垂井宿は、東海道宮宿に至る脇往還の美濃路との追分を控え、西美濃の交通の
要衝として栄え、宿場は相川橋南の東の見付から前川東の西の見付までの
七町(約766m)で、天保十四年(1843)の中山道宿村内大概帳によると、家数315軒、
宿内人口1179人(男598人、女581人)、本陣1、脇本陣1、問屋場3、旅籠27軒で
ある。
旅籠の数は、時期により変動するが、天和四年(1684)に十六軒
だったのが、寛政十二年(1800)には四十五軒と、三倍に増加している。
垂井宿は宿場だけでなく商業も盛んであったようである。
当時の様子を 「木曽路名所図会」 では、
「 駅中東西六七町ばかり相対して巷をなす。 其余散在す。 此辺都会の地として商人多し。 宿中に南宮の大鳥居あり。 」 と紹介している。
岐阜県の垂井町が江戸時代にはにぎわったとあるので、興味を持ち、 訪れることにした。
JR東海道本線の垂水駅で降り、
駅の北方にある相川橋北信号交叉点の東にある、T字路へ行った。
このT字路の角に、「お休処追分庵」という店があり、
「←中山道 美濃路→」 の木の道標と、
自然石の追分道標と、 「垂井追分道標」の 説明板が建っている。
説明板 「垂井追分道標」
「 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう
宿場でした。
追分は、宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。
道標は高さ1.2m、幅40cm、表に 「 是より 右東海道
大垣みち 左木曽海道たに ぐみみち 」 とあり、裏に 「宝永六年己丑十月 願主
奥山氏末平 」 と刻まれている。
この道標は、 宝永六年(1709) 垂井宿の問屋 奥山文左衛門が建てたもので、
中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。
また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。
平成二十一年一月 垂井町教育委員会 」
江戸時代、中山道と、東海道の熱田宿を結ぶ美濃路との追分になっていたところである。
「 美濃路は幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣・墨俣・起・萩原・
稲葉・清洲・名古屋を経て、東海道の宮宿に、あるいは、大垣で川船を利用して、熱田
で東海道に合流することができた。
松尾芭蕉も 「奥の細道」 で、大垣みちを歩いて大垣まで行き、そこで筆をおいている。 」
ここから、中山道を西に向かって歩き、垂井宿の遺跡を探してみたい。
その先には相川の支流が流れる、小さな川(梅谷川)があり、
そこに架かる追分橋を渡ると、相川橋北交差点がある。
その先には相川が流れている。
「 相川は、関ケ原宿北部の伊吹山南麓の明神の森に源を発し、
杭瀬川に合流する。
江戸時代、宿場の北を流れる相川は、川幅六十間(108m)の
暴れ川で、大洪水の度に流れが変わったので、橋はかけられなかった。 」
相川橋を渡っていると、左側に 「相川の人足渡場跡」 の説明板がある。
説明板「相川の人足渡場跡」
「 相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。
そのため、江戸初期には人足渡しによる渡川が主でした。
川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていた。
一方、通常は姫宮や朝鮮通信使などの大通行のときには木橋がかけられました。
垂井町 」
(注) 相川は大井川のように人足渡しで、享保八年(1723)の人足渡賃は一人に
つきちち(胸)切水時四十五文、腰切水時ニ十四文、ひざ上切時十六文でした。
橋を渡りきると、左側に大きな垂井宿案内板と、 その前に 「中山道垂井宿」 の石碑があり、 左側には 「東の見付」 の説明板が建っている。
説明板「東の見付」
「 垂井宿は中山道の起点、江戸日本橋から約四四○キロメートル、五八番目の
宿になります。
見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列
を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。
ここ東の見付から約七六六メートルにわたり、垂井宿が広がり、
広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。
垂井町 」
宿場の江戸方の入口は東町で、垂井宿は他の宿場と同様町内の二ヶ所で
折れて枡形をつくっていた。
最初の枡形は現在は三叉路になっていて、左に行くとJR東海道本線の垂水駅が
ある。
右折すると古い面影をかなり残している街並で、街道沿いの家には
旧業種と旧屋号を記した木札が掲げられている。
一本目の路地を左に入り、三叉路を右に進むと、 「美濃紙の発祥の地」 といわれ、
垂井の泉の清水を利用して紙を漉いた といわれる、 「紙屋塚」 があり、
紙屋の守護神紙屋明神が祀られている。
説明板「紙屋塚」
「 古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出
させた。 国においては戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。 ここの紙屋
も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。
又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割を
はたしてものと考えられる。 一説には美濃紙の発祥地とも言われている。
垂井町教育委員会 」
中山道はその先、左に湾曲していて、二つ目の枡形である。
右に少し入っていくと愛宕神社と山倉がある。
「 宝暦五年(1755)の大火を始め、度々大火がおきたため、 寛政年間(1789〜1800)ごろ、火防の神といわれた京都愛宕神社を懇請し、西、中 、東町内に祀ったものである。 山倉には八重垣神社の例大祭に使われる曳山が 収納されていて、五月二日〜四日、曳山の舞台ではこの上で子供歌舞伎が演じら れる。 」
枡形の正面に旅籠亀丸屋があり、当時の姿を残して今も営業している。
美濃路で営業中の旅籠は、細久手宿の大黒屋と二軒なので、貴重な存在である。
「 旅籠 亀丸屋」
「 亀丸屋西村家は垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿
を残して営業している貴重な旅館である。 安永六年(1777)に建てられた間口
五間、奥行六間半の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、
文明講の指定旅館であった。 当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る
珍しい造りである。
垂井町 」
亀丸屋のすぐ左側にある格子戸の建物が、かって問屋だった金岩家である。
説明板「垂井宿の問屋」
「 間口は5.5m、奥行は7.5mの金岩家は代々弥一右衛門といい、垂井宿
の問屋、庄屋などの要職を勤めていた。 問屋には年寄、帳付、馬指、人足指など
がいて、荷物の運送を取りしきり、相川の人足渡の手配もしていた。 当時の
荷物は必ず問屋場で卸し、常備の25人25疋の人馬で送っていた。 大通行が
幕末になると荷物が多くなり、助郷の人馬を借りて運送した。
垂井町 」
その先の英松堂菓子店の手前左側の安田歯科が本陣跡である。
「中山道垂井宿本陣跡」
の石碑があり、菓子屋との間に説明板が建っている。
説明板「垂井宿本陣跡」
「 本陣は宿場ごとに置かれた大名や公家などの重要人物の休泊
施設です。 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の
記録によると建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える壮大なもの
でした。 垂井宿の本陣職を務めた栗田家は酒造業も営んでいた。 本陣の建物
は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の
校舎に利用されました。
垂井町教育委員会 」
本陣跡すぐの左側、県道257号を跨いている大鳥居(石鳥居)は、 美濃一宮の
南宮大社のもので、両脇に常夜燈が建っている。
鳥居脇には、道標「 南宮社江八町」 があり、
南宮神社までは約九百百メートルである。
「 大鳥居は寛永十九年(1642)、将軍徳川家光が
南宮大社の社殿を再建した際、石屋権兵衛が約四百両を使い建立した明神型の
石鳥居である。
鳥居の横幅(内側)は454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周りは
227cmある大きなものである。
鳥居の扁額 「正一位中山金山彦大神」 は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王 の揮毫によるものである。 」
毎月五と九の付く日に南宮神社鳥居付近で六斎市が立ち、近郷から
集まった人々で大いに賑わいました。
大鳥居をくぐって、南へ向かうと、約百二十メートル先に、
「臥竜山玉泉禅寺」、「奥山僧坊大権現」 の石柱が建つ寺がある。
山門前の右側に、 垂井 の地名由来となった
「垂井の泉」 があり、岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。
木曾名所図会の「垂井清水」には
「 垂井宿玉泉寺という禅刹の前にあり、清冷にして味わい甘く寒暑に増減なし。
ゆききの人渇をしのぐに足れり 」 と記されている。
清水は、古代より枯れることを知らず、中山道を旅する人々の咽を潤し、
地元の人々の生活に利用されてきた。
現代の旅人にとってもこの水は一服の清涼剤である。
清水は、樹齢約八百年の大ケヤキの根元から、今もコンコンと湧きでている。
説明板「垂井の泉と大ケヤキ」
「 この泉は、県指定の天然記念物である。 大ケヤキの根元から湧き出し、
「垂井」 の地名の起こりとされる。
「続日本紀」 天平十二年(740)十二月条に見える、
美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った 「曳常泉」 もこの場所と考えられており、
古くからの由緒がある。
近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、
歌枕としても知られ、はやく藤原_隆経は
「 昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける
(詞花集) 」 と詠んでいる。
のちには、 芭蕉も 「 葱白く 洗ひあげたる 寒さかな 」
という一句を残している。
この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル、
このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。 」
この後、南宮大社へ向かう。
南に向かって進み、国道を横切って行くと、大鳥居が現れた。
コンクリート製と思うが、新幹線の車窓から見えるやつである。
東海一のスケールを誇り、
新幹線の車窓から間近に眺められる鳥居として有名である。
更に進むと、南宮山の山裾に、春日局が復興したといわれる、南宮大社の社殿が
現れた。
玉泉寺から八百メートル程の距離だっただろうか?
「 南宮大社は、南宮山の麓に鎮座する。
神武天皇即位の年にこの地に祀り、東山道の要路を鎮めたものである。
その後、第十代崇神天皇(すじんてん)の時代に、南宮山山上へ遷座し、
国府の南、あるいは古宮の南であったため、南宮という。
延喜式には名神大社で、美濃国一の宮として祀られてきた。
主祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で、全国の鉱山、金属業の総本宮として、
今も深い崇敬を集めている。 」
関ケ原の合戦の際、ここに布陣した
西軍毛利方の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に焼き払われたが、
寛永十九年(1642)、 春日の局の願いにより、 徳川三代将軍家光より再建された。
春日局は、ここで家光病気平癒の祈祷や家綱誕生の
祈祷を行っている。
「 当初、二十一年毎に式年遷宮が行われていたが、応永年間からは五十一年毎。 最近では昭和四十七年に行われた。 」
社叢の中に、朱塗りの回廊、楼門があり、社殿も立派なものである。
十五棟が国の重要文化財に指定されている。 」
「 垂井は日本武尊が来て、伊吹の神と戦ったところで、
南宮大社は鉱山の神を祀るが、その経緯は不明である。 神話では金山彦大神は
天津神から生まれたことになっているが、もともとは南宮大社の南にある南宮山
(標高419m)をご神体にした自然物に根ざした神だったと思う。
美濃国南西部の住民が祀る山の神(国津神)だったものが、
金属の精錬などに携わった伊福部氏などと結び付き、 天津神になったので
はないだろうか? 」
街道まで戻り、西に向かう。
鳥居の先に、江戸時代、金岩脇本陣があったが、建物は残っていない。
説明板「脇本陣跡」
「 脇本陣は宿場が開設した当時はなく、天保ニ年(1831)ごろに
なって設置されたようで、金岩家が幕末まで運営した。
建坪百三十五坪の建物に
玄関・門構があるものだったが、明治維新で宿場制度がなくなり、金岩家は大阪に
移り、取り壊されたが、一部のものが本龍寺に移築された。 」
少し行くと右手に元旅籠の長浜屋の建物がある。
戸は閉まっていたが、「垂井宿お休み処」 になっている。
「 天保弐年(1831)十三代将軍徳川家定に嫁ぐ皇女和宮の一行、
総数三千二百人が垂井宿に宿泊したおり、御輿担ぎ二十三人が泊まった」 という記録
が残っているという。
旅籠長浜屋は、鉄道の開通により、旅人が減少したため廃業し、
酒屋となり、平成十年ごろまでは営業していた。 」
その先の左側に、江戸時代 油屋を営んでいた屋敷がある。 油屋宇吉家の跡 である。
説明板「垂井宿の商家」
「 この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の
油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。 明治以後、
小林家が部屋を改造し亀屋と稱して旅人宿を営んだ。 土蔵造りに格子を入れ、
軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物
である。
垂井町 」
向いに浄土真宗大谷派東光山本龍寺がある。
門前に「明治天皇垂井御小休所」 の石碑が建っている。
明治十一年十月二十二日、明治天皇が北陸東海両道御巡幸の時、この寺で御小休された。
「 本龍寺は移築された金岩脇本陣の門と玄関を本堂横に持ち、
大鼓楼も残っている。
門前には代々高札役の藤井家が管理していた、横幅約五メートル、高さ
約四メートル、奥行約一・五メートルの高札場があったとされ、
高札には 「親兄弟を大切にすること。 キリシタンは禁止。 人馬賃表」 など、
六枚の制札を掲げられ、広報板的な役割を果たしていた。 」
山門と書院の玄関は、 金岩脇本陣から移築したものである。
本堂の裏には、芭蕉木像を納めた時雨庵があり、本堂の脇に「作り木塚」 という
句碑が建っている。
説明板「作り木塚と芭蕉翁木像」 垂井町指定史跡(昭和32年6月
15日指定)
「 俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号、規外)と交友が深く、元禄四年(1691)
冬当時にて冬籠りをした。 この間、次の句を詠んでいる。
木嵐に 手をあてて 見む 一重壁 (規外)
四日五日の 時雨 霜月 (翁)
作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 (翁)
いささらは 雪見にころぶ 処まで (翁)
芭蕉は奥の細道を終えた二年後の元禄四年(1691)の十月、寺の第八世住職、
規外を訪ね、冬籠りをした。 作り木塚は芭蕉没後のかなり経った文化六年(1809)
に住職の里外と白寿が芭蕉が詠んだ句 「 作り木の 庭をいさめる 時雨かな 」
に対して塚をつくり、句碑を建立したことに由来する。
安政二年(1855)、化月坊は住職世外と時雨庵を建て、句会を開き句碑を建立して
いる。 時雨庵の中に美濃派十五世国井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も大切に
保管されている。
平成二十一年一月 垂井町教育委員会 」
本龍寺前から大きく右にカーブする。
赤いレトロな郵便ポストを過ぎると、左側の小高い丘の上に、「垂井宿」 の石碑がある。
ここが垂井宿西見付跡である。
ここは垂井宿の京側の入口で、大名行列を迎えたり、非常事態の時にはここを閉鎖したところである。
道脇に、安藤広重の版画のプレートが置かれていて、
雨が降る中山道の松並木の中から現れた参勤の大名行列を出迎える宿役人の様子が描かれている。
西見付跡には火防の神愛宕神社が祀られている。
垂井宿の火除けと、宿内に入り込む悪霊を見張っていたのである。
以上で垂井宿を歩き終えたが、今も旅人が歩いているような、雰囲気が残っていた。
垂井宿 岐阜県垂井町垂井 JR東海道本線垂井駅下車。