安藤広重による、 東海道・御油宿の絵は、太った招き女が、
小柄な男を強引に宿に引っ込もうとしている構図である。
天保十四年(1843)に編纂された、東海道宿村大概帳 によると、御油宿は
九町三十二間(1298m)の長さに、三百十六軒の家があり、旅篭が六十二軒と、旅籠の占める割合が高かった。
旅籠が多かったので、旅籠の客引きが盛んで、このような光景がよく見られたのであろう。
赤坂宿は、享保十八年(1733)の家数は四百軒だったが、その内、旅籠が八十三軒もあった上、隣の御油宿とは、僅かに、十六丁(1.7km)しか離れていないので、競争が激しく
なるのは必然である。
そのため、旅籠だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱えることになる。
両宿場では強引な客引きが行われていた。
江戸時代の遺跡を探しながら、名鉄国府駅から、東海道の御油宿と赤坂宿を歩いてみた。
◎ 御油宿
名鉄国府駅から、国府駅前交叉点で、国道1号を横断し、新栄2丁目交叉点を左折し、 東海道(県道374号)へ入る。
少し行くと、白い土塀と石垣、そして、大きな樹木が見える。
近づくと、境内も広く、大きな樹木が繁茂している、立派な神社で、大社神社である。
百メートルに及ぶ石垣と白い土塀は、
寛政六年(1794)、近くにあった田沼陣屋(老中 田沼意次の所領)の石垣を移したもので、
石垣は音羽川の上流から運んだ石で築いた、とされるものである。
大社神社の社伝
「 天元、永観(978〜985)の頃、三河国国司、大江定基が、出雲大社より大国主命を勧請し、社殿が造営されたが、それ以前に、何らか堂宇が存在した、と思われる。
江戸時代には、国府大明神といわれ、明治五年(1872)、国府村の総氏神となった、
夏には、手筒花火の奉納が行われる。 」
道の右側の信用金庫の駐車場の一角に、「御油一里塚跡」 の標柱が建っていた。
その先の交差点は、姫街道の始点追分である。
万葉集に高市黒人が
「 妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる 」
とよんだ、 二見の道がここだ、という。
姫街道は、東海道の脇往還で、本阪道とも呼ばれた。
ここ御油から、豊川・本坂・三ケ日・気賀を経て、天竜川の手前の萱場で、
東海道に合流し、遠州見附宿(磐田市)に至る、約六十キロの行程だった。
新居関を避ける女性たちが通ったことから、姫街道の異名がある。 」
交差点を渡った先の右側に中日新聞販売所があり、
隣に、大きな常夜燈と二つの道標が建っている。
以前は道の反対の東側にあった。
右側の道標には、 「 國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町 (明治十三年建立) 」
と記されているが、
砥鹿神社とは三河国一の宮の砥鹿神社のことである。
左側の道標には、 「 秋葉山三尺坊大権現道 」 と、刻まれていて、
遠州にある秋葉山への道標で、明治十六年の建立である。
「 秋葉山三尺坊は、 三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀る秋葉社と、 観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)の寺院で、 人々には秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山などと呼ばれた。 」
道標の脇にあるのは、御油の人達が建てた秋葉山永代常夜燈で、 右○○、左ほうらいじと、書かれている。
「 秋葉三尺坊は、剣難・火難・水難に効くという信仰で、江戸中期に大流行し、 一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社 と、言われ、 江戸中期から明治初期までに、各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られた。 」
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やがて、音羽川に架かる御油橋(旧五井橋)が見えてきた。
小さな橋を渡ると、御油宿である。
御油宿に入ったところは茶屋町である。
左側に、若宮八幡社の石柱があるが、
小さな社若宮八幡社と一対の狛犬、そして、桜の木があるだけである。
古い家は少しあるが、以前より少なくなっている感じで、この付近は現在建築ラッシュだった。
その先の左側に古い家があり、その先は三叉路になっていた。
その家の向かいの空き地に、「ベルツ博士花夫人のゆかり地跡」 とある。
「 ベルツ博士は、日本の医術の進歩に貢献したドイツ人で、
草津温泉の効能を理解し、草津の温泉療法を世に広めたことで有名である。
花夫人は、ベルツ博士と結婚し、日本とドイツに暮らした。
ここは、花夫人の父、熊吉の生家で、江戸時代には戸田屋という旅籠を営んでいた、という。 」
三叉路を直進すると、御油保育園がある。
手前の広場に、「高札場跡」 の表示板があった。
三叉路は、江戸時代には、宿場特有の鉤型(曲手)なっていたようで、
そこを右折すると、当時は横町で、右側の空地は、問屋があったところである。
「
御油宿は、徳川幕府が、慶長六年(1601)に開設した東海道と、 同時に誕生した宿場である。
空地になっているところに、安藤広重の御油宿絵のレリーフ(冒頭に掲示)があった。
広重の浮世絵は、太った招き女が小柄な男を強引に宿に引っ込もうとしている場面である。 」
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突き当たったところは、宿場の中心の仲町である。
江戸時代には、本陣や定飛脚所などがあった。
味噌屋の看板があるが、今は営業をしていない。
歩いて行くと、「イチビキ」 という、味噌とたまり醤油の製造会社の駐車場の前に、
「本陣跡」の碑と、表示看板が建っている。
ここは、
御油宿にあった四軒の本陣の一つである。
なお、御油宿には脇本陣はなかった。 また、残りの三つ本陣跡は確認できなかった。
道の右側に、第1工場があり、漆喰壁の倉の脇に、(旅籠大津屋」 の表示がある。
「
昔、大津屋という名で、飯盛り女を多く抱え、右側の駐車場のあたりで、旅籠を経営していた。
ある時、飯盛り女五人が集団自殺してしまったことがあり、
主人はすっかり家業が嫌になり、味噌屋さんに転業した、という話が伝えられている。
味噌屋の創業は安永元年(1772)とあるが、当時の味噌作りは原始的なものだったようで、
明治時代に、子孫の東大出が技術的な改革をしたのが今日に生きている、とある。 」
その先はと、中上町である。
左に入ったところにある寺は東林寺で、ここに前述の五人の遊女の墓が残っている。
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明治維新で、参勤交代が廃止、伝馬制や助郷制も、明治五年(1872)に廃止されると、
御油宿は急速に寂れていった。
それに拍車をかけたのが、東海道線の敷設に反対し、忌避したことである。
反対の理由は、汽車が通ると客が素通りしてしまう、機関車から火の粉が飛んで火事になる、鶏がおびえて卵を産まなくなる等々と言われているが、真の理由は、当時盛んに
なりつつあった養蚕の桑の葉が煙や灰でいたんでだめになるということにあったようである。
東海道の御油、赤坂、藤川、岡崎、知立の旧五宿が、こぞって反対したため、
やむをえず、鉄道は海岸に沿って、蒲郡を通る経路に変更された。
東海道線から取り残されて後は、宿場町は壊滅し、
その結果、今日の古い家が残る街並みになった。
連子格子のある家が多く、残っている。
御油宿から、赤坂宿へ向う。 隣の赤坂宿までは僅かに十六町、およそ千七百メートルの距離である。
御油宿を出ると、上五井である。
松並木の手前には公民館があり、その前には馬頭観音などの石仏が並んで祀られていた。
最初からここにあったようには見えないので、国道を整備したとき集められたものと思うが、間違いだろうか?
街道を歩くと、左側に十王堂が建っていた。
「
十王は、冥界に合わせて、死者の罪業を裁判する十人の王のことで、彼等の裁判を受けて、次に生まれてくる場所が決まる、とされる。
この考えは、平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に、全国に伝わったようである。
この建物は、明治中期に火災に遭い、再建されたものである。
江戸時代の絵図に、描かれているので、十王堂は古くからあったようである。 」
少し歩くと、松並木に出た。
「
松並木は、慶長九年(1604)に、東海道の開設と共に整備されたもので、
国の天然記念物に指定されている。
天然記念物に指定されるだけのことがあり、背が高く、太くなった松が多い。
そうした松が六百メートルも続いている。 」
松並木の下を車が時々通るが、排気ガスでやられないのであろうか? 少し心配である。
松並木の中間あたりの左側に、弥次喜多茶屋食堂がある。
「 十辺舎一九の東海道中膝栗毛で、弥次さん、喜多さんが、留め女に袖を引かれたり、 この先の松並木には悪い狐がいて、旅人を化かすから、ここに泊また方がよい、 と脅られる場面があるが、そこから名前を付けたのだろう。 」
杉並木をあっという間に歩き終えると、もう赤坂宿である。
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◎ 赤坂宿(あかさかしゅく)
御油の杉並木を過ぎたあたりに、赤坂宿の「見附跡」 の看板があった。
「
見附とは、宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、
旅人の出人を監視したところである。
赤坂宿では、江戸方(東)は、関川地内の東海道を挟む両側にあり、
京方(西)は、八幡社入口の片側にあった。
東の見附は、寛政八年(1796)、代官辻甚太郎のとき、
ここから関川神社前に移されたようだが、その後、また、ここに戻されたようである。
なお、見附は、明治六年に一里塚などと共に廃止されている。 」
少し歩くと、左側に関川神社がある。
「 関川神社は、三河国司・大江定基の命をうけた赤坂の長者・宮道弥太次郎長富が、クスノキのそばに、市杵島媛命を祭ったのが始めと、伝えられている。
社殿脇の大クスは、推定樹齢約八百年である。
木の根元からえぐられている部分は、慶長十四年の十王堂付近の火災の火の粉が飛び、
こげたものと、伝えられてきた。
境内には、芭蕉の句碑がある。
「 夏農月(夏の月) 御油よ季いてゝ(御油よりいでで) 赤坂や 」br>
この句は、夏の夜の短さをわずか十六丁で隣接する、赤坂と御油間の距離の短さにかけて、詠ったものである。
この句の通り、御油宿から赤阪宿までは、松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまう
ほどの近さであった。
四百メートル程歩くと、赤坂紅里(べにさと)の交差点に到着。
右折すると、名電赤坂駅である。
紅里とはかっての色町を想像させる名前であるが、このあたりが赤坂宿の中心だったところである。
工事中の門の近くに、「松平彦十郎本陣跡」 と表示された説明板があった。
説明板
「 当初、松平彦十郎が、本陣と問屋を兼務していたが、文化年間より、
問屋は、弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれた。
本陣は四軒あったが、その内、二軒は道の反対側にあった。 」
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(ご参考) 赤坂宿本陣
「 赤坂宿には、伊藤本陣、松平彦十郎本陣、弥一本陣など、四つの本陣があった。
本陣は、参勤交代の大名、幕府の役人、公家などが休泊するところで、
玄関・書院・上段の間(他の部屋より一段高くなった部屋)を備えていた。
音羽町の資料によると、
「 赤坂宿の本陣は、初め、彦十郎家一軒で行われていたが、宝永八年(1711)の町並み図では、庄左衛門家、弥兵衛家、又左衛門家が加わり、四本陣となっている。
四本陣のうち、伝統のある彦十郎家は、間口十七間半、奥行二十八間、部屋の畳数四百二十二畳、門構玄関付きの大変立派なものでした。
慶応四年の町並み図では彦十郎家、長崎屋、桜屋の三本陣と輪違屋の一脇本陣となっている。 」
交差点の右側に、民芸品を売る古い建物の尾崎屋があった。
その先右側に郵便局があり、街道から左に入ると、長福寺がある。
平安時代、三河の国司だった大江定基との別れを悲しんで、
自害した、赤坂の長者の娘・力寿姫の菩提を弔うために建てられた寺で、山門の門額には、「三頭山」 と書かれている。
大江定基が寄進した、恵心僧都の手による、と伝えられる聖観世音菩薩が祀られている。
幕末の頃、赤坂代官所に勤めていた役人の手紙に、
「 長福寺の桜も満開になったでしょう。 昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します、 」
と、記されていた、とある山桜は、旺盛に葉を茂らせていた。
樹齢約三百年、幹の周り約三メートル三十センチで、桜の咲く頃再度訪れてみるか!?と、思った。
街道に戻ると、古い連子格子の家があった。
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呉服屋の向かいの家に、小さな表示板がぶら下げられていて、 問屋場(伝馬所)跡 と表示されていた。
「
問屋場は、間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)で、人足三十人、馬十頭をつないで、宿場間の公用の荷物や旅人を次の宿場まで運んでいた。
その運営には、問屋・年寄・帳付・馬指といった宿役人があたっていた。 」
伊藤本陣跡の隣は、旅館、大橋屋である。
「 江戸時代には、 旅籠・伊右衛門鯉屋 という屋号で、旅籠を営んでいた家で、 東海道で唯一、今もなお、営業を続けている。
「
大橋屋の創業は、慶安二年(1649)、建物は、正徳六年(1716)頃の建築で、間口九間、
奥行二十三間ほどの大きさである。
赤坂の旅籠では大きい方であった。 」
入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の様子を留めている。
宿泊する人が減っているが、会食や昼の食事でなんとかやっているようすであった。
「
赤坂宿は、享保十八年(1733)の家数は四百軒だったが、その内、旅籠が八十三軒もあった。
隣の御油宿とは、僅かに、十六丁(1.7km)しか離れていないので、両宿館の宿泊者の奪い合いが激しく、旅籠だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱えることになる。
また、飯盛り女になるという地元事情もあったようである。
「 飯盛り女は、当初は、泊り客の食事や寝具の世話
をするものだったが、やがて遊女化していった。
これには、住民の生活が豊かでなかったという背景がある。
「 御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い 」
、「 御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ 」
と、俗謡で詠われたように、赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようで、音羽町(旧赤坂町、旧長沢村、旧萩村が合併し誕生)の資料によると、
「 飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789)の「奉公人請状之事」には
、「年貢に差しつまり、 娘を飯盛奉公に差し出します。
今年で11歳、年季は12年と決め、 只今御給金1両2分確かに受け取り、
御年貢を上納いたしました。 」
とあり、住民の生活が豊かでなかったことから、 子女を飯盛女として奉公させざるを得ない惨状だったという印象を受けた。
大橋屋の隣の境に、「高札場」 の木柱が立っていたが、
気をつけないと分からないだろう。
伊藤本陣跡の裏にあるのが浄泉寺である。
境内に百観音があるが、本堂の脇のイチョウが黄色く色づいて、きれいだった。
その反対側に、大きなソテツがある。
「
安藤広重の東海道五十三次のなかに、赤坂 旅舎招婦図 と、題された旅籠風景がある。
その中で描かれているのは、旅籠鯉屋の庭のソテツである。
明治二十年頃の道路拡張により、旅籠からここに移植されたもので、推定樹齢は二百六十年という。 」
本堂と離れて建っている薬師堂は、赤坂薬師といい、赤い幟が林立していた。
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街道を歩いて行くと、右側に、「赤坂陣屋跡」 の表示があった。
「 陣屋は、代官所ともいわれ、
年貢の徴収や訴訟を取り扱ったところである。
赤坂陣屋は、三河国の天領を管理するため、幕府が設けたもので、
国領半兵衛が代官のときに、豊川市の牛久保から移ってきた。
幕末から明治にかけては、三河県の成立にともない、三河県役所となり、
明治二年六月、伊那県に編入されると、静岡藩赤坂郡代役所と改められたが、
明治四年の廃藩置県により、伊那県が額田県に合併されると、赤坂陣屋は廃止された。 」
反対側の奥に、音羽町役場、 手前に、休憩施設 ・ よらまいかん がある。
音羽まつりが開催されていて、この前に巡回バスが頻繁に来て、客を乗せていった。
街道を歩き始めると、連子格子の古い家があった。
その先の駐車場の一角には、「十王堂跡」 の標柱が建っていた。
対面の民家の駐車場に、赤坂宿の京側入口を示す、「見付跡」の標柱がある。
赤坂宿は、ここで終りになる。
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訪問日 平成十六年(2004)十月十七日