江戸時代の大垣は、大垣藩の城下町であると同時に、美濃路の宿場町であった。
また、 川運の船町港があり、水門川から揖斐川、そして、伊勢や桑名へと結び、
経済都市として、発展していた。
美濃俳諧の盛んな地で、松尾芭蕉は、奥の細道の旅の終着地に選んでいる。
市内の至るところに、芭蕉やその弟子達の句碑が建っている。
美濃路は大垣城を避けるように、十の曲り角を通り抜けるルートであった。。
美濃路を辿り、大垣の町を歩いてみたい。
大垣駅で降り、大垣駅南口の東南にある・伝馬西交差点から、旅を始める。
伝馬西交差点の東西に延びるみちが、江戸時代の美濃路である。
「 美濃路は、名古屋の熱田の東海道と、中山道の垂井追分を結ぶ脇街道であった。
大垣は、大垣藩の城下町であると同時に、美濃路の宿場町であった。
美濃路は、大垣城を避けるように、十の曲り角を通り抜けるルートであった。 」
交叉点を西に進むと、右側に 造り酒屋の武内酒造がある。
連子格子の家で、「金賞受賞紅梅」 や、 「大垣城」 などの銘柄を書いた看板があった、。
その先の右側には、大垣市消防団東分団の火の見櫓がある。
その先の道は、枡形のようになっている。
右に曲がり、正面は塀で覆われている、変則的な交差点である。
塀の前に、 「 美濃路 名古屋口御門跡」 の石柱と、説明板が建っている。
ここは、大垣城の名古屋側の入口があったところである。
説明板「東総門(名古屋口門)」
「 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総門の総掘内には、
古来から町屋である、本町・中町・魚屋町・竹島町・俵町があり、
その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
東方に位置する東総門は、 名古屋方面にあることから、 名古屋口門 とも呼ばれ、
明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じされた。
この門を設け、 総掘に橋を架けることにより、
有事の際に、外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。
門の近くには、二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。
ここには、中山道の赤坂宿へ向かう街道の門も、併設されていた。 」
「名古屋口御門跡」 の石柱の右側の道に入ると、
左側に、水門川が流れている。
道の右手には、稲荷神社がある。
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道の左側の裏側には水門川が流れていて、 先程の塀の裏は円い舞台のようになっていて、階段で水の傍まで歩いていけた。
「 江戸享保年間の地図を見ると、
交差点の東側は水門川が流れるお濠で囲まれていて、
道の一角に名古屋口門に入る橋があり、 水門川は円い舞台の下を通り、
道に沿って西に流れている。
粟屋公園の右手から、円い舞台で西に方向を変え、新大橋交叉点の先で、
南に流れているのは大垣城の堀の名残りであろう。 」
美濃路は、 「名古屋口御門跡」 の石柱で、左に折れて南へと向かう。
左側に、貴船神社が祀られている。
「 大垣宿は、戸田氏十万石の城下町だったので、
大垣城を避けるように、道が曲折していた。
名古屋口門から西の総門の京口門までは、十町五十九間(約1.1キロ)の長さだったが、
その間に十の曲がりがあったのである。 」
これが一番目で、本町1丁目を進むと、右側に山川医院がある。
一筋目の赤いポストのある交差点を右折する。
これが二番目の曲がりである。
少し歩くと、きれいなタイルの敷かれた、 本町商店街通り に出る。
美濃街道は、ここで左折する。 これが三番目の曲がりである。
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交差点の右側の元公衆電話ボックス脇に、「高札場跡」 の説明板があり、 昭和初期の高札場跡の写真が添付されていた。
説明板「高札場跡」
「 本町の北○○札の辻と呼ばれ、ここの地に、
幕府からの禁制や通達事項を板札に書いて掲げる高札場が設けられていた。
(この後三行、文字消失により解読不能)
明治六年に廃止されたが、この高札場は、昭和になっても、掲示板として使用されていたようである。 」
アーチのある本町通りを歩く。
右側に本町薬局があり、
その先の交叉点の手前に、田中屋煎餅総本家がある。
店の前の郵便ポストの奥に、
「 美濃路大垣宿脇本陣跡 」 の石柱と、説明板が建っている。
説明板「大垣宿脇本陣跡」
「 脇本陣は、本陣の補助的役割を果たす休泊施設である。
大垣では、本町大手の北側にあって、
もと関ヶ原の役で、大垣城を守った七騎の一人・ 松井喜右衛門によって創立された。
その後、戸田家の大垣入封に随従した、上田家が勤めるようになった。
この脇本陣は、「本町本陣」 と呼ばれ、間口十二間半余、奥行き十六間半余で、
坪数百二十七坪半余もの格式ある建物だった。 」
田中屋煎餅総本家の交差点を右折すると、
右側の水路の上に、赤い囲いと、青い屋根の祠がある。
その左手に、古い石標、その奥に 「廣嶺神社」 の石柱と鳥居がある。
水路は大垣城の内堀跡で、ここ一帯は
大垣城東口の大手門跡である。
左端に 「大垣城大手門跡」 の説明板、
鳥居に脇には 「大垣市指定史跡 大手門跡」 の説明板が建っている。
説明板「大垣城大手門跡」
「 大垣城の東にあり、大垣城の正門である。
町屋の本町に通じていた。 現在、廣嶺神社が建てられており、
神社の東の水路がかっての内掘である。
城主氏家常陸介直元(ト全)のとき、松之丸に住んでいた、
松井喜右衛門に替え地をさせ、この地の警固を命じている。
大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手とする要害堅固な城郭であり、
惣郭には、大手・南口・柳口・竹橋口・清水口・辰之口・小橋口 の七口之門があった。 」
説明板「大垣市指定史跡 大手門跡」
「 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手とする要害堅固な城郭であった。
惣郭には、大手口、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口御門があり、
なかでも、この大手口御門は城の正門で、
はじめに、 高麗門 と呼ばれる第一の門をくぐって、
左に折れると、威風堂々とした第二の門である 櫓門 につきあたる、
二重に城門を配した枡型形式の堅固なものであった。
明治四年(1871) 大手門を取り壊したおりに、 その枡型跡に廣峯神社を移築した。
そのため、同神社境内は大手門北部の原形をよくとどめ、
東側の石垣は往時のままである。
また、その名残で、今もこのあたりを、本町大手 または 大手通り、大手町 などと呼ぶ。
大垣市教育委員会 」
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美濃路は交叉点に戻り、南下であるが、大垣城へ立ち寄る。
本丸跡にあった「大垣城 関ヶ原の戦い」 の説明板を最初に紹介する。
説明板「大垣城 関ヶ原の戦い」
「 大垣城は、別名を巨鹿城とも呼ばれ、
天文4年(1535) 、宮川安定が、創建されたとされる。
永禄四年(1561)に、氏家直元(卜全)が、城郭を整備し、 天正から慶長にかけて、
歴代城主によって天守が築かれた。
豊臣秀吉は、大垣城を 「 かなめの所、大柿の城 」 と語り、
織田信長や秀吉と関わりの深い一門が、歴代の城主を務めるなど、
関ヶ原の戦いより前から重要な拠点とされてきた。
秀吉の死後、石田三成らを中心とした西軍と、
徳川家康を中心とした東軍の対立が激しくなり、
両者の戦いは避けられないものとなった。
慶長五年(1600)八月十一日、西軍を率いる石田三成は大垣城に入り、 西軍の拠点とした。
当初、東軍、西軍ともに大垣城が天下分け目の戦場となると考えており、
家康は水攻めを企てていたとも、言われている。
なお、関ヶ原の戦いでの決戦後、大垣城は一週間の戦いを経て、開城している。
関ヶ原の戦い後、慶長十八年(1613)には、二の丸石垣等の整備が進むとともに、
西は水門川、東は牛屋川を外堀に利用した、壮大な城郭となった。
その後も、城主・戸田氏の時代に、櫓や城門が配置され、
枡形虎口・馬出し・横矢等、・敵襲に備えるつくりが築かれるとともに、
外堀周辺には、武家屋敷や町屋、美濃路が計画的に配置されていった。 」
大垣城へは大手門をくぐり、直進すると内掘があり、 左折する右側に大垣城東門と隅櫓がある。
「 現在の東門は、大垣城の七口之門の一つであった柳口門が、 天守が復元された昭和三十四年(1959)に、 現在地に移築されたものである。 」
東門をくぐると二の丸跡である。
江戸時代には、 二の丸は本丸と共に、水堀で囲まれていた。
本丸の一角にある現在の天守は、昭和三十四年(1959)に、鉄筋コンクリート構造で、
外観復元されたものである。
「
慶長元年(1596)に完成したと伝えられる天守は、 四重四階建て、総塗りごめ様式を
取り入れた優美な城として名高く、 明治の廃城令でも破壊は免れ、昭和十一年には国宝に指定された。
しかし、昭和二十年七月、大垣大空襲により焼失。
天守再建の際参考にされたの郡上八幡城である。
郡上八幡城の天守は、昭和八年(1933)に木造で再建されたが、
参考にされたのが大垣城の天守であった。 」
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街道に戻り、道を南下するが、
江戸時代には旅籠や商家が並び賑わっていた所である。
本町2交差点で県道237号を渡り、直進すると、
一筋目の交差点の左向こう角にあるハウジング金物センター前に、
「 左江戸道 右京道 」 と書かれた、本町道標がある。
「
文政九年(1826)に建立されたものを昭和四十八年に復元再建したものである。
この道標は、美濃路と竹鼻街道の分岐点に建てられたものである。
宝暦の治水工事の完成と宝暦十一年の駒塚の渡しの開設で、
竹鼻街道は美濃路の短絡道として大いに利用された。 」
道の反対にある呉服屋には、「 この通りは旧美濃路です 」 、
と書かれた標札が貼ってあるが、ここで右に曲がる。 これが四番目の曲がり。
大垣は呉服屋が多いように思う。
先程の本町にも何軒かあったし、この先の左側にも、もう一軒あった。
交差点に出たら、左折する。 これが五番目の曲がり。
南へ二筋行った右角に、「 美濃路 大垣宿問屋場跡 」 の石柱が建っている。
ここが六番目の曲がりで、この家の角を右折する。
説明板「問屋場跡」
「 宿場において人馬の継ぎ立ての業務を行った所が問屋場である。
ここへは問屋役をはじめ、その助役の年寄。
事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。
大垣宿の問屋場は本町にあったが、寛文の頃にここ竹島町に移った。
問屋場は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた。 」
宝来屋の看板があるこの家の壁には、
大垣の宿場や美濃路についての手作りの説明や地図、見取り図などの街道グッツが、
壁一面に貼られていた。
右折して西へ向かうと、右側に白い塀を背に、「明治天皇行在所跡」 の石碑がある。
その奥の竹島会館の玄関には、
「 美濃路 大垣宿 竹島本陣跡 」 の看板が架かっているが、
ここが江戸時代大垣宿の本陣があったところである。
明治天皇は、明治十一年(1878)の十月二十二日、東海・北陸御巡幸の帰途、
美濃路大垣宿旧本陣だった、 飯沼武右衛門邸に宿泊されている。
説明板「大垣宿本陣跡」
「 本陣は、宿場のほぼ中央に位置し、大名や宮家・公家・幕府役人などの貴人が
利用した休泊施設である。
大垣宿本陣は、永禄の頃、沼波玄古秀実が竹島町を開き、
はじめて本陣を創立した、と伝えられる。
以後、本陣役は、宝暦五年(1755)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、
天保十四年(1843)には飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。 」
神社の境内に、芭蕉の伊吹塚があり、次の句が刻まれている。
「 其のままよ 月もたのまし 伊吹山 桃青(芭蕉) 」
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本陣跡を過ぎると広い通りに出る。
これは県道57号大垣停車場線である。
俵町バス停があり、この道を左折し、南下する。 これが七番目の曲がりである。
この角にある家は、街路樹で妨げられて良く見えないが、大きく立派な町屋である。
ここからは俵町で、一筋目の信号交差点を右折して、県道を越えて直進する。
これが八番目の曲がりである。
その先の右側にある白壁の卯建が上がった家は、
創業、宝暦五年(1755)、 柿羊羹 の つちや本店 である。
「 柿羊羹は、槌屋四代目が天保九年(1838)に考案し、 五代目の明治二十九年(1896)から竹の容器が使われるようになった、という。 」
槌屋を通り過ぎると、 次の道(はな街道) の所から、道幅が広くなった。
広くなった道の左側の歩道を歩くと、「 史跡 飯沼慾斉邸跡 」 の石柱があった。
「
飯沼慾斉は、美濃国 大垣の医者の飯沼長顕に学び、
その後、京都に出て本草学を修めた、という人物である。
石柱を過ぎた交差点の右側には、「飯沼慾斉先生」 と書かれた銅像が建っていた。 」
美濃路は交差点を左折し、南へ向う。 これが九番目の曲がり。
牛尾川に架かる京橋の手前左側に、「 大垣城西総門跡(美濃路 京口御門跡) 」 の石柱が建っていた。
説明板「西総門(京口門)」
「 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総掘内には、古来からの町屋である本町・
中町・魚屋町・竹島町・俵町があり、
その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
西方に位置する西総門は、京都方面にあることから、 京口門 とも呼ばれて、
明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。
この門を設け、総掘に橋を架けることによって、
有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。
門の近くには、二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。 」
橋を渡ると、この辺りから船町である。 右手の水都公園には、トイレや観光ボランティアガイドセンターがあり、 左側には、大きな円柱状の 船町道標 があった。
説明板「船町道標」
「 この道標は高さ約2mの円柱状の石製で、
文政年間(1818〜1830)に、大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立された。
その側面には「 左 江戸道 」「 右 京みち 」 の道案内、そして、上部には
旅人の道中の安全を願い、梵字(種子)が、深く刻まれている。
先の大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたが修復され、
往時の美濃路を偲ぶ貴重な民俗資料となっている。
大垣市教育委員会 」
右側の川は水門川で、江戸時代には大垣城の左側の外濠になっていた。
右手の貝殻橋を渡ると、奥の細道むすびの地記念館(総合福祉会館)がある。
その庭には芭蕉の句碑が二つあった。
その一つには下記の句が刻まれていた。
「 ふらすとも 竹植る日は みのと笠 芭蕉 」
もう一つの句碑は
「 さびしさや すまに勝ちたる 浜の秋 はせお 」
である。
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貝殻橋に戻り、水門川の左岸を下ると、住吉公園碑と、
「飛騨、美濃さくら三十三選の地」 「奥の細道むすびの地」 の石柱が建っていた。
川沿いには、その他、いろいろな碑が立っている。
細くて背の高い碑が、奥の細道文学碑で、 碑面には、奥の細道のむすびの章の一節が、刻まれている。
次にあるのが、 如行の霧塚 といわれるもの。
「 霧晴ぬ 暫ク岸に 立給え 如行 」
如行は大垣藩士の近藤源太夫で、この家に人々が集まって、
芭蕉の無事の到着を喜びあっている。
赤い手摺と欄干に疑宝珠が乗った木造の橋 ・ 住吉橋の手前に、 芭蕉ゆかりの句碑の案内碑が設置され、地図と写真入りで詳しく紹介されていた。
赤い橋から南を見ると、水門川に一隻の船が繋がれ、
その先に木造の高い塔と神社の社殿が見える。
近づいてみると、その脇に、 「船町港跡と住吉燈台」 と書れた説明板があった。
説明板
「 船町港は、江戸時代から明治時代にかけて、
大垣城下と伊勢桑名を結ぶ運河 「水門川」
の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。
明治十六年(1883)には、大垣―桑名間に結ぶ蒸気船が就航したが、
昭和期に入ると、鉄道の発達に伴い、衰退した。
住吉燈台は、元禄年間(1688〜1704)前後に、
港の標識と夜間の目印として建てたものである。
高さ約8m、四角の寄棟造りで、最上部四方には、油紙障子をはめこんであり、
形全体の優美さは、芸術品としても、十二分に価値がある。
大垣市教育委員会) 」
享保年間の大垣城下の地図を見ると、このあたりは濠が南に続き、
その西側は土塀が囲んでいる。
そして、この先の高橋の先が川幅が広くなっていて、 船入 と表示されている。
写真が捕られた年代は分からないが、旧船町港である。
船町港には、停留されているような船が活躍して、水門川から揖斐川、
そして伊勢や桑名へと結び、舟運により大垣は経済都市として発展した。
川燈台の隣の赤い鳥居は、住吉神社のものである。
この神社はもちろん海上の守護神である。
住吉神社を過ぎると、高橋交差点で、左右の道は県道31号岐阜垂井線である。
美濃路は、交差点を右折し、右側の高橋を渡り、水門川を越える。
これが最後、十番目の曲がりである。
橋を渡ると、大垣宿は終りとなる。
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大垣市は、高橋を渡ってすぐの所に、「 住吉灯台、船町港跡 」
と書かれた観光案内板を設置し、美濃路のルートや説明をしている。
その隣に、 「奥の細道むすびの地 」、側面に、「芭蕉生誕三百六十年記念2004年 」 と書いた標柱がある。
「
松尾芭蕉は、元禄弐年(1689) 三月二十七日(太陽暦五月十六日)、深川の庵を出て、
東北地方から日本海側に出て、敦賀に入ったのが、
八月十四日(同九月二十六日)であるが、、
終焉地の大垣にはいっこうに現れなかった。
しびれをきらした門下の一人・路通が、 敦賀まで迎えに行き、芭蕉が大垣に着いたのは、八月末(同十月上旬)である。
曽良も、養生先の伊勢から駆けつけ、如行を始め、全員で芭蕉の無事を喜んだ。
しばらく逗留してから、九月六日(同十月十八日)、船問屋の木因宅から曽良と共に、
伊勢神宮の式年遷宮を見るため、大垣を後にした。
およそ百六十日に及ぶ奥の細道の旅の疲れが抜けぬまま、
芭蕉は多くの門人に惜しまれながら、桑名に向かったのである。 」
その様子を描いたのが、「 芭蕉翁と木因翁 」 と書かれた台座の上の銅像で、 伊勢へ旅立つ芭蕉とそれを見送る木因の像である。
その像の先には、谷木因の道標がある。 /p>
「
木因は、芭蕉の歓迎の意を込めて、建立したと伝えられる道標で、
表面には「 南いせ くわなへ十り ざいがうみち 」 と書かれている。
くわなへは、伊勢の桑名と季語の桑苗を掛詞しており、
道しるべの方向を俳句で表しているものは、大変珍しい。 」
その奥には、四角い石に丸く掘り込んだ中に、奥の細道結びの句が彫られている。
この句は、普通は、ふたみに であるが、ふたみへ となっているのが初案だという。
「 蛤の ふたみに別 行秋ぞ 芭蕉 」
続いて、縦長の大きな自然石に彫られているのが、 木因白桜塚 と呼ばれるもの。
「 惜しむひげ 剃りたり窓に 夏木立 白桜下(木因) 」
前述した以外では、大垣を離れて伊勢に旅立つ日、
芭蕉は友と送別の連句のやり取りをした連句塚。
秋の暮れ行く先々は苫屋かな 木因
萩にねようか荻にねようか 芭蕉
霧晴ぬ暫ク岸に立給え 如行
蛤のふたみへ別行秋ぞ 芭蕉
芭蕉をひとときでも留めようとする如行の句に対し、 芭蕉は別れを惜しみつつ伊勢二見への新たな旅の決意を示していると言われる。
住吉橋の先にあるのは、大きな自然石に彫られた 三反句塚である。
隠家や菊と月とに田三反 芭蕉
(注) 住吉公園は、先程歩いた水門川の東側とこちらの西側を含めた区域で、
その中心をなすのは芭蕉と弟子たちの句碑で、
住吉橋近くに、芭蕉句碑の案内板がある。
それを参考にして、見学するとよいだろう。
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美濃路は、高橋町交差点から西へ向って、県道31号(大垣垂井線)を進む。
ここからしばらくの間、古い町屋が多く残っている。
二階が低く格子造りで袖壁を持っていたり、
黒い腰壁に覆われた大きな二階建ての蔵があったり、
両側に卯建のある家があったりする。
船橋4交差点を越えて歩いて行くと、左側の黒い漆喰壁の家の先に
、 「みつめはし 」 と、書かれた石柱があったが、どういう意味だろうか?
船橋5交差点と船橋6交差点を越えて進むと、左側の常楽寺には、
「旧戸田藩祈願所」 とあり、
「 弘法大師が四十二歳の時作った毘沙門天王を祀っている 」、とあった。
その先は船町7交差点で、地下道をくぐり、対面に出る。
その先、左側の工業高口バス停の左側に、愛宕神社の鳥居がある。
その奥には 「玉の井山車」 と、「恵比須山車」 の格納庫があり、
小高いところに社殿がある。
なお、バス停の手前には、「いつつめはし」 と書かれた石柱があった。
神社の隣の正覚寺入口には、 「史跡 芭蕉 木因遺跡」 という大きな石柱が建っている。
木因は、船町の船問屋の家に生まれ、名は正保 丸太夫と称し、木因はその号である。
説明板「 大垣市指定史蹟 芭蕉・木因遺跡 」
「 俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、
俳友・谷木因(たにもくいん)をはじめとした大垣俳人を訪れてのことである。
木因は、芭蕉と同門で、 北村季吟から俳諧を学んだ。
そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士・近藤如行らと、
貞享、元禄年間に大垣俳人の先駆をなし、多くの俳人を芭蕉門下とした。
元禄7年(1694)、芭蕉が大阪で病没すると、如行らはこれを深く悼み、
正覚寺に、路通筆 「芭蕉翁」 追悼碑を建てた。
さらに、木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て、
「芭蕉・木因遺跡」 とした。
大垣市教育委員会 」
中に入ると、正覚寺の本堂の先に、いくつかの碑がある。
これらが説明板にある、芭蕉 木因遺跡である。
「芭蕉翁」 と書かれた丸い自然石は、
芭蕉没後百日目の追善法要として建立された追悼碑で、
路通の筆で、「芭蕉翁 元禄七戌年十月十二日」 と、刻まれている。
左側の丸い石碑が木因碑だろうか?
その他にも、「 あかあかと 日はつれなくも 秋の風 芭蕉 」 などの句碑があった。
その先の久瀬川町2交差点で、美濃街道の跡を辿り、大垣宿と大垣城を歩いた旅を終えることにした。
「 大垣は俳句をたしなむ人には聖地といわれるだけのことはある。
大垣宿の歩きでは、美濃路と芭蕉の句碑と両方楽しめてよかった。 」
この交叉点を右折し、北に向かうと、養老鉄道(旧近鉄養老線)の西大垣駅がある。
この駅から帰宅の途に着いた。
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旅をした日 平成二十一年(2009)一月二十九日