赤坂宿は美江寺宿から二里八丁(約9q)で、
杭瀬川の舟運や谷汲街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わった。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
赤坂宿の長さは七町十八間(約730m)、家数は292軒、宿内人口は1129人(男576人、
女553人)、本陣が1、脇本陣1、問屋が3あり、旅籠が17軒と商家が軒を
並べていた。
中山道の赤坂宿を訪れようと、大垣駅から養老鉄道揖斐線に乗った。
三両編成のワンマンカーで、二駅で、東赤坂駅に着いた。
東赤坂駅の外、 踏切のある道が中山道である。
ここから西に向かって歩き始めた。
説明板
「 この神社は、奈良時代に百済国王の末裔が祖神を祭神として
奈良興福寺領だったこの地に祀ったのが始まりで、この地十三ケ村の総鎮守として、
五穀豊穣、福徳長寿の尊崇を集める古社である。 」
この神社は、奈良の興福寺とゆかりがあるようで、古に新羅から
渡ってきた帰化人と関係があるようなことが書いてあった。
中山道は菅野橋を渡り、赤坂菅野簡易郵便局先の三叉路を左に入る。
ここには 「中山道↑」 の道標が立っている。
旧道に入ると、左側に浄土真宗大谷派宝樹山徳蔵寺がある。
六百メートル程先、南方排水路を白山橋で渡る。
左側に白山神社があり、神社の由来でかなり昔からあることは分かったが、
建物は新しかった。
神社のすぐ先の左側民家前に、「史跡 中山道一里塚跡」 の標柱が建っている。
池尻とも青木の一里塚とも呼ばれ、江戸より百十里目である。
このあたりから赤坂港(あかさかみなと)までには、
大理石を加工している会社が多い。
以前は柱状で加工したのかもしれないが、
薄い板状にしてコンクリートの上に貼って全体を大理石と見せかけるプレートを生産している。
赤坂新町に入ると、左側に多賀神社がある。
多賀大社の分神を勧請したもので、本殿は昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で
甚大な被害を受け、翌年再建された。
多賀神社の先で、左後からくる国道417号と合流する。
美濃路(大垣道)の追分で
合流点の国道側に、 「左なかせんどう 右おおがき道」 と彫られた道標が建っている。
合流したところに杭瀬川(くいぜがわ)が流れ、そこに架かる赤坂大橋を渡る。
説明板
「 杭瀬川は岐阜県揖斐郡の池田山周辺に源を発し、
菅野川を吸収し、牧田川に合流する。
天武天皇元年(672) 壬申の乱で負傷した大海人皇子
(後の天武天皇)が、この川で傷口を洗うと、たちまちに傷が癒えたところから、
苦医瀬(くいせ)川と、当初呼ばれました。
本来の旧杭瀬川はこの先約240mに流れを残している。
昭和二十八年(1953)の河川改修で、流路が付け替えられました。 」
交差点を横切ると突然左に高い楼櫓(赤坂湊の灯台モニュメント)が見えてきた。
ここは、赤坂港(あかさかみなと)のあったところである。
説明板
「 現在は公園になっているが、江戸時代には杭瀬川がこちらに流れており、
ここに河港を設けて、赤坂特産の大理石や石灰を積みだす港として、賑わっていた。
杭瀬川は今は小さな流れになったが、1530年まではここが揖斐川の本流で、
当時の水量も多く川幅が広く、水運に盛んに利用されていた。
明治・大正期には石灰産業の発展にともなって、赤坂港には五百隻余の船が往来していた。
やがて鉄道輸送やトラック輸送に置き換わり使命を終えた。
その跡地が赤坂港跡公園として整備され、川灯台や明治の洋風建築の資料館が
残されている。 」
常夜灯は当時の名残りである。
隣接する洋館の赤坂港会館は、明治八年(1875)に
中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所を復元したもので、
今は赤坂に関する資料館になっている。 なお、トイレは資料館の裏にある。
街道の右側には昔懐かしいたばこの看板と建物。
左には袖壁の付いた古い建物が並んでいる。
自転車に乗って通りすぎる人や歩行者がレトロな町並みになぜか似合う。
鉄道線路があり、脇に 「赤坂本町駅跡」 の石碑が建っている。
「 線路は西濃鉄道のもので、石灰を運ぶための貨物列車が
一日三回通るという程度である。
最盛期には多くの輸送量を誇ったようだが、トラック輸送の時代になり、今では
本数が減ってしまった。
以前は乗客も運んでいて、その先のJR美濃赤坂駅に乗り入れていた。
石碑は当時の駅を示すものである。
西濃鉄道は古い車両
が多いのとスイッチバックが行われるので、鉄道マニアの間では有名のようで
ある。 」
左側のガソリンスタンドの隣の 「史跡 中山道赤坂宿本陣跡」 の標柱と
「本陣跡」の説明板が建っている。
ここは街道開道四百年を記念して、本陣跡を赤坂本陣公園として整備したものである。
説明板「中山道赤坂宿 本陣跡」
「 当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣
であった。
間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝ニ十九歩、建物の坪数は、
およそニ百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。
寛永以降、馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、
天明・寛政のころ暫く谷小兵衛が替ったが以後、
矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。
昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会 」
説明板の後方に和宮をしのぶ顕彰碑がある。
「 文久元年(1861)十月二十五日、暮七ツ時(午後四時頃)
皇女和宮は赤坂宿矢橋本陣に到着し、宿泊(五日目)しました。
翌朝五ツ時
(午前八時頃)本陣を出立、彦根藩約一千七百名、大垣藩約一千三百名が警護し、
その隊列は十町(1.1km余り)に及びました。
大垣藩は皇女和宮通行の前後三日間の街道通行禁止、宿泊当日より翌日夕方まで
焚き火、鳴り物を禁じました。 」
本陣公園に、所郁太郎(ところいくたろう)像 がある。
「 所郁太郎は、この先の虚空蔵口バス停の所に、 「憂国の青年
志士所郁太郎生誕地」碑があるが、
天保九年(1838)赤坂宿の酒造家矢橋亦一(やばしまたいち)の四男として生まれ、
幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養嗣子となり、 初め、横山三川に
漢学を習い、次に 美濃加納藩医青木養軒に医学、 三宅樅台(しょうだい)に
文学歴史を学び、 十八歳で京に出て安藤桂州塾で蘭学を学び、
さらに大阪の適塾に入門し、緒方洪庵に西洋医学と洋学を学びました。
この頃より長州藩士との親交を結び、江戸長州藩邸内の医院総督となりました。
文久三年(1863)の政変により、三条実美等の七卿落ちに従い、長州入りしました。
この時に刺客に襲われ瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨)
の刀傷を畳針で五十針も縫合し、一命を取り留めています。
「医は人の病を医し、大医は国の病を治す」 の信念で、国事に奔走しました。
遊撃隊参謀として高杉晋作を補佐し、幕府の長州征伐に備えましたが、
慶応元年(1865)三月十二日 腸チフスに罹り、吉敷村の陣営で死去しました。
享年二十八歳でした。
日蓮宗妙運山妙法寺の参道口の左側に、「史蹟所郁太郎墓」 石碑があり、
墓は墓地内にある。 」
街道に面して二階建てを模した旧家が数軒残されている。 お嫁入り普請 の家である。
「 皇女和宮の通行に際して、見苦しい家があっては 非礼とのことで、一階建ての家を中二階のある在る家に五十四軒が建て直 された。 これをお嫁入り普請といい、費用は幕府より十年債で借用しましたが、 三年後に幕府は崩壊し、借金は帳消しになりました。 」
この先、右にカーブし、十字路になっているが、このあたりが赤坂宿の中心
だったところである。
右側の赤坂歯科医院の所に、赤坂宿の四ツ辻があり、四ツ辻手前の右側に、
「史跡中山道
赤坂宿」 のモニュメントと、天和三年(1683)建立の 「谷汲山観音夜灯」 という道標
を兼ねた常夜灯がある。
説明板「赤坂宿」
「 赤坂宿 東 美江寺へニ里八町 西 垂井へ一里十二町 」
「 近世江戸時代五街道の一つである中山道は江戸から京都へ百三十一里の道程に
六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当る。
大名行列や多くの旅人
が往来しまた荷物の輸送で交通は盛んであった。
町の中心にあるこの四ッ辻は
北に谷汲(たにぐみ)巡礼街道と南は伊勢に通じる養老街道の起点である。
東西に連なる街筋には本陣脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて
繁盛していた。
昭和五十九年三月 史跡赤坂宿環境整備員会 大垣市商工会 大垣市
」
右手の北への筋は、西国三十三観音霊場の満願寺谷汲山華厳寺への谷汲巡礼街道
で、左の筋は、伊勢に通じる養老街道である。
四辻の左角にある大きく、長く左右に続く屋敷は、本陣を最後に務めた矢橋家で
ある。
東西南北百メートルの敷地に、天保四年(1833)に建てられた大型町屋で、
国の有形文化財に登録されている。
矢橋家に続く矢橋グループ本社の隣が飯沼家が務めていた脇本陣跡。
脇本陣の飯沼家は、問屋と年寄役を兼ね、建坪百二十坪以上の建物であった。
明治維新後一部が解体されて、旧赤坂町役場となったが、母屋は榎屋旅館として、
最近まで営業していた。
説明板「脇本陣跡」
「 江戸時代、中山道赤坂宿脇本陣は当家一ヶ所であった。
大名や貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され、
屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。
当所は宝暦年間
以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を務め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新
に及びその制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至って
いる。
昭和60年8月 大垣市赤坂商工会観光部会 」
交叉点を左折し、JR美濃赤坂駅に立ち寄った。
「 赤坂駅はJR美濃赤坂線の終着駅である。
といっても、赤坂線は大垣駅から赤坂までの五キロを結ぶだけの大変短い路線で、
時間によっては三時間に一本もないというダイヤ編成である。
西濃鉄道の始発駅でもあり、石灰輸送のための貨物輸送と朝夕の通学・通勤のための鉄道といってもいいすぎでないだろう。 」
駅南西の高さ五十メートルあまりの小高い丘には、関ヶ原合戦の前夜、家康が 陣を構えた 「勝山家康本陣跡」 がある。
「 家康が陣を構えたときは岡山という名前
だったが、合戦に大勝を納めたことから勝山に変えられたといういわれがある。
徳川家康の物見台からは、赤坂宿を一望することができる。
近くの安楽寺は、聖徳太子が創建したと伝えられる寺で、
大垣藩家老で忠臣蔵に出てくる赤穂城受取人の戸田権左衝門の墓がある。 」
四辻(交叉点)に戻る途中、少し 入ったところに将軍専用の休泊所である 「お茶屋屋敷跡」 がある。
説明板「史跡 お茶屋屋敷跡」
「 ここは慶長九年(1604)徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた
将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、
周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廊を本丸といい厳然とした城廊の構えで
あった。
現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上
重要な遺跡である。
大垣市教育委員会 」
門をくぐると竹林があり、 正面の小高いところに
は日本家屋があり、興味を引いたが、 個人住宅で入ることも覗くことも出来ない。
庭にはボタンの木が多く植えられていて、ボタン園として有料公開しているよう
だが、 これといって見るべきものはなかった。
「 茶屋屋敷は岐阜城から移築した御殿のほか、六十一棟も
ある大規模な屋敷であったが、燃えてなくなった。
明治維新後、土地は民間に払い下げられたが、
寛政年間から本陣を務めた矢橋家がこの遺跡を守り、ボタン園として一般に
公開している。 」
四辻まで戻り、西に向かう。 左側にお嫁入り普請探訪館がある。
皇女和宮一行が通るということで、見栄えをよくするため、改造された 「姫普請」
といわれるものである。
道の向かいの日蓮宗妙運山妙法寺の入口には、 「史跡所都太郎墓」 と、
「史跡戸田三弥墓」 の石柱が立っている。
墓は墓地内にある。
「
戸田三弥(さんや、寛鉄)は、文政五年(1822)に大垣藩家老の家に生まれました。
幕末維新の際には藩老小原鉄心と共に紛糾する藩論を勤王に統一するのに尽力し、
また、戊辰戦争では大垣藩が東山道先鋒を命じられると軍事総裁として
東北各地を転戦し軍功を上げました。
維新後は新政府の要職を歴任しました。 」
右側に子安神社の標柱と、「←こくぞうさん」の案内があり、その右側には 「憂国の青年志士 所郁太郎生誕地」 の石柱が建っている。
路地を入ると、坂の上りかけに、子安神社がある。
皇室と関係が深い神社で、
境内には 「女性がこれにまたがると子が授かる」 といい伝えられる、
神功皇后の鞍掛石がある。
説明板「子安神社御由緒」
「 当子安神社は神功皇后、応神天皇の二柱を奉祀し、千八百年の昔より
安産守護の神として遠近よりの崇敬があつく、殊に大垣藩主戸田家のご帰依
浅からず、社殿の寄進を始めその他の供物等絶えず代々城主奥方ご妊娠の折
りには境内の竹を用いてご産刀を作り安産を祷り給ふに霊験顕著なり。
三代将軍家光もこの由を聞き召され戸田家に命じ、代々ご産刀を献ぜしめる。
皇室でも大正十四年十一月以来、皇室御慶事の都度ご産刀を奉献する。
昭和三十五年皇太子妃美智子殿下御懐妊に際し、お守りとご産刀を奉献する。
皇太子妃雅子妃殿下御懐妊に際し平成十三年九月二十六日御安産を祈願し、
当社のご産刀を奉献し目出度くご安産遊ばさる。 (以下略) 」
さらに坂を登ると金生山神社(きんぶやまじんじゃ)がある。
金生山明星輪寺の鎮守として祀られている蔵王明神社で、鍛冶屋など鉄を
司どる神様である。
「 金生山神社が別名、
石引神社といわれるのは寛永十年(1633)、大垣藩主・松平越中守が大垣城の普請
の際、石垣の石をここで採取して大垣まで運ばせた」ことに由来する。
この神社までは街道から一キロ弱だが、かなりの坂道である。
この奥には日本三大虚空蔵の一つといわれる金生山明星輪寺がある。
往復三キロ強かかるので、引き返すことにした。
眼下には赤坂や大垣方面の
景色が見え、すこし霞んではいたが、充分満足できた。
「 金生山明星輪寺は持統天皇の命で創建されたと伝えられる 千三百年余の由緒ある寺で、開基は役の行者小角が朱鳥元年(686)三月、初願して 着手、二年後の七月に落成して、七堂伽藍を始め一山五坊を創立、自ら虚空蔵菩薩 の尊像を石に彫刻して祀ったというもの。 また、平安時代末期の木造地蔵菩薩 半跏像(国宝)を所蔵している。 伊勢の朝虚空蔵、京都嵐山の昼虚空蔵と並んで 宵虚空蔵と呼ばれて、日本三大虚空蔵の一つである。 」
戻る坂の途中には八王子神社ほか、
石山神社や秋葉神社など多くの神社や寺があり、赤坂宿の往時の隆盛を感じた。
街道に戻り、赤坂西町バス停を過ぎると左側に
「史跡赤坂宿 御使者場跡」 の石碑がある。
「 御使者場は参勤の大名や公家通行の際、宿役人や名主 が送迎を行った場所で、ここが赤坂宿の京方(西)の入口である。 」
階段を登ったところに、 「兜塚」 がある。
石碑「兜 塚」
「 この墳丘は、関ケ原決戦の前日の慶長五年(1600)九月十四日、杭瀬川の戦いに、
笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将・野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと
伝えられている。 以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員
会 」
赤坂宿はここで終わなので、美濃赤坂駅まで戻り、帰宅した。
赤坂宿 岐阜県大垣市赤坂 JR東海道本線美濃赤坂線美濃赤坂駅下車。