豊橋は、戦災に遭ったので、古い建物は残っていない。
江戸時代には、東海道の吉田宿があった。
吉田は、豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町であると同時に、
東海道の中では、大きな宿場の一つだった。
「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が ・・ 」 といった、俗謡が良く唄われ、飯盛女の多かったことで知られた宿場である。
豊川に架けられた橋の名から、今橋といっていたが、
池田輝政が城主となった千六百年頃、縁起のよい吉の文字を取り入れて、
吉田に変えられた。
◎ 吉田宿
今日は東海道の吉田宿の道筋を辿って見たい。
瓦町から先の右側に不動院幼稚園、そして、願成寺がある。
東海道は、城下の入口の東新町 (江戸時代の町名は元新町) のところで、
鉤型になっていた。
東海道は、ここで左折し、一本目の道を右折し、突き当たったところを右折し、
西新町(同新町)交差点に出る。
その先が東八町で、交差点の北東角に、
文化弐年(1805)に住民達の手で建てられたという秋葉山常夜燈が建っている。
江戸時代には、その先に、吉田城の東総門があったので、
門番が監視していた。
現在は、四差路の信号交差点で、地形が変り、鉤型の痕跡は確認できなかった。
それに近い歩きをしようと、東八町交差点で左折し、
一つ目の道(対面に東海道の矢印がある)を目指して、車道を横断する。
但し、ここは横断歩道も信号もない。
渡ったら、右折して、東八町交差点に出る。
左に、東総門のミニチュアが置かれている。
交差点を左折して、国道に出て、一本目の道を左折すると、鍛治町である。
旧東海道は。二本目の道を右折するのが、江戸時代に近い歩き方のようである。
道は、そのまま、曲尺手(かねんて)町と続く。
曲尺手とは、このように曲がりくねった道のことをいう。
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くすのき通りの交差点北側の道路分離帯に、「曲尺手門跡」 の石碑が建っている。
くすのき通りを渡り、そのまま道を直進し、そば屋のある四差路を左折する。
すると、三叉路に出て、正面にあるヴィジェアルスタジオマリエの建物に突き当たる。
東海道の右折する矢印の標識があり、ここを右折すると、呉服町。
江戸時代の宿場の中心地に入っていく。
本陣跡に向かう途中の右側にあるガソリンスタンドが、高札場の跡である。
そこには、大手通り商店街の袖看板があるが、道の左側に、豊橋市道路元標がある。
右側には、「大手門跡」と書かれた小さな標柱が建っていた。
吉田城の大手門のあったところである。
以前は、その先に吉田城が、垣間見られたようだが、
豊橋市役所や豊橋公会堂に視野を奪われ、何も見えなかった。
豊橋公会堂は 昭和六年の建設、高さが十六メートルの鉄筋コンクリート造三階建で、
ロマネスク様式を取り入れたデザインはなかなかよい感じがする建物である。
札木交差点の手前に、NTTのビルがあり、
道路の一角に「吉田宿問屋場跡」 の標柱が建っている。
ここも、石柱に問屋場の定義が書かれているだけで、誰がやっていたかの表示はない。
この交差点の右側に、豊橋鉄道の札木(ふだぎ)駅がある。
路面電車から、乗り降りの姿が見られた。
交差点を渡ると、右側に、「喜の字」 という蕎麦屋があり、
その先に、創業百年余といわれる、「丸よ」 という、鰻屋がある。
店の前には、「本陣跡」の石碑と説明板があるが、
道路の片隅にある、「吉田宿本陣跡」の標柱よりも、ずっと立派だった。
説明板
「 江戸時代の清須屋与右衛門本陣の跡地で、東隣には、
江戸屋新右衛門の本陣と、二軒並んで建っていた。 」
もう一軒の本陣は、隣の喜の字という蕎麦屋さんのところにあったのだろうか?
「 吉田宿の宿内人口は五千二百七十七人、家数は千二百九十三軒で、 本陣は二軒、脇本陣は一軒、旅籠は六十五軒だった。 」
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丁度昼になったので、抵抗なく、うなぎ屋に入ったが、値段は高い方だった。
しばし待たされて、出てきたうなぎ丼は、鰻が皮を上に向けて乗っていた。
身は薄く、油は落とされて淡白。 あっさりした味付けのたれにつけられて、なかなか美味だったので、この価額でも良いだろうと、思った。
吉田宿は、 吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が・・ とか、
御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い・・・ と、いった俗謡が良く唄われ、
飯盛女の多かったことで知られる宿場で、旅籠はこの札木周辺に集中していた、といわれる。
レジの脇にあった鬼の凧は、二月十日と十一日に行われる、
安久美神戸神明社の鬼祭をイメージしたものである。
「
鬼祭は、国の重要無形民俗文化財に指定された天下の奇祭で、
平安朝から足利時代にかけて行われた田楽の一種が今日まで継承されたもの。
暴ぶる神(赤鬼)と武神(天狗)の戦いは、寒中の勇壮な神事であり、暴ぶる神の退散により、一同が平和を喜んで舞う神楽が有名である。 」
その先、五十メートル、道の左側の民家の壁面に、「脇本陣跡」のプレートがある。
豊橋名物として知られたのは、菜めし田楽である。
この先の左側のなまこ壁の建物で営業している若松園や、
信号を越えた本町のきく宗で食べられる。
きく宗は文政年間の創業とある老舗で、菜めし田楽定食が1785円。
松葉公園前の交差点を右折し、直進すると、上伝馬交差点になる。
交差点を越えた右側に、西総門のミニチュアが置かれている。
吉田城の西総門があったところである。
西総門は、吉田城の西門であると同時に、吉田宿の京方の入口なので、
吉田宿はここで終わる。
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◎ 吉田城
吉田城跡へ向かう。
上伝馬交差点から関屋交差点を過ぎ、右側に入ったところに、吉田神社があった。
「
吉田神社は、元々は、吉田城内にあった神社で、牛頭天王社、
又は、吉田天王社と呼ばれていたが、明治二年に、吉田神社となった。
祭神は素戔嗚尊で、その創建は定かでないが、
源頼朝の家臣・安達九郎盛長が造営したと、言い伝えられている。 」
この神社を有名にしたのが、手筒花火である。
境内に、「手筒花火発祥の地」 の碑がある。
吉田神社略記
「 天王社の祭礼煙火ということで始まる 、
花火の創始は 「羽田吉田総録」 に、
「 永禄元年(1558) 今川義元公吉田城代大原備前守知尚が花火を始めた。 」 と、
ある。
火薬の使用は、戦国時代より武器として厳重に管理されてきた。
この地域では、怨霊退散の為に花火を放揚する(打揚げる)場合に限り、
庶民に火薬の使用と製造を許可したことが始まりで、
江戸時代から今日に至るまで続けられてきたのである。
江戸時代、吉田神社の三河吉田祇園祭は、吉田の花火として、常陸水戸、甲斐市川と共に、日本の三大花火として知られていた、という。
吉田祇園祭は、七月下旬に行われる吉田神社の例祭で、手筒花火の奉納が行われる。 」
小生は今から五年前、神社に訪れ、手筒花火の凄さを体験しているが、凄い迫力だった。
手筒花火の奉納は、この地区男子の成人式のような行事で、
一種の肝試しを兼ねたものでもある。
吉田神社以外でも行なわれるので、一度見学されるとよい。
マンホールの蓋も手筒花火で、消火栓とあるのは愉快である。
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吉田神社の西方の湊町の民家の前に、説明板「関屋」がある。
説明板「関屋」
「 関屋は吉田城の西総堀の内にあって、豊川に
面していたところで、
吉田藩の御船蔵が置かれ、藩主専用の波止場があった。 」
ここに、吉田藩の船寄せ場があったことがわかった。
また、酒井忠次が、初めて豊川に架橋したのも、この場所である。
「 三州吉田記に、 「 元亀元年関屋之渡口始めて土橋を架す。 」 とあり、
天正十九年(1591)この土橋を船町へ移す。 」 とある。
豊川に橋が架けられたのは何時か分からないが、橋の名を今橋と呼び、
この土地も今橋と呼ばれるようになった。
池田輝政は、今橋を吉田と改めると共に、城の拡張に乗り出し、
橋が城の領域に入ることから、橋を南に移し、現在の豊橋の下流に、木橋を架けられ、
吉田大橋と呼ばれた。
橋は、明治十一年(1878)、現在の位置に移され、大正五年(1916)に、鉄橋の橋に変り、
名を豊橋に変えた。 」
この橋は、今も国道一号の橋として使用され、豊橋の名が付いている。
昭和三十四年、国道一号線の整備に伴い、吉田神社脇に、
新たな橋が架けられることになった。
その際、この橋に昔を偲ぶ吉田大橋の名が付けられた。
吉田城は、三河国渥美郡今橋にあった平城で、 築城当時は今橋城とよばれ、 今川方の牧野古白によって築城された城である。
「 今川義元が桶狭間で戦死すると、徳川家康が吉田城を取り、
酒井忠次を城代として入れたが、天正十八年(1590)の家康の関東転出により、
徳川氏の手から離れ、その代わりに、豊臣秀吉配下の池田輝正が十五万二千石で入封した。
彼は、豊川を背に、本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、
それらを掘が同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張したが、
慶長五年(1600)、姫路に移封となったため、工事は未完に終った。
江戸幕府が誕生すると、吉田藩となり、徳川家康は、吉田藩の初代藩主に、一族の松平(竹谷)家清を任命した。
その後、、松平深溝家二代の後、松平(大河内・長沢)信復になってが藩主となり、明治維新まで七代続いた。
大きな藩のように思えるが、実際は小藩で、三万石から多くて七万石だった。 」
吉田宿の浮世絵には、吉田城の普請の絵になっているが、
吉田城には天守閣はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿のみであった。
これも宝永の大地震で倒壊してしまう。
四隅の石垣には櫓があったので、それが絵になっているのだろうか?
吉田城は、明治六年(1873)の失火により、多くの建物が焼失し、
その後、陸軍の連隊が置かれたが、現在は、市役所と公園になっている。
吉田城の遺跡といえるのは、城壁のみである。
現在、城址にある櫓は、昭和二十九年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して、
再建されたものである。
左前のイスノキ(マンサク科)は、樹齢三百年以上とあるので、吉田城の興亡を見守ってきた木である。
以上で、吉田城跡の探訪を終わりである。
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訪問日 平成十九年(2007)二月二日