墨俣城は、木下藤吉郎、のちの羽柴秀吉(豊臣秀吉) が一夜で築いたとされる城である。
織田信長が、美濃侵攻にあたり、斎藤氏の守る拠点を攻めるため、
洲股に足がかりの砦(城)を築くことを計画し、秀吉が敵の攻撃を交わし、
城を築いたことから、出世の糸口をつかんだとされ、太閤出世地とされる。
墨俣一夜城は、砦程の城と思っていたが、ちゃんとした城が今はあるというので、 その確認を兼ね、出かけた。
その地は、大垣市墨俣町墨俣。
長良川西岸の犀川に、 「太閤出世橋」 と書かれた石碑があり、
その先に天守閣が見える。
橋を渡った先には、 豊臣秀吉の銅像とひょうたん、
その先に大垣城を模した模擬天守が建っている。
この建物は、平成の町村合併の前に、
墨俣町が墨俣一夜城歴史資料館として、建築したもので、史実上の外観とは異なる。
「 長良川西岸の洲股(墨俣)は、
江戸時代以前は木曽川・長良川・揖斐川 の三川が合流する交通上・戦略上の要地で、
戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。
織田信長は、美濃侵攻にあたり、斎藤氏の守る拠点を攻めるため、
洲股に足がかりの砦(城)を築くことを計画し、
当時の名は木下藤吉郎、 のちの羽柴秀吉・豊臣秀吉が、
一夜で築いたとされるのが墨俣城である。
木下藤吉郎の墨俣城は、太閤記・日本外史・新撰美濃志等、
多くの文献に見られるが、その概略を推測される範囲でしかない。 」
昭和五十二年、愛知県江南市文化財保護委員・滝善義氏により、 紹介された、同市前野の 旧家吉田龍雲家所蔵 の「前野家古文書」は、 企画・準備・押出・戦略・構築等の状況が具体的に記録され、 一夜城の謎を解明する新しい史料として注目され、 墨俣一夜城歴史資料館は、これに基づき展示を行っている。
それによると、 「 資材を墨俣に運ぶ押出勢子数は二千百四十人余、御大将は木下藤吉郎、足軽鉄砲隊七十五人、蜂須賀彦右衛門百三十三人、
大工棟梁衆二十六人、草井舟頭衆四十八人、犬山舟頭衆七十五人、
前野小右衛門三百十二人、日比野六太夫二百五十人、稲田大炊介六百五十六人、
山方衆五百六十五人との内容を、鉄砲隊青山新七に伝えている。
また、築城については、 高櫓(高さ三間半、二階)五棟、 平櫓(高さ二間半平屋長屋)三棟、 土居(高さ一間、長さは二五〇間)、
高塀(高さ五尺長さは一三八間)、 馬柵(高さ一間長さ千八百間)、 井戸二ヶ所、
堀(川水を引き入れて深さ一間半、巾二間、長さは三百六十間)、
殿様屋敷一ヶ所(横三間半、奥行二間半)、とあり、
棟梁十名、下職是は山方衆が受ける。
木戸は二ヶ所で、大手一、搦め手一、という内容を、
蜂須賀彦右衛門に、永禄九年七月三日付けで伝えていて、
同年九月十二日昼は、馬柵、 夜は築城工事を戦いつつ進め、 九月十五日は完成し、
織田信長が入城した。 」 とある。
これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、本当のことははっきりしないようである。
現在、墨俣城跡の北西側は、 一夜城跡 として、公園に整備されている。
公園内には境内社として、白鬚神社がある。
また、模擬天守閣が築かれた際に、分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
天正年間以降、木曽三川の流れが変わり、墨俣城は、その機能を果たせず、
廃城になったようすである。
江戸時代の墨俣は、美濃路(東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ脇街道) の 宿場(墨俣宿) として繁昌したようである。
「 墨俣宿は、 起宿から二里十七町、大名の定宿として、 本陣・脇本陣・立人馬の継立を業務とする問屋や墨俣渡しの渡船場があり、 宿場の長さは七町七間、享和二年(1802)の宿場の家数二百六十三軒、人口は千二百十八人だった。 」
満福寺熊谷堂の脇にある「墨俣本陣跡」の石碑には、 「 慶長年間にこの地に本陣が置かれ、 初代沢井丸市郎正賢、その後沢井彦四郎を名乗り、明治に至るまで十三代続いた。 」 あった 。
寺町は寺院が多いとあるので、右折して通りを入って行くと、あるわあるわ!!
右本正寺、左広専寺。
本正寺の山門は、墨俣宿の脇本陣の門を移転したものである。
三叉路の突き当たりに等覚寺、右側に光受寺。
等覚寺の脇の道を進むと、満福寺、その奥に墨俣神社があった。
墨俣神社は明台寺の南にあったのが、ここに移転してきたが、
その他の寺はほぼ同じ位置にあるというのは驚きである。
寺がこれだけ密集していれば、寺町の名前は納得できる。
「本陣跡」の碑に戻る。
本陣碑の脇の狭い道を西に向かうと、江戸時代の中町、本町となる。 br>
更に西へ百メートル程行くと、岐阜屋百貨店の隣に、
「 墨俣宿脇本陣 池田屋 」 の暖簾を掲げた家があった。
黒茶色の塀の中央部の門前に、「脇本陣跡」 の石碑が建っていた。
「
脇本陣は代々安藤家(一時加野家)が務めた。
現在の建物は、明治二十五年に建てられたもの。
江戸時代の脇本陣の門は、明治末に本正寺に移築されたことはすでに述べた通りである。 」
その先にも、呉服屋や電気店、大垣信用金庫など、商店が建ち並ぶが、活気があるとはいえない。
このあたりが、本町である。
大垣信金の前に、「 津島神社 秋葉神社 」 と連名の鳥居がある。
津島神社は「天王社」と呼ばれていたようで、
安永七年の墨俣宿の絵図にも、「天王橋」という表示がある。
鳥居の脇に、「 文化財 琉球使節通行記念灯籠 」 と書かれて石柱が建っている。
「 寛政三年正月、琉球使節の一行が通行の際、奉納する石灯籠に刻銘文を願い、 儀衛正、毛廷柱が執筆したというもので、石灯籠の右側奥に両名の名前があった。 」
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昼になったが、途中にコンビニや喫茶店はあったが、食堂は見当たらない。
その先で、ひつまぶしの看板を出しているのを見つけた。
奥まった店で、車は一台もないので、少し心配になったが、
入ると八〇歳近いと思われる御主人とお内儀がいた。
一番安いうな丼を注文した。
御主人は黙々作業されるだけで、お内儀はお茶を出すと中に引っ込まれた。
料理が出されるまで、持ってきたパンフレットを見ながら過ごした。
ストーブの火が暖かく感じる頃、うな丼は出てきたが、
あじは濃い目に感じたが、ひつまぶしのたれと同じなのかと思った。
御主人の話方などは関西系に思え、焼き方も関西風なので、
文化は大垣から西は関西圏に属すのではないか?、と思った。
食事を終えて、旅を再開。 正面に電気店が見える。
手前の右側に二軒だけ古そうな家があったが、それ以外に古い建物は残っていない。
電気屋の交差点を右折すると、江戸時代の西町に入る。
少し歩くと、左側のサン薬局の先に八幡神社があった。
「 正式には正八幡宮というようで、その由来には、
「 延喜式美濃神名帳には従一位荒方明神とあるが、のちに八幡神社と改められ、
応神天皇を祭神とする。
鎌倉街道は少し南に、美濃路は大鳥居の前を通る、西国、東国の要衡の地にあったので、
ここを通る多くの武将がお参りした。
旧木曽川町出身の山内一豊は特に信心が厚かったようである。 」
神社を出ると、道は犀川の堤防に突き当たると、左にカーブしていく。
堤防の一角に「美濃路」の石柱が建っていた。
車道には歩道帯が付いていないので、階段で犀川の堤防に上り、堤防道を歩いていこうと思う。
堤防へ上がる右側に、「史跡 美濃路」 の石柱が建てられていた。
墨俣宿はこのあたりで終わる。
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墨俣城へはJR大垣駅から名阪近鉄バスで墨俣下車、徒歩約20分