岡崎から足助を経て、飯田・塩尻に至る街道を、三州・伊奈街道という脇往還であった。 また、三河湾で取れた塩を運ぶルートであったので、塩街道とも呼ばれた。
江戸時代には、岡崎から足助宿までは、塩を船で運び、足助からは、
中馬で潮などの荷駄を運んでので、中馬の道とも言われた。
塩街道 ・足助宿跡を訪れた。
三州街道(塩街道) が通っていた足助には、今でもその雰囲気が残っているときき、 訪れてみた。
国道153号線は江戸時代に尾張国の居城だった名古屋の伝馬町から八事を通り、
豊田市猿投、足助に至り、根羽、平谷、浪合を経て、飯田に入り、
伊那谷を北上して、塩尻で出る道である。
名古屋の人々は、名古屋から飯田までの道を飯田街道と呼んでいる。
一方、三州街道の終着といわれる岡崎の人達は、
岡崎から足助までを足助街道、その先を飯田街道と区別している。
「 アルプス社(名古屋市)の発行の道路地図では、 愛知県境の稲武までは飯田街道、その先の長野県側を三州街道と、 区別して記載している。 」
名古屋から車で、国道153号を走り、足助に入った。
足助は三州街道の中枢を担ったところである。
「
中山道は旅人の行きかう道であったのに対して、
三州街道は物資輸送が主体の道だった。
江戸中期以降になると、善光寺参りなどで一般的に利用されるようになったが、
中山道のように、旅人の遊興で宿場が繁栄するということはなかった。 」
三州街道は中馬街道とも呼ばれた。
「 中馬(ちゅうま)とは、注文主から一頭分の荷物を受け取り、
指定先まで運び、貸切運賃を受け取る制度である。
中山道など幕府が管理する街道は、宿駅制度により、
各宿場毎に決められた問屋があり、
物資輸送は全て問屋を利用しなければならなかった。
脇往還の三州街道には問屋はあることはあったが、問屋の力が弱く、
手間稼ぎの中馬による物資の輸送が横行し、
江戸末期には、正式な制度として公認されるに至った。
これは、権益を守るという問屋側からして、
許すことができないとんでもないことだったので、
中馬と問屋との間の紛争が絶えなかった。 」
中馬で運ばれたのは三河の塩である。
その他には、海産物や瀬戸の陶器などで、帰りには信州の特産品を持ち帰った。
現在の足助は香嵐渓という紅葉の名所と、
三州足助屋敷を 目玉にして、 観光地として売り出すのに成功した町といえる。
春はかたくりの花や桜の新緑、夏は香嵐渓の水遊び、秋は紅葉と、PRに懸命である。
紅葉も終わりかけた十二月上旬、足助の町を歩いてみた。
西町第2駐車場のある交差点の脇に、常夜燈が建っていた。
説明板
「 火除けの神・秋葉大権現(静岡県)信仰する秋葉講の人達が、
寛政十一年(1789)に建立したもであり、当初は本町地蔵堂境内にあったが、
長い間に場所が変った。 」
常夜燈の脇の道を川に向かって進み、橋を渡った突きあたりの中馬街道に面したところに、馬頭観音堂がある。
そこには、 「 馬をさへ なかせる雪の 朝(あしたかな 」 という芭蕉の句碑が建っている。
先ほどの道を戻ると、中馬街道は、常夜燈の一つ手前で左折する。
このあたりは西町であるが、橋の近くに、「荷の口会所跡」 の説明板がある。
説明板
「 江戸時代、足助宿から出る荷物には口銭(通行税)が徴収されたが、
それを徴収したのが、荷の口会所で、
足助川と巴川の合流し、街道と交わるこのあたりにあった。
徴収する口銭は、馬一駄につき十二文、荷一荷につき六文、
筏一筏につき三十六文であり、この徴収を巡って、
会所側の問屋と支払い側の馬方の間で、天保時代に争いが起きている。 」
道を左折して少し進むと、左側に、「玉田屋」 という旅館があり、 その傍らの説明板がある。
「 宿場の出入り口には旅籠が多かった。 西町に残るただ1軒の旅館である。
当時の雰囲気を残している。
この旅館は、幕末に建てられた旅籠で、二階建てのかなり大きな建物である。 」
足助は、平入りの家並みに妻入りの建物が混在していて、
間口に対し奥行きの深い家が多い。
間口の広さに対して課税されたので、そうなったのだろう。
その先の三叉路に道標があった。
これは、弘化弐年(1845)の道しるべで、「 左、善光寺道 右、ほうらい
じ道 」 とあり、真っ直ぐ行く道は遠州街道(鳳来寺道)で、
左折するのが三州街道である。
「 三州街道(伊奈街道)は、
中馬の道であるとともに、善男善女の訪れる善光寺詣りの道でもあった。
遠州街道は秋葉神社への参詣道である。
足助は、三州街道の中心であるとともに、
遠州街道や北上して岩村へ達する美濃街道などの追分(中継地)でもあった。 」
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三叉路を左折し、足助川に架かる中橋を渡る。
江戸時代、足助川を船で運ばれてきた塩は足助で降ろされ、中馬に積み換えて、
信州に運ばれた。
説明板
「 吉良の塩で代表される三河の塩は、上質と評判が高かく、
忠臣蔵の事件も赤穂の間者が吉良にしのびこみ、
製塩技術を盗んだことからという説もあるくらいである。
それらの塩は、岡崎の塩問屋に集められ、そこから足助までは矢作川を利用して、
船で運ばれた。
足助には、塩問屋が天保時代に十四軒もあったといわれ、
問屋は降ろした塩を保管し、中馬に積み直す仕事に従事した。 」
これが、三州街道が塩街道といわれる由縁である。
なお、名古屋市には塩付通りという地名があるが、
これもまた、近隣からの塩を集めたところだといわれている。
中橋を渡って右折すると、
白漆喰の塗籠(ぬりごめ)造の町屋が建っている新町通りに出た。
足助川の右側にあるこのあたりを新町というが、
寛永年間にはすでにあったというから決して新しくないまちではない。
「
足助の町は安政四年(1775)の大火事で大きな被害を蒙った。
その火事を教訓に、幕末から明治、大正にかけて建てられた商家には、
白壁の塗りごめ造りに、黒板の羽目の建物が多いのである。 」
少しいくと白い蔵を活用した、マンリン書房という店があった。
「 本屋兼ギャラリーである。
マンリンとは不思議な名だが、江戸時代にここで商っていた人が林姓を名乗り、
屋号が万屋というから、なるほどと思った。 」
その脇の小道には、「宗思寺道」 と刻まれた石柱が建っていたが、
マンリン小道と名付けられ、奥には白漆喰を塗りこんだ蔵が続いていた。
今日の足助の町を歩いても、塩問屋がどれなのかは分からなくなっているが、
問屋の隆盛時を偲ばせるような、白壁の塗りごめ造りが残っている。
そのまま進むと、本町である。
江戸時代の足助村見地帳には、東町と記されているところである。
町の資料には、「 このあたりが足助の中心で、
大きな商店が並んでいたところである。
なかでも、紙屋と呼ばれる商家は間口40m、奥行き100m、
屋敷内には七つの土蔵がある。 また、本町界隈は
軒先が下がった平入り商家が多く、裏には蔵が連棟し豪商の町並みだった。」 という説明があった。
この辺りは妻入り、平入りが入り混じっていて、古い町並みが残っている。
田口家は、平入りの典型的な建物として、紹介されていた。
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左側の三嶋屋と呼ばれる家は、最近まで旅館営業を営んでいたところである。
「
三嶋屋は元は呉服屋であったが、明治時代に若干の改造で旅館に変った。
開戸、格子、障子戸等に古き良さを今でも守り継いているとあるが、
その気持ちは十分伝わってきた。 」
右側の足助郵便局は、平成元年に建て替えた際、
町並み風情に合わせた建物になった。
その先の左側の屋敷の脇に、「 加茂一揆の刀傷が残る伊東家 」 の表示があった。
現在は、この家など六軒の商店が軒を連ねるが、
江戸時代には、造酒屋・白木屋宗七の屋敷があったところである。
足助町の資料によると、
「 加茂一揆は、天保七年(1836)九月、松平村、九久平村など加茂郡南部で、
米、酒などの安売り、領主に対する年貢金納相場の引き下げ等を要求して、
立ち上がったもので、次第に勢力を増し、
二十三日の午後、足助に突入、西町の造酒屋 山田屋与茂八宅、
同じく西町の穀屋 木市屋仁兵衛宅、本町紙屋 鈴木利兵衛の空き家、
本町酒屋 上田屋喜左衛門宅、本町造酒屋 白木屋宗七宅を次々に打ち壊した。
この一揆は五日間にわたり、二百四十七ヶ村、一万千四百五十七人もの規模に上った。
伊東家の床の間の柱には加茂一揆のときに鉈で切りつけられたという刀傷の跡が残るという。
いくつもの酒樽が破られ、酒が川のように流れ出したというすごさ!! だったと、言い伝えられる。 」 と、ある。
一揆は最初は十名くらいで謀議されて、スタートしたが、
五日間で一万人以上の規模に膨れ上がったというから、
如何に住民が貧困に苦しんでいたか、分かるような気がする。
それから三十年後、幕府が倒れ、明治維新を迎えている。
伊東家の前には、「旧白木屋」の表示板がある。
旧白木屋は、前述の打ち壊しの対象になった造り酒屋・白木屋宗七宅のことである。
説明板
「 ここは白木屋の屋敷の一棟で、明り取りをした天井と立派な井戸、
足助川に通じる石段などには、現代に通じる技術がある。 」
とあったが、拝見できないので、どういう内容かは分からなかった。
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日が暮れてきて、シャッターの速度が落ち、ブレが大きくなりそうだ。
三州街道は鉤型をしていて、突き当たりを左折し、次に右折する。
突き当たりにある立派な建物は県足助事務所である。
ここは、江戸時代に本多七千石の陣屋が置かれたところである。
説明板
「 足助は、
古くは尾張源氏の血をひく足助氏がこのあたり一帯を支配していたが、
南北戦争で後醍醐天皇側につき、宗良親王と共に東国に去った。
戦国時代には鈴木氏が統治、元亀二年(1571)に武田信玄の支配下に入ったが、
徳川家康により攻め落とされ、以後、足助の地は江戸時代を通して天領となった。
元和元年(1681)、本多忠周が奥州白河五千石の知行地からここに移され、
陣屋を置いた。
その後、寺社奉行に任命されて一万石で大名となり、
足助藩を開いたのも束の間、寺社奉行を免ぜられると元禄二年、三千石を減らされ、七千石の旗本になり、明治まで続いた。
明治時代、伊奈県編入を経て、愛知県になった。
この場所は足助町役場となり、町役場が移転した後は、県足助事務所になった。 」
豊田信用金庫のあるところからは田町である。 ここも町として古い。
飲食店やスーパー(というのにはやや小さい?)があるが、
本町に比べると建物は小さい。
その中で大きいのは明治創業の割烹店ぐらいである。
道から少し入ったところに、壊れかけた倉が建っていたが、
川の位置から考えると、塩倉だったのではないだろうか?
「 岡崎の塩問屋に集められた塩は、船で矢作川を遡り、
足助川を利用して、運ばれた。
足助の塩問屋は船から降ろし、その塩を塩倉保管していた。
足助川には降ろす際にこぼれた塩が流れ込んだといわれる。
足助川沿いには塩蔵が立ち並んでいたのだろう。
少し行くと、足助中馬館である。
「
明治から大正にかけてあった旧稲橋銀行足助支店で、
大正元年に建てられたものである。
現在は一部改装されて、足助の商業や金融、交通、
町並み等の資料を展示されている。 」
さらに進むと、赤い鳥居が左手に見える。
これはお釜稲荷の鳥居である。
このあたりの道は、明治以降に新道に変わっているが、
江戸時代の三州街道は、足助川右岸に沿った細い道が今でも残っている。
足助宿はこのあたりで終わりである。
三州街道はこの先、上り坂になり、飯田に向かって続く。
最後に、普光寺に寄る。
自分の痛いところと同じ場所を撫でてお祈りすると、「治る」 といわれる、おびんずるさんが祀られている。
「 江戸末期に活躍した地元の俳人・板倉塞馬(さいが)は、 寺子屋の師匠であるとともに、炭焼きを普及させた人物として尊敬された、という。 」
この寺は彼の菩提寺で、彼の句碑と、「加茂黒炭の祖」 としての顕彰碑が、
境内に建っていた。
句碑には、 「 雨ののち よい月夜かな 桜かな 」 と、
刻まれていた。
今宵は師走。 例年にない暖かい気候であるが、 ここ足助はそれなりに寒さが忍び寄ってきたので、身体がぶる〜と震えた。
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訪問日 平成十六年(2004)十二月三十一日