岐阜は歴史に富む町である。
信長の時代には、安土城の原型になった、山城の岐阜城があった。
江戸時代には岐阜町の南部に、岐阜城を壊した資材などで、加納城が造られ、
中山道の宿場町になった。
城が無くなった、岐阜町は製造業と商人の町になり、川運も盛んで、
繁昌した。
尾張藩が、毎年、長良川産の鮎鮨を江戸幕府に献上したが、
その際に利用されたのが、岐阜街道。
将軍献上のお鮨が運ばれたことから、御鮨街道と呼ばれた。
今日は、御鮨街道の道筋を辿って、河原町から加納城・加納宿跡を探索し、名鉄茶所駅まで歩いてみたい。
岐阜城の天守が見える城山の麓の川原町から、旅は始まる。
川原町は、長良川の川湊のあったところに位置する。
湊町・玉井町・元浜町が統合され、今の川原町になっている。
「 岐阜は、戦国時代、斎藤道三や織田信長の居城があったが、
徳川家康は、慶長六年(1601)、岐阜の南の加納に城を築かせ、岐阜城を廃してしまう。
岐阜町は、尾張藩の支配下におかれたが、長良川を利用した川船交通により,
全国から物資が集まり、富める商人の町に変わっていく。
また、加納は中山道の宿場町であったが、松平氏の城下町でもあったので、
宿泊を嫌う旅人は岐阜町に宿泊するようになっていった。
岐阜提灯も旅人の土産により、全国に普及した。 」川原町には、今も、商家が立ち並び、重厚な佇まいが残っている。
といっても、飲食店や旅館や小物を扱う観光向けの店だけで、
江戸時代のような商売をしている家はなくなっているように思えた。
物流が変わってしまったので、当然だろうが・・・
長良大橋の手前の左側に、「ポケットパーク鵜かがり」 があり、
鵜匠が鵜を扱う姿が銅像になっている。
道の反対の左側を下りると、北原白秋の 「 鵜匠頭山下卆司翁 」 歌碑や、
「川端康成ゆかりの地」 碑や、芭蕉の句碑 がある。
また、「稲葉山古城主齋藤道三公墳」 の道標と、
「織田相公旧菩提所神護山崇福寺」 の道標も建っている。
長良川の堤の道に上ると、長良川が見え、
鵜飼鵜飼見物に使われた観覧船が係留され、来シーズンの到来を待っていた。
鵜匠の家は、このあたりではなく、対岸の長良にあるようである。
道の下のトンネルをくぐり、反対側にでると、
鵜飼観覧船のりばの看板がある建物の脇に、
復元された大きな常夜燈が建っていた。
常夜燈の奥には、 歌碑 「 夕焼けの すでに紫 鵜飼待つ 誓子 」 と、
歌碑 「 鵜篝の 過ぎゆきし宵 芭蕉の宵 利彦 」 と、
「音の百景」 の標示板が建っていた。
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尾張藩から、江戸将軍家へ献上された鮎は、湊町付近であげられ、 川原町を通って運ばれたと考えるのが、無難だろう。
「
鮎鮨を作る御鮨所は益屋町にあった、といわれるので、
湊町から、玉井町を通り、元浜町で左折し、東材木町に入り、
上大久和町交差点に出るルートで運ばれたと思われる。
資料によると、鮨を作る御鮨所を任された、河崎喜衛門家は御鮨元と称し、
尾張藩からいろいろな援助と特権を得ていたようである。
寛文八年(1668)には、河崎善太郎家も御鮨所に加わり、
両家で幕末まで務めた。 」
御鮨所は、林稲荷神社の前あたりにあった、と聞いていたので、
上大久和町交差点を越え、左側の比較的太い道のもう一つ先の細い道に入る。
林稲荷神社は、左側にあったが、前の民家には御鮨所跡の表示はなかった。
神社の境内に入ると、右側に、岐阜が井之口といわれた頃に出ていたという、
美濃の神水 が再現されていた。
鮎を水洗いするのに。 この神水も寄与していたのかもしれない。
「 江戸時代の初期の鮨は、魚介類とめしなどを発酵させて、
自然にできる酢で食する、 「なれ鮨」 といわれるもので、
大津の鮒ずしや秋田のはたはた鮨が有名である。
当時の鮎鮨は、鮎を水洗し、塩漬けされる。 それを一度塩出しする。
冷ました飯を魚の腹に飯をつめて、鮨桶に並べ、
そのすき間に水洗いした飯を詰める。 これをくり返し、重石で圧し、
よくなれさせる。 最後に、笹と編んだワラを置いて蓋をして、
桶全体を竹と藤で堅く縛った。 」 と、いうものであった。
こうして出来た鮎鮨は、御鮨所をおおむね夕刻に出て、
江戸城まで昼夜を問わず、運ばれて、 五日間で到着させた、という。
天候や気候を考慮して、塩加減を調節し、
到着したころ食べ頃になるようにしたというから、
両家の苦労は大きかったことだろう。
結局、御鮨所の場所は確認できなかった。
この道の奥に、 正法寺 というお寺がある。
「岐阜大仏」 という仏像が祀られているというので、
お金を払い入ったが、木造の仏像は大きかった。
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本町1丁目に、「御鮨街道」 に関する、市の説明板がある。
市の説明板
「 ここから北に向かい、道に出ると左折し、次の細い道を南に向かい、
大通り(国道256号)にでると、右折し、本町1丁目の交差点にでる。 」
この案内に従い、歩いていく。
益屋町には、 黒板と白い漆喰壁の大きな建物と蔵がある家があったが、
何時建てられたものだろうか?
本町1丁目の交差点を
を越えると、米屋町である。
黒塀に囲まれているのは、横浜の三渓園を造った原三渓が、
愛したという、古い料亭の水琴亭で、元禄十三年(1700)の過去帳がある、という。
その先に格子の入った粋な建物があり、街柱の前に 「桂翠館」 とある。
その隣の建物は、料亭ひら井や吉照庵が入っている、新しい建物である。
(注) 数年前までは、ここに日下部邸の古い建物があった。
伝承美濃そば 吉照庵には、皇族が訪れた、という。
道の反対にある、クラシックな建物は、明治時代の建設で、旧洋服会館で、
cafe 佳翆館がある。
フランス風のマンサート屋根を持つ、地方では珍しい建物である。
入口は縦溝のある左右の石材の上に、イオニア式柱頭特有の渦巻模様を装飾している。
吉照庵の隣の三階建ての洋館には、石原美術が入っている。
「 この洋館は、フランス風の屋根、木骨煉瓦造、三階、地下一階の
建物である。
建設当初は隣に、二階建ての和館があり、それと融和した建造物であった。
建設に約六年かかったという。
当時の近代的デザインを具現化しており、和洋の建物が同一敷地内に、
連続的にある画期的なものだった。
明治から昭和にかけて海運業で成功し、「海運王」 と呼ばれた、
羽島市出身の日下部久太郎氏が大正三年に建築したものである。
同様の建造物は函館と神戸に現存しているとのこと。
二階建ての和館は解体されて、今はない。 」
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伊奈波通1交差点の左手奥には、 伊奈波神社 がある。
神社の由来
「 景行天皇十四年、武内宿禰が稲葉山北西に五十瓊敷入彦命を祀ったのが始まりで、
壬申の乱の際には、天武天皇が当社に戦勝を祈願。
天文八年(1539)、斎藤道三が、稲葉山に城を築く際、現在地に遷座。
その時、物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。 」
境内には、安永六年(1777)の建立の 芭蕉の句碑 がある。
「 山かけや 身をやしなはむ 瓜はたけ 」
貞享五年(1688)に、芭蕉翁が、岐阜町の俳人・安川落悟の案内で、 神社を訪れたとき、 詠まれたものである。
交差点を過ぎると、白木町で、白い漆喰壁とうだつのあがる家が残っている。
常磐町のさし源本店前に、 岐阜市教育委員会の建てた 「御鮨街道」 の道標がある。
道標は道の角にあるのだが、結納の店の花嫁、花婿の看板で見えなくなっていた。
「 江戸時代、鮎鮨輸送の際、
通る宿場での優先的な扱いを保証するため、老中の奉書が発給された。
御鮨元では、鮎鮨の桶を錠付きの箱に入れ、
その鍵は、封をした老中証文本紙と、その写、御鮨元の添え状、
各宿場への到着した時刻を記入する帳面が、
納めた白木の箱とともに送られた。 」
笹土居町、小熊町を過ぎると、
小熊町2の交差点には、大きな濃紺の道標が建っている。
左右の大きな道は県道152号であるが、
この道は左手の鶯谷トンネルができる迄はなかったようである。
ここで寄り道をする。
左折して、県道152号を行くと、小さな寺・慈恩寺がある。
お堂の前に、「木造延命地蔵尊」 の木柱があり、説明板が建っている。
この寺の本尊は、延命地蔵菩薩である。
岐阜市の説明板
「 木造延命地蔵尊坐像
延命地蔵菩薩坐像は、景徳山慈恩寺の本尊である。
檜を用いた寄木造りで、彫眼の盛り上げ彩色像である。
右手に錫杖を執り、左手は掌を仰いて摩尼宝珠を捧げ、
頭は丸く剃った円頂で、身に袈裟をまとった僧侶の姿である。
木像は様式から藤原時代後期の作とされ、
県内で最も古様を示す地蔵菩薩のひとつである。
寺伝によると、この地蔵菩薩は、弘法大師が墨俣川の橋杭をもって刻み、
はじめ、葉栗郡小熊村一乗寺に安置されていた。
その後、織田信長が、永禄十一年(1568)十二月」、現地に地蔵堂を建立して移した。
本尊は、小熊故地に帰りたいとお告げがあったので、天正十二年(1574)三月、
この地を小熊と改めたと伝えられる。
木像芭蕉像
芭蕉像は、慈恩寺芭蕉庵に安置されていたものである。
杉材の寄木造り、作行はきわめてよい。
昭和三十九年一月、本像を調査したところ像内から一通の書状が発見された。
それによると、願主は桂花園乙々坊、世話人は桂花園連中の永尾季三、並びに、
惣連中、作者も同連中の久屋町の大仏師野田興三八であって、
安永六年(1777)十月十一日の作であることがわかった。
桂花園乙々坊は、獅子門道統第五世以哉坊の門下で、
桂花園連といわれて、岐阜では俳諧の有力な一門であった。
芭蕉像が十月十一日の作であることは、
芭蕉が元禄七年(1694)に没してから、八十二年目の命日にあたるので、
この日に、芭蕉像を慈恩寺に安置したものと、思われる。
平成三年8月一日 岐阜市教育委員会 」
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手前に、真宗大谷派岐阜東別院の大伽藍がある。
「 本願寺十一代顕如上人が、美濃国に巡教の折に信仰した、
美濃国の西野 (現岐阜市西野町) の豪族・一柳直高の死後、
墳墓のそばに一寺が建立されたことが始まりである。
本願寺が二つに分かれた後、寛永元年(1624)に、現在地へ移転したが、
濃尾地震などで倒壊し、現在の建物は、大正五年(1916)に建てられたものである。 」
東別院の敷地内に、河野願正坊がある。
「 以前は小熊願正坊と称していた。
現在の茜部の地に、文明年間(1465〜1486)に創建された。
その後、金華山の麓 (現在の御手洗) へ移り、材木町を経て、現在地へ移った。
親鸞上人の説法を聞いて帰依した、九人の門徒の子孫が
岐阜地方の浄土真宗の中心となり、「美濃河野九門徒」 に属し。
布教に貢献した寺院である。 」
道の対面には、「教如上人御旧跡 円龍寺」 の石柱があり、山門がある。
山門近くの大銀杏は、樹齢五百年で、高さは三十メートル以上ある。
「 円龍寺は、今から八百年前の応保二年(1181)の創建とあるが、
本堂などは新しかった。
明治二十四年の濃尾大地震の際、鍛冶町付近から出火した火事で、
一円が赤土化したが、寺の銀杏が水を出し、南進を食い止めたため、
火伏せのいちょうと伝えられる。 」
街道に戻り、小熊町、金屋町を過ぎ、美園町に入ると大きな道に出る。
左手には柏森神社がある。
更に進むと、国道248号と交差する金園町2交差点に出る。
これを越えて進むと、 元町である。
正面に黄色いビルがあり、
「五島花店」 と書かれたところで、道は分岐する。
手前の三角地には、鋳造の像が建っているが、
ここを左へ行くのが、 御鮨街道である。
右側(直進)の道は、大正以降に造られた道である。
そのまま、東金宝町2交叉点、元町4、元町5と、進む。
左手に溝旗公園があり、右側に東横インがある。
長住町を越え、名鉄鵜沼線の踏切を渡るとすぐ右折し、駐車場になっているところの角で左折する。
このあたりは幸ノ町であるが、枡形のようになっている。
その儘進むと、三叉路で、コメダ珈琲の前に出た。
このあたりが 曲手(鉤型)のようになっているのは、
岐阜町の入口になっていたからだろう。
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三叉路を右折し、JRの高架に沿って進み、大通りに出ると、
高砂町3交差点である。
鮨街道はここを左折して、JRのガードを潜り、直進する。
加納北広江町交叉点の先から、道が狭くなる。
ここから先は、加納○○町と、加納が頭に付く地名に変わった。
ここから、旧加納町で、岐阜市と合併する時、旧町名の上に加納をつけたのだろう。
加納南広江町に入ると、
三叉路の角に、「美濃新四国第十九番光国寺」 の道標がある。
その先の名鉄名古屋本線の踏切のの右手に、名鉄広江駅があったが、廃駅になっている。
踏切を越えると、交差点があり、その角に「広江の漢方」 の看板を掲げた、太田薬局がある。
四差路角の太田薬局の看板に 「吉文字」 とあったが、
これは江戸時代の屋号だろう。
交叉点は、中山道と岐阜街道(御鮨街道)との追分(分岐点)である。
店頭の左側に、「追分」 を示す、石の道標と、説明板が建っている。
説明板
「 この道標は江戸時代中期(1750年頃) 、 新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ、
中山道を往来する旅人の道案内を果たしてきました。
最初は 「左中山道」 「右ぎふ道」 の道標でしたが、
明治初年に 「左西京道」 「右東京道」 の標識が追加されました。
この四ッ辻は、 中山道と岐阜道(鮎鮨街道) の分岐点で、
かっては交通の要衝でありました。
昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会 」
加納は、江戸時代、中山道の宿場であったと共に、城下町であった。
「 加納は、
岐阜城に替わり、新たに築城された加納城の城下町になった。
、
寛永十一年(1634)になると、中山道の宿場に加えられた。
宿場の長さは普通の宿の三倍の長さで、宿場の住民は三千人、家数は八百軒と、
美濃にある宿場の中で最大だった。 」
この後、
加納宿の痕跡を辿ることにする。
直進する道は京都へ向かう中山道である。
この道を進むと、清水川が流れている。
大正時代までは、「ガマ」 と呼ばれる地下湧水が存在していた。
加納清水町の名もこの川の清水からである。
清水川には広江橋が架かるが、橋の手前左奥に幟が立っている。
入って行くとお堂があり、一部民家風になったお寺がある。
江戸時代に建立された、 水上殿水薬師寺
である。
説明板
「 慶長十七年(1612)夏、 清水川で泳いでいた伊三郎という若者が
黄金の薬師像を拾い上げました。
これを慶んだ二代目藩主奥平忠政(亀姫の三男)と
亀姫は、清水川の川中に、二間四方の浮見堂を建て、この薬師像を安置しました。
以来、水薬師、そして、美濃の乳薬師と呼ばれ、 乳が良くでる仏として親しまれ、
例年七月二十、二十一日に清水川の灯籠流しが盛大に行われます。 」
清水川に架かる橋を渡ると、右側に、「高札場跡」 の説明板がある。
説明板
「 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所に高札場が設けられ、
宿御高札場と呼ばれた。
この高札場が加納藩の中では、一番大きく、石積みの上に、高さ3.5m、巾6.5m、横2.2mもあるもので、正徳元年(1711)から明治維新まで使用された。 」
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正面の歩道橋手前を右折する。
ここは広小路の大通りで、加納城の北側にあたり、大手門があったところである。
大通りを渡るための陸橋登り口に、 「加納城大手門跡」 と表示された、
大きな石碑が建っている。
「 東西に広がる大通り一帯は、江戸時代、武士屋敷を形成していた。
明治維新後、加納町役場が設けられた。 」
加納城はこの南方にあったので、城跡へ向かう。
交差点の陸橋を渡ると、左側に岐阜大学付属小学校・中学校ある。
ここは上級武士屋敷のあったといわれるところである。
少し先に、公民館、そして、加納小学校があった。
「 岐阜は斎藤道三の国取り物語の舞台になった地で、
織田信長は斎藤氏の居城稲葉山(金華山)城を陥し、新たに岐阜城を築城し、
安土城に移るまで本拠地としました。
関ヶ原の戦い後、徳川家康は大坂豊臣方への備えとして、山城の岐阜城を廃し、
美濃国守護代・斎藤利永が、築城した沓井城の跡地に、平城の加納城を築城し、
愛娘・亀姫の夫、奥平信昌に、十万石を与え城主にした。
縄張りは、家康自ら行い、普請奉行は本多忠勝が勤めました。
建築資材は、主に、岐阜城の解体材が流用された。
岐阜城の天守は、二の丸御三階櫓になりました。
荒田川から引き入れた内堀と外堀で囲まれた水城で、守りを固めた城だったが、
名古屋城が出来たことで、城の重要性が低くなっていった。
明治維新の廃藩置県で、明治四年、加納城は廃城となり、
翌明治五年〜六年に城は取り壊された。 」
加納城の本丸だったところは、加納公園とテニスコート、グランドになり、 わずかに本丸の石垣を残すだけになっていた。
「 加納藩は、奥平家が三代で途絶えた後、
色々な大名に変ったが、その度に石高を減らし、
永井直陳が武蔵岩槻から転じてきた頃には三万石になっていた。
その一方、加納宿が開設され、加納傘などの特産品も加わり、
商人町的な要素の強い町に変貌していった。
加納宿が誕生したのは、中山道が開道して三十年以上も経った寛永十一年(1634)のことである。 」
大手門跡の交叉点まで戻り、加納宿の遺跡を求め、中山道を歩く。
この先の町名は加納本町といい、加納宿の中心だったところである。
街道の左側に「二文字屋」 という鰻屋がある。
「 元和六年(約380年前)に
旅籠を開業した老舗だが、戦災にあったため、建物は残っていない。
左甚五郎が泊まって彫ったという、餅をつくウサギの欄間は残っているという。
加納宿には旅籠が三十五軒あったが、その一軒である。 」
その先の右側の民家の前に、「中山道加納宿当分本陣跡」 の標柱がある。
左側には、「明治天皇御小休所跡」 と書かれている。
* 「 当分本陣 は聞き慣れない言葉であるが、
幕末の文久三年(1863)、参勤交代の制が緩和され、
江戸詰の大名の妻子の自由帰国を許可された。
大名妻子が一斉に国元に帰国した為、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなったため、
臨時に増やした本陣が、当分本陣である。
加納宿では、三宅家と宮田家(宮田五左衛門)が務めた。
当家は、明治天皇巡幸の際、御小休所になりました。 」
加納中通りを右折すると、右側に慶長年間の創建の玉性院がある。
張り子の大きな赤鬼が立っている。
大手門の大通りにも、「交通安全」 と書れたばかでかい鬼がある。
「つりこみ祭」 の書かれた看板があるので、
通りかかった人に聞くと、
「 厄男を赤鬼にして、御輿に乗せ、厄女をお福にしたて、
御所車に乗せ、町内をねりあるき、厄払いをした後、本堂で厄払いをする、祭りです。 」 といわれた。
戦後から始まったというから、五十年程の歴史らしい。
街道に戻り、直進すると、右側のモダンな民家(青木氏)の塀に、
「皇女和宮御仮泊所跡 中山道加納宿本陣跡」 の標柱がある。
加納宿本陣は、 松波藤右衛門が勤め、 規模は間口十一間半、 奥行十八間で、
建坪は百七十坪の屋敷だった。
ま門前に、、 「皇女和宮の歌碑」 の説明板があり、歌が記された茶色の石碑があった。
説明板 「皇女和宮の歌碑」
「 仁孝天皇の皇女・和宮(ちかこ)親子内親王は、 将軍徳川家茂との結婚のため、
文久元年(1861)十月二十日、 京都桂御所を御出発、
中山道を通って、江戸に向かわれた。
同年十月二十六日、 当地加納宿本陣 の 松波藤右衛門宅(現在地) に宿泊された。
その時、自分の心情を詠まれたという歌が伝えられている。
遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりけり
この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収められており、和宮の直筆である。
本年は、中山道宿駅制度が設置されてから、四百年記念に当り、
幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌碑を建立する。
平成十四年六月吉日 中山道加納宿文化保存会 」
少し行った右側の松波医院の駐車場脇に、「加納宿西問屋跡」 の標柱がある。
標柱の文字
「 西問屋は加納宿の問屋でした。 元々は三宅佐兵衛家が勤めて
いましたが、万治元年(1658)に松波清左衛門家が加納宿問屋となり、西は河渡宿から
東は鵜沼宿までの人馬の継立て行いました。 」
その先の右側に、門を構えた屋敷があり、「中山道加納宿脇本陣跡」 の標柱が建っている。
標柱の文字
「
加納宿脇本陣は、延享二年(1745)より森孫作が勤め、規模は間口九間半、奥行
十四間、建坪百三十二坪でした。 」
脇本陣跡の角を右に入ると、正面に加納天満宮がある。
「 加納天満宮は、 美濃国守護代斎藤利永が、
文安二年(1445) 沓井城(後の加納城) を築いた時、
菅原道真を祭神とする天神社を城の守護神として祀ったのが
始まりと伝えられる古社である。
慶長六年(1601) 奥平信昌が、 加納城の築城の際、
城郭内になるので、現在地に遷座した。
歴代城主の信仰が篤く、加納城の鎮護で、
加納藩の侍や宿場の庶民を始め、旅人にも尊敬を集めた神社でした。
戦災で唯一焼け残った拝殿は文化七年(1810)の創建である。 」
境内には、「傘祖彰徳碑」 がある。
「 加納名産である和傘は、寛永十六年(1639)、 松平光重が明石から移封された際に、 傘職人を伴ったことに始まり、下級武士の内職として広まったという。 」
加納天満宮の西側に、 曹洞宗久運寺(くうんじ) があり、 境内に 「お茶壺道中ゆかりの寺跡」 の石碑がある。
「 寛文五年(1665) 加納城主松平光重より、 お茶壺道中の本陣を 命ぜられたが、 住職の玉葉和尚は、権威の横暴に反抗してこれを拒否したため、 追放されました。 」
街道に戻ると、右側に、 小林家が勤めた 、「中山道加納宿脇本陣跡」 の標柱がある。
交叉点を右に入ると、左側に、寛永四年(1624)創建の浄土真宗本願寺派寂照山信浄寺がある。
境内に、安永六年(1777) 獅子門中が建立した、 芭蕉句碑がある。
「 松杉を ほめてや風の かほる音 」
中山道は、 加納栄町通に突き当たる。
ここの右手に、JR東海道本線岐阜駅がある。
そこを過ぎると加納本町で、右側の愛宕公園を過ぎると、
左側に 「西番所跡」 の石柱が建っている。
江戸時代には、ここが、加納宿の京都側の入口であったのである。
ここから、御鮨街道の追分の太田薬局まで戻る。
太田薬局の交叉点まで戻ってきた。
この追分では、御鮨街道は、岐阜から来れば左折である。
京側の中山道から来ると右折で、御鮨街道は、ここから少しの間、
木曽方面に向う中山道と同じ道を行く。
加納新町に入ると、左側の民家の前に、「岐阜問屋跡」 の説明板が貼られていた。
説明板「岐阜問屋跡」
「 加納新町の熊田家は、土岐家・斉藤家の時代から、このあたりの有力者で、
信長が岐阜にいたころには、加納の問屋役を務めた。
江戸時代に入ると、
全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物の運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、 岐阜問屋 と呼ばれた。
岐阜問屋は、尾張藩が将軍家に献上する鮎鮨の継ぎ立てをしており、
御用提灯が許されていた。
献上鮎鮨は、岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経て、
当時御鮨街道と呼ばれた、現在の加納八幡町から名古屋に向かう道を通り、
笠松問屋まで届けられた。 」
江戸時代に、大繁盛した岐阜問屋だが、 問屋のあった場所には、今では何の変哲もない民家が建っていた。
左側には、秋葉神社が地区の守り神として祀られていた。
その先の右側に、専福寺がある。
この寺には、 織田信長朱印状・豊臣秀吉朱印状・
池田輝政制札状 などの古文書が残されている。
「
伊勢の長島はもちろん、美濃にも石山本願寺に組みする寺が
多く、この寺も例外ではなかった。
元亀三年(1572)の石山合戦に際し、
織田信長が石山本願寺に加担することを禁じる内容の手紙を送ったが、
それが 織田信長朱印状である。 」
道の角に、「 中山道加納宿 加納柳町 」 の道標があり、
広い道(岐阜東通り)の先の右側には、古い立派な家が残っている。
道を横断すると、この家の道の反対側に、
「中山道加納宿」 の道標が建っていて、
その裏に、宿場の地図が書いてあった。
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細い道を直進すると、右側に善徳寺があり、道は左に曲がっていく。
加納は宿場町の他、城下町であったので、中山道は曲がりくねった道になっていた。
この辺りが中山道加納宿でもっとも曲がりくねっているところである。
突き当たりの道脇に、「 中山道加納宿 」 の道標と、 「 中山道加納宿東番所跡 」 の石柱が建っている。
「
加納宿には、西と北にも番所があった。
今は表示のみで、何も残って居ないが、旅人が宿に入るのを検問していた場所である 。
夜は木戸が閉められていたというから、鮎鮨の使者だけは通してくれたのだろう。
ここは、加納宿の江戸側の入口、ということになる。 」
そのまま進むと、ここにも秋葉神社があり、 秋葉山が祀られていた。
県道14号線を渡ると、
その先は、左右が狭い道の三叉路に突き当たる。
正面に、立花屋薬局があるが、道の反対側、即ち、手前の道の角に、
自然石の道標がある。
「
加納安良(あら)町 の道標 といわれるもので、
「左 西京」 「右 岐阜 谷汲」と彫られている。
南から見て、ここを左(西)へ行けば京都、
右(北)へ行けば、岐阜から谷汲というわけである。
道標の「岐阜」とあるのは岐阜道で、別名、御鮨街道と呼ばれた道である。 」
ここは右折し、進むと、新荒田川に架かる加納大橋を渡る。
併行する名鉄名古屋本線とJRも、同じように、鉄橋を渡る。
橋の欄干には、左右に四個づつプレートが取り付けられている。
そのプレートは、中山道だけあって、大名行列の絵が表示されている。
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加納大橋を渡ると、中山道は、四差路角のだんご屋のところで、
東(左折)へ進むと、「 右中山道 左岐阜道 」 の石碑がある。
丁字路の左側の建物の前に、道標と鏡岩の石碑があり、 「ぶたれ坊と茶所」
の説明板があり、鏡岩の顕彰碑には花が手向けられていた。
説明板「 ぶたれ坊と茶所」
「 このぶたれ坊と茶所は江戸時代の相撲力士鏡岩浜之介にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで力士になりました
が、土俵外での行いが悪かったことを改心して、寺を建て、ぶたれる為に等身大の
自分の木像を置いて、罪ほろぼしをした。
また、茶屋を設けて、旅人に振る舞ったそうです。
ここの少し北にある東西の通りは昔の中山道で、加納宿として栄えていました。
隣に建つ伊勢道道標には、 「江戸木曽路 東海道いせ路」 と刻まれていた。
街道の右側に、新設された御鮨街道道標 がある。
「 道標前の道は、 鮎鮨街道とか、御鮨街道と呼ばれ、 岐阜町で作られた長良川の鮎のなれ鮨を将軍家に献上するために運ばれた道で、 尾張藩が名古屋の熱田と尾張領の岐阜とを結ぶために整備した街道で、 尾張街道、岐阜街道、名古屋街道とも呼ばれました。 」
御鮨街道はここから南下し、笠松問屋へ続き、名古屋の熱田で、
ゴールとなるが、小生の岐阜の旅は、ここで終了である。
名鉄名古屋本線の茶所(ちゃじょ)駅から、自宅へ帰った。
旅をした日 平成二十年(2008)十一月三日