上街道は、尾張藩が設置した街道で、尾張藩主が参勤交代時に使用された。
この道は、木曽街道とも呼ばれ、名古屋城東大手門から中山道の伏見宿とを結んでいて、途中に 小牧宿・善師野宿・土田宿が置かれた。
小牧宿は、永禄六年(1563)に、織田信長が開いた城下町に起源を持ち、
当初は小牧山の南側にあった。
尾張藩が、元和九年(1623)、 上街道を新設した時、現在地へ移転した。
江戸時代、尾張藩が設置した上街道を辿り、小牧宿を歩いてみた。
名鉄小牧線の小牧口駅で降り、県道25号線を西に向かい、桜井本町交叉点に出た。
交叉点を右折して入った道が上街道で、ここが江戸時代の小牧宿の入口である。
この集落は街道の雰囲気が残っている。
右側に香神神社(三十番神社)鳥居がある。
道の奥にの香神神社の先に桜井会館がある。
その前に、 「桜井の里」 の説明板があったが、
毛筆で書かれたため、字がにじんで、 一部読めなくなっていた。
それによると、 「 古は桜樹林になっていて、桜の名所であったが、
今は地名にそれが残るだけである。 」 と、ある。
そして、その隣に、 西行法師 の歌碑が建っていた。
「 小せりつむ 沢の氷のひまたえて 春めきそむる 桜井の里 」
街道に戻ると、その先の交叉点の右側に、「日蓮宗妙見山啓運寺」 と、
「開運北辰妙見大菩薩」 の大きな標柱と、日蓮宗独特の髭文字の石柱が建っている寺院がある。
その右側に、 「木戸高札場旧蹟」 の碑がある。
ここは、小牧宿の南端にあたるので、大木戸と高札場が設けられていたようである。
碑文
「 小牧市の発祥は、元和九年(1623) この善師野街道が新設され、
ここに、 小牧山麓の元小牧宿が移転せしめたるによる。
宿駅としての本陣、問屋が整備し、小牧御殿も藩主により建造され、
尾北の開発は急速に進展した。
藩府は、 町の繁栄と安全、並に秩序の確立の為の木戸及び禁制を掲示する
高札場を此の所に設けた。
小牧本陣 江崎家後裔 江崎庸三 選文
昭和五十五年四月二十九日 」
三和通商店街を歩いていくと、 小牧四丁目南交叉点の手前左側に、 脇本陣や庄屋を務めた岸田家がある。
小牧市教育委員会 説明板「小牧市指定有形民俗文化財 岸田家」
「 岸田家は、名古屋と中山道を結ぶ木曽街道(上街道)の旧小牧宿の下之町にあり、
江戸時代には名字帯刀を許された旧家で、脇本陣の役割を果たし、幕末には庄屋を勤めた。
このあたりは文化の大火にも焼け残っており、近世中期の建物の推定される。
この家に伝わる、弘化三年(1846)と、安政三年に改造時の配置図と、
現状を比較してみれば、附属舎は失われているが、
母屋の平面には大差ないことが知れる。
荒目の平格子、親子付き出格子、堂々とした屋根神の祠を残した外観も
貴重な資料である。 」
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建物の北側の広場の一角に、石造の福禄寿を祀った祠があった。
説明板
「 この福禄寿石像と建物は、本来は、小牧御殿・小牧代官所にあったといわれ、
故大野四郎氏が入手し、小牧市堀の内三丁目地内の自宅で保存していたものです。
平成十四年に遺族のご好意により、小牧市に寄贈いただいたものを
、石像や建物に縁の深い小牧御殿の跡地に近いこの地に移築し、保存したものである。
平成十五年九月 小牧市教育委員会 」
岸田家の外側の塀に、「小牧宿」 と「小牧御殿・小牧代官所跡」 の説明板が 掲示されていた。
説明板「小牧宿」
「 小牧宿は、永禄六年(1563)に、織田信長が開いた城下町に起源を持ち、
当初は小牧山の南側にありました。
元和九年(1623)に、 尾張藩が、名古屋と中山道を結ぶ、
上街道(木曽街道) を新設するのに際して、
宿駅として整備するため、現在地へ移転したものです。
寛文十一年(1671)には、家数二百五十五軒、人口千四百八十八人であったと、
「寛文村々覚書」 に記録されています。
宝暦年間(1751〜64)のものと推定される 「小牧宿絵図」 から、
下町・中町・横町・上之町に区割りされていたことがわかります。
また、この街道の東側には東馬場町、西側には西馬場町も形成されていました。
町の南端には木戸があり、木戸の南西に高札場がありました。
この地の南に接する岸田家は、
御殿の入口の辻から南へ二軒目・三軒目の敷地にあたり、
この絵図が書かれた当時は、まだ建てられていないことがわかります。
岸田家住宅は、千八百年頃に建てられた町屋で、
幕末に、小牧村の庄屋を務めるなどした時期に、大幅に改修されています。
平成十四年に半解体修理が完了し、幕末ごろの姿に復元しました。
内部は岸田家住宅に関する展示もあり、予約制で一般公開されています。
この地から西に入ったところには尾張徳川家の別荘・小牧御殿がありました。
天明二年(1782)に、この御殿の一角に、小牧代官所が設けられました。
小牧宿の本陣を代々勤めた江崎善左衛門の屋敷は、ここから北に行った下町
と中町の境界付近にあり、間口六間半の大きさでした。
中町・本町は商人の家屋が多く、まっすぐ北上すると、戒蔵院に突き当たり、
戒蔵院から東が横町で、
街道は、横町から北へ、 今のラピオ南西角交叉点(小牧三丁目西交叉点)で、
鍵状に北に曲がると、そこが上之町です。 」
説明板「小牧御殿・小牧代官所跡」
「 小牧御殿・小牧代官所は、この地のすぐ西にありましたが、
現在は民家や道路となって、その面影を偲ぶものは残っていません。
尾張藩の御殿は、江戸時代の初期、佐屋・津島・熱田など、十四か所に設けられました。
小牧御殿は、寛永二年(1625)に、この地の西側にあった江崎善左衛門の蟹清水屋敷に、
初代尾張藩主・徳川義直が鷹狩りの折に訪れ、北西に小牧山を望む景観と、
蟹清水の庭園が気に入り、御殿にしたといいます。
以降、義直の別荘として、通行や鷹狩りの際に宿泊や休憩所として使われ、
普段は、江崎氏が御殿守として管理していました。
御殿の敷地は四十六間X五十二間で、十畳以上の部屋が十も、ありました。
天明二年(1782)に、小牧御殿の一角に、小牧代官所(陣屋)は設けられました。
これは、尾張藩の財政窮迫に伴う改革策として、農政に力を入れるため、
地方に十二ヶ所の代官所を設けたうちの一つです。
代官所は、藩の御触れの伝達や各村の庄屋・組頭などの監督、
年貢や賦役の徴収を行うほか、治安、警察の仕事や様々な0訴訟を扱ったり、
その職務は多岐に渡っていました。
小牧代官所は、 尾張国丹羽郡百二十七村、 尾張国春日井郡百二十五村、
美濃国可児郡五村という広範囲を管理していました。
代官所には、代官の下に、手代・並手代・足軽(同心)・小使など、
その年によって違いがありますが、十四名ほどの者が配置されていました。
右側の福禄寿の石像は、義直が製作させ、小牧御殿に設置されたと伝えられる石像で、
江戸時代前期のものと見られます。
石像を安置する祠は、小牧代官所(御殿)の建物の一部を転用したものと伝承されています。
平成二十二年十二月 小牧市教育委員会」
小牧御殿と小牧代官所はこの西側にあったというので、 保健センターの方に歩いていくと、右側の民家の前に、 「開運妙見大菩薩」 の石碑が 祠に祀られていた。
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その先、右に入る小路の先には、背の高い樹木が二本あり、
その下にはお稲荷さんの社があった。
道に戻り、保健センターに向かって行くと、
民家の前に、 「奉納御殿龍神」 の白い幟があり、奥に祠があった。
その近くに、「小牧御殿龍神祠之碑」 と書かれた石碑がある。
「碑文」
「 昔を今にするよしもないが、
寛永二年に尾張藩祖徳川義直公(家康の第九子源敬公という)が、
小牧山を望む風光明美なこの地に別荘を営み、小牧御殿として度々来遊されたが、
明治維新後は荒廃し、手植えの槇のみが名残りを留めていた。
その名木も、昭和二十五年九月台風で倒れ、
これを嘆かれた徳川義親候は、翌年二世の槇を植えられたが、
源敬公の遺業を慕う下町御殿町内の総意で、同三十三年ここに神祠を建立
往時を偲ぶこととした。 」
小牧御殿は、自然の地形を利用した土地に、素朴な造の建物で、
庭には蟹清水と呼ばれる小池があり、清水か湧き出ていた。
このあたりは、小牧御殿のあった一帯であるが、、
先程の背の高い木以外は、 民家などが立ち並び、
御殿の風情は残っていなかった。
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小牧四丁目南交叉点の先は江戸時代の中町である。
通りを歩いていくと、左側の櫓の上に、屋根神様が祀られていた。
小牧四丁目中交叉点を渡ると、山正旅館がある。
道の左側は江戸時代は本町、右側は馬場町となる。
小牧四丁目北交叉点で左手を見ると、小牧山の上には、小牧山城が見えた。
「 織田信長は、小牧山の上に小牧城を築き、
永禄六年(1563)、居城を清須から小牧山へ移し、武士だけでなく、
商工業者を清須から移住させ、小牧山の南麓を城下町として整備した。
しかし、信長は四年後、岐阜へ城を造り、移転すると、
小牧の城下町は衰微した。
なお、当時の街道は、清須から小牧山の西を通り、犬山を経て、
中山道の鵜沼宿へ続いていた。
江戸時代に入り、尾張藩が誕生すると、
名古屋から中山道に結ぶ上街道(木曽街道)の整備に着手した。
その際、街道は小牧山の東を通すことになり、
小牧村の庄屋・江崎善左衛門に命じて、
小牧山の南にあった小牧の町を移転させ、
寛永五年(1628)に、街道沿いの小牧宿が完成した、といわれる。 」
交叉点先は、「上街道発展会」 の看板がある通りである。
少し歩くと、正面に 「南無薬師如来 十一面観世音菩薩 高白山戒蔵院 」 の標柱と、山門がある三叉路にでた。
戒蔵院(かいぞういん)は、真言宗智山派の寺院で、
小牧山の南側にあったが、 江戸時代の上街道の設置の際、
城下町とともに、 東のこの地に移転させられたのである。
小牧市の説明板「木造十一面観音立像」
「 戒蔵院の本尊であるこの観音像は像高162.5cmで、
持物の水瓶の水によって火難を防ぐという火伏観音として、
古くから名高い。
寺伝では、 鎌倉時代の作と伝えられているが、室町時代の製作と考えられる。 」
戒蔵院山門の前に、 「南 名古屋 」 、「西 一の宮つしま清須 」 、 「東 木曽海道 」 、「寛政一戌午年十一月吉日 」 と、刻まれた道標が建っている。
ここは清須道の追分にあたり、三叉路を左折して西に向かうと、 美濃路の清須宿に至る。
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このあたりは寺町で、戒蔵院の左手には西源寺があり、 道の西側には宝林寺、道の南には西林寺があるが、どれも大きな寺院だった。
西林寺の南には、小牧豊川稲荷がある。
説明板「西町の稲荷堂」
「 天明七年(1787)に、尾張徳川家の菩提寺、建中寺の中に霊廟が、
歴代藩主またはそれに準ずる御位牌を安置する霊屋として四棟造られたが、
明治初期に一つの霊屋に合祀された際、
その一棟が、明治八年(1875)現在地に、本殿を除く拝殿と幣殿が移築された。
その後、明治三十四年(1901) 小牧宿の人々が集まり、
商売繁盛を願って豊川稲荷の分霊を安置し、
奉賛会をつくって例大祭を行ってきた。
一部が改造されているものの、内部の装飾等は当初の華麗な雰囲気を残し、
珍しい権現造の建物で、全て欅材で作られ、
内部は柱等麻布張りの上に漆を何重にも重ね塗りし、
格天井の絵は徳川家お抱えの絵師による鳳凰が描かれ、
建具の細工も微に至っている。 」
明治政府の誕生で、後ろ盾を無くした建中寺は、
山門や霊廟などをこの時期に処分しているが、
近くの間々観音には山門が移設されている。
当時は西林寺の建物として移設させたと思うが、
明治政府の徳川憎しを恐れた寺と地元の人々の工夫で、
豊川から稲荷を勧請して徳川家ゆかりのこの建物を残したのではないだろうか?
小牧豊川稲荷の道を隔てた西側には玉林寺があり、 その先には小牧神明社があった。
「 小牧神明社は、永禄六年(1563)、織田信長が清須から居城を小牧山へ移転した際し、 災厄除けのために、清須にあった御園神明社を守り神として、分祀したのが創建である。 」
戒蔵院清須追分道標まで戻り、上街道の旅を続ける。
ここは木曽路から小牧宿に入る入口にあたるが、
敵が勢いよく侵入してくるのを防止するための桝形になっていた。
「 江戸時代にはこのあたりは横町といい、 その先の三叉路で左に斜めに入っていくルートになっていた。 」
入ったところは上之町である。
「
ここは江戸時代には鍵形になっていた、と説明板にあったところである。
入った小路の先には小牧小があり、そこを右折し、
その先を斜めに左に行き、右折して通りに出た。
そのままラピオのある小牧三丁目西交叉点まで行って、
ここを左折するルートもあるが、
どちらが正しいのだろうか? 」
上街道はまだ続いているが、
今回の小牧宿の探訪はここで終えることにした。
ラピオの日が市に名鉄小牧駅があるので、小牧駅から帰宅の途についた。
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訪問日 平成二十三年(2011)三 月二十八日