名所訪問

「 信長が築いた 小牧山城 」


かうんたぁ。


小牧山城は永禄六年(1563)、織田信長が小牧山に築城し、清須から居城を移し、 城下町を開き、楽市楽座を開いた。 
在城期間は短かったが、 最近の調査から安土城の原形をなす近世城郭の先駆をなすものとして、注目を集めている。
続日本百名城第149番に選定された。 


名鉄犬山駅から小牧線に乗り、 小牧駅にで下車、バスに乗り、小牧市役所前バス停で降りた。 
ここは、小牧山城の大手口である。
右に進むと、 「史蹟 小牧山」 の石柱が建っている。 

「 小牧山城は、小牧市役所の北側の小牧山に築かれた城である。 
永禄六年(1563)、織田信長は小牧山に築城し、清須から居城を移した。 
信長は、犬山方面を支配下に置き、尾張を統一するとともに、積極的に美濃攻略を進めた。 
四年後の永禄十年(1567)には、美濃の稲葉山城を攻略して、 岐阜と改めるとともに、居城を移した。 
これにより、小牧山城は廃城になり、東西一キロ、南北一・三キロの範囲で、 山の南に整備されていた城下町は、一部を残して、衰えた。 」

その先に、平成三十一年(2019)四月に開館した、史跡情報館がある。  
館内には、周辺の遺跡から出土した茶碗などが展示されていた。 
車道を進むと、左手に小牧市役所があり、市役所前から直登に続く道は、大手道である。 

小牧山の石柱
     史跡情報館      大手道
史蹟小牧山の石柱史跡情報館大手道


小牧山城は、南に大手口を設け、大手道は直線的に中腹まで登り、 右に折れて屈曲しながら、山頂の主郭に至る、縄張である。 
途中に、虎口(出入口)が三か所に設けられ、北側の搦手口からの道も設けられている。 
平成十七年(2005)の調査で、現在の大手道の地中に、永禄期の大手道があることが発見された。 

「 永禄期の大手道は山側、谷側にそれぞれに石積を設け、 道の両端を区画していた。 
道幅は約五メートルで、道に並行して幅 二十センチの排水溝を設置していた。 
この構造は安土城の正面にある大手道の構造と似通っていて、 安土城の大規模な大手道はこの小牧山城が起源だったと推測されている。 」 

大手道の右手には、堀と二重土塁がある。 

説明板「ここから見える土塁と堀」  
「 これらは、天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦の前、 織田信雄と徳川家康がこの城に来て、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦ったが、 この時、ここに二重の土塁と空堀を作って山を囲み、 山の東側の入口には深さが5.5mもある深い堀を造ったり、 山の中にも新しく土塁を造るなどして、敵が入ってこられないようにした。 
この下に見える堀が、二重に造られた土塁の間の堀で、 堀の南側にある土塁が、外側の土塁で、 ここにあった市役所を建てる時に、こわれてしまったものを造りなおしたものです。 
ここから堀の底までは、約6mの高さがあります。 
内側の土塁は、東側から延びてきて、 上の曲輪(平の場所)のところにつながっていました。 」  

大手道の左側に尾張徳川家九代藩主徳川宗睦源明公墓碑があり、

その先に小牧山稲荷神社がある。 

小牧城縄張
     堀と二重土塁      徳川源明公墓碑
小牧城 縄張図 (反対側から見た) 空堀と二重土塁徳川源明公墓碑


その先には、左右に城を回遊する道があり、 「←観音祠」「↑歴史館近道」「←歴史館」 の道標がある。 
看板にある歴史館は、 山頂の模擬天守のことで、 大手道は途中左右に折れ曲がる 道があるが、どれも山頂に通じる。 

正面にある大きな曲輪は、 桜の馬場 である。 
大手道を上がると、右側に伸びる道の先に説明板が見える。 
説明板のある道を行くと、山頂への近道になる。 
左に道をとると、左手に空地が広がり、奥に 「間々乳観音出現霊場」  の大きな石柱が立っている。 
入口に、 「観音洞」 の説明板が建っている。 

説明板「観音洞」  
「 明応の頃。 乳の出ない妻に食わせようと、 子孕み鹿を撃ちに小牧山に登ってた麓の狩人が、 七匹の子鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、子鹿は七つの石に、 母鹿は観音像に化した。 
狩人は、これを見て殺生を悔い、その地に草庵を結び、なんごろに祭った。 
後に、観音を祭る草庵は、間々乳観音として、移転したが、 草庵の跡地は、観音洞として呼び親しまれ、現在に至っている。 」  

その先の階段を上っていく。 

桜の馬場
     観音洞      階段道
桜の馬場観音洞階段道


その先の階段を上っていくと大手道と合流する。
大手道の階段脇に、 「守りの要衝 虎口a」 の説明板があり、 説明板の横は、少し窪んでいて、堀跡、その上は盛り上がって、土塁跡のように思われた。 

説明板「守りの要衝 虎口a」 
「 説明板の南側の堀、その東側と西側に土塁、北側に土橋があるので、 発掘調査で確認を行った。 
土橋は、ここが北端部となっており、 幅は約6.5m、堀の底は平坦で、 堀底からの高さは土橋までは2.5m〜3m、40度〜50度の傾斜が付けられ、 ここが土塁と堀で堅固に防御された守りの要衝であることがわかりました。 
この虎口は、織田信長築城時(永禄期)に築かれましたが、 小牧・長久手の合戦(天正期)には、土橋が封鎖されました。 
江戸時代に作られた小牧山模型を見ると、 高い土塁が曲輪の北側まで続くように表現されています。 
現在、曲輪(土橋を上がった所の平坦地)の縁にある土塁は、 わずかに高まりを残す程度ですが、 これは明治時代に小牧山が、一時、県立公園となり、 曲輪に創垂館を建設するために土塁を削平し、 現在の園路も通されたと考えられます。
削平された土が曲輪内に敷均され、土橋・堀・土塁にも押し出したようで、 堀では2.6mの厚さで土砂の堆積がみられたところがありました。 」 

小牧山城は約四年だけの城だったので、 信長の美濃攻略のための土塁による仮住まいの城と考えられていたが、 発掘調査をすると、その概念が変わったといい、 安土城に通じる城と考えられるようになった。 
更に進むと、「小牧山北駐車場→」 の看板の隣に  「石垣の裏込石 平成25年度発掘調査で出土」 と 書かれたプレートの奥に、 石がずらりと積み上げられていた。 
将来的には、石垣の復元の際に使用する、とあった。 
道脇には「 転落石」 のプレートが付けられた岩があった。 

堀と土塁
     石垣の裏込石群      桜の馬場跡
虎口跡説明板石垣の裏込石群桜の馬場跡


小牧市歴史館の下部に到着すると、下部の傾斜には、 石垣の一部と思われる石が、数個露出している。 
城の主郭の周囲には、上下二段あるいは三段の石垣が巡っていたことが判明し、 小牧山城は本格的な城郭で、安土城の原形になった城郭ではないといわれるようになった。 

説明板「上下段の石垣 全景」 
「 永禄六年(1563)、織田信長は、清須から小牧山に、居城を移しました。 
信長が築いた城の主郭(本丸)は、現在小牧市歴史館が建つ山頂にあり、 その下の斜面には、上下二段(一部は三段)の石垣で、約70度の勾配で築かれていました。 
上段と下段の石垣の間には、幅2m程の平坦面があり、 そこに玉砂利が敷かれていた部分も見つかっています。 」  

一番下の段は腰巻石垣で、説明板には発見された時の写真が表示されている。 
歴史館へ上る階段の右側に、巨石が二段積まれた石垣がある。 

説明板「主郭の段築状石垣」  
「 大手道から頂上の主郭に至る主郭地区のこの場所の調査で、 織田信長築城時(永楽期)の石垣を確認しました。 
積み石は、斜面に露頭する巨石を一部遺すのみでしたが、 土中からは割石状の裏込石が大量に出土し、 積み石の背後に裏込層を備えた本格的な石垣が築かれていたことがわかりました。 
織豊期城郭として、石垣を採用する初現となる小牧山城では、 築城技術がまだ未成熟であったのか、 石垣使用が常用化する近世城郭の高石垣と異なり、 自然石の巨石を2〜3個積み上げた低い石垣を段築状に築いた石垣であったことがうかがえます。 
初期の石垣であり、防衛施設としては決して堅固なものではありませんが、 後に、織田信長が天下人の威厳を示すために築いた安土城の天主のように、 小牧山の頂にそびえるように見えた石垣は、 南麓の城下町に住んだ家臣団や領民の度肝を抜いたかもしれません。 
小牧市教育委員会    」   

天守下の場所
     発見時の石垣      主郭の段築状石垣
現在の天守下の斜面発見時の石垣主郭の段築状石垣


小牧市歴史館に上る階段の左側に、「主郭跡」 の標柱がある。

標柱の文字
「 織田信長が城を築き、後に徳川家康の本陣となりました。 
周囲に石垣の跡が部分的に残っています。 
 昭和六十一年三月 小牧市教育委員会  」  

小牧市歴史館は、 昭和四十三年(1968)に、 平松茂(故人)が、私財を投じて建設し、小牧市に寄付されたものである。

「  鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ十九・三メートル。
秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして、 名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建設された。 」 

小牧市歴史館の前には、尾張徳川家の徳川義親氏の銅像が建っている。 

「 天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは、 家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、 遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。 
この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、 陣城として、大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、 要所には、防衛用の虎口を設けた強固な陣地が築かれた。 
秀吉の大軍も容易に手が出せず、 焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、 長久手方面へ突出して、壊滅する事態となった。 
頼山陽の日本外史に 「 家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。  関ケ原にあらずして小牧にあり。 」 とあり、 急造の小牧山城は、徳川勝利の一翼を担ったことを賞賛している。 
江戸時代に入ると、小牧山は 「家康公御勝利御開運の御陣跡」 となり、 一般の入山は禁止され、 小牧山と城跡は、尾張徳川家の領地として、保護を受け、管理された。 
昭和二年(1927)に一般公開、この年に国の史跡に指定され、 徳川家から小牧町(当時)へ寄付された。 」 

以上で小牧城の見学は終りである。 

小牧市歴史館
     徳川義親氏銅像
小牧市歴史館 徳川義親氏銅像


小牧山城は名鉄小牧線小牧駅から徒歩約20分 
小牧駅から名鉄バスこまき巡回バスで「小牧市役所前」下車 

訪問日    令和二年(2020)十一月二十五日



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