連のもので、 馬風句碑を建てた 菅井馬良が園内の寂しさを補うために、
明治15年 「指月」 への登り道の現在地に、 移建したものである。 」
また、「 菊折(おっ)て すててまた折る 山路かな 」 (馬 風) という句碑もある。
説明板「(5)馬風句碑」
「 馬風は、 美濃以哉派中津川の四世宗匠の輩俳名で、 旅籠田丸屋十代目の主人・
肥田九郎兵衛通光といい、中津川宿最後の庄屋を勤めた。
かたわら、俳諧をよくし、
門人も多く自らは平田門人になり、市岡殷政門殷矩らとともに水戸浪士横田元綱の首
埋葬および東山道軍の先導隊にも加わり、明治13年(1880)67歳で死去。
その三年祭にあたる明治十五年五月二十九日に、
馬風の三男・菅井守之助 馬良こと菅井かく等、 親族
門人一同によって、この句碑が建てられました。
なお、馬風は、 藤村の小説 「夜明け前」 に、
「 中津川にこの人ありと知られた小野三郎兵衛 」 の名で、
登場しております。 」
その他にもいろいろな歌碑や、経王書写塔、三井寺観音を模写した石仏、
宝暦の御神灯などが建っていた。
また、中津川市街が一望できた。
下に降りていくと、小さな社(やしろ)があり、 「 はだか武兵 」 と、書かれたのぼりがたっていた。
「 はだか武兵は、武兵衛とも呼ばれ、
中仙道中津川宿の駕籠かきであったが、
天保年間に木曽御嶽山で悪病退散の秘法を授かり、
道中の大名家姫君の病を治したことが評判になり、近郷の人々の悪病を追い払った。
死後、社が建てられ、のち、現在地に移されたが、
今でもおまいりするひとがたえないという。 」
小生は旭ヶ丘公園を横断して中津川方面に抜けてしまったが、
中山道は左に公園があるL字路を右に進む。
左側のガードレールの切れ目内に、 安永二年(1772)建立の 芭蕉句碑(すみれ塚)
があり、
「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」 と、刻まれている。
芭蕉の八十回忌記念に建碑されたものである。
芭蕉句碑の傍らには、 三面六臂馬頭観音像・馬頭観音像・庚申塔がある。
芭蕉句碑前から茶屋坂の石畳道を下る車道に突当るので、 ヘアピン状に左に廻る。
直ぐ先の中津川市旭ケ丘歩道橋でバス通りを横断すると、右ヘアピン状に右折する。
先に進むと、Uターン矢印が記された中山道案内があるので、
左にUターン状に回り込み石段を下る。
中段の踊場をUターンし、石段を下ると下道に突き当たるので、左折する。
この坂は茶屋坂で、京方面からですと、かなりの上りの急坂である。
公園に面する国道257号線を歩道橋で越え、更に石段を降りると、 中津川宿の入口にでた。
「 中山道は、中津川から本格的な美濃路に入る。
地理的には落合宿が美濃路東端であるが、
昔から中津川が、文化的にも経済的にも、木曽路と美濃路の接点の役割を果たしてきた。
中津川は、木曽の人々にとっては広い空の下にある賑やかな街、
美濃の人々にとっては木曽路の入口である。 」
左側に高札場がある。
ここが中津川宿の江戸方(東)口である。
「
高札場のは復元されたもので、長さ二間一尺(約4m)巾一間(約2m)に
八枚の高札が掲げられている。
高札は正徳元年(1711)公布の複製で、その文言は
中津川宿本陣の記録に残っていたものを今様に読み下し文にしたものである。
元の高札場の位置はここより四十メートル程坂を上った北側にあり、
街道に面して建てられていた。 」
「 中津川宿は江戸から数えて四十五番目の宿場にあたり、天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、家数は二百二十八軒、宿内人口は九百二十八人(男454人 女474人)本陣1、
脇本陣1、旅籠二十九軒でした。
寛政年間には家数百七十五軒、人口千二百三十人となり、
中山道でも大きな宿場町に発展した町した。
中津川宿の長さは十町七間(約1.0km)で、
町並は江戸方より、淀川町・新町・本町・横町、下町で構成されていた。
宿場機能は本町に集中していた。 」
高札場の並びに常夜燈、 文化二年(1805)建立の庚申塔、 天保六年(1835)建立の 二十三夜搭が並んでいる。
淀川町を進むと、新町交差点に出る。
ここが、中津川宿の起点で、右がJR中央本線
中津川駅である。
中津川の町並みに入ると、人口五万人を越える市の中心にしては
古い建物が残り、落着いた雰囲気がある。
「 山深い木曽路から美濃路に入ると、最初に見えてくるのが
広々としたこの盆地で、旅人にとって、 この風景は谷間の中を
こせこせと歩いていたことから開放されたと感じるものがあったことだろう。
中津川は、 木曽川と市内を流れる中津川、四ツ目川などの多くの河川が
運び込んだ肥沃な土地で、創り出した扇状地の上にできた町である。
今も、東濃地方では多治見市に次ぐ都市である。
今回の町村合併により、馬籠宿の山口村を含め、
近隣の町村を吸収合併し更に大きくなろうとしている。 」
大通りを渡ると新町で、欅並木の新町けやきモールというショッピング街を
形成している。
江戸時代には、淀川と新町は商家を主とした町並みだったというが、
現在も商店が多くあり、特に新町はその観が強い。
新町に入った左側に栗きんとん本家のすやがある。
元禄年間(1688〜1703)創業の元は酢屋でした、 今は栗きんとんの老舗である。
「 創業は元禄年間。江戸からきた赤井九蔵という武士が、この
宿場町に住みつき、「十八屋」 の屋号で、酢の店を開いたのが始まりで、この酢屋が
百年後に菓子屋に変わったとのこと。
膝栗毛の弥次さん喜多さんが、江戸への帰り道、
中山道六十九次を歩いたのと同じ頃、享和二年(1802)に、
ここを通った蜀山人大田南畝
は、 「壬戌紀行(じんじゅうきこう)」 の中に、
「あんもち松屋と云るあり・・・二八うどん
そばと云るもあり・・・十八屋と云る家三戸斗(ばかり)見えたり」 と書いている。
その 「十八屋」 のひとつが、 「すや」の前身である。 」
向いの愛知銀行前に、 「前田青邨画伯誕生之地」 の碑がある。
前田青邨(せいそん)は近代日本画壇の重鎮で、法隆寺壁画修復や高松塚古墳壁画の
模写等を手懸けました。
街道から左に少し入ったところの右側に、 桂小五郎隠れ家跡 がある。
「 旧料亭「やけ山」である。 長州藩士・桂小五郎は文久二年
(1862) 六月、江戸から京に向かていた藩主毛利敬親に、公武合体ではなく、
尊皇攘夷を唱えるべきと説くために、ここで待ち受けていた。 この話し合いの後、
長州藩は朝廷方につくことになり、やがて討幕運動の中心勢力になっていく。
中津川会議と呼ばれる歴史的に残る出来事であるが、桂は地元の市岡と
平田門人間秀矩の厚意に
より、料亭「やけ山」に隠れて到着を待っていたようである。
そういう意味で、
中津川は日本の維新前夜を演出した影の主役であった、といえよう。 」
街道に戻る。 連子格子の残る商家を見ながら西へ。
中津川郵便局の隣にある間家
大正の蔵はかって、東濃随一の豪商といわれた間家の倉庫で、中津川商人や
宿場に関する資料が展示されている。
「
東美濃随一といわれた豪商間杢右衛門(はざまもくえもん)の屋敷跡である。
間家は尾張徳川家御用商人を勤めました、赤穂浪士の間喜兵衛は遠祖にあたる。
間家大正蔵は間家の敷地内にあった倉庫の一つで、大正六年(1917)に建てられた
鉄筋コンクリート造りである。
従来の土蔵造りに明治以降の近代的工法が取り入れられたもので、建築学的に進歩の
過程を示す貴重な遺産で、間家から市に寄贈された。
前庭には大きな織部燈籠と間家の名入りの古い瓦が置かれている。 」
大正の蔵の斜め前(右手)には、昔の宿場町の一部を再現した、 中津川宿往来庭が 造られ、休憩所になっている。
新町はここで終わり、宿場の中程で四ツ目橋を渡る。
歩道部分にはカラータイルが貼られ、宿場の行燈状のものがある。
橋下を流れる四ツ目川はあばれ川で、度々流れを変えたという川。
四ッ目川の名は氾濫の度に川筋が変わって、
これが四つ目にあたることからついたという説がある。
説明板「四ツ目川」
「 江戸時代は川の水面近くに板の橋がかかっているだけで、
東からきた旅人はこの橋を渡って、本町まで急な坂道をのぼった。
登り詰めると街道の真ん中に用水が流れていた。
用水は野中の黒沢川から取水されたもので、
火災に備えたものなので、ものを流すことも洗うことも禁じられた。 」
橋を渡ると宿機能が集中していた本町に入る。
ここから西(京方)に向かって、
旅籠・馬宿・茶屋、物を売る店の店が並んでいた。
左側の中津川市中山道歴史資料館、
手前のNTTに、 「中津川宿脇本陣跡」 の石柱があり、
「 脇本陣はここから右(西方)約20mの所にありました」 との張り紙がある。
「 脇本陣は、森孫右エ門が勤め、建坪百二十八坪でした。
明治天皇の行在所として使われたが、NTT中津川営業所のビルが建ち、
当時を伝える 「明治天皇中津川行在所」の石碑は、資料館の角にがある。
資料館の裏に、中津川宿脇本陣上段の間が復元されている。 」
NTT向かいの車庫の前に、黒塀と瓦屋根を模した所に、 「中津川宿本陣跡」 の石柱と 本陣の間取りが分かる説明板が建っている。
説明板「中津川本陣」
「 本陣の入口には五間続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。
門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥が厩(馬屋)になっており、
表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場があった。
その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。
その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その左に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。
玄関の奥には玄関の間、ついで三の間・次の間・中の間・上段の間へと続いた。
上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳置かれて
いた。
上段の間には湯殿、上り場、雪隠などがついていた。
裏も庭となり高塀で囲われ、御退路の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。 」
皇女和宮は、九日目の夜を市岡本陣にて過している。
建坪は二百八十三坪でしたが、本陣の建物はすでになく、駐車場になっていた。
「 本陣は、寛永十二年の参勤交代の制により設けられたものだが、
宿場のなかで比較的高い場所に建てられた。
中津川宿本陣は代々市岡長右衛門が勤め、問屋を兼ねていた。
幕末には平田門下の市岡長右エ門が主人であった(夜明け前では
淺田景蔵という名で出てくる)
落合宿で隊列を整えた水戸天狗勢は中津川宿に入り、昼食を摂った。
総大将・武田耕雲斎、田丸稲之衛門、山国兵部、藤田小四郎の四人は、市岡長右衛門本陣
に入った。
本陣当主の市岡は平田篤胤門下の国学者であり、同じ志を持つ同士として一同を篤く
もてなした。
隊士達には昼食の他に、名物五平餅が振舞われた。
田丸はこれに感謝し、甲冑の小袖を市岡に与えました。
そして和田峠樋橋の戦いで戦死した隊士の首級を市岡に託しました。
市岡は大泉寺の市岡家の墓所に首級を埋葬しました。 」
脇本陣の並びに、中津川村庄屋・旧肥田家の建物が堂々とした姿で建っている。
「 肥田家は代々九郎兵衛を名乗り、屋号は田丸屋と称し、
江戸後期からは旅籠を営みました。
享保三年(1718)から明治五年(1873)まで中津川村の庄屋を勤めた。
肥田家は夜明け前では「小野三郎兵衛」の名で登場する
平田門人で、岩倉具視とも交流があった。
日本近代登山の父といわれる、ウォルター
・ウェストン が宿泊して、ここから恵那山登山に出発したという、逸話もある。
建物は、火事の類焼を防ぐための防火壁、隣家との境に高い壁を設け、
その上端に小屋根を置いた卯建(うだつ)をあげた風格のある建物である。
一時期、脇本陣を勤めたところからやや数奇屋がかかっている上段の間があり、
そこからの庭の眺望も素晴らしい。
明治中頃、曽我家が入居し、医院として用いて近代医療に貢献された。
現在は、曽我家の専用住宅となっている。 」
その先の左手(本町と中町の境)に、嘉永元年(1848) 建立の常夜燈が建っている。
中町に入ると右手の駐車場に、「大泉寺跡」 の標識がある。
「 坂を下った小路に大泉寺がありました。
下町にあった瑞應寺を、天正四年(1576)中津川の有力地侍であった
市岡長右衛門(本陣の祖)が本町(旧泉町)に移し、寺号を大泉寺と改名しました。
文久二年(1862)四月二十九日の落雷により寺は全焼し、明治六年(1873)に北野大西に
移されました。 」
中津川宿には、旅籠が本町を中心に二十九軒あったとされ、旅籠は全て宿役人が
営んでいたというが、今は一軒も残っていない。
江戸時代の宿場町には警備上などの目的で、街の中心部をまっすぐ見通せないように
作った 枡形が置かれたが、中津川宿でも、この先に西枡形があった。
枡形の右側に、表具松霞堂(可児家)がある。 往時は米屋でした。
「 当家は元々苗木藩士であった家系で、裏庭に樹齢百五十年以上
の松の木があり、この松の木に霞がかかったさまから、松霞堂と呼ばれました。
屋根裏には隠し部屋が残っており、博奕部屋であったという。 」
枡形を左に曲がると横町に入る。
横町は火災から免れた為に、往時の面影を色濃く残している。
右側に川上屋がある。
元治元年(1864)創業の栗菓子の老舗で、店先に 「右、木曽路
左、なごや」 と刻まれた石の道標が建っている。
道が左、右に曲がる枡形には、十八屋、白木屋といった江戸中期から後期の建物が残り、
宿場情緒は豊かである。
右側に十八屋(間家)がある。
江戸中期の建物で、上がり框(かまち)や天井の梁は当時のままという。
「 十八屋(間家)は、中津川の豪商であった間杢右衛門家の一族、
宿役人で、旅籠を営んでいた。
元治元年(1864)十一月、水戸天狗党が中津川を通過の際、
平田篤胤門人だったこの家の当主・間武右衛門が、和田峠の樋橋戦いで負傷し若い隊士を預かり、隠し部屋で介護するも、後に没しました。
当家にはこの若者の遺品を今に残しています。
皇女和宮の通行の際には、宮廷方の供の者がここに宿泊しました。 」
十八屋の隣の白木屋跡は、天保十三年(1842)に遠山家が建てた卯建をあげた 家屋である。
「
当家の先祖、宮大工・横井弥左衛門が、天保十三年(1842)に建てたもので、
百五十年以上を経過している。
明治末期に、遠山氏はここを離れ、
その後、大正時代に、白木屋がここで足袋の製造をはじめた。
四畳ほどの中二階が今も残されている。
ここへ梯子を懸け、中二階に登ると梯子を取り外し、収納すると外からは部屋のある
ことが全く分からない仕組みになっている、俗にいう、隠し部屋の構造である。 」
道の反対側には天満屋と旧中川家の建物がある。
「 天満屋(古井家)は、格子や軒先の低さなど、
昔の家並みを思い起こさせるつくりで、築後百五十年以上は経っていて、
二階部分がないので、どの部屋にも明かり取りの天窓がついている。
旧中川家(杉本屋)は、中津川村や子野村の庄屋だった中川萬兵衛
の屋敷の一部である。
中川家の屋敷はここより南東側一帯にあり、
広壮な屋敷だったようだが、道路などにとられて、一部になってしまったという。
建物は映画「青い山脈」のロケが行われた場所でもある。
二軒続きの長屋になっており、明治期には原家が呉服屋を営み、
大正時代には薪炭・荒物商をおこない、現在は左半分が太田薬局、右半分が吉本屋の店舗になっている。 」
突き当り枡形で、右に曲がると下町になる。
角には、慶應元年(1865)に建てられた 「式内恵那山上道」 の道標がある。
上道とは、恵那神社に向かう道を川上道(かおれ道) といったことから。
左側に卯建をあげ、酒林を吊り下げたはざま酒造がある。
慶長六年(1601)創業の「恵那山」という銘柄の酒を造る老舗蔵元である。
堂々とした格子造りの建物には卯建が四つも上がっていた。 また、軒下には
酒屋の印である杉玉を吊るしていて、店舗の右端には土蔵もあった。
その先も下町が続いているが、中津川橋で中津川宿は終わる。
中津川宿 岐阜県中津川市本町 JR中央本線中津川駅下車。