長篠城は、土豪の菅沼元成により、永正五年(1508)、豊川(旧寒狭川)と、
その支流の宇連川(旧三輪川、大野川)との合流点にできた扇状地(約10ha)に築かれた城である。
城は、豊川と宇連川が深い谷をつくる断崖を背にし、さらに矢沢も加わり、
天然の要害をなしている。
そこに人工の内堀と土塁で本丸を囲み、
その外側に、野牛曲輪・帯曲輪。弾正曲輪で防御し、外堀と土塁で囲んでいた。
菅沼氏は武田氏の支配に入ったが、武田信玄の死去により、徳川家康が信濃攻略を始め、
長篠城を攻撃したため、菅沼正貞は天正元年(1573)八月、開城し退去した。
徳川家康が武田軍の再侵攻に備え、城は拡張され、大改築された。
天正三年(1575)五月、武田信玄の子・勝頼は、東海地方に勢力を伸ばすため、
一万五千人を率いて長篠城を包囲した。
これが武田勝頼と徳川織田連合軍による長篠・設楽原の戦いである。
孤立無援になった城の救援を求めて岡崎城へ走った鳥居強右衛門の話は有名である。
長篠城見学だけなら、飯田線を使った訪問で良いが、設楽ヶ原古戦場も見学するので、豊橋駅でレンタカーを借りて、向かった。
国道151号を経由し、長篠城址史跡保存館に着いたのは十一時三十分過ぎであった。
新城市長篠城址史跡保存館は、長篠城主郭の帯曲輪跡に建ち、
長篠合戦図屏風や奥平氏血染めの陣太鼓などを展示している。
保存館の手前の右手に空掘と土居があり、 「要害の長篠城」という説明板が建っている。
説明板「要害の長篠城」
「 要衝(ようしょう)
長篠の地は、豊川をさかのぼって、約二十五キロ、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。
江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。
戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合った、いわゆる、境目の城であった。
要害(要害)
長篠城の南面は、宇連川、西は豊川、ともに五十メートルの断崖である。
平地への面を水堀と土塁、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。
平地に移ってきてもできるだけ天険えを利用した戦国末期の典型的な築城である。
土居と堀
この正面に見えるのは本丸の土居と堀で、天正三年の姿を残している。
右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが、江戸時代に崩されて今は無い。
堀の土をかき上げられて土居にした。 堀には水を引き入れた。
土居と堀は直線に進まず、直線に近い出入りがある。
この形はやがて近世の城郭への移り変わる姿を見せている。 」
土居と堀 |
下の図(左下)は保存館周辺の当時の縄張図である。
「 中央に本丸、そこに人工の内堀と土塁で本丸を囲み、
その外側に、野牛曲輪・二の丸 ・帯曲輪・弾正曲輪で防御し、外堀と土塁で囲んた。
その外は豊川と宇連川が深い谷をつくる断崖を背にし、さらに矢沢も加わり、
天然の要害をなしていた。 」
保存館の奥に空掘があるが、これが本丸入口を守る空掘跡である。
その奥には空地が広がっているが、これが長篠城の本丸跡である。
その一角に、 「史跡 長篠城阯」 の石碑が建っている。
また、歴代長篠城主の説明板が立っている。
史跡長篠城阯碑 |
楓の木の下の石垣のある盛りあがったところには、「土塁」 の標示がある。
本丸はこのような土塁と水堀で防御されていたことが分かる。
土塁がきれるあたりに、赤い小さな鳥居がある。
その先は金網に囲まれて、鉄道の線路が見える。
線路のフェンスに、 「野牛郭址 殿井(とのいど)」 と、 線路の向かい側の表示板がある。
「 飯田線が敷設される際、
長篠城の主郭である本丸と一段下の野牛郭の間に、鉄道が通されて、分断されてしまった。
この先の野牛郭には物見櫓、 殿井と突き当たりに櫓があり、
その外側は断崖絶壁であった。 」
線路のフェンスに、「鳶ヶ巣山」 の表示板があり、「 向い側山並みの左手高所、
武田軍の陣地跡 」とある。
木が繁り確認ができなかったが・・
鳶ヶ巣山表示板 |
豊川(旧寒狭川)に面したフェンスに,、
「鳥居強右衛門磔死(たくし)の碑 対岸の平地にあります」 という表示板がある。
また、「鳥居強右衛門磔の場所(寒狭川の対岸)」 のプレートが立っているが、
草木が多く、川の流れも対岸も見渡すことはできなかった。
「 天正三年(1575)五月、武田勝頼が 一万五千人を率いて、長篠城を包囲、、城主は家康の家臣・奥平貞昌(信昌)、長篠城を守る奥平軍はわずか五百人。
八日間籠城して戦ったが、城内には五日分の食糧がなくなり、落城寸前になった。
奥平貞昌はこの危機打開すべく、岡崎城に援軍を求めるため、 足軽の鳥居強右衛門を使者と決めた。
鳥居強右衛門は野牛門から川に入り、鳴子綱を切って急流を下り、広瀬に到着。
家康より援軍援軍の返事を得て城に 向ったが、武田軍に捕まり、
嘘の情報を言う条件で許されたが、城に向って 「援軍は近い!!」と叫んだため、
処刑された。
この声で、城に籠った兵士の士気が戻り、防衛を継続。
織田・徳川連合軍が長篠城の救援のために設楽原へ布陣すると、
武田勝頼は鳶ヶ巣山砦などに一部の兵を残し、主力部隊を設楽ヶ原へ移動。
連合軍は酒井忠次率いる部隊で、これらの砦を奇襲し、武田信実らを討ち、
長篠城を救出するとともに武田軍の退路を絶った。
これが武田勝頼と徳川織田連合軍による長篠・設楽原の戦いである。
孤立無援になった城の救援を求めて岡崎城へ走った鳥居強右衛門の話は有名である。 」
フェンスに 「 矢沢 勝頼公本陣跡の医王寺より流れ込んでいる。
向い側が弾正郭。 」 という表示板がある。
「 本丸の外の保存館のある地に、「帯曲輪」 があり、 その外に矢沢が流れ、その外に弾正郭があり、 その外に大手曲輪があり、本丸を防衛していた。 」
その先に、「長篠城本丸跡」 と書かれた木標が建っている。
その奥に、「長篠合戦両軍陣歿将士諸精霊位」 と書かれた木柱と石柱が建っている。
長篠城本丸跡 |
保存館まで戻る。
この城は、日本100名城の第46番に選定されている。
日本100名城のスタンプは長篠城址史跡保存館の一階のトイレ入口近くに、
無造作に置かれていた。
保存館を出ると、左側の道は歴史の小道で、突き当たりに、馬場信房の墓がある。
「 決戦に敗れた武田勝頼が退却するのを織田・徳川連合軍が追尾する。
武田軍の武将・馬場美濃守信繁(信房)は、しんがりとして、敵と立ち向い、
勝頼が無事退却したのを見届けた後、
自ら敵兵に、 「討ち取って手柄にせよ」 と首を討ちとらせた、と伝られている。 」
右に行くと、交叉点の家前に、「林藤太夫高英屋敷跡」 の石碑があり、
その下に、「←大手門址。蟻塚」、、少し離れて 「二の丸」 の標識があった。
道を右に行くと、 「水杯の井・搦手門址」 の方向である。
「 長篠城は長篠の戦いの後の翌年、 城主の奥平貞昌(信昌)により壊され、 新城城に移されたため、建物や門などは残っていない。 」
道を直進すると、国道の手前の右側に、
「倉屋敷」 の石碑と、「4糧庫址」 の標柱が建っていた。
道の反対にある、 鳥居強右衛門の磔 を描いた、「史跡保存館」 の案内看板が、
印象に残った。
その先に、「蟻封塔」 と刻まれた蟻塚がある
「 江戸時代、この場所から大量の蟻が発生し、
付近の住民を悩ました。
ここは長篠城の大手門付近。
その原因思案したところ、
この場所は長篠・設楽原の戦いで多くの戦死者を埋葬した場所であったので、
蟻の発生は供養が足らなかったためだろうということになり、
石塔を建てて供養をすると蟻が発生しなくなったと伝えられている。 」
以上で、長篠城の見学は終えた。
鳥居強右衛門の磔の看板 |
長篠城へはJR飯田線長篠城駅から徒歩8分。
訪問日 令和二年(2020)十一月二十七日