関ケ原は、伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地で、軍事上の要衝でした。
この為、壬申の乱や天下分け目の関ケ原の合戦の舞台となりました。
中山道の関ケ原宿は、伊勢街道や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、物量が多いため、それを運ぶ問屋は八軒置かれ、美濃十六宿中、加納宿に次ぐ規模を誇りました。
天保十四年(1832)の宿村内大概帳によると、関ヶ原宿の家数二百六十九軒、宿内
人口千三百八十九人旅籠は三十三軒で、
大規模な旅籠が十二軒もあった。
今も、関ヶ原周辺はトラックで大賑わいです
関ヶ原は、しばしば大河ドラマに出るので、現地に行き、
どんなところで戦われたのか、確認したいと思った。
また、江戸時代には、関ヶ原宿が出来、賑わったようなので、遺跡を求めて訪問した。
JR 垂井駅の北西、歩いて一キロのところに、八重垣神社があり、そこから旅を始める。
ここは中山道の垂井宿のはずれで、道から右奥に入ったところに、
素盞嗚尊と稲田姫命を祭神とする八重垣神社がある。
「 八重垣神社は、 南北朝の争乱で、土岐氏に守られて当地に
来られた後光厳天皇が、南都追討を発願し成就したので、 山城の祇園社を勧請し、
牛頭天王社と称したのが創建の謂われとある神社である。
後光巖天皇行在所碑や日目上人法華塚がある。 」
愛宕神社の玉垣前に、「八尺地蔵尊道」 の道標があり、 「従是一丁」 と刻まれている。
「八尺地蔵尊のいわれ」
「 ある目の見えぬ母が、夢告げに従って、八尺掘ると三体の地蔵が出土しました。
そこに八尺四方の堂を建て地蔵を祀ると、目が見えるようになった、といいます。 」
ここから先は濃尾平野に別れを告げ、両側に山々の迫る道を行く。
垂井宿の西の見付付近には古い家が残っている。
前川橋をわたると三叉路を左に曲る。
この分岐点には、小さな地蔵座像が祠の中に安置されている。
左手に、天保十年(1839)建立 の 松島稲荷神社 がある。
垂井宿から一キロ程歩くと、東海道本線の出屋敷踏切を横断し、
国道21号の日守(ひもり)交差点を横断歩道橋で渡り、斜めの旧道に入る。
この先、中山道は旧道が残っている。
日守川を渡ると、左側に建物があり、 「日守のお茶所跡」 の説明板が建っている。
説明板「日守の茶所」
「 江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地
(常盤御前墓所)に秋風庵を建てた。
それを明治になって、一里塚の隣りに移し、
中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。 また、
大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物
である。
垂井町 」
茶所の隣には、垂井一里塚の南塚が、ほぼ完全に残っている。
説明板には一里塚と浅野幸長陣跡が併記されている。
説明板
「 垂井一里塚 史跡(昭和5年10月3日)指定 」の説明部分
「 徳川家康は街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道び一里塚の設置を命じた。
これにより江戸日本橋を基点として一里(約四キロ)毎に五間(約九メートル)四方、
高さ一丈(約三メートル)、頂には榎を植栽した塚が街道を挟んで二基づつ築かれた。
塚は南側だけがほぼ完全に残っている。 旅人にとっては人夫や馬を借りる里程
を知り、駄賃を決める目安となり、その木陰は格好の休所となった。 国の史跡
に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村の一里塚と二ヶ処であり、交通
史上の重要な遺跡である。 」
「 浅野幸長陣跡 関ヶ原の戦い」の説明部分
「 浅井幸長(ゆきなが)は五奉行の一人であった浅野長政の長男で、甲斐府中十六万石
の城主であった。 関ヶ原の戦いでは豊臣秀吉の恩顧でありながら、石田三成と
確執があったため、東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略、本戦ではこの
あたりに陣を構え、南宮山に籠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。 戦後、紀伊国
和歌山三十七万六千石を与えられた。
平成十八年十一月 関ヶ原町教育委員会 」
一里塚跡から数分の日守西交差点で、再び、国道と交差する。
関ケ原バイパスの新設により、この先の旧道が一部消滅している。
バイパスを横断し、国道の右側の旧道を進むと、
左側に大看板 「ここは中山道垂井宿」 があり、
次いで 「これより中山道 関ヶ原宿野上 関ヶ原町」 の標柱がある。
ここが垂井町と関ケ原町野上の境である。
その先の関ケ原バイパスを跨道橋で横断すると、旧道が再び復活する。
両側が田圃で、右に東海道線を見ながら、行く道である。
すぐに両側が民家になったが、車の数が少なく、のんびり歩くことができた。
微妙にうねる街道を八百メートル程行くと、三叉路の右側に、 「県社伊富岐神社」
の石柱と、大きな伊富岐(いぶき)神社の鳥居と、二基の常夜灯が建っている。
伊富岐神社はここから北西約一キロの所に鎮座している。 伊富岐神社へ
立ち寄る。
JRの線路を越え、さらに国道と県道を越えると、伊吹の集落に入る。
民家はしんと静まりかえり、人影がない。
そのまま北上すると、石製道標と東海自然歩道の
木柱が四辻にあり、石製道標の左側に 「菩提道」 の文字。 右側は汚れていて
はっきりしないが、「左関ヶ原 右岩手道」 と刻まれているようである。
菩提道は、北方にある菩提山へ行く道である。
東海自然歩道の木柱には 「 直進は伊富岐神社、左折は関が原古戦場跡 」 とある。
「 菩提道とは、北方にある菩提山に通じる道のことで、
このあたりは東海自然歩道としてハイキングコースになっている。
菩提山は、竹中重元がここに砦を構える岩手弾正を追い出し、
菩提山城を築いたといわれるところである。
その子の竹中半兵衛が城主になったのは16歳のときといわれる。
美濃斎藤氏に仕えていたのを中国に三国志に倣って、
秀吉が三回訪問し、軍神として迎えたという
逸話は、吉川英治の太閤記にある。
半兵衛が病でなくなった後、弟の久作は
本能寺の変による領内で起きた表佐の一揆で殺され、その後、廃城になったが、
当時の濠や石垣が残っている。
岩手は、菩提山の右側にある集落で、江戸時代に入り、
竹中家の嫡流が、岩手5千石を所領する旗本として、この地に屋敷を構え、
明治まで領主として統治した。
今でも岩手陣屋跡として残っている。 」
東海自然歩道の道標に従って、直進すると、こんもりした山の裾に、 目指す伊富岐(いぶき)神社があった。
神社の由来書
「 伊富岐神社はこの地方の豪族、伊福氏の祖神を祭った神社で、
仁寿弐年(852)、延喜式により不破郡三座の内となり、官社となった。
南宮大社に対し美濃の二之宮として崇敬されてきた神社である。 」
、
祭神には、多多美彦命(通称、夷服岳神・伊吹山の神)、・八岐大蛇(伊吹山の荒神が
化けた大蛇神)・天火明命(製鉄の神)・草葺不合尊 と、
幾つかの説があるようであるが、
伊福氏の祖先は尾張氏と同祖というから、 天火明命(あめのほあかり)、
正式名称は天照国照彦天火明命であるという説はうなづける。
時代の変遷とともに、伊吹山の神(伊富岐神)に、変っていったのではないだろうか?
松や杉などの木々の多い薄暗い社域に、
寛永十三年(1636)に造営された社殿が建っている。
脇の大杉はご神木で、建物は関ヶ原合戦で燃失したが、
燃えずに残ったといわれる古木である。
祭神は伊富岐で、社殿は東南東向きで、伊吹山を遙拝する位置にあったが、
伊吹山本体は、当日は見えなかった。
御参りを済ませ、中山道の鳥居まで戻り歩き始める。
五百メートル先の右側に、 復元された野上の七つ井戸がある。
現在、関ヶ原町大字野上(旧野上村)は、江戸時代には間の宿であった。
国道21号の野上交差点の左手の上に、浄土真宗大谷派鶏籠山真念
寺がある。
境内には班女(はんじょ)の観音堂がある。 堂内の中央に祀られているのが、
花子の観音像である。
「 斑女は、今から千年以上も昔、当地が東山道の宿駅として
栄えていたころの話である。
野上長者の召使・花子と、都の公家・吉田少将との悲恋を
題材にしたもので、謡曲にもなっている。
斑女の守り本尊とされる観音像は
室町時代の作といわれる。
斑女伝説 ー 「 平安中期ごろ、都から吉田少将が東国に下る途中、
長者の館に泊まり、花子と深い契りを結んだ。 花子は一子梅若丸を産んだ。
その子が少年になったので、少将の許に送ったが、なんの便りもないので、
花子も東国に下り捜し求めていると、一子は木母寺に葬られていることを
知った。 少将は梅若丸が下ってくる前、すでに都に戻っていたのである。
花子は驚き悲しみ、遂に狂女となり、形見の扇子を
開き舞いながら、野上に帰り、ひたすら観音を念じた。 」
街道に戻ると松並木になる。
中山道に唯一残る松並木で、野上の松並木といわれるものである。
往時は、松・杉・楓の並木が続いていたが、
近年虫害や台風などによって、減少の一途をたどっている。
右側に、 「山内一豊陣跡」 の説明板がある。
説明板
「 山内一豊は関ケ原の合戦の際、垂井の一里塚と桃配山の
間の中山道沿いに布陣し、南宮山の西軍に備えました。
その後、南宮山の西軍に東軍攻撃の気配が無い為、
使番による家康からの命令を受け、山内隊は柴井の地まで前進し交戦しました。
戦後、妻の内助の功もあって、土佐九万八千石が与えられました。 」
松並木が石畳風舗装路になると、東海道本線と国道21号の接近する道の左脇に 広場があり、 六部地蔵 の祠がある。
説明板
「 六部とは六十六部の略で、全国の社寺などを巡礼し、旅をしながら修業している人で、厨子を背負い読経しつつ行脚中の行者が、
宝暦十一年(1761) この地で亡くなったので、
里人が祠を建ててお祀りされた、といわれています。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵虫歯なおして社参り」 と詠われるように、
痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。
関ヶ原町 」
このあたりから、左手の桃配山の麓に幟がひらめいているのが見える。
ここは関ヶ原の戦いで家康が最初に陣を敷いたところである。
「 壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)は、この山に布陣し、
兵士に桃を配って激励すると、士気が高まり連戦連勝し、ついに大勝を
果たしました。
これにより、 桃配山 と呼ばれるようになりました。
家康はこれにあやかり、ここに最初陣地を設営した。 」
松並木を過ぎると、国道に合流し、一ツ軒交叉点を横断し、斜め右の車止めの
ある歩道に入る。
再び、松並木になり、その先の右側に、三面六臂の馬頭観音像が祠内に安置されている。
旧道は、その先で国道21号に合流してしまう。
関ケ原東町交差点辺りが関ケ原宿の東見付跡で、往時は土居が築かれていた。
ここが関ケ原宿の江戸方(東)の入口である。
国道を進むと、右側に若宮八幡神社が鎮座している。
「 当社は、関ケ原の合戦によって焼失したが、 家康は修復の為に御扶持方三千人分を正月から六月まで与えました。 」
GS ENEOSの敷地裏に與市宮(よいちのみや)があり、 当社には源平時代に関ケ原村の郷士で開拓者として仰がれた関ケ原與市の霊が 祀っている。
「 承安四年(1174) 上洛した際に、與市の馬が泥水を
蹴り上げて、牛若丸(後の源義経)の衣を汚したところから争いとなり、
與市は、従者数十名と共に殺害された。
これが京都の蹴上の地名由来になっている。 」
東公門交叉点手前の左側に、明治三十二年(1899)創業の 「宮内庁御用関ヶ原
たまり」 の古い看板のある関ヶ原醸造の黒板の建物は、雰囲気のある古い建物
である。
東公門交差点辺りに江戸百十三里目の関ケ原の一里塚があったというが、
遺構や標識は無く、位置は不明である。
国道右側の旅館桝屋(ますや)は、平安時代の永長元年(1097)創業の老舗旅館で
あるが、建物は新しくなっている。
関ケ原駅前交差点を右折すると、JR東海道本線関ケ原駅がある。
関が原駅前を左折、右折して、線路を越えると左側に広場があり、入ったところ
に、「松平忠吉陣跡」 と、 「井伊直政陣跡」 の説明板が建っている。
説明板「松平忠吉 井伊直政 陣跡」
「 慶長五年九月十五日の合戦の役に、中山道の敵を目標とする福島・藤堂・
京極隊、 北国街道を黒田・竹中・細川等の隊、その中央にあたるこの地に、
家康の四男・松平忠吉と、後の彦根城主・井伊直政が、約六千の兵で、陣を構えた。
午前八時頃、軍監本多忠勝より、開戦を促され、直政は忠吉を擁して前進し、
宇喜多直家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、
方向を転じて、島津義弘の隊に攻撃し、開戦の火ぶたが切られた。 」
一段下がった所の大木の右側に、東首塚 がある。
説明板 「 東首塚 国史跡(昭和6年3月30日」指定 」
「 この塚は、関ヶ原の戦い直後に、この地の領主・竹中家が築いたもので、
家康によって実検された西軍の将士の首がここに眠っています。
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、
昭和十七年には徳風会によって、名古屋から山王権現社本殿と唐門が移築されて、
東西両軍の戦没者慰霊堂になりました。
関ヶ原町 」
左側には首洗い井戸がある。
説明板 「首洗い井戸」
「 合戦で討ち取られた西軍の将士の首は家康により首実検され、その後塚をつくり、
ねんごろに葬られました。 首実検に先立ち首装束のため、この井戸水を使って、
首級の血や土などが洗い流されたと伝えられています。 戦国時代の戦場では
首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだった
のです。
関ヶ原町 」
広場にはトイレもある。 また、供養のため、朱塗りの山王権現社本殿と
唐門が移築されている。
東首塚の西門を出て北に向うと、陣場野公園の手前右側に「田中吉政陣跡」、
その先の陣場塚公園に、「徳川家康最後の陣地床几場」 の説明板が建っている。
説明板 「田中吉政陣跡」
「 田中隊は、ここから石田隊に向けて兵を進め、笹尾山の山麓より討って出る。
先手の兵と激突。 本隊が二、三百メートル程引きさがる。
そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつくというように、
両軍間で激しい白兵戦が展開されたのです。
三成が自分の意思で残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは
合戦六日目のことでした。
関ヶ原町 」
その先の陣場野公園の中の竹垣で囲まれた土塁が、家康の床几場だった
ところである。
高台の石柱には、「床几場、徳川家康進旗験首處」 と刻まれていて、
説明板が立っている。
説明板 「徳川家康最後の陣地 国史跡(昭和6年3月30日)指定」
「 戦いがたけなわになると、家康は本営を桃配山から笹尾山の南東1キロの
この地に進出させました。
ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに戦いが終わると、
部下が取ってきた首を実験しています。
周囲の土塁や中央の高台は、
天保十二年(1841)に 幕府の命により、この地の領主・竹中家が築いたものです。 」
この他、小西行長陣地跡陣、石田三成陣地跡などが盆地に広く分布している。
古戦場めぐりは、とりあえず、ここで終了し、東首塚を経由し、
JRの踏切をまた渡る。
正面に八幡神社、その右側に宗徳寺があり、その間に道があるが、
この道が江戸時代の北国街道(北国脇往還)である。
今はJRの踏切で切断されているが、
かってはつながっていて、北近江から北陸に通じていた。
道を進むと、国道21号の歩道橋に出た。
ここが北国街道の追分で、追分茶屋 があったといわれる。
歩道橋の前の相川家の門の左側には、「脇本陣関ヶ原宿」 の木札があり、
門の右側には 「至道無難禅師誕生地」 の石碑と説明板が建っている。
説明板 「 至道無難禅師誕生地 関ヶ原宿脇本陣跡 」
「 慶長八年(1603)、本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は
臨済宗妙心寺派の江戸初期の高僧です。 禅師は国師の法を継ぎ、宗派拡大に寄与
され、江戸禅宗界に名声を博しました。 寛文二年(1662)創業の日本橋白木屋元祖
大村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から得られたと言います。
当家は後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。
関ヶ原町 」
右側の桐山会計事務所辺りが本陣があったところのようである。
本陣の建坪は百五十二坪、門構え玄関付きでしたが、残っているのは八幡神社の
鳥居の近くのスダジイの大木が本陣の庭の一部と伝えられるだけである。
現在の北国街道はその先の西町交差点を通る。
この交差点は、国道21号、名神高速道路から出入りする車や、
北国街道で長浜方面に向かう車で渋滞、大型トラックが排気ガスを撒き散らしながら、延々とつながっている。
その角に、遍照山円龍寺があり、門前に 「明治天皇御膳水」 の石碑がある。
関ヶ原西町交叉点を横断して橋を渡ると、すぐの右側に、西首塚がある。
東首塚と同様にこの地の領主竹中重門が徳川家康の命により、
戦死者を埋葬した高さ2m、周囲30mの塚である。
大きなケヤキの両側に祠があり、右の祠に十一面千手観音、左の祠に馬頭観音が
祀られている。
説明板 西首塚」
「 関ヶ原合戦戦死者の数千人の首級を葬った塚である。
この上に、江戸時代から十一面観音および馬頭観音のお堂が建てられ、
付近の民衆の手によって供養がされている。
関ヶ原町教育委員会 」
階段を上がって奥をみると、大木の周囲に墓(五輪塔)が多数祀られていて、
胴塚 とも呼ばれている。
線香と供花が手向けられていた。
先程寄った東首塚が官製の荘厳な感じがしたのに対し、付近の人々の手で供養されて
きたせいか、庶民的で親しみがもてる感じがした。
三叉路の先の右手奥に、 明治二十二年(1889)建立の北野社常夜燈がある。
西首塚から五百メートル強進んだ松尾交叉点で、国道と分かれて左斜めの道に
入ると、左側の電柱に、 松尾山(小早川秀秋陣跡)、 福島正則陣跡という、 案、
内が張りつけられている。
入って二つ目の細道入口に「月見の宮 福島陣址 一丁」の道標が建って
いる。
「月の宮」の道標を左折し、次の道を右折すると左側に春日神社が建っている。
、
ここには、「月見宮大杉」と「福島正則陣跡」の説明板が建っている。
説明板「 月見宮大杉」 町天然記念物(昭和36年8月5日指定)
「 この杉の巨木は関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定
されています。 平安の御世より長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値し
ます。 その記録は幹の年輪に刻まれています。 目通り約5.80m、高さ約
25mと見戸大神宮大杉に次ぐ正に杉の横綱です。 関ヶ原町 」
説明板 「 福島正則陣跡 」
「 東軍の先鋒となった福島正則隊(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣
しています。
一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、
宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。
首取りで手柄を立てた可児(かに)才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。
関ヶ原町 」
以上で、関ヶ原の探勝は終えた。
今回は中山道を辿っての旅だったが、古戦場を見て廻るには、関ヶ原駅から盆地中央へ直接行くと、よいだろうと思った。
関ヶ原宿 岐阜県関ヶ原町公門 JR東海道本線関ヶ原駅下車。